彼女がいだく月の影

内山恭一

文字の大きさ
18 / 22

18

しおりを挟む
七時を迎えようかという頃、空はまだグラデーションで焼けている。
バスを降り、待ち合わせの時間に合わせるために遠回りしているあかさは、川沿いの公園を一人で歩いていた。
「そういうことね」
加織のトリップの件で、携帯のメッセージを幾回もやり取りしてようやく何がしたかったのか理解できた。
加織の行動にもちろん違和感はある。
話してくれた上で、加織や佐村と共にトリップすることだってできたはずだ。
それでも隠れてこっそりと確かめたいという加織の気持ちも分かった。
「ごめん」
トリップを終えて、まっすぐに言った加織の神妙な顔つきが焼き付いて、今になって受け入れた気がする。
確かに佐村の前ではこの話はできない。
一方で、どう転んでもそんな不確かなことで佐村を拒絶することはしなかったろうとあかさは思う。
人と交わればよいことばかりではないのはもう知っている。
その上でもなお、話すこと、理解しようとすることの大切さは揺らがない。
フジという意味不明の存在が相手で、人知を超えても否定はしない、そう心に誓ったのだ。
加織の求めた結果も、一つの話のネタと思えばいいくらいのことだ。
それが、あの熊。
気にしないといえば嘘になるが、かといってどうとらえればいいのだろう。
熊は熊でも動物園の熊ではないし、木彫りでもない。
サイズ的には木彫りの方が近いだろうが、もう熊どころではないその質感に、さらには異彩を放っていた。
動くだけに、何をしでかすかわからない無表情が恐ろしく、触ればぷにゅりとしそうな柔らかさが人を引き付ける。
どこからどう見ても、ぬいぐるみの熊だったのだ。
思念の形が変わっていたのだ、加織の仮説を信じた三人は多分驚いたに違いない。
驚きが過ぎて表情無くただ立ち尽くしていたとも言える。
だが、トリップを終えるきっかけになるほどの驚愕の事実はそれ以降に起こった。
あかさは苦笑いを浮かべて、
「まさかあれが着ぐるみだなんて」
唖然とする一同を前に割れた背中から小さいあかさが登場しつつ、世界は終わった。
想像だにしない変化、あれに何の意味を見出せば良いのだろうか。
わからなくても良いことと思っているが、でもやはり知った以上は気にはなる。
改めて考えれば、舞綺亜の姿ではないことに安堵している自分に気付く。
舞綺亜に会ったことのないちやかやしおんの目にも着ぐるみあかさが見えていたのだから、自分の目はおかしくない。
ただ、佐村の心に多少の変化があったのかもしれないとは考えられた。
可能性は、ある。
自分が同じ状況だったらどうだろうか。
佐村はどう思うだろうか。
あの、暗い世界のことが思い出された。
単純な恐怖で形作られたのではないだろう、お化け屋敷の夢。
ドロドロとした感情が佐村に、舞綺亜に向けてほとばしり、彼らの顔が塗りつぶされるようだ。
ついさっきまで一緒だったのに、あの世界から染み出した靄がかかったように佐村の顔が滲んで、明瞭に思い出せなかった。
人である以上、責めもするし、憎しみもするし、忘れられないこともある。
反面、人だから赦しもできる、はず。
昨日の今日で、カンナが見せた写真の画像が鮮明なのは仕方ないことだが、どす黒い感情まで呼び起さなくてもいいのにと、あかさは頭を振った。
昨日のは確かにショックだったが、今日は少し違って変な感じ。
街灯の明かりに導かれ、歩くあかさの影は伸びては縮み、足元にまとわりついて見える。気分を変えよう。
空の暗さが心に映ったようで、月の白さが救いの光に感じられる。
ビルの隙間を追ってくる月を眺め、いつしかひさきの家の前を通り過ぎるところだった。
家の明かりは煌々として、いつもと違う柔らかい表情を見せた。
インターホンを押して、バタバタとして玄関の鍵が開かれる音が響く。
顔を出したのは癒しのある笑顔のひさき、ではなく、ひさきの母だった。
「霧村さんでしょ?いらっしゃい」
顔が見えるように、あかさは明りの差す玄関に近づき、
「こんばんは。ひさきさん、居ます?」
「どうぞ、上がって」
玄関口を通されたあかさはしばらく待ったが、その時間が僅か長いような気がして、嫌な予感が頭をよぎった。
「ごめんなさい、いないみたい」
予感が現実になる。
「どこに行ったのかしら」
家中探す様子の母と、ひさきの妹も一緒に顔を出し、やはり見つけられない。
外観と違い、家の中はこじんまりとして部屋も多くない。
きっと、外だ。
携帯を鳴らしてみるが、呼び出し音は家の中に鳴り響く。
「おかしいな。さっき話したばかりなのに」
佐村と別れてすぐ、ひさきに電話した時は確かにつながったし、行くことは伝えてあった。
「電話置いて出かけたみたい」
靴を見回した母が申し訳なさそうに言った。
「外、探してみます」
「あとで霧村さんが来るって自分が言ってたのに」
玄関を飛び出るあかさを追って、母と妹も急いで続く。
携帯を手に、
「私たちが探してくるから待ってて」
と、母が声をかけるがあかさはもちろん手を尽くす気でいた。
どう考えてもおかしいではないか。
まるで何かに憑りつかれているみたい、あかさはそう思わずにおれない。
ひさきらしくない。
「私も探します」
「じゃ、番号教えておいて。見つけたら連絡するから」
手早く互いの電話番号を知らせて、三人は思い思いの方向へ散って行く。
何があったというのだろう。
こんなことで来週の追試はこなせるのだろうか?
いや、それどころではない。
何がひさきに起こっているのか。
ひさきは大丈夫なのだろうか。
自分の影を追うように街灯の下を足早に通り過ぎる。
どこにいる?
まだ時間はそう経ってないはすだ。
万が一にも携帯見てたり、落ち込んだりしてなければ、ひさきを見かけられたかもしれないと悔やんだ。
先ほど来た川沿いの道を戻る。
行く先はただの勘でしかない。
まだ暑さの残る街中と違って、生ぬるくて涼しくはないが風が通り抜ける。
オレンジ色にぼんやりしたランプの明かりが道しるべのように並んで続く。
幻想的と言えるが、傍に並ぶ背の低い木立が人の影のようで、それでいて人の気配はなく、普段なら多い交通量なのに車もまばらであり、おかげで今は異世界へつながる一本道に見えて怖気づきそう。
対岸の公園にも気を配るが、この暗さではもし居たとしても見ることはかなわないと思えた。
歩みが自然と遅くなる。
幾つもの木陰に目をやって、それらにひさきの姿を見間違えてはどれほど過ぎたころだろうか、岸辺に小さく黒い影を見つけた。
一見気づきそうもない程に風景と同化しているその後ろ姿だが、あのふわりとした髪型にこれはひさきだと直感した。
立ち止まり、音を立てないようそっと覗き込む。
だが、そんな気遣いは無用だった。
ひさきは表情なくぼーっと川を見つめ、隣で見下ろすあかさに気づくことはなかったからだ。
あさかはまずは息を整えた。
それから電話でひさきを連れて帰る旨を伝え、腰を下ろした。
なおもあかさに気が付く様子はないひさきの瞳には、ただ揺れ動く対岸の灯りが映り、佇まいは彫刻と変わらない。
生きているか心配で、ひさきの口元に手を当てて様子をうかがう。
唇に触れるか触れないか、ギリギリのところでハッとしてひさきが瞬く。
「何?」
本当に驚いた時の顔だとわかるのは、表情豊かなひさきの傍にいつもいればこそ。
「探したよ」
「あ、ごめんね。気づいたら出かけてた」
ひさきは真顔で謝り急いで立ち上がると、パンパンとスカートをはたいた。
見上げるあさかが、
「大丈夫?」
「うん。大丈夫」
と、ひさきが笑顔を見せるが、あかさの心は曇ったまま。
「本当に大丈夫?」
「うん。どうして?」
「なんか、前と様子が違うんだけど」
第六感というか、ほとんど当てずっぽうに近いものだったが、ひさきの表情は少し曇った。
この暗さだ、そう見えただけかもしれない。
ひさきはいつもの笑顔を見せて、
「大丈夫だよ。ありがとう」
と、あかさに手を差し伸べた。
温かく優しい手に引かれ、あかさも立ち上がった。
こんなに近いのに、その温もりが心まで届かない気がした。
ひさきは黙したまま、そっと手を放す。
私じゃ力になれない?
あかさは黙ったまま、ひさきの放したその手を握った。
ひさきはあかさを一瞥してからゆっくり歩き出し、あかさも隣で静かだ。
静かな靴音が二つ、互い違いに耳に届く。
暗がりの中、水音がちゃぷちゃぷと、川が満ちていることを知らせ、水の中は気味が悪い。
濃紺の夜景を楽しむでなく、伏し目がちに歩く二人。
だが、いやな空気ではないとつないだ手が言っていた。
「追試の方は大丈夫?」
それはもちろん気になることでもある。
万が一にも学校を離れることがあっても、ひさきとはずっと友達でいたい。
そんなことにはならないだろうし、考えたくもない。
「うまくいくと思う。あかさのおかげ」
「加織も、カンナも。担任もね。」
「うん、そうだね」
ゆっくりと頭を下げるひさきに、慌てて、
「いやいや、私もひさきのおかげなわけで」
「そうだったね」
と笑い合う。
かつて学校で話していたときの感覚が呼び起された。
すでに懐かしさをまとっているのが、寂しさを引き立てる。
やがて、水面に反射したまばゆい光がひさきの輪郭をくっきりとさせた。
この時間でもうヘリコプターの発着はないはずで、整備中だろう、ヘリポートの明りはまるでショーウインドウのように明るかった。
ひさきの瞳に光が差して、微笑をたたえているその横顔が、逆に愁いを帯びているように見えた。
ひさきを信じているが、笑顔が気になって仕方ない。
もう一度訊いてみようとあかさが口を開こうとしたそのとき、ひさきが髪をなびかせあかさの目をじいっと見つめて言う。
「昔、小学校の頃のことだけど。学校が終わって塾が始まるまでの空いた時間、偶然川を眺めてることがあったの」
塾に通っていたとは、初めて聞く話だ。
川面に視線を落とすひさき。
「何で橋に行ったのか、わけは忘れちゃったけど。」
そういう割にはひさきの言葉は紡がれるようでよどみない。
「この川、満潮になると海の水があがってくるの。逆流するみたいに。それが不思議で見惚れちゃって。で、気づいたら川岸に小さいクラゲがたくさん泳いでた」
ふと見たひさきの横顔は楽しそうで、二人の前に水族館のライトアップされたクラゲの水槽が広がるようだ。
「すごくちっちゃいの。でもちゃんと泳いでる。近づいたり離れたり、人間みたいで不思議だった」
ヘリポートを背に歩き、また暗がりがさっきよりも深く濃い色で広がってきた。
街灯があるはずなのに、まるであの世界に迷い込んだように暗く、明りはない。
絵具で何度も塗り重ねた色のよう。
「こんなたくさんの水の中の、海はもっと広いのに、たまたま出会うなんてすごいことじゃない?」
「う、うん。そうだね」
「でもやがて離れて流されていく。海に戻るの。もう会うことはない」
あかさには話が見えず理解に苦しんだ。
だが、それよりもひさきが立ち止まって見つめる川面の揺らぐ月にいつもと違う何かを思った。
「月って不思議だね」
どんな感情なのか、わからない。
暗闇の中、ポツンとある月の光に、居心地が悪い。
強いて言うなら、不安。
分からないままに無くなってしまう虚無。
あかさは水辺にいながら月と幾多の星が煌めく宇宙を感じる。
遠く続く世界に砂の一粒、自分の存在はたったそれだけ。
確かに存在するが、しかし儚く小さい。
数百年に一度ほどしか近づかない彗星の、その尾が青白く光るイメージがわいてきて、スケールの大きさにめまいを覚えた。
ひさきを見る。
光を吸い込む渦のなか、ひさきの姿が滲むようだ。
ひさきが話を終えて束の間、あかさはひさきを失うような、そんな気分にとらわれてつないだ手を引き寄せて、抱きしめた。
こんなに自分自身が熱さを感じているからか、反対にひさきの肌はひんやりと冷たい。
肩を抱えて強くひさきを感じた。
普段ならそこまではできなかったろう。
夜の闇に時に荒ぶる黒い感情を見つけたからかもしれない。
否定的かつ神経質になっていたともいえる。
「あかさ?」
と、ひさきはきょとんとしたまま、されるがままにいた。
人の目を気にするほどに冷静になる時間はなく、あかさは少し離れて言った。
「友達だから。一緒だよ」
またもひさきを戸惑わせたが、あかさは構わず続けた。
「助けたい」
存外力が入っていたあかさに腕を掴まれて痛かったかもしれないが、ひさきはこぼれる笑顔で、
「ありがとう」
そして、もう一度、
「ありがとう」
と、繰り返した。
ひさきの頬を沈んだ影が一筋、しかしあかさには見えなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

処理中です...