彼女がいだく月の影

内山恭一

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蝉の声がうるさく、壁を突き抜けて入ってくるが、それでもあかさはようやく気づいて起き上がるほどに深く眠っていた。
勉強があるから長居はできないと早めにひさきの家を後にしたつもりだが、バスを待ったり、お風呂に入ったり、電話したりで、学校がある時と同じ夜更けになってしまった。
むしろ就寝は少し早かったくらいだが、電話を切ったか気づかないくらい疲れていた。
夏休みのイベントは週末の花火大会くらいのもので、浴衣にしようかとみんなで話し合っている程度のことで遅々として決まらず、他はまだ何も決まってない。
楽しいはずが、何故だか起き上がるのが億劫で、一旦うつ伏せになってしばし枕に顔をうずめてから体を起こした。
通り過ぎる車の音がせわしく、学生だけが居ない普段の生活音が夏休みを実感させる。
今日は特別予定は立ててない。
いつもなら、あれしろこれしろとうるさい母も、夏休みの最初とあってか特に何も言わない。
誰もいない家の中、時計の針だけが耳につく。
もう昼になろうかという時間に、寝ていた本人が最も驚いた。
まぶしいカーテンに目をやると、机の上の鏡に気づいて、わずか映り込んだ自分の髪型に吹き出して笑う。
髪がおもしろい跳ね方をして心底笑ったが、静寂が際立つだけで、ちょっとだけしょぼんとしてしまう。
いやいや、そうじゃない。
あかさはベッドに腰掛け、反発するクッションを利用して、
「とうっ」
と、飛んで立ち上がる。
思わぬところで落下音が聞こえて、振り返ると一緒に落ちたらしい携帯がくるくると回った余韻を残していた。
「あらら」
あかさはそれを拾い上げて、ただ見つめた。
昨晩は珍しくしおんが心配して電話をくれて、加織とも話したか。
友達とすぐつながるし、つながっていれば楽しいし、でも返事がなければ寂しいし。
写真も撮れて便利だけど、余計なものも見えてしまう。
便利なうえに人と密接な道具だけに、感覚が慣れるとすぐ頼って信じてしまう。
おかげで人間関係が鞄に入れていたイヤホンのコードよろしくうねって絡み、ほどけないと感じる。
面と向かって話すことの大切さを痛切に感じて、ひさきが電話を携帯しないでいることを窘めることはできない。
人間が一つになればそんな煩わしいこともなくなる、とはあまりに極端すぎるかと首を振ると、携帯を手に顔を洗いに部屋をでた。
冷たい水で少しは気が引き締まっただろうか。
顔を上げて鏡に写る自分の顔はいつもと変わらない。
にこりとしてみたり、ふくれてみたり、変顔をしてみたり。
やっぱりいつもの自分がそこにいた。
変に体が傾いているような感覚。
心の天秤が釣り合ってないと、平衡感覚が教えてくれているのかな。
少しお腹が空いている、そんな気がした。
顔を拭いて、部屋に戻ると机の上に平べったくなって乗っかったパッケージを見て、
「グミ、もうなかったんだった」
と、口の開いたままの空の袋を見つめた。
あの酸っぱさが元気をくれそうな気がしただけに、口惜しい、とはさすがに言い過ぎだろう。
買ってこようっと。
あかさは手早く身支度を整えると、母の用意した「朝ごはん、冷蔵庫」のメモに気づきもせずに家を出た。
もちろん、財布と携帯は忘れていない。
涼しげな恰好をしたつもりだが、外は存分に暑く、日差しも強い。
コンビニに向かうにも、距離の長短ではなくて日陰の有無で道を選んだ。
あの角を曲がれば見えてくるはず、その時に、あかさの携帯が鳴りだした。
「カンナからだ」
何だろう?
「起きてるぅ?あかさ」
「もちろん」
「何してた?」
「ちょっと買い物に出てる」
「へー。どこに?」
「コンビニ」
「あ、じゃぁ、今、暇?」
「ん、まぁね」
「会える?」
「え?いいけど…」
カンナが何か先を急ぐように話を返してきて、少し落ち着かないがコンビニの場所を教えた。
肝心なことをはぐらかしているとまではこの時思い至らなかったのは、まだカンナのことを深く知らなかったせいだ。
とりとめない話題で話を続けるカンナは話を突然変えて、
「あかさ、それでね今から私の知り合いがそっち行くから」
「え?なんで?」
ギクッとして悪寒が走るのは涼しい店内で体が冷えすぎたせいではない。
感じた違和感はこれだったのか、あかさはもっと早く聞いておけばよかったと後悔した。
すぐに店を出てしまいたかったが、それでは何しに来たのかわからないと、変に意固地が邪魔をする。
「先輩なんだけど、歌がうまい人を探してるんだって」
「私が?別にうまくないよ、下手なくらい」
「えー?本当?だって、舞綺亜が」
ここで舞綺亜の名前が出るなんて。
どうつながれば舞綺亜が私とカンナの知り合いが?
思考がこんがらがって、納得できる理由を見つけられないどころか、散らかった話が頭の四方八方に反響してずっと混乱しっぱなしである。
とにかく帰ろう。
ただ涼みに来た客になってしまったが、店を出る。
「女の人で、バイクに乗ってるんだって。もう着くんじゃない?」
その他人事な話しぶりが頭にくる。
もう電話を切ってしまえばよかった。
店の駐車場にバイクが止まっていて、ちょうどついたところだった。
バイクとは言ってもビジネスバイクで、イメージした大きなそれとは違った。
それに、ヘルメットに薄い色のサングラスで着こなしの格好いい、つい見とれてしまう大人な女性がそれに乗っているのも意外だった。
さらに、その女性一人ではなく、後ろにはもう一人男の人が今降りようとしていた。
ヘルメットを脱いでこちらにまっすぐにやってくる。
昼時で他に客がたくさんいるのに、面識のないその人はにこやかで優しい顔をしてあかさに近づいてくる。
女子なら十中八九素敵というだろう顔立ちをして、女の運転するバイクの後ろから降りる光景とのギャップが甚だしくて、少しクスリとしてしまう。
「照星さんだって、名前」
あてたままの電話から、カンナと他に誰かの声が遠く聞こえる。
「しょうせい?」
苗字なのか、名前なのか。
そもそもそれは女の方を指すのか、男の方かすらもわからない。
「照星って、俺のことです」
店の真ん前で突っ立ったままのあかさに、にこやかに話しかける男が照星で、店の出入りに邪魔な二人を手招きする女性は、
「そこ、邪魔だからこっち」
と、名前はまだ知らない。
軒先の日陰の中、あかさは別れを告げずに電話を切った。
警戒させることなくすぅっと距離を詰める二人とも魅力にあふれていたが、あかさは隙を見せまいと自然と少し間合いを取っていた。
恋人同士だとすればお似合いな二人だが、あかさを前にべったりくっつくどころか、あかさと同じほどの間があって、恋人同士には見えない。
半歩、照星があかさに近づいて、
「霧村さんでしょ?」
「そうですけど」
話の内容は予想がついたが、
「あれ?」
と、照星が窓越しの店内に誰かを見つけたようで、あかさもつられてその先を見つめた。
「やっぱ、かわいい。すごい好きかも」
照星の声がやけに近くて向き直した時には、お互いの顔がすぐ目の前で、ビクッとして後ずさった。
跳ね上がった心音がまだ激しく聞こえるのは、照星にまんまと騙されたことに気づいたからではなく、佐村とすら普段無い距離で見つめあったこと、それに「かわいい」という言葉を格好いい男の子に言われたからだろう。
「照星、ボーカル探しに来たんでしょ。ナンパするんなら帰る」
「あ、すんません」
腕を組んで不機嫌そうな顔の女性に、笑顔で謝る照星。
許せてしまう笑顔、大人の雰囲気がそこにあった。
やっぱ彼氏彼女じゃないんだ。
何故かほっとするあかさはそんな自分に気が付いて、顔を赤らめた。
「歌がうまいってあなたなの?」
「そんなの、言ったことないです」
「バンドのボーカルを探してるんですって。やってみない?」
「いえ、興味ないです」
真剣なやり取りで、あかさは照星ではなくこの大学生くらいの女性に理解してほしいと思った。
しっかりしたこの人ならきっとうまくまとめてくれると直感したからだ。
思いが通じたからとは考えられない程あっさりと、
「人違いじゃない?誰から聞いたの」
「そうすか?声聞いてないし、わかんないですって」
ここで歌えばわかってもらえるんですか?
そう言いかけたとき、
「違うって。この子、困ってるから。戻ろう」
「ちょ、待ってください」
話を続けたいと居続ける照星の腕を取り、バイクの方へつれていく女性は、
「ごめんね」
と、ニコリとして言う口元が美しい。
「かわいいのに…」
突然人に会わされて怒ったり緊張したりしているのに、残念そうに言う照星の言葉に気恥ずかしくなるあかさだった。
「また会いたい」
バイクの重たそうに走るエンジン音に紛れて照星はそう言い残して、消えていった。
たった数分の出来事。
この現実感の無さは何だろう。
心臓だけが速く打ち続けて、ことさらリアル感を喪失するようだった。
風が吹いて涼しさを感じる。
体が熱い。
店内に戻って商品棚に目をやるが、あかさは何も見ていない。
しっかりと涼をとってから、商品を手にレジに並ぶ。
ただぼんやりと前に並んだ人の背中を見つめながら、たった今の出来事を遠い過去のように一つ一つ記憶を取り出しては考え込む。
照星の真剣な眼差しで見つめられた時のことを思い出して、あかさは嬉しさを否定できなかったし、あかさの知らないところで話が通っていることを恐ろしく思った。
どっと疲れを感じる。
美月から始まっている対立、あかさはそんなことをしているつもりはないのだが、カンナまで巻き込んで果たして許すことができるのか、自信を失いつつあった。
あかさの順番がやってきた頃、あかさとは違う店で加織は買い物を済まし、店の出口直前で電話の表示に足を止めた。
加織の鼓動が速まる。
ドキドキというよりも、ズキンズキンとするように。
元カレからの着信。
いや、ただの知り合いなだけの先輩に過ぎない。
あれ以来、会ったことも話したこともない。
それが突然何の用だろう。
掛け間違いかもしれないと悩んだが、止まらない着信音のせいで他の客の視線を集めてしまい、すぐボタンを押した。
「はい」
「加織?」
「うん」
「悪いな、電話かけて」
「ううん、全然」
期待は何もしていないのに、もぞもぞするようで居心地悪かった。
店の隅に移動しながら、雑誌の入った袋のたてる雑音を鬱陶しく感じた。
「今聞いたんだけど、照星が加織のところに行ったって」
聞いたことのある名前だ。
確か一つ下の、加織からすれば一つ上になるか、バンドメンバーのはず。
「来てないけど」
「おっかしいなぁ。会ってきたっていってるぞ」
今日は朝から家で本ばかり読んで、今も帰ってから存分に楽しもうと考えている。
家族以外、誰とも会っていない。
「絶対ボーカルに入れたいって、今、俺の後ろではしゃいでる」
「だって、今日は誰とも会ってないもん」
「ほんとか?」
「本当だもん」
「そうか。だったら誰なんだろうな?それ」
「わかんない。別の人じゃない?」
「そうだろうな」
久しぶりの彼の声に気を取られ、やっと加織は気が付く。
頭の中でカメラのフラッシュが幾たびも焚かれ、その閃きの間にスカッと顔が浮かぶ。
あかさ、舞綺亜、そして美月。
「紹介したわけじゃないんでしょ?」
「もちろん。知らないはずだ」
かつて自分のことを誰にも言わないでほしいとお願いしたことをきちんと覚えてくれていると、加織の胸は熱くなる。
その一方で、美月にこぼした情報が事の発端なわけで、彼にがっかりもした。
美月がしつこくせがんだからかも、とフォローしてしまう自分にもがっかりした。
「もし、加織だったら受けてたか?」
「え?」
「ボーカルの話、受けてたか?」
彼の真意が見えない。
どうしよう。
困惑した表情の加織は、窓からのぞく青空を見上げた。
「受けない、と思う」
あなたのいないバンドなら。
言葉にはしない思いが、喉まで出てきて息苦しかった。
「そうか」
残念そうな顔が目に浮かぶ。
加織にとってもそれは同じだ。
互いに沈黙する数秒の間がその何倍も長く感じられる。
上から吹くエアコンの絶え間ない風切音が助長していた。
「それだけだ、気になったから」
加織はただ聞いているのみで返事はしない。
「じゃぁな」
「うん」
まだ心の中で割り切れない感情がうずいていると、加織は携帯の黒い画面に映った自分の顔をじいっと見つめていた。
がさっと音を立てて小脇に挟んだ袋が床に落ちた。
そうだった。
加織は雑誌の袋を拾い上げて店から出ると、カンナにすぐさま電話した。
美月か舞綺亜。
いや、直接ではない。
自分の知る限りでは舞綺亜とカンナが同じグループで、おそらくカンナを通してあかさに話が行っているはず。
「もしもし?」
「カンナ?今、どこ」
「舞綺亜と一緒」
やっぱりそうだ。
「舞綺亜だけ?」
「ピンポーン」
「あかさに電話した?」
「うん。人を紹介してほしいって、舞綺亜が」
「それで?」
「それから先はしらないよー」
カンナは性悪な人ではない。
だが、八方美人なところがあって加織はそこが気になっていた。
今回、それがあかさの方にだけ悪い方向に向かっている。
「佐村君と付き合ってるの、知ってるでしょ?」
「知ってるよ」
「それなのに紹介しちゃダメでしょ」
「そうかなー」
「そうだよ」
「ボーカルなんて面白そうだよ?」
「だぁめ」
「わかった」
カンナは気を悪くする風でなく、淡々としている。
今、彼女は加織と舞綺亜に板挟みの状態で、事を速やかに流そうとしているのだろう。
あまり考えなしに動くカンナにも責任はあるが、そもそも加織たちの問題に巻き込まれてしまったわけで、加織はカンナにもあかさにも申し訳なく思った。
これ以上の念押しは不要だろうと、
「ごめん、ちょっと言い過ぎた」
「ううん、気を付ける」
「で、今何してるの?」
「ご飯中。加織も来るー?」
「私はいいや」
呑気に話し込むカンナとその電話の向こう、舞綺亜はきっとほったらかしだろうことを思うと、やはりカンナの性格にも少なからず問題があるかもという思いを禁じ得ない。
「あ、そういえばねぇ」
急に話を変えるカンナは、その軽い口調とは逆に重要な話を加織に聞かせた。
それは、ひさきがまたしばらくこの街に居ないというものだった。
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