氷の伯爵(旦那様)が記憶を失くされたようです

千羊

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旦那様が事故に遭われたようです

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「旦那様が、事故に遭われたそうです…」

 家令が息を乱してヴィヴィアナの部屋を訪れたと思えば、開口一番にそう言った。
 主従揃って感情を表に出さず、常に淡々と物事を進めるというのに、こんなにも取り乱しているところは初めて見る。そもそもここは夫が通うことのない別館で、この家令は遣いを出すことがあっても自ら足を運ぶことさえないというのに。
 馬車が横転して、と男は息を整えぬまま続けた。

「旦那様の、容体は……?」
「命に別状はありません。しかし、頭を強く打っておられるそうで――」

 ずいぶんと歯切れが悪かった。
 じっ、とまっすぐ見つめると、家令は声を落として「もう、目覚めることはないかもしれないそうです」と喉を震わせた。

「本館へ行きます」

 用意を、とヴィヴィアナは侍女たちに指示を出す。
 起き抜け、というわけではないが、それでも朝早いこの時間は普段から軽装でのんびりと過ごす時間だ。相手が目が覚めぬ人とて服装を整えない謂れはない。
 家令を追いやって、ため息をつく。先ほどから心臓がうるさかった。旦那様が事故にあったなんて、信じられない。本当はすぐにでも旦那様の眠る本館まで駆け込みたい気持ちだった。だが、この屋敷では感情を表に出すことが良しとされないことをヴィヴィアナは知っていた。旦那様の凶事にあの家令よりも平静を保っていられた自身に驚きさえ湧いてくる。
 侍女のおかげで身なりだけはきれいに整った。鏡を見ると、そこには立派な淑女が映っている。
 旦那様が初めて褒めてくれたのはこれに似た青いドレスと、綺麗に結われた豊かな金の髪だった。旦那様は目覚めることはない。だから気づくこともないだろう。けれど――――、

 ――――ああ、旦那様と会うのはいつぶりだろう。

 鏡の中の少女が、笑みを零していた。



 本館は恐ろしく静かだった。
 夫の部屋の前につくと、護衛を担っている男が扉の前をしっかりと守っていた。その大男はヴィヴィアナを見て顔を顰め、通さんと言わんばかりにそこから退くことはない。

「なぜ、ここに?」
「妻が夫の見舞いに来ることに、なぜといわれても困るわ」

 通しなさい、と命じても男は聞かず、結局家令が扉から顔を出すまで男が譲ることはなかった。主の部屋へと入ってゆくヴィヴィアナを、悔しそうに強く睨んでいることが、体は大きいというのに、男を幼く感じさせた。

「申し訳ありません。下げさせるべきでした」
「ええ、お願いするわ」

 主寝室に通されると、初めて入るそこは薬の臭いで満ちていた。医師が何人かで天蓋のついたベッドを囲んでいる。彼らはヴィヴィアナに気が付くと、膝を折って挨拶をしようとしたが、それを手を振って制し、容体を聞く。

「馬が雨でぬかるんだ道で滑り、車体が横転したようです。馬車に投げ出され、小さな崖から転がり落ち、頭を強く打ったと思われます。容体としては左腕、左足の骨折と擦り傷切り傷が多数です。命に別状はありませんが、なにぶん頭を強打しております。今後どうなるかはわかりません」

 ベッドを隠す薄いカーテンは挙げられており、遠目からでも旦那様が見えた。頭に痛々しい包帯がまかれ、綺麗な顔はほとんどがガーゼでおおわれている。それでも隠し切れない傷が複数見えて、いかに大きな事故であるかがわかった。

「旦那様……」

 用意された席に着くと、一層強く薬の香りが鼻を通り抜けた。
 近くで見る旦那様の顔は青ざめていて、生気を感じられなかった。

「ううっ……。――――お願い、ひとりに……、一人にしてちょうだい……」

 思わず震えた。こんな状態の旦那様を見て、耐えきれなかった。
 医師や家令たちは肩を揺らす小さな背中に今回ばかりは同情した。ヴィヴィアナの悲しみがこの場所に満ちていくようだった。さあ、と家令が促して全員が退出する。何かありましたら呼んでくださいという医師の言葉にヴィヴィアナは沈黙で返した。
 足音が消え、部屋は静かになった。そんな中ヴィヴィアナは一人顔を歪める。

「こんなっ! こんな風になってしまうなんて……っ!」

 そして、ふっと、笑い・・が込み上げてきた。

「あはっ、あははっ、あははははっ!! だめよ、もう耐えきれない!」

 部屋の外にはまだ護衛が立ってるかもしれない。極力声を抑えているが、それでもどうしてもこの気持ちを止められない。
 するりと包帯の巻かれた輪郭をなぞる。

「旦那様、とても素敵な姿だわ」

 片目もう光を映さないのだろうか。ガーゼに血が滲んでいる。手は? 足は? 今後起き上がれることはあるの? そもそも目覚めることがあるのだろうか?
 想像するだけで、口角が上がるのを止められない。

「呪った甲斐があったわ!」

 ヴィヴィアナは喜びのあまりくるくると部屋の中で踊り始めた。
 この家に嫁いできて早二年。何度苦汁を飲まされてきたことか。
 二年半前、ヴィヴィアナはとあるパーティーで旦那様と出会った。第一印象は顔の綺麗な人だな、と思っただけだが、彼は国でも要所についている御仁で、父の爵位がそう高いわけでもないヴィヴィアナは一生関わることはないと思っていた。しかしパーティー中盤、彼と目が合い、事態は一変した。『一目惚れいたしました』と、彼はヴィヴィアナの前に膝をついたのだ。周りは騒然とした。なぜならば彼は氷の伯爵と呼ばれ、どんなに美しい令嬢が言い寄ってもなびかず、公私ともに感情を表に出すことのない人だったからだ。彼が頬を染めてヴィヴィアナを言葉を尽くしている。それがどんなに異様で、彼が本気であることを表しているか。情熱的な青い瞳で見つめられ、ヴィヴィアナはころりと彼に恋に落ちてしまったのだ。それからはとんとん拍子だった。彼は翌日には両親と顔合わせをし、すぐに婚約式を終え、半年を過ぎたら結婚だった。その半年間は本当に幸せな日々だった。彼と過ごすどんな時間でも心が満たされていた。
 ――――しかし、それは続かなかった。
 彼の領地に行ったときに知った。彼は、平民の愛人がいたのだった。彼がヴィヴィアナと結婚したのは、愛人と特徴が似ていたからだそうだ。いつか愛人との間に子供が出来たとき、その子を表向きはヴィヴィアナとの子供とするために。それに加えてヴィヴィアナの家はどの派閥にも属さず、程よく爵位も低くて話を丸め込むにはちょうどよかった。甘い言葉をささやいてくれた彼は、ヴィヴィアナに対しても氷の伯爵となったのだった。
 それからは愛人に嫌味を言われ、旦那様に忠実な使用人たちはヴィヴィアナを冷遇した。社交界にはもともとあまり出る方ではなかったが、こんな醜聞を悟らせたくなくて表に出ている時は変わらず愛されているふりをした。本当に、悔しかった。何度、この家の使用人たちを、愛人を、そして旦那様を呪ったことか。願わくば自分で手を下したかったが、この際仕方がない。こうなったのも視察を面目に数か月愛人とよろしく避暑地にランデブーしてたからだ。自業自得だ。
 喜びの踊りは軽やかで、当て付けで着た青いドレスの裾がふわりと舞う。愛人よりも格段に着こなしている自信がある。

「ああ、今日はなんて素敵な日なの!」

 久しぶりに踊ったら疲れてしまった。いつのまにか結構な時間が経っていたようだ。お昼ご飯も食べていないし、もう別館に帰ろう。このままここにいたら医師用の紅茶に添えられているレモンの汁を傷口にかけてしまいそうだ。
 息を整えると、いまだに笑ったままの口元を指で解した。このまま出てしまったら、護衛に変に勘繰られてしまう。表情を取り繕い、ハンカチを取り出して目を無理に擦る。これでさっきまで泣いていたかのように見えるだろう。ついでに目が痛くなって涙が出てくれたので良かった。
 鈴を鳴らすと、家から連れてきた侍女がすぐに駆け寄ってくれた。そしてそのまま怪しまれることな別館に戻ることができたのだった。
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