氷の伯爵(旦那様)が記憶を失くされたようです

千羊

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お嬢様はお怒りのようです

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 青々と空が晴れていた。雲は一つなく、春の優しい日差しが窓の外から部屋を照らす。

「どうかしら?」

 白い豪華なドレスに身を包んだヴィヴィアナは嬉しそうに鏡の奥の母に尋ねた。髪を結っているので頭を動かすと侍女たちに怒られてしまう。

「とても美しいわ。結婚式の日のわたくしの次くらいかしら?」
「本当?」
「ええ、あの日のわたくしは世界で一番美しかったけれど、貴女はその次、――二番目に美しい」
「お母様の次だなんて、嬉しいっ!」

 若いころ、『天上の美の結晶』と言われた母の次に美しいだなんてこれ以上ない誉め言葉だった。喜びの勢いで振り返りそうになるが、侍女たちに動かないでください、と頭を固定される。それがなぜか無性に可笑しくて、母に視線を送って二人で笑った。

「貴女が結婚だなんて、時が過ぎるのは早いこと」

 ヴィヴィアナの母は丁寧に結い上げられてゆく娘を見ながら感慨深くそう言った。
 今日はヴィヴィアナの結婚式だった。半年前、とあるパーティーで二人は出会った。可愛い娘がだれもかれもに一目惚れされることは当たり前だが、娘まで惚れてしまうとは思っていなかった。突然のことに思うところがないと言えばうそになるが、当の本人が相手である伯爵と恋仲になり、婚約者になり、幸せな日々を送っているならばそれで良かった。そうしてあっという間に迎えた結婚式、生まれてから今日まで常に可愛かった娘の表情は美しく、表情は幸福に満ちていた。それが、親として何よりうれしい。
 伯爵に送られた髪飾りを付けると、ヴィヴィアナの用意が終わった。父や兄たちに披露すると、この姿を目に焼き付けるかのようにじっと見て、絵に残そうと騒いでいた。
 ――――そして迎えた式。
 教会で盛大に迎えられたヴィヴィアナが一番うれしかったのは、誓いの言葉のあと、耳元で彼が綺麗だと言ってくれたことだった。
 本当に、幸せな一日だった。

 結婚式が終わると、ヴィヴィアナはすぐに彼の領地へと向かう馬車に乗った。首都からは二日ほどで、これからはそこに住むことになる。荷物はもう送ってあり、あとはこの身一つと付いてくると言って譲らなかった侍女のみだ。彼は屋敷で迎える準備のために少し馬で先に領地へ向かった。子爵家の小さな領地は首都から見て西部にあったので、伯爵領のある北東側に行くのは初めてだ。新婚生活に心を躍らせて馬車の道のりを過ごした。

「わぁ、ここがお屋敷なのね!」

 子爵領の屋敷はそれなりに豪華だが、伯爵家の屋敷は歴史を感じさせる趣だった。建国間もないころから爵位があったというのは知っていたが、それを裏付ける荘厳な雰囲気が漂っている。
 中に伯爵が待っているのだろうか。少し急いで屋敷に入ると、数名の使用人に迎えられた。

「ようこそおいでくださいました」
「初めまして、ヴィヴィアナよ。伯しゃ……いえ、だ、旦那様はどちらに?」

 期待しながら周りを見回すが、彼らがその問いに答えることはなかった。ご案内いたします、と奥へ促される。先日までお祝いムードの中にずっといたせいだろうか、静かな屋敷の空気が重く感じた。
 連れられた部屋には一人の女性が座っていた。比較的ゆったりとした服を着て、編み物をしている。彼女はヴィヴィアナの来訪に気が付くと、小さく笑った。同じ年頃が少し年齢が上であろう彼女の色彩はどことなく自分に似ている気がする。

「――――貴女がヴィヴィアナさんね。待っていたわ」

 編み物の手を止めた彼女に席を勧められ、腰を掛ける。
 この女性ヒトは誰だろうか。使用人にしては格好がおかしい。なぜか胸騒ぎがした。戸惑いながら訪ねる。

「あの、旦那様は……?」
「ごめんなさい、彼は今日は帰らない予定なのよ」

 彼、とは? 誰がいつ貴女のことについて聞いたのか。

「あの、貴女は?」
「ああ、紹介が遅れてしまったわね。わたしは彼の―—――伯爵様の、妻です」

 女性は目を細めて幸せそうに笑うと、ゆっくり腹を撫ぜた。



 ― ◇ ―

 嫌な夢を見た。
 あれはまさに人生最悪の日だった。この二年間、この悪夢に何度悩まされたことか。しかし、今日は違う!

「なんて素晴らしい朝なのでしょう!」

 朝の早い時間に目を覚ましたヴィヴィアナはすがすがしいとは到底言えない土砂降りの雨が降る窓の外を見て心躍る気分だった。一向にやみそうにない鬱々な雲が昨日の出来事が夢でなかったと実感させてくれる。
 旦那様は今日も目を覚まされない!
 旦那様の事故を引き起こしてくれたこの雨雲に感謝を送りたい。空の神様がいらっしゃるならば、この清い身を捧げてもいい。
 嬉しさに心だけでなく身体も踊りだす。

「お嬢様、誰が見ているかわかりませんわ」

 仕方がない、と諫める声は決して叱る風ではなく、むしろ弾んでいるようにも聞こえた。

「ユリィ、だって、だって……っ、この気持ちを抑えられないのよ!」
「それについては全面的に同意いたします」

 彼女はヴィヴィアナが実家から連れてきた唯一の侍女だった。昨日まで大切なお嬢様が冷遇されているという事態を奥歯を噛みしめて耐えてきたため、伯爵には積もりに積もった恨みがあるのだ。ヴィヴィアナの喜びに同意しかない。しかし、人数がほとんど配置されていないこの別館でも誰が聞いているのかわからない。そこは気を付けなけれならない。

「まったく、昔から嬉しいことがあると踊りだすのは変わりませんわね」

 ふふっ、とユリィは笑みを零す。

「朝食ですわ」
「はぁい」

 くるくると回り躍っていたヴィヴィアナは空腹を訴える身体に忠実に従った。
 朝にしては重いかもしれないが、今日は朝から肉の気分だったのだ。優雅に切って口に運ぶ。相変わらずユリィは何をさせても一級品ができる。肉のうまみに加えて、さっぱりとしたソースが口の中で広がる。

「ん~、おいしい。旦那様はおかわいそうね。こんなおいしいお肉が一生食べれないなんて」

 あまりにもお気の毒で高笑いしそうだ。

「それにしても、旦那様への復讐がこうもあっさりと終わるなんて」
「全くその通りですわ。一瞬苦しむだけでは償いきれない罪がありますのに」
「そうよねぇ。もっともっと、――少なくとも一週間は断続的に続く身体的苦痛といつその痛みが襲ってくるかわからない精神的苦痛で悶え苦しむくらいにしてほしかったわ」

 残念ね、と二人そろってため息をついて眉尻を下げる。同時に遠くで雷の音が響く。きっと空の神様ももう少し苦しめておけばよかったと後悔してくれているのだ。

「計画が無駄になってしまったわ」
「せっかく頑張って考えましたのに」

 実はヴィヴィアナ、結婚してから飲まされてきた煮え湯をそのまま飲み込む性格ではなかった。飲んだお湯を溶岩に変えてお返しするつもりだったのだ。そのためにたくさんの計画を考えてきた。旦那様を苦しめるには愛人を亡き者にするのが一番手っ取り早いのだが、できれば愛人も長く苦しめたい。そのために比較的毒の手に入りやすい実家とやり取りしていたのだ。慢性的な体調不良に悩まされる素晴らしい毒だったのだが、仕方がない。それらは処分することにしよう。そうなれば復讐の相手で残っているのは――――

「さて、この家を乗っ取りましょう」

 この屋敷の使用人たちだった。ヴィヴィアナは主の為だからと言って彼女を冷遇した使用人たちを許す気は毛頭なかった。仕えるべき相手を見誤り、彼らは愛人を女主人として扱った。職務怠慢はもちろん、嫌がらせも多々あった。それを許せるわけがない。

「計画はいかがいたしますか?」
「もちろん。少しずつ、少しずつ苦しめていくのがいいわ」
「かしこまりました。準備は整っております」
「今までのことを後悔させてあげましょう」

 空が雷鳴とともに怪しく光った。

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