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第一話
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水道から水滴が滴り落ちる音で、星奈は目が覚めた。
まどろみと覚醒を繰り返し、深くは眠れていない。そんな日々を過ごしているから、疲れが取れなくて些細な物音でも目が覚めてしまうのだ。
もう何日も、まともに眠っていない。食事もほとんど摂っていない。
今日が何曜日で、今がいつなのかも、あまりわかっていない。
電気はつけず、カーテンを閉め切っていて、外界の変化をあまり感じないからだ。
朝起きて、カーテンを開けて一日を始めて、三食きちんと食べてまた眠るという健康的で当たり前な生活は、星奈の世界から失われてしまったかのようだ。恋人の瑛一と一緒に。
瑛一が死んだ。
そのことが星奈を蝕み、立ち上がれなくさせている。
事故の知らせを受けて病院にかけつけて、通夜と葬式に出てからの数日間は、泣き暮らしていてもまだ人間らしい生活ができていた。周囲の人間たちが、星奈がどうにかなってしまわないようにと気を配り、何くれと世話をしてくれていたから。
けれども、ひと度もとの生活を始めようとするとだめだった。
日常に帰ってくると彼の不在を生活のあちらこちらでまざまざと実感し、それがひとつひとつ、星奈を打ちのめした。
おはようやおやすみといった、ささいなメッセージが届かないこと。ふとしたときに視界に入る、彼が部屋に置き忘れていった雑誌やちょっとした衣服。夕飯の支度をしようとして、彼も食べるだろうかと考えてしまう瞬間。
ささやかな、それでいてこれまで降り積もるように星奈の世界を少しずつ彩り幸福に変えていったものたちが、彼の不在によってごっそりと消え去ったのだ。
そのことに気づいたとき、星奈は一歩も部屋から出ることができなくなった。
部屋から出れば、そこはひとり暮らしの学生たちが多く暮らす街だ。十分も歩けば、大学にもたどり着く。
星奈も瑛一も県外からやって来たひとり暮らし組で、わりと近いところに住んでいた。だから同棲はしないまでもよく互いの部屋を行き来していて、周辺の景色にはすべて思い出がある。
生きていた頃は当たり前の日常の風景で、それが思い出になるなんて思っていなかった。死んだときから思い出に変わってしまって、そしてその中にどれだけ瑛一を探しても、彼はもういない。この世界の、どこにも。
彼と似たような姿をした大学生は、たくさん歩いているのに。彼が暮らしていたアパートは、変わらない姿で存在しているのに。
そのことに気づいた瞬間、星奈はもう立っていられなくなった。
亡くなってから少し時間が経ったからこそ、はっきりと瑛一の不在を感じてしまった。彼がもう二度と帰って来ないことも、悲しいくらい理解できてしまった。
それから星奈は今のように、眠らず食事も摂らず、ただ息をしてわずかな水分を摂取するだけで生きていた。
生きているというよりも、死なずに、ただ過ごしているだけとも言える。
「……なに?」
ぼんやりとした頭でインターホンの音を聞いて、星奈は突っ伏していた身体を起こした。しっかりと横になる気力もなく、最近はこうしてベッドにもたれかかるようにして眠っている。あまりそういった欲求はわかないけれど、水を飲みたいときやトイレに行きたいとき、この姿勢から立ち上がるほうが楽なのだ。
インターホンは何度も繰り返し鳴らされ、しまいには「お荷物でーす」という声まで聞こえたから、仕方なく星奈は立ち上がった。踏み込む足に力が入らなくてよろよろとしてしまったけれど、1Kのアパートだから寝室から出れば数歩で玄関だ。
「……はい」
「すみませーん。わたくしたち、こういう者なのですが」
玄関のドアを開けてそこに立っていたのは、白衣を着た二人組の男とその後ろに隠れるようにしている私服の青年だった。
しまったと思ったときには、白衣の男のひとりがドアの内側に足を滑り込ませていた。これではドアが閉められない。
いつもなら、ドアスコープからきちんと外を確認してからドアを開けるようにしていたのに、迂闊だった。
本来なら予定にない宅配便は受け取りたくないのだけれど、実家が突然何の連絡もなく物を送ってくることがあるから、宅配便業者が来たら応対せざるを得ないのだ。
それにしても、今日はあまりにも迂闊だったと星奈は恨めしく思う。
こんな見るからに怪しい人間が立っていると確認していれば、決してドアを開けることはなかったのに。
怪しげな男たちは名刺を手に、にこやかに星奈を見る。
「人工知能及び人型ロボット研究所……?」
セールスなら少し話を聞いてから追い払ってしまおうと思い差し出された名刺を確認すると、そこにはそんな胡散臭い文字が並んでいた。でも、名刺と白衣の男たちを見比べると、妙に腑に落ちる気もしてしまう。
どちらの男も、どことなくおどおどしていて、あまり視線が合わない。髪の毛もとりあえず梳かしてはいるようでも、手入れが行き届いているとはいえない。
偏見や間違ったイメージだとはわかりつつも、その二人組の様子や姿は、星奈の中の、研究に没頭して俗世から離れてしまっている研究者というもののイメージと一致した。
「我々は、昨今話題になっている人工知能の研究をしておりまして、その人工知能を載せた人型ロボットの開発も進めております。工場や介護の現場では少しずつロボットが参入しておりますし、家庭用の比較的安価な感情認識ヒューマノイドロボットも発売されたのは記憶に新しいと思います。ロボットと人が生活する時代というのが、もうすぐそこまで来ているということなんですよ!」
真野と書かれた名刺を差し出してきた男は、星奈が話を聞く姿勢を見せると途端に話し始めた。
早口で、よく舌が回る。けれどもそれは用意して覚えてきた文章をそのまま吐き出しているという感じで、星奈の頭にはまるで入って来なかった。
「あの、あなた方がロボットの開発に携わっていることはわかりました。それで、ここへ来たのはどのようなご用件ですか……?」
真野が息継ぎをした合間にようやく星奈がそうして口を挟むと、彼の背後で控えていたもうひとりの男が大きく頷いた。
「それはですね、牧村様にぜひ我が社で開発中の人型ロボットのモニターになっていただきたいということなんですよ!」
長谷川と書かれた名刺を差し出してきた男は真野のように早口ではなかったけれど、その代わりにものすごく声が大きかった。
星奈は一瞬驚いてから冷静になって、すぐに青くなった。
「あの、声の大きさを抑えて」
「いえいえ! これは声を大にして言いたいことなのですが! 我が社のロボットは素晴らしいので、ぜひとも一緒に生活して、できればあと一歩及ばない人間らしさの部分について、情報収集させていただければと!」
「……入って!」
星奈の頭にはこの長谷川という声の大きすぎる男を黙らせなければという考えしかなかった。
星奈が暮らしているのは、三階建のこぢんまりとしたアパートだ。築年数が周囲のアパートと比べて浅く、その上よく手入れさせているのがポイントで選んだのだけれど、一緒に選んでくれた両親が気に入ったのは別のことだった。
それは、今どき珍しく大家さんがすぐ隣に暮らしていて、直接この物件を管理していることだ。
入居している学生たちによく気を配り、住み心地がいいようにいろいろ整えてくれる良心的な大家さんだ。
けれども、うるさくすることにはとにかく厳しく、騒音問題で一度目をつけられると、その後は些細な物音でも許されず、暮らしていけなくなるというのが先に住んでいる住人からの情報だった。
「ここ、大家さんが厳しいので、声の大きさに気をつけてください。それと、話は聞きますけど何も買いませんから、ひと通り話したら帰ってください」
ドアを開け放ち、気力を振り絞って星奈は言う。
本当なら一刻も早くこんな変な人たちには帰ってほしいのだけれど、騒がれて大家さんの耳に届いてしまうほうが困ったことになるから耐えることにした。
「どうぞ。狭いですけど、座ってください。……玄関開け放ってるんで、変なことしようとか考えないでくださいね」
変な人たちの前で弱気なところは見せられないと、星奈は毅然とした。もともとは、気の強い性格なのだ。ここ最近、めそめそしていただけで。
星奈が鋭い視線を向けると、真野と長谷川は滅相もないという顔をしてブンブンと首を振りながら部屋の中に入ってきた。その後ろを、私服の若い男がのっそりと続く。
「あの、何か誤解をなさっているようですが、我々は牧村様に何かを売りつけようというわけではないのですよ。あくまで本日は、モニターのお願いに来た次第でして」
食事を摂るときなんかに使っている小さなテーブルの前に腰を下ろすと、真野は機嫌を取るかのように両手をすり合わせつつ言う。その横で、長谷川も笑顔を貼りつけて頷いている。
真野はひょろりとしたマッチ棒のような男で、それとは対称的に長谷川は小柄で丸々としている。その並びはまるで凸凹で、漫画やアニメに出てくる間抜けなコンビのように見える。そういった奴らは悪役でも、大抵小物だ。
そんな凸凹コンビの横で、ぼんやり座っている私服の若い男は異質だった。
「モニターって、どんなことをするんですか?」
その若い男性につい視線を向けつつ、星奈は尋ねた。それが前向きな姿勢に見えたのか、真野と長谷川は前のめりになる。
「簡単に言えば、一緒に暮らした際の感想を定期的に報告していただくことですね。商品として売り出した際には、使用者のご家族として受け入れていただくのがコンセプトですので」
「我々と一緒にいるときは完璧に思えるんですがね、やはり実際に暮らしてみるとまだまだ情緒の欠如があるでしょうから、そのあたりの感想を教えていただきたいのです! 言ってみれば、外国人のホームステイのホストファミリーになっていただく感じですね!」
「はあ……」
真野と長谷川は気の早いことにカバンの中から書類を取り出して、それを星奈の前に差し出した。仕方なく、星奈はそれに目を通す。
「どうして私がモニターなんですか? 使い勝手を見るなら、単身者よりも家族のいる人たちのほうがいいんじゃないですか? それと、私の名前をどこで知ったかも気になるんですけど」
何日もまともに眠らず食事も摂っていない頭では、書類の文章はあまり入ってこなかった。それでも、星奈は気力だけで目を通していき、気になることも尋ねてみた。
「牧村様のことは、まあそういった個人情報を取り扱うところから。学生街ですからね、こう、情報は比較的手に入りやすいのですよ」
「牧村様をモニターに選んだ理由としましては、我々がこの人型ロボットに想定している精神年齢や思考力というのが大学生くらいでして、そのー、同じくらいの歳の頃の方と過ごしたほうが感情の変化などの情報も収集しやすいのではという仮定に基づいての選出です!」
「そうなんですね」
質問をすると途端に歯切れが悪くなったのが気になるけれど、コミュニケーションがあまり得意でない人はこんなものかと星奈は受け流す。
ひとり暮らしの学生の情報がどこかでやりとりされているのなんて珍しくない話だし、ロボットの年齢設定に近いモニターを選ぶというのも納得はいく。
「もちろん、お引き受けいただいた場合はただでとは申しません。それなりの謝礼はご用意させていただいておりますので」
そう言って、真野は星奈の手元の書類を覗き込んで、ある一文を指さした。そこには確かに、「謝礼 三十万円(税込み)」と書いてあった。
三十万円といえば、大学生のバイト代としてはかなりおいしい額だ。ここ最近バイトに行けていなかったことを考えると、欲しい金額ではある。
問題は、モニターの期間だ。
「あの、この『期間 三ヶ月から半年』というのは?」
謝礼について書かれた文の下にあった文言に、星奈は首を傾げた。
「ああ。それは最長でも半年ということで、それより前に情報の収集が完了すれば回収するということです」
「それなら、この三ヶ月は最短期間ということですね」
三ヶ月で三十万円か、半年で三十万円か。これはずいぶん違ってくる。どちらにしても、おいしい金額ではあるけれど。
まどろみと覚醒を繰り返し、深くは眠れていない。そんな日々を過ごしているから、疲れが取れなくて些細な物音でも目が覚めてしまうのだ。
もう何日も、まともに眠っていない。食事もほとんど摂っていない。
今日が何曜日で、今がいつなのかも、あまりわかっていない。
電気はつけず、カーテンを閉め切っていて、外界の変化をあまり感じないからだ。
朝起きて、カーテンを開けて一日を始めて、三食きちんと食べてまた眠るという健康的で当たり前な生活は、星奈の世界から失われてしまったかのようだ。恋人の瑛一と一緒に。
瑛一が死んだ。
そのことが星奈を蝕み、立ち上がれなくさせている。
事故の知らせを受けて病院にかけつけて、通夜と葬式に出てからの数日間は、泣き暮らしていてもまだ人間らしい生活ができていた。周囲の人間たちが、星奈がどうにかなってしまわないようにと気を配り、何くれと世話をしてくれていたから。
けれども、ひと度もとの生活を始めようとするとだめだった。
日常に帰ってくると彼の不在を生活のあちらこちらでまざまざと実感し、それがひとつひとつ、星奈を打ちのめした。
おはようやおやすみといった、ささいなメッセージが届かないこと。ふとしたときに視界に入る、彼が部屋に置き忘れていった雑誌やちょっとした衣服。夕飯の支度をしようとして、彼も食べるだろうかと考えてしまう瞬間。
ささやかな、それでいてこれまで降り積もるように星奈の世界を少しずつ彩り幸福に変えていったものたちが、彼の不在によってごっそりと消え去ったのだ。
そのことに気づいたとき、星奈は一歩も部屋から出ることができなくなった。
部屋から出れば、そこはひとり暮らしの学生たちが多く暮らす街だ。十分も歩けば、大学にもたどり着く。
星奈も瑛一も県外からやって来たひとり暮らし組で、わりと近いところに住んでいた。だから同棲はしないまでもよく互いの部屋を行き来していて、周辺の景色にはすべて思い出がある。
生きていた頃は当たり前の日常の風景で、それが思い出になるなんて思っていなかった。死んだときから思い出に変わってしまって、そしてその中にどれだけ瑛一を探しても、彼はもういない。この世界の、どこにも。
彼と似たような姿をした大学生は、たくさん歩いているのに。彼が暮らしていたアパートは、変わらない姿で存在しているのに。
そのことに気づいた瞬間、星奈はもう立っていられなくなった。
亡くなってから少し時間が経ったからこそ、はっきりと瑛一の不在を感じてしまった。彼がもう二度と帰って来ないことも、悲しいくらい理解できてしまった。
それから星奈は今のように、眠らず食事も摂らず、ただ息をしてわずかな水分を摂取するだけで生きていた。
生きているというよりも、死なずに、ただ過ごしているだけとも言える。
「……なに?」
ぼんやりとした頭でインターホンの音を聞いて、星奈は突っ伏していた身体を起こした。しっかりと横になる気力もなく、最近はこうしてベッドにもたれかかるようにして眠っている。あまりそういった欲求はわかないけれど、水を飲みたいときやトイレに行きたいとき、この姿勢から立ち上がるほうが楽なのだ。
インターホンは何度も繰り返し鳴らされ、しまいには「お荷物でーす」という声まで聞こえたから、仕方なく星奈は立ち上がった。踏み込む足に力が入らなくてよろよろとしてしまったけれど、1Kのアパートだから寝室から出れば数歩で玄関だ。
「……はい」
「すみませーん。わたくしたち、こういう者なのですが」
玄関のドアを開けてそこに立っていたのは、白衣を着た二人組の男とその後ろに隠れるようにしている私服の青年だった。
しまったと思ったときには、白衣の男のひとりがドアの内側に足を滑り込ませていた。これではドアが閉められない。
いつもなら、ドアスコープからきちんと外を確認してからドアを開けるようにしていたのに、迂闊だった。
本来なら予定にない宅配便は受け取りたくないのだけれど、実家が突然何の連絡もなく物を送ってくることがあるから、宅配便業者が来たら応対せざるを得ないのだ。
それにしても、今日はあまりにも迂闊だったと星奈は恨めしく思う。
こんな見るからに怪しい人間が立っていると確認していれば、決してドアを開けることはなかったのに。
怪しげな男たちは名刺を手に、にこやかに星奈を見る。
「人工知能及び人型ロボット研究所……?」
セールスなら少し話を聞いてから追い払ってしまおうと思い差し出された名刺を確認すると、そこにはそんな胡散臭い文字が並んでいた。でも、名刺と白衣の男たちを見比べると、妙に腑に落ちる気もしてしまう。
どちらの男も、どことなくおどおどしていて、あまり視線が合わない。髪の毛もとりあえず梳かしてはいるようでも、手入れが行き届いているとはいえない。
偏見や間違ったイメージだとはわかりつつも、その二人組の様子や姿は、星奈の中の、研究に没頭して俗世から離れてしまっている研究者というもののイメージと一致した。
「我々は、昨今話題になっている人工知能の研究をしておりまして、その人工知能を載せた人型ロボットの開発も進めております。工場や介護の現場では少しずつロボットが参入しておりますし、家庭用の比較的安価な感情認識ヒューマノイドロボットも発売されたのは記憶に新しいと思います。ロボットと人が生活する時代というのが、もうすぐそこまで来ているということなんですよ!」
真野と書かれた名刺を差し出してきた男は、星奈が話を聞く姿勢を見せると途端に話し始めた。
早口で、よく舌が回る。けれどもそれは用意して覚えてきた文章をそのまま吐き出しているという感じで、星奈の頭にはまるで入って来なかった。
「あの、あなた方がロボットの開発に携わっていることはわかりました。それで、ここへ来たのはどのようなご用件ですか……?」
真野が息継ぎをした合間にようやく星奈がそうして口を挟むと、彼の背後で控えていたもうひとりの男が大きく頷いた。
「それはですね、牧村様にぜひ我が社で開発中の人型ロボットのモニターになっていただきたいということなんですよ!」
長谷川と書かれた名刺を差し出してきた男は真野のように早口ではなかったけれど、その代わりにものすごく声が大きかった。
星奈は一瞬驚いてから冷静になって、すぐに青くなった。
「あの、声の大きさを抑えて」
「いえいえ! これは声を大にして言いたいことなのですが! 我が社のロボットは素晴らしいので、ぜひとも一緒に生活して、できればあと一歩及ばない人間らしさの部分について、情報収集させていただければと!」
「……入って!」
星奈の頭にはこの長谷川という声の大きすぎる男を黙らせなければという考えしかなかった。
星奈が暮らしているのは、三階建のこぢんまりとしたアパートだ。築年数が周囲のアパートと比べて浅く、その上よく手入れさせているのがポイントで選んだのだけれど、一緒に選んでくれた両親が気に入ったのは別のことだった。
それは、今どき珍しく大家さんがすぐ隣に暮らしていて、直接この物件を管理していることだ。
入居している学生たちによく気を配り、住み心地がいいようにいろいろ整えてくれる良心的な大家さんだ。
けれども、うるさくすることにはとにかく厳しく、騒音問題で一度目をつけられると、その後は些細な物音でも許されず、暮らしていけなくなるというのが先に住んでいる住人からの情報だった。
「ここ、大家さんが厳しいので、声の大きさに気をつけてください。それと、話は聞きますけど何も買いませんから、ひと通り話したら帰ってください」
ドアを開け放ち、気力を振り絞って星奈は言う。
本当なら一刻も早くこんな変な人たちには帰ってほしいのだけれど、騒がれて大家さんの耳に届いてしまうほうが困ったことになるから耐えることにした。
「どうぞ。狭いですけど、座ってください。……玄関開け放ってるんで、変なことしようとか考えないでくださいね」
変な人たちの前で弱気なところは見せられないと、星奈は毅然とした。もともとは、気の強い性格なのだ。ここ最近、めそめそしていただけで。
星奈が鋭い視線を向けると、真野と長谷川は滅相もないという顔をしてブンブンと首を振りながら部屋の中に入ってきた。その後ろを、私服の若い男がのっそりと続く。
「あの、何か誤解をなさっているようですが、我々は牧村様に何かを売りつけようというわけではないのですよ。あくまで本日は、モニターのお願いに来た次第でして」
食事を摂るときなんかに使っている小さなテーブルの前に腰を下ろすと、真野は機嫌を取るかのように両手をすり合わせつつ言う。その横で、長谷川も笑顔を貼りつけて頷いている。
真野はひょろりとしたマッチ棒のような男で、それとは対称的に長谷川は小柄で丸々としている。その並びはまるで凸凹で、漫画やアニメに出てくる間抜けなコンビのように見える。そういった奴らは悪役でも、大抵小物だ。
そんな凸凹コンビの横で、ぼんやり座っている私服の若い男は異質だった。
「モニターって、どんなことをするんですか?」
その若い男性につい視線を向けつつ、星奈は尋ねた。それが前向きな姿勢に見えたのか、真野と長谷川は前のめりになる。
「簡単に言えば、一緒に暮らした際の感想を定期的に報告していただくことですね。商品として売り出した際には、使用者のご家族として受け入れていただくのがコンセプトですので」
「我々と一緒にいるときは完璧に思えるんですがね、やはり実際に暮らしてみるとまだまだ情緒の欠如があるでしょうから、そのあたりの感想を教えていただきたいのです! 言ってみれば、外国人のホームステイのホストファミリーになっていただく感じですね!」
「はあ……」
真野と長谷川は気の早いことにカバンの中から書類を取り出して、それを星奈の前に差し出した。仕方なく、星奈はそれに目を通す。
「どうして私がモニターなんですか? 使い勝手を見るなら、単身者よりも家族のいる人たちのほうがいいんじゃないですか? それと、私の名前をどこで知ったかも気になるんですけど」
何日もまともに眠らず食事も摂っていない頭では、書類の文章はあまり入ってこなかった。それでも、星奈は気力だけで目を通していき、気になることも尋ねてみた。
「牧村様のことは、まあそういった個人情報を取り扱うところから。学生街ですからね、こう、情報は比較的手に入りやすいのですよ」
「牧村様をモニターに選んだ理由としましては、我々がこの人型ロボットに想定している精神年齢や思考力というのが大学生くらいでして、そのー、同じくらいの歳の頃の方と過ごしたほうが感情の変化などの情報も収集しやすいのではという仮定に基づいての選出です!」
「そうなんですね」
質問をすると途端に歯切れが悪くなったのが気になるけれど、コミュニケーションがあまり得意でない人はこんなものかと星奈は受け流す。
ひとり暮らしの学生の情報がどこかでやりとりされているのなんて珍しくない話だし、ロボットの年齢設定に近いモニターを選ぶというのも納得はいく。
「もちろん、お引き受けいただいた場合はただでとは申しません。それなりの謝礼はご用意させていただいておりますので」
そう言って、真野は星奈の手元の書類を覗き込んで、ある一文を指さした。そこには確かに、「謝礼 三十万円(税込み)」と書いてあった。
三十万円といえば、大学生のバイト代としてはかなりおいしい額だ。ここ最近バイトに行けていなかったことを考えると、欲しい金額ではある。
問題は、モニターの期間だ。
「あの、この『期間 三ヶ月から半年』というのは?」
謝礼について書かれた文の下にあった文言に、星奈は首を傾げた。
「ああ。それは最長でも半年ということで、それより前に情報の収集が完了すれば回収するということです」
「それなら、この三ヶ月は最短期間ということですね」
三ヶ月で三十万円か、半年で三十万円か。これはずいぶん違ってくる。どちらにしても、おいしい金額ではあるけれど。
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