恋愛栽培 ―A Perfect Sky ―

明智紫苑

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本編

脳と子宮

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 3月3日、桃の節句。かつて祖父が初孫の加奈子のために買ってくれたひな人形があるが、一人暮らしの彼女にとっては七段飾りという飾り付けが無理なので、今は押し入れにしまっている。代わりに、ある雑貨屋で買った小さなひな人形を茶の間に飾っている。
 今日の晩ご飯はちらし寿司。もちろん、秀虎に食べさせる。
 二人はテレビのニュースを観ている。スポーツコーナーでは、海外で活躍中の日本人選手を取り上げている。
「それにしても、今の世の中の『スポーツ』というものは実に興味深いな」
「どういう意味で?」
「ひょっとして、今の世の者たちは、戦の代わりにスポーツを楽しんでいるのではないのか?」
 なるほど、サッカーやバスケットボールなどの激しく動く団体競技は特にそうだろう。それに、誰かがこんな皮肉を言っていた。「オリンピックの存在意義は、人間の戦争に対する欲望のはけ口」だというのだ。
「欲望のはけ口か…。人を殺す必要のない『戦』ならば、白起はく きのような者の悲劇もあるまい」
「白起って、始皇帝より昔の秦の将軍でしょ?」
「うむ…お前が話す今の世の話を聞くと、白起の悲劇は今もなお続いているようだな」

 どこかの国は、国民をまとめるために常に「仮想敵」を設定する必要があるらしい。さらに、あるフェミニストの社会学者は「女の女性嫌悪は自己嫌悪だ」と言っていた。
 おそらく世の中の少なからぬ女たちは、必要以上の自己嫌悪に陥らないためにも、常に「自分以外の女」を「仮想敵」に設定する必要がある。さもなくば、自らを憎み過ぎて破滅しかねない。
 女が自分以外の女を憎むのは、必ずしも男の存在が原因とは限らない。むしろ、「男」は他の女たちとの競争で優位に立つための道具に過ぎない。ある精神科医は、女は男より「関係原理」が強いという仮説を立てていたが、「女の敵は女」という慣用句はまさしく、それを逆説的に証明している。
 共感とは、好意だけではない。同族嫌悪・近親憎悪も「共感」に他ならない。女は同性に対して、自らの「影」を見る。だからこそ、「女の敵は女」なのだ。
 かつての加奈子はそれゆえに劣等感の塊だった。ただ、涼子と若菜という愛すべき親友たちが彼女の心の支えになっていた。



伍子胥ご ししょの最期の言葉が白起のようだったならば、後世の史家たちの評価はもっと高かっただろうな」
 呂尚は言う。
 子胥は自らを裏切った主君呉王夫差に対して激しい呪詛を述べて死んでいったが、白起は長平の戦いなどでの自らの大量殺戮を悔やんで自害した。
 しかし、それでも子胥は、白起以上に後世の人々に同情された。何しろ白起は、秦の天下統一における最大の「功労者」だ(ただし、彼の代わりに商鞅しょう おうの名を挙げる者も少なくない)。秦の圧政を快く思わない人間にとっては、白起は伍子胥のような「判官びいき」の対象ではない。
 子胥が自害に用いた剣。それは凄まじい威力を秘めた魔剣だった。それには子胥自身の怨念に基づく魔力も含まれていたが、彼自身が「祟り神」であり続ける必然性がなくなったのに気づいてからも、その威力は変わらなかった。
 子胥が自身の「祟り神であり続ける必然性のなさ」を悟った時点では、すでに呉も越も楚もなければ、秦も漢もなくなっていた。
「秀虎の思いは敵への怨念ではなく、亡き妻への愛情だ。それが奇跡を起こすだろう」
「でも、加奈さん自身は前世の記憶なんてないんでしょ?」
 ブライトムーンは言う。呂尚は微笑む。
「安心せい。二人の互いへの思いは順調に育っている。後は、その時を待つだけだ」

 春の息吹きが湧き上がる。ありとあらゆるものが「萌える」季節がやって来る。みずみずしい恋に落ちる者たちが「生まれる」。
 光と風が希望の糸を導く季節。運命の女神たちが気まぐれでそれらを断たぬように、祈ろう。
 人間は努力をする限り迷うもの。そんな人間たちの努力を阻まぬ「神」とは鷹揚である。
 その頃、加奈子は小説を完成させて、新人賞に応募していた。若菜とさやかは、彼女と涼子を温泉旅行に誘ったが、加奈子は秀虎の世話のために(表向きは別の用事を口実にして)、涼子は仕事の多忙を理由に、それぞれ断った。
 もうすぐ、4月だ。



 現役大学生の倫と小百合は、3年生になった。そろそろ就職活動を真剣に考えなければならない。加奈子はかろうじて、紅葉山のおじさんとおばさんに助けられて働けるようになったのだが、彼女の母校よりランクの高い大学にいるあの二人だって、就職活動はイバラの道だろう。
 高卒者の場合、普通科より「業付き」高校を出ている方が就職活動に有利なようだ。普通科は基本的に、将来デスクワークの職場に就くのを前提にしているのだが、そういう職場は基本的に大卒者を優先する。加奈子はかろうじて、三流女子大に入学して、かろうじて卒業出来たが、以前紅葉山不動産で働いていた女性事務員が寿退職してくれたおかげで、彼女は採用された。彼女は運が悪いようでいて、実はむしろ運が良いのだ。
 加奈子は今日も真面目に、コツコツと電話応対や雑用の仕事をする。今の彼女には秘密の「扶養家族」がいるのだから、なおさら。

「ただいま」
「おかえり」
 秀虎は加奈子が留守の間、ラジオを聴いているが、いつの間にか現代人の加奈子よりずっと現代の音楽に詳しくなっている。そのスポンジが水を吸収するような好奇心は「ファウスト的衝動」だ。
 加奈子は秀虎に現代の知識を教えるために、色々と本を朗読するのが日課になっている。秀虎はスポンジのように、ドンドン知識を吸収している。
「私もヒデさんみたいに頭が良かったらなぁ…」
 加奈子は思う。しかし、今の日本はランクの高い大学を出ても、就職難に翻弄される世の中だ。いわゆる「バブル」の時代に楽々就職出来た人たちの話を聞いても、信じられない。
《もしヒデさんが北条氏か他の有力大名に仕えていれば…いや、こんな事言えない。多分、怒る》
 今の加奈子は生理中だが、何だか全身が麻痺しているような感じで気力がない。なるほど、英語の俗語で「the curse(呪い)」というのには納得がいく。副社長…紅葉山のおばさんは「年をとれば、生理痛は若い頃よりは軽くなる」と言っていたけど、本当だろうか?
 とりあえず、鎮痛剤で何とかしのいでいる。他に稼ぎ手がいない所帯なのだから、生理休暇を取る余裕なんてないのだ。
「昔の加奈も月のものが重かったな…。何も出来なくてすまん」
「ありがとう、ヒデさん」
 秀虎の血管や神経の周りに、徐々に筋肉らしき組織が出来つつある。もしかすると、中には骨格や内臓も出来つつあるのかもしれない。以前見た骨らしき何かがすでにあるのだろう。
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