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episode.79 兎のような猫
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あれから私たちは、砂浜で、自由な時間を過ごした。
みんなでスポーツをしたり、漂着したガラス瓶の中の手紙を読んでみたり、眩しい太陽光を浴びたり。
シブキガニの出現を待っているとは到底思えないような、明るくて楽しい時間だった。
だが、結局シブキガニが姿を現すことはないままに、日は落ちて。私たちは、一人二人だけ見張りを残して、宿へと戻った。
「でね。フランさんとグレイブさんの水着姿を見ることができたの。盛り上がったわ」
「……はぁ。そうですか」
海での自由時間を終え、夜。私は今、ゼーレが寝ているベッドのある、一階の個室にいる。
なぜ私がかというと、トリスタンが帰ったために、ゼーレの様子を見守る者がいなくなったからである。
「どうでもよさそうね」
「えぇ。女性の水着など興味がありません」
ベッドの上で上半身を起こしているゼーレは、どうでもよさそうな声で言った。
私はそれを聞き、何となく意味深な発言だと思ってしまう。だが彼のことだ、単に言葉通りの意味なのだろう。それを意味深だと捉えてしまうのは、私が少しおかしいだけだと思われる。
「それはそうよね。変な話をしてごめんなさい」
「……いえ」
この前ボスに割られた仮面を、彼はいまだに装着している。装着していても顔が半分近く露出しているというのに。それでも着けていたい、ということなのだろうが、私にはよく分からない。
彼の顔を眺めながらそんなことを考えていると、ゼーレが唐突に話かけてくる。
「カトレア……そういえば、トリスタンはどうなったのですかねぇ」
「えっ?」
急だったため、すぐには返事できなかった。
「今日になってからはトリスタンを見かけませんでしたが……彼はどこへ?」
ゼーレの翡翠のような瞳は、私の姿をそっと捉えている。
それにしても、少し意外だ。ゼーレはトリスタンのことなど気にしないものと、当たり前のように思っていたからである。
「トリスタンは帝都の基地へ帰ったわ。疲れているみたいだったから、昨日の夜に『帰った方がいい』って言っておいたのよ」
事の成り行きを簡単に説明すると、ゼーレは翡翠のような目を細めて怪訝な顔をした。
「夜に……彼と会ったのですか? 二人で?」
「えぇ。ちょっと用事があるって、トリスタンが私の部屋を訪ねてきたの」
「……用事?」
ますます訝しむような顔になるゼーレ。
「そうよ。ま、たいした話じゃなかったのだけれど」
このタイミングでこんなことを言えば、ごまかそうとしているかのようだが、これは真実だ。実際、これといった重要な用件があったわけではなかったのだから。
「まったく。相変わらずお人好しですねぇ……。どうしようもない」
「何よ、その言い方」
「貴女がお人好しだと言っているのです」
「だから、どうしてそんなことを言うのよ?」
すると彼は、はぁ、と、わざとらしく大きな溜め息を漏らす。金属製の腕を組み、呆れている感が満載だ。
「トリスタンとて男なのですよ? 何かあったらどうするつもりだったのですかねぇ」
ドキッ!
……いや。あれは忘れるべきことだ。
「貴女はもう少し、男というものを警戒するべきです」
アニタみたいなことを言うなぁ、と、私は密かに思った。
私を長い間雇い続けてくれた、第二の母親とも言えるような女性であるアニタ。彼女も、男性との接し方には、非常に厳しかった。
私が男性の宿泊客と少しでも親しくしていると、彼女はすぐに注意してくる。そして、後から厳しく叱られた。だが、そんな日々も、今や懐かしい。既に過去の思い出である。
「分かりますかねぇ……」
「えぇ。分かるわ。昔から、よく言われてきたもの」
するとゼーレは、ふっ、とさりげなく笑みをこぼす。
少しばかり馬鹿にされているような気もするが、まぁ仕方ない。
「そんなことだと思いました。これからは気をつけるようになさい」
妙に上から目線だが、不思議なことに腹は立たなかった。ゼーレがこんなことを言うのは私の身を案じているからだと、分かっているからだ。
「そうね。貴方の言う通りだわ」
「おや、妙に物分かりが良いですねぇ。不気味。悪いことが起きそうな気がして仕方ありません」
冗談混じりに述べるゼーレ。
何もそこまで言わなくても、という感じはするが、言い返すことはしないでおいた。気まずい空気を作りたくないからだ。
それからも、私はゼーレと細やかな会話を続けた。
朝食が美味しかったことや、海で遊んで楽しかったこと。また、グレイブの水着姿にシンが大興奮していたことなど。
私が話したのは、ゼーレにとってはどうでもいいような内容ばかりだ。しかし、彼にしては珍しく、ちゃんと話を聞いてくれた。不思議なこともあるものだなぁ、と思ったが、穏やかで楽しい時間を過ごすことができて満足だ。
——だが。
そんな穏やかな時間は、そう長く続きはしなかった。
「こーんばーんはっ」
私とゼーレだけしかいなかったはずの部屋に、突如として現れたのは、見知らぬ少女——いや、少年だ。
見た感じは十二歳くらい。背は低めで、頭部からは大きな白色のネコ耳が生えている。ふわふわの短い髪は真っ白、目元を隠すアイマスクサイズの仮面の隙間から見える瞳は真っ赤だ。
一見うさぎのようだが、ネコなのだろうか……。
「貴方は?」
私は恐る恐る尋ねてみた。
というのも、可愛らしい容姿のわりに、ただならぬ殺気を放っていたからである。
すると少年は、屈託のない笑みを浮かべつつ答えてくれる。
「ぼく? えっとねー、ぼくの名前はクロ!」
明るさが逆に不気味だ。
「えへへっ。白いのに変だよねー」
ベッド上のゼーレを一瞥すると、彼も警戒した表情を浮かべていた。それを見て、私は、より一層警戒心を強める。
すると、目の前の少年——クロは、安心させるような笑みを浮かべた。
「もーお姉さんったら。そんなに警戒しなくていーいよっ。だって」
そこまで言って、クロは一瞬言葉を切った。
数秒の空白。
そして、ニヤリと笑った。これまでの純真な笑みとは真逆の、不気味さを感じさせる笑みだ。まるで死神のようである。
「ぼくのお仕事に、お姉さんは関係ないからさっ」
最初は、油断させるさせるためにそんなことを言っているのだと、そう思った。だが、クロの様子を見ている感じ、私を騙そうとしているとは思えない。どうも、本当に私狙いではなさそうだ。
「ならどうしてここへ?」
二度目の質問。
だが、今度は答えてくれなかった。
「お姉さんに話すほどのことじゃなーいよっ」
クロはまた、可愛らしい純真な笑みを浮かべている。
だが、不気味に思えて仕方がない。
リュビエが何度か来たように、私を狙って現れたのなら分かる。そういうことにはもう慣れてきた。けれども、今回の彼は、どうもそうではなさそうである。
「ぼくはただ、お掃除に来ただけなんだよねっ」
刹那、クロはベッド上のゼーレに向かって駆け出した。
——そうか。
駆け出すクロを見て、ようやく気がついた。
クロの狙いが私でないというのなら、彼が狙っているのは、他ならぬゼーレ。この部屋には私とゼーレの二人しかいないのだから、当然ではないか。
「裏切り者は、ちゃーんとお掃除しないとねー」
「ゼーレ!」
ただ叫ぶことしかできなかった。
狙われるのがゼーレのパターンなど、微塵も予想していなかったからである。
みんなでスポーツをしたり、漂着したガラス瓶の中の手紙を読んでみたり、眩しい太陽光を浴びたり。
シブキガニの出現を待っているとは到底思えないような、明るくて楽しい時間だった。
だが、結局シブキガニが姿を現すことはないままに、日は落ちて。私たちは、一人二人だけ見張りを残して、宿へと戻った。
「でね。フランさんとグレイブさんの水着姿を見ることができたの。盛り上がったわ」
「……はぁ。そうですか」
海での自由時間を終え、夜。私は今、ゼーレが寝ているベッドのある、一階の個室にいる。
なぜ私がかというと、トリスタンが帰ったために、ゼーレの様子を見守る者がいなくなったからである。
「どうでもよさそうね」
「えぇ。女性の水着など興味がありません」
ベッドの上で上半身を起こしているゼーレは、どうでもよさそうな声で言った。
私はそれを聞き、何となく意味深な発言だと思ってしまう。だが彼のことだ、単に言葉通りの意味なのだろう。それを意味深だと捉えてしまうのは、私が少しおかしいだけだと思われる。
「それはそうよね。変な話をしてごめんなさい」
「……いえ」
この前ボスに割られた仮面を、彼はいまだに装着している。装着していても顔が半分近く露出しているというのに。それでも着けていたい、ということなのだろうが、私にはよく分からない。
彼の顔を眺めながらそんなことを考えていると、ゼーレが唐突に話かけてくる。
「カトレア……そういえば、トリスタンはどうなったのですかねぇ」
「えっ?」
急だったため、すぐには返事できなかった。
「今日になってからはトリスタンを見かけませんでしたが……彼はどこへ?」
ゼーレの翡翠のような瞳は、私の姿をそっと捉えている。
それにしても、少し意外だ。ゼーレはトリスタンのことなど気にしないものと、当たり前のように思っていたからである。
「トリスタンは帝都の基地へ帰ったわ。疲れているみたいだったから、昨日の夜に『帰った方がいい』って言っておいたのよ」
事の成り行きを簡単に説明すると、ゼーレは翡翠のような目を細めて怪訝な顔をした。
「夜に……彼と会ったのですか? 二人で?」
「えぇ。ちょっと用事があるって、トリスタンが私の部屋を訪ねてきたの」
「……用事?」
ますます訝しむような顔になるゼーレ。
「そうよ。ま、たいした話じゃなかったのだけれど」
このタイミングでこんなことを言えば、ごまかそうとしているかのようだが、これは真実だ。実際、これといった重要な用件があったわけではなかったのだから。
「まったく。相変わらずお人好しですねぇ……。どうしようもない」
「何よ、その言い方」
「貴女がお人好しだと言っているのです」
「だから、どうしてそんなことを言うのよ?」
すると彼は、はぁ、と、わざとらしく大きな溜め息を漏らす。金属製の腕を組み、呆れている感が満載だ。
「トリスタンとて男なのですよ? 何かあったらどうするつもりだったのですかねぇ」
ドキッ!
……いや。あれは忘れるべきことだ。
「貴女はもう少し、男というものを警戒するべきです」
アニタみたいなことを言うなぁ、と、私は密かに思った。
私を長い間雇い続けてくれた、第二の母親とも言えるような女性であるアニタ。彼女も、男性との接し方には、非常に厳しかった。
私が男性の宿泊客と少しでも親しくしていると、彼女はすぐに注意してくる。そして、後から厳しく叱られた。だが、そんな日々も、今や懐かしい。既に過去の思い出である。
「分かりますかねぇ……」
「えぇ。分かるわ。昔から、よく言われてきたもの」
するとゼーレは、ふっ、とさりげなく笑みをこぼす。
少しばかり馬鹿にされているような気もするが、まぁ仕方ない。
「そんなことだと思いました。これからは気をつけるようになさい」
妙に上から目線だが、不思議なことに腹は立たなかった。ゼーレがこんなことを言うのは私の身を案じているからだと、分かっているからだ。
「そうね。貴方の言う通りだわ」
「おや、妙に物分かりが良いですねぇ。不気味。悪いことが起きそうな気がして仕方ありません」
冗談混じりに述べるゼーレ。
何もそこまで言わなくても、という感じはするが、言い返すことはしないでおいた。気まずい空気を作りたくないからだ。
それからも、私はゼーレと細やかな会話を続けた。
朝食が美味しかったことや、海で遊んで楽しかったこと。また、グレイブの水着姿にシンが大興奮していたことなど。
私が話したのは、ゼーレにとってはどうでもいいような内容ばかりだ。しかし、彼にしては珍しく、ちゃんと話を聞いてくれた。不思議なこともあるものだなぁ、と思ったが、穏やかで楽しい時間を過ごすことができて満足だ。
——だが。
そんな穏やかな時間は、そう長く続きはしなかった。
「こーんばーんはっ」
私とゼーレだけしかいなかったはずの部屋に、突如として現れたのは、見知らぬ少女——いや、少年だ。
見た感じは十二歳くらい。背は低めで、頭部からは大きな白色のネコ耳が生えている。ふわふわの短い髪は真っ白、目元を隠すアイマスクサイズの仮面の隙間から見える瞳は真っ赤だ。
一見うさぎのようだが、ネコなのだろうか……。
「貴方は?」
私は恐る恐る尋ねてみた。
というのも、可愛らしい容姿のわりに、ただならぬ殺気を放っていたからである。
すると少年は、屈託のない笑みを浮かべつつ答えてくれる。
「ぼく? えっとねー、ぼくの名前はクロ!」
明るさが逆に不気味だ。
「えへへっ。白いのに変だよねー」
ベッド上のゼーレを一瞥すると、彼も警戒した表情を浮かべていた。それを見て、私は、より一層警戒心を強める。
すると、目の前の少年——クロは、安心させるような笑みを浮かべた。
「もーお姉さんったら。そんなに警戒しなくていーいよっ。だって」
そこまで言って、クロは一瞬言葉を切った。
数秒の空白。
そして、ニヤリと笑った。これまでの純真な笑みとは真逆の、不気味さを感じさせる笑みだ。まるで死神のようである。
「ぼくのお仕事に、お姉さんは関係ないからさっ」
最初は、油断させるさせるためにそんなことを言っているのだと、そう思った。だが、クロの様子を見ている感じ、私を騙そうとしているとは思えない。どうも、本当に私狙いではなさそうだ。
「ならどうしてここへ?」
二度目の質問。
だが、今度は答えてくれなかった。
「お姉さんに話すほどのことじゃなーいよっ」
クロはまた、可愛らしい純真な笑みを浮かべている。
だが、不気味に思えて仕方がない。
リュビエが何度か来たように、私を狙って現れたのなら分かる。そういうことにはもう慣れてきた。けれども、今回の彼は、どうもそうではなさそうである。
「ぼくはただ、お掃除に来ただけなんだよねっ」
刹那、クロはベッド上のゼーレに向かって駆け出した。
——そうか。
駆け出すクロを見て、ようやく気がついた。
クロの狙いが私でないというのなら、彼が狙っているのは、他ならぬゼーレ。この部屋には私とゼーレの二人しかいないのだから、当然ではないか。
「裏切り者は、ちゃーんとお掃除しないとねー」
「ゼーレ!」
ただ叫ぶことしかできなかった。
狙われるのがゼーレのパターンなど、微塵も予想していなかったからである。
応援ありがとうございます!
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