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23話「リベルテの安堵と呼び出し」
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「えぇ、そうだと思うわ」
事情を何も知らずにいたあの時でも母親だと分かったのだ、今分からないわけがない。
写真の中の彼女は私の母親。これは間違いないと言って問題ないだろう。
「君に贈ったその青いブローチは、幼い私が彼女から貰ったもの。それゆえ、君がそのブローチに反応した時は、正直驚いた。だが、きっとそうなる運命だったのだろうな。持つべき者のところへ帰った、ということだ」
母親を思い出せる物は何一つ残せなかった。そう思っていた。でもそれは真実ではなくて。このブローチが元々は母親の持ち物だったのだとしたら、それは、母親が遺した唯一の物となる。もちろん、私は除いて、だが。
懐かしい空の色と、母親の記憶。
それが手のうちにあるのだと思うと、なんだか嬉しくて。
「……そうだったのね、嬉しいわ」
心が震える。
いつ以来だろう、こんな気分になるのは。
もちろん、母親が生き返るわけではないし、長年暮らした村へ戻ることができるわけでもない。それなのに、今はただ、胸の奥に一筋の光が差し込んでいる。
母親を失ってから、私は多くのものを捨てた。
物理的な物だけじゃない。いくつもの感情も、だ。
でも、少しずつではあるけれど蘇ってくる感覚がある。三年前のあの日までは持っていた心が、息を吹き返す。胸の内を閉ざしていた氷が、母親との懐かしい記憶という陽の光を浴びて、徐々に溶け始めた。
「嬉しい、だと……? 馬鹿な。気が狂いでもしたか」
ウィクトルは眉間をぴくぴくと動かし怪訝な顔をする。
「いいえ。この気持ちは本物よ」
「復讐心を燃やすこともせず、むしろ喜んでいるとは、理解できない」
「そうね……私も憎しみを募らせそうになった瞬間はあったわ。でも、母さんはきっと、復讐を望まない。母さんなら言うと思うの、『そんなことに囚われるな』って……」
負の感情とは凶悪な寄生虫のようなもの。ある時は炎のように燃え盛り、ある時は刃のように刺し貫く。しかし、それでも消えることはなく。蠢き続けたその果てに、やがて宿主自身も食い殺してしまう。
「だから、私は復讐はしない」
ウィクトルが傷ついたら。あるいは、もし私が彼を殺めたら。
母親の仇は取れるかもしれないが、また悲しむ人が出る。
少なくとも、リベルテやフーシェは、ウィクトルの死を嘆き悲しむだろう。
その時点で既に私とウィクトルだけの問題ではなくなる。二人の間のいざこざに、二人以外の者まで巻き込まれる形になるということだから、おかしな話だ。
「ウィクトルのこと、聞かせてくれてありがとう」
そう言って、私は彼に微笑みかける。
どうかしてる——そんな風に思われるかもしれないという不安がないわけではない。
でも、私は選んだ。ここで新たな人生を始めることを。どこかで死を選ぶこともできたわけだが、私は生きてゆく道を選択した。なら、前向きに生きてゆける方が幸せだろう。憎悪に支配され生き続けるより、僅かにでも希望を見出しながら生きる方が、楽しいに決まっている。
「それと、母さんとのことを聞かせてもらえて良かったわ」
「……調子が狂うな、そのようなことを言われると」
ウィクトルはまだ訝しむような顔をしていた。
彼には私の心は理解できなかったのかもしれない。
「な! それは誠でございますか!?」
その日の晩、入浴を終えてフーシェの近くで寝巻きに着替えていたら、パーテーションの向こう側からリベルテの声が聞こえてきた。リベルテはかなり驚いているようで、室内に響き渡るような大きな声だった。
「そうだ。彼女に話した」
「そ、それで……どうなったので……?」
「復讐はしない。そう言っていた」
フーシェは自分用のベッドに仰向きに横たわり、天井をぼんやりと眺めている。
それにしても、少し離れたところで自分の話をされているというのは実に気になるものだ。悪い話ではないから不快感はないけれど。ただ、どうしても耳を澄ましたくなってしまう。遠くからこっそり聞くというのは失礼かもしれないと思いながらも、つい聞き耳を立ててしまった。
「そ、そうでございましたか……それは良かったです」
リベルテは安堵したような声を漏らしていた。
やはり復讐なんてできない。リベルテには危ういところを助けてもらった恩があるから、余計に、彼を悲しませるようなことはできそうにないのだ。
「……ウタ、本気で言ったの」
「え?」
フーシェが唐突に尋ねてきた。
「復讐はしない、なんて」
どうやらフーシェも、パーテーションの向こう側で行われているウィクトルとリベルテの会話を、しっかり聞いていたようだ。
「え……えぇ、もちろんよ。乱暴なことはしないわ」
「……信じられない」
「フーシェさんは私をまだ疑って?」
「……ごめんなさい。やはり……まだ完全には信頼できない」
彼女は疑い深いようだ。
もっとも、私は地球人だから、すぐに信頼してもらえないのも仕方ないのかもしれないが。
それから十日ほどが経ち、ウィクトルの体調はほぼ完全に回復した。
担当の医師からは、もうベッドに横たわっていなくて良い、と告げられたそうだ。
「主、体調はいかがでございますか?」
「問題ない」
そして今日は久々の用事がある。この国の皇帝であるイヴァンのところへ行く、という用事だ。
リベルテから聞いた話によれば、イヴァンから呼び出しを受けたのは数日前らしい。しかし、ウィクトルの体調がまだ回復しきっていなかったため、数日遅らせてもらったとか。イヴァンが数日遅らせてくれたというのが驚きだが、リベルテが言うのだから事実なのだろう。
「本日イヴァン様のもとへ行かれるのは主とウタ様だけでございますが、リベルテは、終わられるまで近くでお待ちしております」
……そう、呼び出しの対象はウィクトルだけではない。
イヴァンが呼び出したのは、私とウィクトルだった。
リベルテとフーシェの同行はなしで、二人で、イヴァンに会いに行かねばならない。
事情を何も知らずにいたあの時でも母親だと分かったのだ、今分からないわけがない。
写真の中の彼女は私の母親。これは間違いないと言って問題ないだろう。
「君に贈ったその青いブローチは、幼い私が彼女から貰ったもの。それゆえ、君がそのブローチに反応した時は、正直驚いた。だが、きっとそうなる運命だったのだろうな。持つべき者のところへ帰った、ということだ」
母親を思い出せる物は何一つ残せなかった。そう思っていた。でもそれは真実ではなくて。このブローチが元々は母親の持ち物だったのだとしたら、それは、母親が遺した唯一の物となる。もちろん、私は除いて、だが。
懐かしい空の色と、母親の記憶。
それが手のうちにあるのだと思うと、なんだか嬉しくて。
「……そうだったのね、嬉しいわ」
心が震える。
いつ以来だろう、こんな気分になるのは。
もちろん、母親が生き返るわけではないし、長年暮らした村へ戻ることができるわけでもない。それなのに、今はただ、胸の奥に一筋の光が差し込んでいる。
母親を失ってから、私は多くのものを捨てた。
物理的な物だけじゃない。いくつもの感情も、だ。
でも、少しずつではあるけれど蘇ってくる感覚がある。三年前のあの日までは持っていた心が、息を吹き返す。胸の内を閉ざしていた氷が、母親との懐かしい記憶という陽の光を浴びて、徐々に溶け始めた。
「嬉しい、だと……? 馬鹿な。気が狂いでもしたか」
ウィクトルは眉間をぴくぴくと動かし怪訝な顔をする。
「いいえ。この気持ちは本物よ」
「復讐心を燃やすこともせず、むしろ喜んでいるとは、理解できない」
「そうね……私も憎しみを募らせそうになった瞬間はあったわ。でも、母さんはきっと、復讐を望まない。母さんなら言うと思うの、『そんなことに囚われるな』って……」
負の感情とは凶悪な寄生虫のようなもの。ある時は炎のように燃え盛り、ある時は刃のように刺し貫く。しかし、それでも消えることはなく。蠢き続けたその果てに、やがて宿主自身も食い殺してしまう。
「だから、私は復讐はしない」
ウィクトルが傷ついたら。あるいは、もし私が彼を殺めたら。
母親の仇は取れるかもしれないが、また悲しむ人が出る。
少なくとも、リベルテやフーシェは、ウィクトルの死を嘆き悲しむだろう。
その時点で既に私とウィクトルだけの問題ではなくなる。二人の間のいざこざに、二人以外の者まで巻き込まれる形になるということだから、おかしな話だ。
「ウィクトルのこと、聞かせてくれてありがとう」
そう言って、私は彼に微笑みかける。
どうかしてる——そんな風に思われるかもしれないという不安がないわけではない。
でも、私は選んだ。ここで新たな人生を始めることを。どこかで死を選ぶこともできたわけだが、私は生きてゆく道を選択した。なら、前向きに生きてゆける方が幸せだろう。憎悪に支配され生き続けるより、僅かにでも希望を見出しながら生きる方が、楽しいに決まっている。
「それと、母さんとのことを聞かせてもらえて良かったわ」
「……調子が狂うな、そのようなことを言われると」
ウィクトルはまだ訝しむような顔をしていた。
彼には私の心は理解できなかったのかもしれない。
「な! それは誠でございますか!?」
その日の晩、入浴を終えてフーシェの近くで寝巻きに着替えていたら、パーテーションの向こう側からリベルテの声が聞こえてきた。リベルテはかなり驚いているようで、室内に響き渡るような大きな声だった。
「そうだ。彼女に話した」
「そ、それで……どうなったので……?」
「復讐はしない。そう言っていた」
フーシェは自分用のベッドに仰向きに横たわり、天井をぼんやりと眺めている。
それにしても、少し離れたところで自分の話をされているというのは実に気になるものだ。悪い話ではないから不快感はないけれど。ただ、どうしても耳を澄ましたくなってしまう。遠くからこっそり聞くというのは失礼かもしれないと思いながらも、つい聞き耳を立ててしまった。
「そ、そうでございましたか……それは良かったです」
リベルテは安堵したような声を漏らしていた。
やはり復讐なんてできない。リベルテには危ういところを助けてもらった恩があるから、余計に、彼を悲しませるようなことはできそうにないのだ。
「……ウタ、本気で言ったの」
「え?」
フーシェが唐突に尋ねてきた。
「復讐はしない、なんて」
どうやらフーシェも、パーテーションの向こう側で行われているウィクトルとリベルテの会話を、しっかり聞いていたようだ。
「え……えぇ、もちろんよ。乱暴なことはしないわ」
「……信じられない」
「フーシェさんは私をまだ疑って?」
「……ごめんなさい。やはり……まだ完全には信頼できない」
彼女は疑い深いようだ。
もっとも、私は地球人だから、すぐに信頼してもらえないのも仕方ないのかもしれないが。
それから十日ほどが経ち、ウィクトルの体調はほぼ完全に回復した。
担当の医師からは、もうベッドに横たわっていなくて良い、と告げられたそうだ。
「主、体調はいかがでございますか?」
「問題ない」
そして今日は久々の用事がある。この国の皇帝であるイヴァンのところへ行く、という用事だ。
リベルテから聞いた話によれば、イヴァンから呼び出しを受けたのは数日前らしい。しかし、ウィクトルの体調がまだ回復しきっていなかったため、数日遅らせてもらったとか。イヴァンが数日遅らせてくれたというのが驚きだが、リベルテが言うのだから事実なのだろう。
「本日イヴァン様のもとへ行かれるのは主とウタ様だけでございますが、リベルテは、終わられるまで近くでお待ちしております」
……そう、呼び出しの対象はウィクトルだけではない。
イヴァンが呼び出したのは、私とウィクトルだった。
リベルテとフーシェの同行はなしで、二人で、イヴァンに会いに行かねばならない。
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