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#031 Estremo Ⅱ
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東京都・26歳男性「アイツだけは本当に無理。生理的に無理。DNAが拒絶してる。大人だから我慢しろとか無理。多分、すぐ手が出る。嫌い。無理。一刻も早くウィーンにお帰り願いたいんだが」
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レオポルトの檻房は看守達の部屋と同じ作りをしており、家具の類は一式揃えられている。小型のハンネス機関が設置されており、室内のちょっとした家電も自由に使えるようになっていた。
およそ受刑者の住む環境とは思えないその快適さは、それまで囚人達の王として君臨していた彼がいかに特別扱いをされてきたのかを物語っている。
見慣れた天井が視界に入ると、ゆっくりと上体を起こしたレオポルトは首の痛みに思わず顔を歪める。枷を繋いでいたはずの鎖が切れたのは偶然などではない。では、一体何故……。
思考を巡らせている間に扉が開き、看守達を従えた京哉が満面の笑みでレオポルトの部屋にズカズカと入ってきた。
「お目覚めのようだねェ……今どんな気持ちィ?」
ニヤニヤしながら顔を覗き込んでくる彼を睨みつけたレオポルト。真新しい囚人服に着替えていた京哉は、丁寧に怪我の手当てまでされていた。
「最悪だな。目の前でハエがチラチラ飛んでやがる」
「え?頭打った?幻覚見えてるなんて打ちどころ悪かったんじゃない?」
いちいち癇に障る言い方をする京哉を再度睨み付けたレオポルトだったが、ふと諦めたようにフッと息を吐いてベッドに横たわった。
「……何が目的だ?」
低い声で唸ると、京哉はベッド脇のスツールに腰掛ける。そして目配せをすると察したレオポルトが看守達を部屋の外にはけさせた。
「何故、目的があると思った?」
気怠そうに顔を摩るレオポルトに尋ねると、彼は鼻で笑いながら返す。
「…この国のボンクラ警察なんかに捕まるタチじゃねぇだろ」
「じゃあ、捕まってるアンタはボンクラ以下って事になっちゃうけど?」
すると、レオポルトは遠い目をして天井を見つめた。何か理由がある事はわかるが、聞き出せる雰囲気では無いし大体京哉にとっては必要の無い情報ではあった。
「まぁ、アンタの読みは全部当たってんだけどさ……僕はピョトルクフに収監されてるある囚人に用があって来た。ウィリアム・ハンネスの妻……何処にいるのか心当たりはあるか?」
ハンネスの名を聞いたレオポルトは、目を丸くした。
「ハンネス…テメェ、あのバアさんに会いに来たのか」
どうやら聞く相手は彼で正しかったようだ。何かしらの情報を持っていると踏んだ京哉は、身を乗り出して尋ねた。
「もしかして知り合い?少し話をするだけで良いんだけど、会えないかなって思って…」
期待で満ちた眼差しで問う京哉を見て、レオポルトは長い溜息をつきながら首を横に振った。
「残念ながら、会うのは無理だな。特別室とやらに閉じ込められているとマルツェルから聞いたことがある」
特別室…きっと特殊なセキュリティを配備した監房であることは安易に予想できる。
「アンタには所長も頭が上がらないって聞いてる。何とかならない?」
「…フン……アイツがただのお飾り所長とでも思ったか?それなら考えを改めるこったな」
レオポルト曰く、マルツェルには裏の顔があり闇社会と深く繋がりがあるのだという。刑務所内での自由な生活を与える代わりに、受刑者達を統率させる役割を果たすように言われているレオポルト。彼がふと天井の一角を指差した。その先にはスプリンクラーのような金具が見える。
「アイツが本気で俺を殺したくなったら、寝てる間にあそこから毒ガスを注入しておしまいだ。察しは悪いが馬鹿じゃあねぇ。アイツを騙してバアさんに会うなら、それなりの設定や理由が必要になる」
光は見えてきたが、面倒事は山積であった。どうやってハンネスの妻に会う口実を作ろうかと悩んでいる最中、檻房の扉がノックされて当の本人の声が響いた。
「レオポルト、何があったんですか!?看守達に聞いてもだんまりだ!お前に直接聞けと!」
マルツェルの声を聞いてベッドから飛び上がったレオポルトは、とりあえず隠れろと京哉を布団の中に潜り込ませた。
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「一体何なんです?篩い分けの結果は!?」
「あぁ…それは」
事情を知らないマルツェルが不服そうな表情で問いただす中、レオポルトが取り繕おうと口を開く。
すると、その瞬間に京哉が隠れている布団の方からクシャミが聞こえ、マルツェルの視線はそちらに移される。
ゆっくりとした足取りでベッドに近付くと、一気に布団を取払ったマルツェルはまさかの失態に顔を強張らせていた京哉を発見してしまった。
「……お前は昨日の……レオポルト、どういう事ですか?」
当然の疑問に頭を掻いて悩む大男を目にした京哉は、慌てて口を開いた。
「あ!えっと……篩い分けってやつで僕がビリになりまして……新しい奴隷です、はい……」
ははは~と気の抜けるような笑いを見せる京哉を訝しげに睨んだマルツェルは、胸ポケットから小型の端末を取り出した。指先で液晶画面の上をなぞっていくと、ふと手を止めて京哉とレオポルトを交互に見やる。
「……レオポルト…あなた、ソッチだったんですか」
「………は?」
マルツェルの問いの意味がわからずポカンとしているレオポルト。そっと立ち上がった京哉は、マルツェルが手に持つ端末の画面を背後から静かに覗き見た。それは受刑者リストであり、名前と罪状が一覧表になっている。そこで全てを察した京哉は、マルツェルがとんでもない勘違いをしている事に気が付いた。
「しょ、所長さん…?あのですね…僕はホントそういうんじゃ…」
咳払いをして京哉の言葉を遮ったマルツェルは、端末を胸ポケットにしまって足早に檻房から姿を消してしまった。ゆっくりと顔を京哉の方に向けたレオポルトが、どういう事だと説明を求める。
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マルツェルから看守達には緘口令が敷かれた。何者にも口外しないように、と。8931番と同様の手で囚人の王に取り入る輩が出てくれば、刑務所内のパワーバランスが崩れてしまうから、という理由でのマルツェルの発言であったが、それを聞いた看守達は間違いなく曲解しているだろう。
篩い分けで奴隷に落とされた筈の人間に王があっけなく負けた事は他言するな、そう捉えているようだった。実際、看守達からレオポルトへの態度は変わらず彼の王たる地位は脅かされる事はなかった。
ただ一人、泣いていたのは京哉である。
「僕ね、違うんですよ。そういう設定なんですよ。この刑務所に入る為の…。わかってくれますよね、レオポルトさん!?」
「……わかった…わかったから離れろ…。こっちだってマルツェルの野郎に変な勘違いされ続けられんのは御免だ」
泣き付く京哉を引き剥がしたレオポルトは、彼を自分の檻房から摘み出した。
「テメェが消えれば、誤解もクソも無くなる。バアさんに会えれば良いんだろ?……何とかする」
その言葉を聞いた瞬間、本当に!?と明るい笑顔を見せた京哉が歓喜のあまり抱きついてこようとするのを足蹴にして追い返し、レオポルトは慌てて看守を呼び出して元の牢に連れていくように命令していた。
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屋内と屋上とを隔てる扉を開け放ったのは、スーツの男であった。グレーの短髪をオールバックに撫で付けた彼は、一歩、また一歩とコンテナルームの方に近付いてくる。
壁に設置されたスイッチが押され明かりが灯った瞬間、心電図を計測する機器が縦に連なったユニットを槍のように突き出した鬼頭。
「行け!麗慈!」
鬼頭の合図でフルハーネスを装着した宮地をビルの端から突き飛ばした麗慈は、自分も続いて床を蹴る。ワイヤーロープに引っ掛けたカラビナが滑り、隣のビルへと移った。
二人が無事に脱出した様子を確認した鬼頭。何事もなかったかのように立っている男と対峙する。屋上に置かれていた木の廃材の束を持ち上げて男に投げ付けるが、避けられてしまったのか無傷のままであった。
男が異端の人間なら何かしら異能を持つ可能性はある。慎重に身構えた鬼頭は、再び開け放たれた下階からの扉の方を目だけで確認した。
息を切らしたナツキが白い燕尾服姿で現れ、男の位置を把握しながら鬼頭の方に躙り寄る。
「一般人は?」
「それが…人っこ一人見当たらねぇ。オレに絡んできた居酒屋のバァさんもどっかに消えちまった」
武器を持たないナツキと、異能を持たない鬼頭。対して、能力値不明な敵。どう戦えば良いか悩む中、ナツキが再び口を開いた。
「アイツ…なんかおかしい感じがした。一回掴まれたがなんて言うか……掴まれた感じがしないというか……攻撃もまるで当たらないし」
「掴まれた感じがしない?何だそりゃ…」
正面に立つスーツ姿の男。次の動きを見極めようと目を凝らすが、一向に動く気配を見せない。
その時、イヤーモニターが着信していることを知らせるバイブレーションを感知した二人は同時にミュートを解除した。
『お前らなにやってんだ!コンテナの上見ろ!』
鼓膜を震わせた麗慈の声で振り返った鬼頭とナツキ。強い風が吹いて目の前の靄のように澱んだ空気が一気に晴れると、今まで全く感知できていなかったコンテナの上の人影に気が付く。
しかし、そこにいたのはパーカーのフードを目深に被った短パン姿の少年。パイプ椅子に腰掛け、チェロを構えていた。
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隣のビルの屋上に移った麗慈は、鬼頭達の不審な動きを見てすぐさま襟元の小型マイクを手に取って叫んだ。
そして、すぐに床に転がっていた筈の宮地の姿がどこにも見当たらない事に気がつく。ワイヤーにカラビナが引っかかったままのフルハーネス。ビルの下に落下した可能性は低い。
暫く周囲を捜索するが、やはり宮地はどこにもいなかった。あの衰弱具合で音もなく消えるのは不可能であり、第一その必要がどこにも無い。
困惑する麗慈のイヤーモニターが着信を受けると、聞こえてきたのは道夫の声であった。
「…わ、若乃宮さん…ぼく、心配になってしまって……どうしても話しておかなくちゃと思いまして…」
今それどころではないと思いながらも、生返事を返しながら宮地の捜索を続ける麗慈。
「………ナツキさん、いきなり慌て出したと思ったらいきなり転んで頭ぶつけて……誰もいない筈なのに銃を撃ち始めたりして……男がどうのと話し始めた時、ぼくには何も見えなかったので恐ろしくなってしまって…」
声を震わせながら必死にそう伝えてくる道夫の声に、麗慈は動きを止めた。
「……ちなみに、今は何が見える?」
『えぇと…鬼頭さんと…コンテナの上に楽器を持った男の子が…』
道夫の回答を聞いた麗慈はすぐさまPHSを取り出してフユキに連絡を試みる。しかし、一向に応じる様子はなく、続いて託斗の番号にかけ始めた。
暫く続いた電子音の後、やっと通信が繋がる。
『はいはーい、右神ですー。どうかしたのかな?』
いつも通りの気の抜けるような託斗の声色。麗慈はそれを聞くや否やすぐに通話を終了させた。
「コレで良いんだろ、えぇと…どちらさんだっけ?」
託斗の耳元からPHSを遠去けたそのスーツの男は、ニコリと笑いながらそれを床に放り投げる。落下した衝撃で響いたプラスチックの軽い音に続き、床に踏みつけられた事により潰された端末が靴底でジャリっと小さく鳴った。
その様子を見つめていたフユキと祐介は神妙な面持ちでその視線を上げる。
ナツキ達が雑居ビルの調査に向かって1時間程が経過した頃、突如フロアの明かりが消えて一瞬暗闇に包まれた。ババ抜きを続けていた為一箇所に集まっていた託斗、フユキ、祐介の三人は電気が復旧した時にその侵入者の存在に気がつく。
グレーの短髪をオールバックに撫で付けた、スーツ姿の外国人。
容貌は道夫が雑居ビルで見た男そのままだった。首からストラップで吊るしたバンジョー、その弦は微かに震えており既に何らかの先手を打たれている可能性が高い。
「ご無沙汰しております、ミスターウガミ」
ドイツ語でそう話しかけてきた外国人は、どうやら託斗と面識があるような口ぶりだった。しかし、話し掛けられた本人は首を大きく傾けている。
「んー…どちらさん?」
「酷いですねぇ…前に一度、勧誘させていただいたじゃないですか」
勧誘?と復唱した託斗は、自分の手足が鉛のように重くなっている事に気が付いた。チラッと横目で確認したフユキと祐介も同じような状況で、困惑した表情を浮かべている。
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覚えていないと言い張る託斗に、男は溜め息をついて肩を竦ませた。
「異端の指示役をしております、コードネーム、ミゲルですよ。どうです?思い出しましたか?」
異端、そして指示役という単語に、フユキと祐介は目を見開いた。敵の大幹部が、わざわざ出向いていると言うのだ。
「あー…なんか少し思い出した気がする。僕にフラれたからって、他の作曲家雇って盗作作らせてんだ。やだやだ、執念深い男って大っ嫌い」
べーっと下を出した託斗を見て、ミゲルはくつくつと静かに笑った。
PHSも壊され、調査に行った部隊がすぐに帰ってくる見込みは断たれてしまった。可能な限り時間稼ぎをしようと試みるが、ミゲルにはどうやら全てお見通しのようである。
「楽団が嫌いなら僕の事だって嫌いだろ?何でそんなに拘るのさ?」
「時間稼ぎが見え見えですよ、ミスターウガミ。彼らはもう間に合わない。さあ、一緒に我々の元に向かいましょう。……貴方が望む世界を作る為に」
託斗の方にスッと手を伸ばしたミゲル。
そして、何か違和感に気が付いた彼が手を止めた瞬間にフロアの床全体が冷気に覆われた。ツララが床から迫り出し、ミゲルの腕を掠めて血が飛ぶ。
慌てて振り返った彼目掛けて、床から伸びたツララが次々に襲いかかっていく。そして、一歩後退したミゲルの靴底が霜の降りた床を踏んだ瞬間に植物の蔦のように伸びた氷が脚を絡め取る様に這い上がっていった。
このままでは捕えられると察したミゲルは、バンジョーのボディで氷の絡み付く方の脛を躊躇なく殴打した。
絶対零度まで凍てついた膝から下はガラス細工のように砕ける。バランスを崩したミゲルはよろけながら片足で窓際まで飛ぶと、ガラスを叩き割って外へと飛び出していった。
白い煙を上げながら凍り付く床を見渡しながら、徐々に手足の感覚を取り戻していったフユキと祐介は安堵の表情を浮かべる。
「間に合ったみたいですね、応援」
ガチャッとノブが動き、ネット喫茶の扉が開けられる。そこには白い燕尾服を纏った男が立っており、脇にオーボエを挟んでいた。
アップバングの黒髪を撫で上げた男は、その手でずり下がった幅の狭いレンズの眼鏡を直しながらツカツカとフロアに進入してくる。
彼が踏んだ所から氷が溶けて行き、ミゲルが立っていた場所の近くまで来ると残された肉体の一部が水溜りの上にパシャリと横転して血が滲んだ。
「遅れて申し訳ございません、右神先生。お怪我はありませんか?」
手を開いたり閉じたりして状態を確かめている託斗がニッコリと笑って返すと、男はホッとした表情を見せた。しかし、それも束の間、すぐに背後に座るフユキの方を睨み付けて高圧的な態度で詰り始める。
「旋律師がついていながらこのザマは何だ!?右神先生が危険に晒されたんだぞ!?何の言い訳も無しか!」
急に大声で怒られたフユキは、驚いてしまった様子で目からポロポロと涙を流し始めた。
「ご…ごめんなさい……ボクのせいで…」
仔犬のように震えているフユキの頭を撫でて慰めている祐介は、困り顔を託斗の方に向けた。
「まぁまぁ、フユキは大怪我から回復したばかりなんだ。それに、片割れが別の場所にいるんだし本調子じゃない」
「し…しかし右神先生…」
食い下がる男の肩をポンと叩いた託斗は、再度ニコリと笑いかける。
「君を調査地じゃなくてこっちに呼んだのは作戦のうち。こうなる事を予想しての事。僕たちが一度窮地に陥るー…って所までちゃーんと読んでたからさ」
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異端が楽団の人間を誘き出そうとしている事は明白。
そう、明白であるが故に戦力を残したのである。
「ロジャーがアイツを日本に寄越したかぁ…」
託斗がトランプをシャカシャカと混ぜながら呟く。アイツ?と繰り返して尋ねたナツキの隣で、麗慈は気まずそうに表情を歪めた。
「アイツって……閖塚]…?」
「そうそう、閖塚巳継。君達顔見知りだろ?何その嫌そうな顔は?」
託斗の問い掛けに、麗慈は再び渋い表情を見せる。そこに祐介と共に煎茶の盆を持って戻ってきた鬼頭が彼の反応を見て豪快に笑い飛ばしていた。
「お前、オーストリアで京哉と一緒にかなり絡まれてたって専らの噂だったからな。まぁ、京哉の穴埋めるんなら巳継ぐらいが妥当だろうよ」
よくわからないや、と顔を見合わせている双子の様子を見て託斗は二人の肩を叩きながらこっそりと耳打ちした。
「巳継はね、それはそれは熱心な僕のファンなんだよ」
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相手の戦力は全くの未知。どんな異能を使うのか不明であった。
そこで、人命が関わるかもしれない現地屋上に医者の麗慈を送り込み、鬼頭がその動きをサポートする。そして、飛び道具を持って乗り込んだナツキが現地の状況確認を行う。敵に遭遇した場合は無理のない範囲で攻撃を仕掛けて相手の能力を見極め、人質の救助が終われば即退散するというヒットアンドアウェイ作戦だった。
想定より早くスーツの男がナツキのもとを離れてしまった為、多少の狂いはあったがほぼ作戦通りに事は進んだ。
そして、雑居ビルの屋上でチェロを奏でていた少年…彼が現地で待ち構えていた敵の正体であった。
「……演奏が止まったのと同時にスーツの男が嘘みたいに消えた…」
ナツキがコンテナとの距離を詰めながら呟く。
「精神攻撃系の異能者か?おそらく、ナツキや俺が見ていたのはあの小僧が見せていた幻だ」
鬼頭もナツキと少しずつ距離を取りながら少年の方に近付いていく。
雑居ビルの至る所に設置されていた伝声管。それは、住人達による演奏の音を集めて屋上のハンネス機関を駆動させる為のものではなかった。
目の前の少年が奏でるチェロの音色をビル中に響き渡らせて、幻覚を見させるのが目的であったのだ。
「じゃあ、道夫が言ってた厄介なバアさんも他の住人も全員幻だったってのかよ?」
「いや……道夫以外全て幻だったってんなら、このビルを飛び出して俺達の根城に駆け込んできたアイツは何だ?最初からアイツ一人に幻術を掛けて行動をコントロールするなら、この箱はちっと壮大すぎやしねぇか?」
住人全員に幻術が掛けられていたのか、または道夫だけが幻を見ていたのか。
その答え合わせをしたのは、パイプ椅子から立ち上がったチェリストの少年であった。
「アイツらが夢を見たのは最後の1日だけさ。自分の怠慢が人を殺したかもしれないっていう悪夢をね」
道夫以外の住人達も、実は何回か参加できなかった時があったのだ。そして、屋上から死体が運ばれる前日から、彼らは少年の作り出した幻の中にいた。
男を殺したのはお前の怠慢のせいだと言われてビルを飛び出す夢を、住人全員が見させられていたのだ。
それぞれ散り散りになって寝床を探し回った住人達は、人口が比較的多い六本木では既にどこも空きがない事を知っていた。
そう……鳥葬場となっている特定のビル以外には。
楽団の人間が住居に選ぶのは、人の寄り付かない廃墟が相場と決まっている。ある程度目星を付けた上で、住人達を解き放ったのだ。
道夫は異端の連中が引いた当たりくじだったと言う訳である。
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少年が右手に持つ弓が弦の上を滑り、再び靄がかかる。強風が屋上フロアを駆け巡り、駆け出したナツキはコンテナの上に飛び上がって手を伸ばすものの、あと数歩の所で少年がビルの下へと飛び降りてしまった。
「逃げられた!今日は深追いは無しか?」
そう言いながら鬼頭の方を振り向いたナツキの背後で鋭利な金属が月明かりに一瞬煌めいた。違和感に気がついたナツキは、身を捩ってコンテナの下に落下する。
コンテナの上にはビルの下に逃げていった筈の少年の姿があり、その手には弓の代わりに小型のバタフライナイフが握られていた。
「…厄介な相手だな」
ナツキの手を握って引き起こすと、余裕の表情でナイフを懐にしまった少年の方を睨んだ鬼頭。
相手にどんな幻覚を見せるのか操作できる異能。それは、能力者本人と対峙する前に今見ているものが真実か否かを判断するというワンステップが必要になる事を意味していた。当然、初動に遅れが生じる。
どうしたものかと冷や汗を滲ませる中、隣のビルに移った麗慈からの通信が入った。
『道夫からだ。アイツにはナツキが何も無い所に銃をぶっ放してた映像が見えていたそうだ。……そんで、俺達が救出した宮地という男も…幻覚だったみたいだな』
麗慈からの情報に何か閃いた様子のナツキは、ニヤリとその口元に笑みを浮かべながら鬼頭の顔を見上げる。
「幻覚が見えてるのは演奏中だけだろ?……じゃあこっちにもやりようはあるぜ」
襟元に仕込んだ小型マイクを口に近付けたナツキ。
「道夫!映像を見てオレをサポートしろ!ビルの外に待機してるアンタなら常に真実が見えてんだろ!」
『ぼ、ぼぼ…ぼくが!?』
スマートグラスの縁に埋め込まれたカメラを通して、ミチオはナツキと視界を共有している。チェロの音が影響していない場所に潜んでいる道夫ならば、常に正しいものを見ることができるのだ。
『アンタが頼みの綱だ。任せられるか?』
ナツキからの依頼に、道夫は暫く黙ってしまった。現場から数十メートル離れた廃墟の中に潜んでいた彼は、自分が住処を追いやられた日の事を思い出していた。
自分の身勝手や適当な気持ちが人を殺してしまったのかもしれない。自分を責め立てる住人達の罵声は今でもはっきりと思い出せる。
結果的に、あの日の記憶は幻覚だった訳だが彼の心の中には大きな痼として残っていた。
もし、本当に誰かの怠慢で知らず知らずのうちにうちに命を奪っていたとしたら…。死が近い場所に存在する現在の日本、いつそのような状況になるかわからない。
何者にもなれず、燻っていた人間が集っていた雑居ビルの中に籠り、ただ時間を食い潰すだけの毎日を送っていた道夫。そんな彼が今、頼みの綱だと言われ、誰かの助けになろうとしている。
「…ぼ、ぼくで……良いんですかね…」
薄暗い廃墟の中で呟いた道夫の声はとても小さく聞き取りにくかった。しかし、ナツキの耳にはしっかりと届いていたのだ。
『アンタしかいない!任せたぜ、相棒!』
その力強い言葉に、道夫は自分を奮い立たせた。
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『少年が移動しました…2時の方向、およそ3秒後に貯水槽の前を通過します』
道夫の誘導を聞いたナツキは、誰もいない空間を指差した。フロアに据えられていた木製のベンチを持ち上げた鬼頭がそれを振り回す。すると、バタフライナイフの刀身が宙を舞ってカランと甲高い音と共にコンクリートの床に吸い込まれていった。
道夫の誘導した場所には肩を負傷した様子の少年が立っており、眉を顰めると再び弓を握って姿を消す。
チェロを抱えて下階に繋がる階段を降りようとする少年の姿に足を踏み出し掛けたナツキだが、
『ナツキくん、11時の方向です!』
道夫の合図で身を翻し、少年が次に取り出したコンバットナイフの攻撃を寸前の所で躱した。
相手の姿は見えていないが戦えている。しかし、二人には決定的な攻撃手段が無い。防戦一方ではこの状況に終止符を打つ事は不可能である。
そしてもう一つ、この戦法には大きな欠点があった。
『ナツキ!後ろだ!』
イヤーモニターから響く麗慈の声の直後、横一閃に移動してきた少年のナイフがナツキの燕尾服の一部を裂いて腕から出血する。
ナツキの視線が向いていない方向の視野はゼロ。そしてカメラの性能上、通常の人間の視界よりもその見えている範囲はかなり狭かった。
「マズイな…道夫にも見えてない範囲はどうしようもねぇ。奴もその事に気が付いてお前さんの死角ばかりを突いてきやがるぞ」
「……チッ。それなら体張ってやるだけだぜ!」
可愛らしい容貌からは到底想像できない男らしい言葉と共に身構えたナツキ。
彼の身に迫る鋭い切先が一瞬月明かりに反射した瞬間、あえてその方向を向いて突き出されたナイフを掌で受け止める。そして、空かさず少年の手首を掴んで肩に担ぐと、見事な背負い投げを決めた。
大きな音と共に靄が晴れ、二人の目の前にはチェロを手放して昏倒する少年の姿が映し出される。
やっと幻覚の世界から解放された鬼頭とナツキは安堵の表情を見せながら少年の方に近づく。捕えて敵の情報を引き出さなければならない。
鬼頭がコンテナの中から手頃な縄を持ち出して少年を拘束しようと手を伸ばした時、再び強い風が吹いて二人の周囲の靄をもう一度吹き飛ばした。
「しまった…!あのガキ…」
ナツキが顔を上げた頃には、少年はいくつも先の区画に立つビルの屋上に飛び移っており、すぐにその姿を夜の闇にくらませてしまった。
投げ飛ばされた直後に昏倒した自分の幻覚を作り出した少年。幻覚の効かない道夫の目を欺く為に直前まで気を失ったフリをし、鬼頭に拘束されようというタイミングで逃走を図ったのである。
「相手の方が一枚上手だったって事だな…」
「げーっ…痛ェ思いまでしたってのに…」
もう姿の見えない少年の逃げた方向を睨み付けた後に、まだナイフが突き刺さったままの手を見つめたナツキは、イヤーモニターからの『自分で引き抜くなよー』という麗慈からの忠告を守りながら下階への階段を降り始めた。
…………………………………………………………………………………
室内に響き渡るフルートの音色。
ミーアの伴奏に歌声を乗せるのはシェリーだった。
ウルフ達からの報告にあった、白いローブを着た金髪碧眼の少年。彼が歌っていたとされる聖歌、そして楽団が厳選した歌唱による音エネルギーの生成に適すると考えられる楽曲を練習し、披露したのである。
しかし、二人の目前に置かれていた複雑な部品の寄り集まった金属塊は通常通りの挙動を見せるばかりであった。
「確かに…人の歌声にしてはハンネス機関の反応が良いのは否めないが……特に変わった所は見られないな。いつもこんな感じだと言っていたが、指定した曲を歌った時…何か体の変化はあったか?」
ローデスクの上に敷いた分厚いクロスにフルートを置いたミーアは、窓際に立って外の様子を見つめていたシェリーに尋ねた。
「多分…何も無い」
ボソリとそう返してきた彼女の表情がどこか暗い事に気が付いたミーアは、ツカツカと床を踏み鳴らしながら窓際に歩み寄る。
「……キョウヤが敵の人間から得た情報によると…異端は君のような存在を、アンプと呼んでいるそうだ。もしその言葉の意味そのものであるなら、単純に音エネルギーを増幅する役割を担っているのだと我々は考えている」
強い雨が吹き付ける透明な窓ガラスの向こう側では、傘を差した人間が足早に帰路を急いでいた。
データの収集を始めてから約1週間が経過したものの、特に顕著な結果は得られていない。
体内にハンネス機関と人骨でできたオルゴールを持つ人間、それが音楽家の作り出した音エネルギーを増幅する存在である。
楽団が導き出したその考察の答え合わせをする為にオーストリアに呼び出されたシェリー。彼らは結果を急いでいるのだろうということは肌で感じていたが、彼女自身もどうすれば良いのかわからなかった。
何故…。
その言葉は、いつまでもシェリーの心を曇らせていた。何故父親は、自分を作り替えたのか。憎かったのか。自己満足の為か。
考えてもわからない事を考えるのはやめよう、そうやってこれまで生きてきた彼女であったが、もう逃げ続ける猶予は無くなっていた。
それは、上海の武闘賭博大会の際に拉致された玥に対しても自分と同じ改造が成された事を知った為。
異端は明確な目的があって、玥に施術をした。それは、どう遣いたいという作業的な部分ではなく、「オリジナルと同じ」物を作り上げたいという実験的な悪意をシェリーは感じ取っていた。
オルバス・シェスカが作り出したオリジナルのアンプ、それが自分自身。そして、オリジナルが存在してしまったが為に玥や金髪碧眼の少年のような実験体が生み出されてしまっているという現状。
自分は何者であるのか、何をする為に生み出されたのかを知り、[[rb:異端 > カルト]]によるこれ以上の生命に対する冒涜行為を[[rb:楽団 > ギルド]]の人間の協力を得て止めさせたい。そう考えるようになっていたのだ。
…………………………………………………………………………………
「一つ気になるのは…人骨を使ったオルゴールの役割だ」
そう切り出してきたミーアの声が耳に入り、シェリーは思考を止めて顔を上げた。
「人体が含む成分と言えど、普通に考えて異物だ。何らかの重要な役割がなければ埋め込もうという発想には至らないはず…」
確かに…と頷いたシェリーは、日本での出来事を思い出していた。
京哉と一緒に定期的に麗慈の医院に通っていたシェリー。恐らく楽団からの指示で検査を行っていたのだと予測できるが、麗慈曰く、彼女の体の構造について一つだけ予想が付く所があるという。
「…レイジが言ってた……私の体、声帯も無くなってるんだって。それ以外もたくさん無くなってるから断言はできないけど、本来声帯がある筈の場所にオルゴールが埋め込まれてるから、もしかしたら…このオルゴールを使って歌う方法があるのかもしれない…」
むしろ、それが本来のこの体の使い方なのではないかと。
「普通に歌ってると、喉が痛くなったり、息が苦しくなったりする事も結構あって……」
シェリーがそこまで言うと、ミーアは小さく頷いて理解した事を示した。
「つまり、今の君の体の造りは……言い方は悪いが、通常の人間の使い方には合っていないという訳だ。しかし…そのオルゴールのシリンダーに刻まれたピンが何の曲を奏でる為のものなのかが判明しない限り安直に試してみるべきではないな」
シェリー自身も自分で言っておいて、どうやればオルゴールが動き始めるのかなど全く見当がついていなかった。
「一度、社長に相談してみよう。彼なら顔が広いから、オルバスの作品について詳しい人物に繋がるかもしれない」
譜面台の上に置かれた楽譜を整理してスーツケースに収納しながらそう提案したミーアは、腕時計に視線を落として忙しなく片付けを始めていた。
この後の予定については何も聞かされていなかったシェリー。仕事の関係で彼女一人が何処かに行くのだろうという予想は当たっており、一人で寮に戻る様に言い残したミーアは足早に練習室を去っていった。
…………………………………………………………………………………
ドナウ川に白い燕尾服を着た男の水死体が上がったという知らせを聞いたミーアは、調査班の人間と共に現場に向かっていた。
多くの警察車両が規制線を張る中、彼女の顔を見た刑事の一人が慌てて駆け寄ってくる。神妙な面持ちで頭を下げると、行手を遮っていた黄色いテープを持ち上げて河岸に近付くように促した。
「近くの住人の通報で発見され、先程水から引き上げました。状況から見るに、溺死かと…」
ブルーシートを持ち上げた下に横たわっていたのは、ショートブレイズの茶髪をした20代前半の若い男。その顔を見た瞬間に、ミーアは眉間にグッと皺を寄せて目を閉じた。
「……モアメド・デニス、楽団の人間で間違いありません」
デニスの死体を、連れてきた調査班が調べ上げている間に、ミーアは河原から離れた警察車両の中で刑事からの聴取を受けていた。
「それでは…彼は三日前から仕事で社には戻っていなかった……と」
「ええ。日々の報告は受けていましたから、何かあったとするなら昨日の午後11時以降でしょう」
彼女の話を聞きながら、刑事の男はカリカリとメモを取っていた。そして、ふとペンの動きを止めると訝しげな表情で尋ねる。
「彼の命を奪った人間に心当たりは…?」
楽団の旋律師として日々裏社会で暗躍していれば、心当たりなど数え切れないほどある。しかし、昨今の状況では考え得る敵は[[rb:異端 > カルト]]しかいない。
しかし、ウィーン州内で活動していた旋律師が異端によって殺害されたとなれば、彼らの手が既に楽団本社のお膝元にまで及んでいる事になる。
「……後程、詳しくまとめたものを情報提供いたします。今はいち早く社に戻って次なる被害者を出さない為に……」
窓から眩い光が差し込み、直後に車両全体が凄まじい暴風によって横転した。
刑事と共にドアをこじ開けて何とか外部に脱出したミーアは、河原に広がる地獄絵図にその目を疑う。
規制線近くの警察車両は燃え上がり、第二、第三の爆発を起こしていた。そして、その周囲に横たわる黒い影。暫く蠢いた後、力なく地面に倒れ伏したそれらはおそらく人間だったものであろう。
デニスの死体が横たわっていた場所が一番激しく破壊されており、地面が深く抉れていた。隣で作業をしていたはずの調査班の人影はどこにも無い。
倒された車の窓から上半身を突っ込んで必死に応援要請をする刑事の怒声を後方に聞きながら、ミーアは暫くその惨状から目を離せずにいた。
[31] Estremo II 完
…………………………………………………………………………………
レオポルトの檻房は看守達の部屋と同じ作りをしており、家具の類は一式揃えられている。小型のハンネス機関が設置されており、室内のちょっとした家電も自由に使えるようになっていた。
およそ受刑者の住む環境とは思えないその快適さは、それまで囚人達の王として君臨していた彼がいかに特別扱いをされてきたのかを物語っている。
見慣れた天井が視界に入ると、ゆっくりと上体を起こしたレオポルトは首の痛みに思わず顔を歪める。枷を繋いでいたはずの鎖が切れたのは偶然などではない。では、一体何故……。
思考を巡らせている間に扉が開き、看守達を従えた京哉が満面の笑みでレオポルトの部屋にズカズカと入ってきた。
「お目覚めのようだねェ……今どんな気持ちィ?」
ニヤニヤしながら顔を覗き込んでくる彼を睨みつけたレオポルト。真新しい囚人服に着替えていた京哉は、丁寧に怪我の手当てまでされていた。
「最悪だな。目の前でハエがチラチラ飛んでやがる」
「え?頭打った?幻覚見えてるなんて打ちどころ悪かったんじゃない?」
いちいち癇に障る言い方をする京哉を再度睨み付けたレオポルトだったが、ふと諦めたようにフッと息を吐いてベッドに横たわった。
「……何が目的だ?」
低い声で唸ると、京哉はベッド脇のスツールに腰掛ける。そして目配せをすると察したレオポルトが看守達を部屋の外にはけさせた。
「何故、目的があると思った?」
気怠そうに顔を摩るレオポルトに尋ねると、彼は鼻で笑いながら返す。
「…この国のボンクラ警察なんかに捕まるタチじゃねぇだろ」
「じゃあ、捕まってるアンタはボンクラ以下って事になっちゃうけど?」
すると、レオポルトは遠い目をして天井を見つめた。何か理由がある事はわかるが、聞き出せる雰囲気では無いし大体京哉にとっては必要の無い情報ではあった。
「まぁ、アンタの読みは全部当たってんだけどさ……僕はピョトルクフに収監されてるある囚人に用があって来た。ウィリアム・ハンネスの妻……何処にいるのか心当たりはあるか?」
ハンネスの名を聞いたレオポルトは、目を丸くした。
「ハンネス…テメェ、あのバアさんに会いに来たのか」
どうやら聞く相手は彼で正しかったようだ。何かしらの情報を持っていると踏んだ京哉は、身を乗り出して尋ねた。
「もしかして知り合い?少し話をするだけで良いんだけど、会えないかなって思って…」
期待で満ちた眼差しで問う京哉を見て、レオポルトは長い溜息をつきながら首を横に振った。
「残念ながら、会うのは無理だな。特別室とやらに閉じ込められているとマルツェルから聞いたことがある」
特別室…きっと特殊なセキュリティを配備した監房であることは安易に予想できる。
「アンタには所長も頭が上がらないって聞いてる。何とかならない?」
「…フン……アイツがただのお飾り所長とでも思ったか?それなら考えを改めるこったな」
レオポルト曰く、マルツェルには裏の顔があり闇社会と深く繋がりがあるのだという。刑務所内での自由な生活を与える代わりに、受刑者達を統率させる役割を果たすように言われているレオポルト。彼がふと天井の一角を指差した。その先にはスプリンクラーのような金具が見える。
「アイツが本気で俺を殺したくなったら、寝てる間にあそこから毒ガスを注入しておしまいだ。察しは悪いが馬鹿じゃあねぇ。アイツを騙してバアさんに会うなら、それなりの設定や理由が必要になる」
光は見えてきたが、面倒事は山積であった。どうやってハンネスの妻に会う口実を作ろうかと悩んでいる最中、檻房の扉がノックされて当の本人の声が響いた。
「レオポルト、何があったんですか!?看守達に聞いてもだんまりだ!お前に直接聞けと!」
マルツェルの声を聞いてベッドから飛び上がったレオポルトは、とりあえず隠れろと京哉を布団の中に潜り込ませた。
…………………………………………………………………………………
「一体何なんです?篩い分けの結果は!?」
「あぁ…それは」
事情を知らないマルツェルが不服そうな表情で問いただす中、レオポルトが取り繕おうと口を開く。
すると、その瞬間に京哉が隠れている布団の方からクシャミが聞こえ、マルツェルの視線はそちらに移される。
ゆっくりとした足取りでベッドに近付くと、一気に布団を取払ったマルツェルはまさかの失態に顔を強張らせていた京哉を発見してしまった。
「……お前は昨日の……レオポルト、どういう事ですか?」
当然の疑問に頭を掻いて悩む大男を目にした京哉は、慌てて口を開いた。
「あ!えっと……篩い分けってやつで僕がビリになりまして……新しい奴隷です、はい……」
ははは~と気の抜けるような笑いを見せる京哉を訝しげに睨んだマルツェルは、胸ポケットから小型の端末を取り出した。指先で液晶画面の上をなぞっていくと、ふと手を止めて京哉とレオポルトを交互に見やる。
「……レオポルト…あなた、ソッチだったんですか」
「………は?」
マルツェルの問いの意味がわからずポカンとしているレオポルト。そっと立ち上がった京哉は、マルツェルが手に持つ端末の画面を背後から静かに覗き見た。それは受刑者リストであり、名前と罪状が一覧表になっている。そこで全てを察した京哉は、マルツェルがとんでもない勘違いをしている事に気が付いた。
「しょ、所長さん…?あのですね…僕はホントそういうんじゃ…」
咳払いをして京哉の言葉を遮ったマルツェルは、端末を胸ポケットにしまって足早に檻房から姿を消してしまった。ゆっくりと顔を京哉の方に向けたレオポルトが、どういう事だと説明を求める。
…………………………………………………………………………………
マルツェルから看守達には緘口令が敷かれた。何者にも口外しないように、と。8931番と同様の手で囚人の王に取り入る輩が出てくれば、刑務所内のパワーバランスが崩れてしまうから、という理由でのマルツェルの発言であったが、それを聞いた看守達は間違いなく曲解しているだろう。
篩い分けで奴隷に落とされた筈の人間に王があっけなく負けた事は他言するな、そう捉えているようだった。実際、看守達からレオポルトへの態度は変わらず彼の王たる地位は脅かされる事はなかった。
ただ一人、泣いていたのは京哉である。
「僕ね、違うんですよ。そういう設定なんですよ。この刑務所に入る為の…。わかってくれますよね、レオポルトさん!?」
「……わかった…わかったから離れろ…。こっちだってマルツェルの野郎に変な勘違いされ続けられんのは御免だ」
泣き付く京哉を引き剥がしたレオポルトは、彼を自分の檻房から摘み出した。
「テメェが消えれば、誤解もクソも無くなる。バアさんに会えれば良いんだろ?……何とかする」
その言葉を聞いた瞬間、本当に!?と明るい笑顔を見せた京哉が歓喜のあまり抱きついてこようとするのを足蹴にして追い返し、レオポルトは慌てて看守を呼び出して元の牢に連れていくように命令していた。
…………………………………………………………………………………
屋内と屋上とを隔てる扉を開け放ったのは、スーツの男であった。グレーの短髪をオールバックに撫で付けた彼は、一歩、また一歩とコンテナルームの方に近付いてくる。
壁に設置されたスイッチが押され明かりが灯った瞬間、心電図を計測する機器が縦に連なったユニットを槍のように突き出した鬼頭。
「行け!麗慈!」
鬼頭の合図でフルハーネスを装着した宮地をビルの端から突き飛ばした麗慈は、自分も続いて床を蹴る。ワイヤーロープに引っ掛けたカラビナが滑り、隣のビルへと移った。
二人が無事に脱出した様子を確認した鬼頭。何事もなかったかのように立っている男と対峙する。屋上に置かれていた木の廃材の束を持ち上げて男に投げ付けるが、避けられてしまったのか無傷のままであった。
男が異端の人間なら何かしら異能を持つ可能性はある。慎重に身構えた鬼頭は、再び開け放たれた下階からの扉の方を目だけで確認した。
息を切らしたナツキが白い燕尾服姿で現れ、男の位置を把握しながら鬼頭の方に躙り寄る。
「一般人は?」
「それが…人っこ一人見当たらねぇ。オレに絡んできた居酒屋のバァさんもどっかに消えちまった」
武器を持たないナツキと、異能を持たない鬼頭。対して、能力値不明な敵。どう戦えば良いか悩む中、ナツキが再び口を開いた。
「アイツ…なんかおかしい感じがした。一回掴まれたがなんて言うか……掴まれた感じがしないというか……攻撃もまるで当たらないし」
「掴まれた感じがしない?何だそりゃ…」
正面に立つスーツ姿の男。次の動きを見極めようと目を凝らすが、一向に動く気配を見せない。
その時、イヤーモニターが着信していることを知らせるバイブレーションを感知した二人は同時にミュートを解除した。
『お前らなにやってんだ!コンテナの上見ろ!』
鼓膜を震わせた麗慈の声で振り返った鬼頭とナツキ。強い風が吹いて目の前の靄のように澱んだ空気が一気に晴れると、今まで全く感知できていなかったコンテナの上の人影に気が付く。
しかし、そこにいたのはパーカーのフードを目深に被った短パン姿の少年。パイプ椅子に腰掛け、チェロを構えていた。
…………………………………………………………………………………
隣のビルの屋上に移った麗慈は、鬼頭達の不審な動きを見てすぐさま襟元の小型マイクを手に取って叫んだ。
そして、すぐに床に転がっていた筈の宮地の姿がどこにも見当たらない事に気がつく。ワイヤーにカラビナが引っかかったままのフルハーネス。ビルの下に落下した可能性は低い。
暫く周囲を捜索するが、やはり宮地はどこにもいなかった。あの衰弱具合で音もなく消えるのは不可能であり、第一その必要がどこにも無い。
困惑する麗慈のイヤーモニターが着信を受けると、聞こえてきたのは道夫の声であった。
「…わ、若乃宮さん…ぼく、心配になってしまって……どうしても話しておかなくちゃと思いまして…」
今それどころではないと思いながらも、生返事を返しながら宮地の捜索を続ける麗慈。
「………ナツキさん、いきなり慌て出したと思ったらいきなり転んで頭ぶつけて……誰もいない筈なのに銃を撃ち始めたりして……男がどうのと話し始めた時、ぼくには何も見えなかったので恐ろしくなってしまって…」
声を震わせながら必死にそう伝えてくる道夫の声に、麗慈は動きを止めた。
「……ちなみに、今は何が見える?」
『えぇと…鬼頭さんと…コンテナの上に楽器を持った男の子が…』
道夫の回答を聞いた麗慈はすぐさまPHSを取り出してフユキに連絡を試みる。しかし、一向に応じる様子はなく、続いて託斗の番号にかけ始めた。
暫く続いた電子音の後、やっと通信が繋がる。
『はいはーい、右神ですー。どうかしたのかな?』
いつも通りの気の抜けるような託斗の声色。麗慈はそれを聞くや否やすぐに通話を終了させた。
「コレで良いんだろ、えぇと…どちらさんだっけ?」
託斗の耳元からPHSを遠去けたそのスーツの男は、ニコリと笑いながらそれを床に放り投げる。落下した衝撃で響いたプラスチックの軽い音に続き、床に踏みつけられた事により潰された端末が靴底でジャリっと小さく鳴った。
その様子を見つめていたフユキと祐介は神妙な面持ちでその視線を上げる。
ナツキ達が雑居ビルの調査に向かって1時間程が経過した頃、突如フロアの明かりが消えて一瞬暗闇に包まれた。ババ抜きを続けていた為一箇所に集まっていた託斗、フユキ、祐介の三人は電気が復旧した時にその侵入者の存在に気がつく。
グレーの短髪をオールバックに撫で付けた、スーツ姿の外国人。
容貌は道夫が雑居ビルで見た男そのままだった。首からストラップで吊るしたバンジョー、その弦は微かに震えており既に何らかの先手を打たれている可能性が高い。
「ご無沙汰しております、ミスターウガミ」
ドイツ語でそう話しかけてきた外国人は、どうやら託斗と面識があるような口ぶりだった。しかし、話し掛けられた本人は首を大きく傾けている。
「んー…どちらさん?」
「酷いですねぇ…前に一度、勧誘させていただいたじゃないですか」
勧誘?と復唱した託斗は、自分の手足が鉛のように重くなっている事に気が付いた。チラッと横目で確認したフユキと祐介も同じような状況で、困惑した表情を浮かべている。
…………………………………………………………………………………
覚えていないと言い張る託斗に、男は溜め息をついて肩を竦ませた。
「異端の指示役をしております、コードネーム、ミゲルですよ。どうです?思い出しましたか?」
異端、そして指示役という単語に、フユキと祐介は目を見開いた。敵の大幹部が、わざわざ出向いていると言うのだ。
「あー…なんか少し思い出した気がする。僕にフラれたからって、他の作曲家雇って盗作作らせてんだ。やだやだ、執念深い男って大っ嫌い」
べーっと下を出した託斗を見て、ミゲルはくつくつと静かに笑った。
PHSも壊され、調査に行った部隊がすぐに帰ってくる見込みは断たれてしまった。可能な限り時間稼ぎをしようと試みるが、ミゲルにはどうやら全てお見通しのようである。
「楽団が嫌いなら僕の事だって嫌いだろ?何でそんなに拘るのさ?」
「時間稼ぎが見え見えですよ、ミスターウガミ。彼らはもう間に合わない。さあ、一緒に我々の元に向かいましょう。……貴方が望む世界を作る為に」
託斗の方にスッと手を伸ばしたミゲル。
そして、何か違和感に気が付いた彼が手を止めた瞬間にフロアの床全体が冷気に覆われた。ツララが床から迫り出し、ミゲルの腕を掠めて血が飛ぶ。
慌てて振り返った彼目掛けて、床から伸びたツララが次々に襲いかかっていく。そして、一歩後退したミゲルの靴底が霜の降りた床を踏んだ瞬間に植物の蔦のように伸びた氷が脚を絡め取る様に這い上がっていった。
このままでは捕えられると察したミゲルは、バンジョーのボディで氷の絡み付く方の脛を躊躇なく殴打した。
絶対零度まで凍てついた膝から下はガラス細工のように砕ける。バランスを崩したミゲルはよろけながら片足で窓際まで飛ぶと、ガラスを叩き割って外へと飛び出していった。
白い煙を上げながら凍り付く床を見渡しながら、徐々に手足の感覚を取り戻していったフユキと祐介は安堵の表情を浮かべる。
「間に合ったみたいですね、応援」
ガチャッとノブが動き、ネット喫茶の扉が開けられる。そこには白い燕尾服を纏った男が立っており、脇にオーボエを挟んでいた。
アップバングの黒髪を撫で上げた男は、その手でずり下がった幅の狭いレンズの眼鏡を直しながらツカツカとフロアに進入してくる。
彼が踏んだ所から氷が溶けて行き、ミゲルが立っていた場所の近くまで来ると残された肉体の一部が水溜りの上にパシャリと横転して血が滲んだ。
「遅れて申し訳ございません、右神先生。お怪我はありませんか?」
手を開いたり閉じたりして状態を確かめている託斗がニッコリと笑って返すと、男はホッとした表情を見せた。しかし、それも束の間、すぐに背後に座るフユキの方を睨み付けて高圧的な態度で詰り始める。
「旋律師がついていながらこのザマは何だ!?右神先生が危険に晒されたんだぞ!?何の言い訳も無しか!」
急に大声で怒られたフユキは、驚いてしまった様子で目からポロポロと涙を流し始めた。
「ご…ごめんなさい……ボクのせいで…」
仔犬のように震えているフユキの頭を撫でて慰めている祐介は、困り顔を託斗の方に向けた。
「まぁまぁ、フユキは大怪我から回復したばかりなんだ。それに、片割れが別の場所にいるんだし本調子じゃない」
「し…しかし右神先生…」
食い下がる男の肩をポンと叩いた託斗は、再度ニコリと笑いかける。
「君を調査地じゃなくてこっちに呼んだのは作戦のうち。こうなる事を予想しての事。僕たちが一度窮地に陥るー…って所までちゃーんと読んでたからさ」
…………………………………………………………………………………
異端が楽団の人間を誘き出そうとしている事は明白。
そう、明白であるが故に戦力を残したのである。
「ロジャーがアイツを日本に寄越したかぁ…」
託斗がトランプをシャカシャカと混ぜながら呟く。アイツ?と繰り返して尋ねたナツキの隣で、麗慈は気まずそうに表情を歪めた。
「アイツって……閖塚]…?」
「そうそう、閖塚巳継。君達顔見知りだろ?何その嫌そうな顔は?」
託斗の問い掛けに、麗慈は再び渋い表情を見せる。そこに祐介と共に煎茶の盆を持って戻ってきた鬼頭が彼の反応を見て豪快に笑い飛ばしていた。
「お前、オーストリアで京哉と一緒にかなり絡まれてたって専らの噂だったからな。まぁ、京哉の穴埋めるんなら巳継ぐらいが妥当だろうよ」
よくわからないや、と顔を見合わせている双子の様子を見て託斗は二人の肩を叩きながらこっそりと耳打ちした。
「巳継はね、それはそれは熱心な僕のファンなんだよ」
…………………………………………………………………………………
相手の戦力は全くの未知。どんな異能を使うのか不明であった。
そこで、人命が関わるかもしれない現地屋上に医者の麗慈を送り込み、鬼頭がその動きをサポートする。そして、飛び道具を持って乗り込んだナツキが現地の状況確認を行う。敵に遭遇した場合は無理のない範囲で攻撃を仕掛けて相手の能力を見極め、人質の救助が終われば即退散するというヒットアンドアウェイ作戦だった。
想定より早くスーツの男がナツキのもとを離れてしまった為、多少の狂いはあったがほぼ作戦通りに事は進んだ。
そして、雑居ビルの屋上でチェロを奏でていた少年…彼が現地で待ち構えていた敵の正体であった。
「……演奏が止まったのと同時にスーツの男が嘘みたいに消えた…」
ナツキがコンテナとの距離を詰めながら呟く。
「精神攻撃系の異能者か?おそらく、ナツキや俺が見ていたのはあの小僧が見せていた幻だ」
鬼頭もナツキと少しずつ距離を取りながら少年の方に近付いていく。
雑居ビルの至る所に設置されていた伝声管。それは、住人達による演奏の音を集めて屋上のハンネス機関を駆動させる為のものではなかった。
目の前の少年が奏でるチェロの音色をビル中に響き渡らせて、幻覚を見させるのが目的であったのだ。
「じゃあ、道夫が言ってた厄介なバアさんも他の住人も全員幻だったってのかよ?」
「いや……道夫以外全て幻だったってんなら、このビルを飛び出して俺達の根城に駆け込んできたアイツは何だ?最初からアイツ一人に幻術を掛けて行動をコントロールするなら、この箱はちっと壮大すぎやしねぇか?」
住人全員に幻術が掛けられていたのか、または道夫だけが幻を見ていたのか。
その答え合わせをしたのは、パイプ椅子から立ち上がったチェリストの少年であった。
「アイツらが夢を見たのは最後の1日だけさ。自分の怠慢が人を殺したかもしれないっていう悪夢をね」
道夫以外の住人達も、実は何回か参加できなかった時があったのだ。そして、屋上から死体が運ばれる前日から、彼らは少年の作り出した幻の中にいた。
男を殺したのはお前の怠慢のせいだと言われてビルを飛び出す夢を、住人全員が見させられていたのだ。
それぞれ散り散りになって寝床を探し回った住人達は、人口が比較的多い六本木では既にどこも空きがない事を知っていた。
そう……鳥葬場となっている特定のビル以外には。
楽団の人間が住居に選ぶのは、人の寄り付かない廃墟が相場と決まっている。ある程度目星を付けた上で、住人達を解き放ったのだ。
道夫は異端の連中が引いた当たりくじだったと言う訳である。
…………………………………………………………………………………
少年が右手に持つ弓が弦の上を滑り、再び靄がかかる。強風が屋上フロアを駆け巡り、駆け出したナツキはコンテナの上に飛び上がって手を伸ばすものの、あと数歩の所で少年がビルの下へと飛び降りてしまった。
「逃げられた!今日は深追いは無しか?」
そう言いながら鬼頭の方を振り向いたナツキの背後で鋭利な金属が月明かりに一瞬煌めいた。違和感に気がついたナツキは、身を捩ってコンテナの下に落下する。
コンテナの上にはビルの下に逃げていった筈の少年の姿があり、その手には弓の代わりに小型のバタフライナイフが握られていた。
「…厄介な相手だな」
ナツキの手を握って引き起こすと、余裕の表情でナイフを懐にしまった少年の方を睨んだ鬼頭。
相手にどんな幻覚を見せるのか操作できる異能。それは、能力者本人と対峙する前に今見ているものが真実か否かを判断するというワンステップが必要になる事を意味していた。当然、初動に遅れが生じる。
どうしたものかと冷や汗を滲ませる中、隣のビルに移った麗慈からの通信が入った。
『道夫からだ。アイツにはナツキが何も無い所に銃をぶっ放してた映像が見えていたそうだ。……そんで、俺達が救出した宮地という男も…幻覚だったみたいだな』
麗慈からの情報に何か閃いた様子のナツキは、ニヤリとその口元に笑みを浮かべながら鬼頭の顔を見上げる。
「幻覚が見えてるのは演奏中だけだろ?……じゃあこっちにもやりようはあるぜ」
襟元に仕込んだ小型マイクを口に近付けたナツキ。
「道夫!映像を見てオレをサポートしろ!ビルの外に待機してるアンタなら常に真実が見えてんだろ!」
『ぼ、ぼぼ…ぼくが!?』
スマートグラスの縁に埋め込まれたカメラを通して、ミチオはナツキと視界を共有している。チェロの音が影響していない場所に潜んでいる道夫ならば、常に正しいものを見ることができるのだ。
『アンタが頼みの綱だ。任せられるか?』
ナツキからの依頼に、道夫は暫く黙ってしまった。現場から数十メートル離れた廃墟の中に潜んでいた彼は、自分が住処を追いやられた日の事を思い出していた。
自分の身勝手や適当な気持ちが人を殺してしまったのかもしれない。自分を責め立てる住人達の罵声は今でもはっきりと思い出せる。
結果的に、あの日の記憶は幻覚だった訳だが彼の心の中には大きな痼として残っていた。
もし、本当に誰かの怠慢で知らず知らずのうちにうちに命を奪っていたとしたら…。死が近い場所に存在する現在の日本、いつそのような状況になるかわからない。
何者にもなれず、燻っていた人間が集っていた雑居ビルの中に籠り、ただ時間を食い潰すだけの毎日を送っていた道夫。そんな彼が今、頼みの綱だと言われ、誰かの助けになろうとしている。
「…ぼ、ぼくで……良いんですかね…」
薄暗い廃墟の中で呟いた道夫の声はとても小さく聞き取りにくかった。しかし、ナツキの耳にはしっかりと届いていたのだ。
『アンタしかいない!任せたぜ、相棒!』
その力強い言葉に、道夫は自分を奮い立たせた。
…………………………………………………………………………………
『少年が移動しました…2時の方向、およそ3秒後に貯水槽の前を通過します』
道夫の誘導を聞いたナツキは、誰もいない空間を指差した。フロアに据えられていた木製のベンチを持ち上げた鬼頭がそれを振り回す。すると、バタフライナイフの刀身が宙を舞ってカランと甲高い音と共にコンクリートの床に吸い込まれていった。
道夫の誘導した場所には肩を負傷した様子の少年が立っており、眉を顰めると再び弓を握って姿を消す。
チェロを抱えて下階に繋がる階段を降りようとする少年の姿に足を踏み出し掛けたナツキだが、
『ナツキくん、11時の方向です!』
道夫の合図で身を翻し、少年が次に取り出したコンバットナイフの攻撃を寸前の所で躱した。
相手の姿は見えていないが戦えている。しかし、二人には決定的な攻撃手段が無い。防戦一方ではこの状況に終止符を打つ事は不可能である。
そしてもう一つ、この戦法には大きな欠点があった。
『ナツキ!後ろだ!』
イヤーモニターから響く麗慈の声の直後、横一閃に移動してきた少年のナイフがナツキの燕尾服の一部を裂いて腕から出血する。
ナツキの視線が向いていない方向の視野はゼロ。そしてカメラの性能上、通常の人間の視界よりもその見えている範囲はかなり狭かった。
「マズイな…道夫にも見えてない範囲はどうしようもねぇ。奴もその事に気が付いてお前さんの死角ばかりを突いてきやがるぞ」
「……チッ。それなら体張ってやるだけだぜ!」
可愛らしい容貌からは到底想像できない男らしい言葉と共に身構えたナツキ。
彼の身に迫る鋭い切先が一瞬月明かりに反射した瞬間、あえてその方向を向いて突き出されたナイフを掌で受け止める。そして、空かさず少年の手首を掴んで肩に担ぐと、見事な背負い投げを決めた。
大きな音と共に靄が晴れ、二人の目の前にはチェロを手放して昏倒する少年の姿が映し出される。
やっと幻覚の世界から解放された鬼頭とナツキは安堵の表情を見せながら少年の方に近づく。捕えて敵の情報を引き出さなければならない。
鬼頭がコンテナの中から手頃な縄を持ち出して少年を拘束しようと手を伸ばした時、再び強い風が吹いて二人の周囲の靄をもう一度吹き飛ばした。
「しまった…!あのガキ…」
ナツキが顔を上げた頃には、少年はいくつも先の区画に立つビルの屋上に飛び移っており、すぐにその姿を夜の闇にくらませてしまった。
投げ飛ばされた直後に昏倒した自分の幻覚を作り出した少年。幻覚の効かない道夫の目を欺く為に直前まで気を失ったフリをし、鬼頭に拘束されようというタイミングで逃走を図ったのである。
「相手の方が一枚上手だったって事だな…」
「げーっ…痛ェ思いまでしたってのに…」
もう姿の見えない少年の逃げた方向を睨み付けた後に、まだナイフが突き刺さったままの手を見つめたナツキは、イヤーモニターからの『自分で引き抜くなよー』という麗慈からの忠告を守りながら下階への階段を降り始めた。
…………………………………………………………………………………
室内に響き渡るフルートの音色。
ミーアの伴奏に歌声を乗せるのはシェリーだった。
ウルフ達からの報告にあった、白いローブを着た金髪碧眼の少年。彼が歌っていたとされる聖歌、そして楽団が厳選した歌唱による音エネルギーの生成に適すると考えられる楽曲を練習し、披露したのである。
しかし、二人の目前に置かれていた複雑な部品の寄り集まった金属塊は通常通りの挙動を見せるばかりであった。
「確かに…人の歌声にしてはハンネス機関の反応が良いのは否めないが……特に変わった所は見られないな。いつもこんな感じだと言っていたが、指定した曲を歌った時…何か体の変化はあったか?」
ローデスクの上に敷いた分厚いクロスにフルートを置いたミーアは、窓際に立って外の様子を見つめていたシェリーに尋ねた。
「多分…何も無い」
ボソリとそう返してきた彼女の表情がどこか暗い事に気が付いたミーアは、ツカツカと床を踏み鳴らしながら窓際に歩み寄る。
「……キョウヤが敵の人間から得た情報によると…異端は君のような存在を、アンプと呼んでいるそうだ。もしその言葉の意味そのものであるなら、単純に音エネルギーを増幅する役割を担っているのだと我々は考えている」
強い雨が吹き付ける透明な窓ガラスの向こう側では、傘を差した人間が足早に帰路を急いでいた。
データの収集を始めてから約1週間が経過したものの、特に顕著な結果は得られていない。
体内にハンネス機関と人骨でできたオルゴールを持つ人間、それが音楽家の作り出した音エネルギーを増幅する存在である。
楽団が導き出したその考察の答え合わせをする為にオーストリアに呼び出されたシェリー。彼らは結果を急いでいるのだろうということは肌で感じていたが、彼女自身もどうすれば良いのかわからなかった。
何故…。
その言葉は、いつまでもシェリーの心を曇らせていた。何故父親は、自分を作り替えたのか。憎かったのか。自己満足の為か。
考えてもわからない事を考えるのはやめよう、そうやってこれまで生きてきた彼女であったが、もう逃げ続ける猶予は無くなっていた。
それは、上海の武闘賭博大会の際に拉致された玥に対しても自分と同じ改造が成された事を知った為。
異端は明確な目的があって、玥に施術をした。それは、どう遣いたいという作業的な部分ではなく、「オリジナルと同じ」物を作り上げたいという実験的な悪意をシェリーは感じ取っていた。
オルバス・シェスカが作り出したオリジナルのアンプ、それが自分自身。そして、オリジナルが存在してしまったが為に玥や金髪碧眼の少年のような実験体が生み出されてしまっているという現状。
自分は何者であるのか、何をする為に生み出されたのかを知り、[[rb:異端 > カルト]]によるこれ以上の生命に対する冒涜行為を[[rb:楽団 > ギルド]]の人間の協力を得て止めさせたい。そう考えるようになっていたのだ。
…………………………………………………………………………………
「一つ気になるのは…人骨を使ったオルゴールの役割だ」
そう切り出してきたミーアの声が耳に入り、シェリーは思考を止めて顔を上げた。
「人体が含む成分と言えど、普通に考えて異物だ。何らかの重要な役割がなければ埋め込もうという発想には至らないはず…」
確かに…と頷いたシェリーは、日本での出来事を思い出していた。
京哉と一緒に定期的に麗慈の医院に通っていたシェリー。恐らく楽団からの指示で検査を行っていたのだと予測できるが、麗慈曰く、彼女の体の構造について一つだけ予想が付く所があるという。
「…レイジが言ってた……私の体、声帯も無くなってるんだって。それ以外もたくさん無くなってるから断言はできないけど、本来声帯がある筈の場所にオルゴールが埋め込まれてるから、もしかしたら…このオルゴールを使って歌う方法があるのかもしれない…」
むしろ、それが本来のこの体の使い方なのではないかと。
「普通に歌ってると、喉が痛くなったり、息が苦しくなったりする事も結構あって……」
シェリーがそこまで言うと、ミーアは小さく頷いて理解した事を示した。
「つまり、今の君の体の造りは……言い方は悪いが、通常の人間の使い方には合っていないという訳だ。しかし…そのオルゴールのシリンダーに刻まれたピンが何の曲を奏でる為のものなのかが判明しない限り安直に試してみるべきではないな」
シェリー自身も自分で言っておいて、どうやればオルゴールが動き始めるのかなど全く見当がついていなかった。
「一度、社長に相談してみよう。彼なら顔が広いから、オルバスの作品について詳しい人物に繋がるかもしれない」
譜面台の上に置かれた楽譜を整理してスーツケースに収納しながらそう提案したミーアは、腕時計に視線を落として忙しなく片付けを始めていた。
この後の予定については何も聞かされていなかったシェリー。仕事の関係で彼女一人が何処かに行くのだろうという予想は当たっており、一人で寮に戻る様に言い残したミーアは足早に練習室を去っていった。
…………………………………………………………………………………
ドナウ川に白い燕尾服を着た男の水死体が上がったという知らせを聞いたミーアは、調査班の人間と共に現場に向かっていた。
多くの警察車両が規制線を張る中、彼女の顔を見た刑事の一人が慌てて駆け寄ってくる。神妙な面持ちで頭を下げると、行手を遮っていた黄色いテープを持ち上げて河岸に近付くように促した。
「近くの住人の通報で発見され、先程水から引き上げました。状況から見るに、溺死かと…」
ブルーシートを持ち上げた下に横たわっていたのは、ショートブレイズの茶髪をした20代前半の若い男。その顔を見た瞬間に、ミーアは眉間にグッと皺を寄せて目を閉じた。
「……モアメド・デニス、楽団の人間で間違いありません」
デニスの死体を、連れてきた調査班が調べ上げている間に、ミーアは河原から離れた警察車両の中で刑事からの聴取を受けていた。
「それでは…彼は三日前から仕事で社には戻っていなかった……と」
「ええ。日々の報告は受けていましたから、何かあったとするなら昨日の午後11時以降でしょう」
彼女の話を聞きながら、刑事の男はカリカリとメモを取っていた。そして、ふとペンの動きを止めると訝しげな表情で尋ねる。
「彼の命を奪った人間に心当たりは…?」
楽団の旋律師として日々裏社会で暗躍していれば、心当たりなど数え切れないほどある。しかし、昨今の状況では考え得る敵は[[rb:異端 > カルト]]しかいない。
しかし、ウィーン州内で活動していた旋律師が異端によって殺害されたとなれば、彼らの手が既に楽団本社のお膝元にまで及んでいる事になる。
「……後程、詳しくまとめたものを情報提供いたします。今はいち早く社に戻って次なる被害者を出さない為に……」
窓から眩い光が差し込み、直後に車両全体が凄まじい暴風によって横転した。
刑事と共にドアをこじ開けて何とか外部に脱出したミーアは、河原に広がる地獄絵図にその目を疑う。
規制線近くの警察車両は燃え上がり、第二、第三の爆発を起こしていた。そして、その周囲に横たわる黒い影。暫く蠢いた後、力なく地面に倒れ伏したそれらはおそらく人間だったものであろう。
デニスの死体が横たわっていた場所が一番激しく破壊されており、地面が深く抉れていた。隣で作業をしていたはずの調査班の人影はどこにも無い。
倒された車の窓から上半身を突っ込んで必死に応援要請をする刑事の怒声を後方に聞きながら、ミーアは暫くその惨状から目を離せずにいた。
[31] Estremo II 完
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