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#034 Zaleo
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ウィーン・42歳女性「二人の仲の悪さは相当有名だよ。社内で知らない人間はいないんじゃないか?顔を合わせる度に言い争っているからね。まぁ、本気で嫌いなら顔を見る前に姿を消せば良いだけの話なんだが…」
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ウィーン医科大学に14歳で入学した神童は、その後も順調に医学の道を進んでいった。20歳で無事に医師免許を取得して卒業すると、今度は大学病院で研修医として働きながら旋律師専門医としての技術を身につける為の訓練を行う二重生活が始まった麗慈。
その日はロジャーに呼び出され、楽団本社の最上階にある社長室を訪れていた。
招かれた応接間の長椅子の端には既にスーツ姿の一人の青年が座っていたが、麗慈とは面識の無い人間だった。
「忙しい所、済まないね二人とも。あぁ、レイジは大学卒業おめでとう。まだ二十歳だろう?大したもんだ」
唐突に切り出してきたロジャーに褒めちぎられて、麗慈は気後れしながらもペコッと頭を下げた。
「紹介しよう。隣に座っている彼は、先週までアジア地域を担当していたミツキ・ユリヅカだ」
ロジャーに紹介された青年は、レンズ幅の細いメガネのフレームをクイッと持ち上げた。
「ミツキ、彼はレイジ・ワカノミヤ。今度から医療班に配属される。いつか世話になるかもしれないから、顔と名前ぐらいは覚えておくと良い」
今度は自分の紹介をしてきたロジャーに合わせて、巳継の方に頭をペコッと下げる麗慈。しかし、巳継の反応は薄く、「はぁ」と気のない返事だけで目も合わせようとしてこなかった。
「今日君達をこの場に呼んだのは……」
ロジャーがそう切り出した時だった。社長室の扉が開いたかと思えば、そこには返り血で赤黒く汚れた白い燕尾服を纏った身長170センチ程の青年が突っ立っている。
応接スペースの長椅子に座る二人と目が合い、瞬きを繰り返す彼の手には同じく血で汚れた書類の束が丸めて握られていた。
「……そこに置いておきなさい」
呆れた様子のロジャーが自分のデスクを指差してそう伝えると、ようやく場の雰囲気を察した様で足早に書類を置きに向かう。
横を通り過ぎる際、どこか見覚えのある顔だと思った麗慈が小首を傾げていると、踵を返した彼と目が合ってしまった。
数秒間、時が止まったかのようにお互いの顔を見つめ合って動かなくなる二人。先に口を開いたのは燕尾服の青年の方だった。
「……麗慈じゃん。ひっさしぶりー…」
声も話し方も全然知らないのに、麗慈には絶対に知ってる人間だという確信だけはあった。そして、一か八かでその名を呼んでみる。
「…………お前…京哉?」
何で疑問系なんだよ?とケラケラ笑う様子からは、過去の面影ではなく、彼の父親の姿が連想される。
10歳で旋律師になり各地を飛び回るようになった京哉とは、彼が父親と共に超絶技巧の修得に向かった後から会っていない。
身長は70センチ近く伸び、声変わりもしていれば、あの時とはまるで違う性格。いくら2年間ルームシェアした人間と言えども彼だと気が付くのは容易ではない。
楽しげに笑っている京哉を横目に咳払いをしたロジャーは、早く出て行けと暗に催促していた。唇を尖らして歩き出した京哉の背中が廊下に消えていくのを見届けた直後、再び扉が大きく開いて今度は託斗が姿を現した。左手にはアタッシュケース、右手には先程退室したはずの彼の息子の襟首を引っ掴んでいる。
「やあ、お二人さん。持ってきたよ、例のもの!」
応接机のローテーブルにアタッシュケースをドカっと乱暴に置いた託斗は、鼻高々に蓋を開けて中身を見せつけて来た。しかし、麗慈と巳継の反応があまりにも皆無だった為、託斗はキョロキョロと周囲を見回しながらロジャーに説明を求めていた。
「……まだ言ってない。色々と邪魔が入ってな」
邪魔と言って託斗に引き摺られて戻ってきた京哉の方を顎で指すロジャー。
「邪魔とは失敬な!巳継と京哉を組ませるって言ったのはロジャーじゃないか」
「それは彼が超雑技巧を修得できたらの話だろう。今日は楽譜を渡すだけだと……」
ごちゃごちゃと口喧嘩を始めてしまったロジャーと託斗の間からすり抜けた京哉は、まだ事態を把握できていない二人の元へと歩み寄っていった。
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広げられたアタッシュケースの中を覗き込んだ京哉は全てを察した様で、麗慈に向かって「ご愁傷様です」と小声で呟いた。
「…いや、説明しろよ。何だ、コレ?」
ハードカバーの楽譜を目の前にしてもピンと来ていない様子の麗慈を見た京哉は、二人掛けのソファの真ん中に無理矢理身体を捩じ込んで座る。
「親父が書いた異能を修得する為の曲。麗慈と…えぇと…」
指を差しながら、えぇとー…と唸る京哉を見て、巳継が名乗った。
「閖塚巳継」
「…サンにその曲をやらせようって事じゃない?」
流石に血だらけの手で触る事は憚られた様子で、そのまま背もたれに背中を預けて眠そうに唸り始めた京哉。見るからに疲労困憊状態の彼に寄り掛かられるも、麗慈は肘でガツガツ頭を押し返しながら訝しげな表情を見せた。
「お前…本当に京哉か?」
「えー?疑ってんの?酷くない?…6年前と比べられても困るんだけど」
確かに6年前の京哉と言えば8歳。麗慈は彼がオーストリアでの生活に慣れるまで色々と世話を焼いた事を思い出す。
それと同時に、あの時は言葉足らずだったが割と従順で大人しい性格だった京哉が、まるで託斗の生き写しのように成長してしまった事に落胆を覚える。
他人の血液で汚れた皮膚を放置するなど言語道断だと、医者らしい文句で京哉に手を洗って来るように言い聞かせた麗慈は、横に座る巳継が何か言いたげに口をまごまごさせている様子に気が付いた。
「…何?」
「あ、いや……今君と会話をしていた彼は…?」
完全に会話に置いてけぼりにしてしまっていたようだ。まず、社長と言い争っているのは誰だ、と聞かれて託斗の顔を知る者は楽団社内でも本当に限られた人間だけだったのだと思い知らされる。
「アレはその目の前の楽譜を書いた…」
「右神託斗先生か…!?」
食い気味に問い返され、そしてまさかの先生呼びに、麗慈は吃りながら首を小さく縦に振る。
「で、あの燕尾服はその息子」
「ご子息がおられるのか!?」
またまた興奮した様子で距離を詰めてくる巳継に恐怖に似た感情を覚えながらも、そうだと返してやった。
何とか話が纏まったようで不毛な口喧嘩には終止符が打たれた。再び対面に腰掛けたロジャーがアタッシュケースに収納された楽譜を取り出して二人にそれぞれ手渡す。
「ミツキには罔象女神、レイジには大己貴命を練習してもらいたい」
与えられた冊子の表紙を捲ると、託斗の手書きで曲が連ねられていた。超絶技巧と呼ばれるだけに、かなりの技術力を要する曲である事は一目でわかる。
隣で打ち震えている巳継が視界の端に入ってしまい、思わず視線をそちらに向ける。何やらぶつぶつと小声で呟いている様子だった。
「時間は掛けてもらって構わないけど、それぞれ必ずマエストロに師事すること。これから二人には楽団が用意した人目に付かない場所で生活してもらいながら、練習してもらうことになったよ」
そう話し掛けてきた託斗の方を仰ぎ見た麗慈は、スッと小さく手を挙げた。
「……俺、昼は大学病院で研修医勤務なんだけど…」
「うん。夜練習すれば良くない?」
キッパリと笑顔でそう答えられると、指示通りにするしかない。麗慈は楽団に多額の借金を背負わされている上に、学業や生活における全ての費用を負担してもらった身の上なのだ。
これから始まる辛い二重生活を前にして絶望に打ちひしがれる彼の隣では、巳継がパッと元気良く手を挙げていた。
「私からも質問宜しいでしょうか?」
「はい、どうぞ」
託斗に笑顔を向けられたのが余程嬉しかったのか、明らかに先程までとは様子が違う。
「人目につかない場所…というのは、やはり楽団内部でも情報漏洩をさせない為という事でしょうか?」
「まぁ…そういう面もあるんだけど、他にも理由はあって……」
答えを濁す託斗の様子に何か言い辛い事でもあるのかと小首を傾げた二人。その背後からは、血糊を綺麗に落として着替えまで済ませてきた京哉が音もなく入室して先程の楽譜は一体どうなったのかと覗き込んでいた。
「もし、うまくいかなかった場合の被害を最小限に食い止める為……かな」
そう口に出した託斗は、再び京哉の襟首を引っ掴んで二人の目の前に連れて来る。
「通して演奏する場合は、必ず京哉の目の前でやる事。良いね?」
不完全な演奏による災厄の暴発によって周囲に人的、物理的な被害が及ぶと判断すれば、すぐ対処するように。超絶技巧を既に修得している京哉には、暗にそう命令されているのだとすぐに理解できた。
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ハイリゲンシュタットはウィーン中心部の旧市街地から北に位置する街である。閑静な街並みを更に奥に進んだ場所に、楽団が二人の練習場所として借り上げたコテージが佇んでいた。
例の如く鍵穴に詰まった落ち葉を取り除いてから錆びついた鍵を突き刺して回す。立て付けの悪いドアを軋ませながら一気に引くと、埃っぽい屋内の空気が三人に向けて放出された。
「ゲホゲホッ……あー…まずは掃除からやれって事だな、コレは…」
蜘蛛の巣を払い除けながら進入していく麗慈がそう呟くと、えぇー…とやる気のない声をあげる京哉。そんな彼の方をへと踵を返した巳継は、スチャッと眼鏡を直しながら詰め寄ってきた。
「な…何スか……」
「マスク……要るかい?これだけ酷い埃を吸い込めば肺機能に支障をきたす可能性がある」
スッと手渡されたマスクを思わず受け取ってしまった京哉は、愛想笑いを見せながらそれを大人しく装着した。そんな彼の様子を見て満足したのか、巳継は自分の分のマスクも取り出して紐を耳にかける。
「俺のは?」
不満げにそう問う麗慈の方に視線を向けた巳継は、何故お前に?という訝しげな表情を見せていた。
「弦楽器だろ、お前」
「っ……そうっスね」
あまり関わりたく無い部類の人間だと再認識した麗慈。漂ってくる埃を手で払い除けながら廊下を進んでいった。
換気のために開け放った窓からは黄色く色付く街路樹が見える。住宅地からも一本外れた区画に建てられていたこのコテージは、エネルギー革命以前に住処を追われた人々が身を寄せ合う場所として政府が用意したものの一つであるという。
一通り掃除を終えた頃には陽は大きく西に傾いており、ろくに手伝いもしなかった京哉はこれから仕事で出かけるのだと言う。
今の時代、学校教育制度が破綻していない国は稀であったが、エネルギー供給と国内の治安が安定しているオーストリアでは、小学校から大学まで多くの子供達が通い、普通に教育を受ける事ができた。
本来なら京哉ぐらいの年齢ならば学校に通っている。しかし、彼はオーストリアに亡命して楽団の人間として生きる事を余儀なくされた8歳の時から、こうなることは決められていたのだ。
10歳で超絶技巧を修得してからすぐ旋律師として顧客の依頼を受けて来た様だが、先日社長室で見た彼の姿から察するに、後ろ暗い内容なのであろう。
その割には元気よく手を振って出発していった京哉に手を振り返してやった麗慈は、明日から始まる研修医との二重生活の前に少しでも譜読みをしておこうと譜面台の前に立った。
隣の部屋からは既に練習を始めていた巳継の奏でるオーボエの音色が聞こえてくる。託斗に忠告された通り、彼の部屋にはオーボエの師匠か訪ねてきているようで、時折年配の男と会話する声が聞こえてきた。
ふと腕時計に視線を落とした麗慈。現在の時刻は18時前。彼の師である梓のいる日本とは約8時間の時差があり、あちらはガッツリ深夜であった。どうしたものかと考えたが、意を決してPHSの通話ボタンを押した。
長い長い電子音の後にようやく聞こえてきた梓の声は、案の定機嫌が悪い。
『丑三つ時に電話かけて来る奴がいるかよ』
「……すんません」
一応、事前に連絡は入れてあった。超絶技巧を練習する事になった事、そして練習は夜になるから真夜中から明け方にかけてレッスンしてもらうという事。
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Webカメラを繋いで梓に楽譜の内容を見せると、彼女はカァーッと乾いた声をあげながら大きく仰け反った。そして、長い黒髪を乱雑に掻き上げながら感想を述べる。
『アンタ、ヴァイオリン始めて8年だっけ?まぁそれなりに頑張って何とか旋律師としてやってけるぐらいの力は身につけてもらったんだけどさぁ…正直、託斗の曲は練習量だけじゃどうにもならないよ』
凡人にはどうしても越えられないセンスが壁という形で存在するならば、託斗の書いた全21楽章の超絶技巧はその全てが鉄壁で囲われており、常人ならば初見で諦めるのだという。
「京哉は10歳で完璧に吹いたって託斗が言ってた」
「あの子は特別でしょうに……まぁ、今はそのせいで結構可哀想な事やらされてるみたいだけどね」
梓も人伝てに聞いた内容だというが、京哉には既に要人暗殺や組織の殲滅などの命令も下されており、裏社会では13歳の時点で懸賞金を掛けられているという噂もある。
「アンタは幸せな方だよ。医療班には音楽家とは関係ない一般の看護師も結構在籍してるみたいだし、奪う側じゃなくて救う側なんだもん。だから文句言わずにちゃんと練習しろよ」
文句は言ってねーんだけど…と小声で呟いた言葉もその地獄耳にはハッキリと届いていたようで、画面越しに睨まれた麗慈は急いでヴァイオリンを左顎に挟んで弓を構えた。
超絶技巧修得の為の共同生活を始めてから、麗慈には気が付いた事がある。既に旋律師として日々依頼解決に向かっている京哉と巳継とは基本的に生活の時間が合わない。
朝、大学病院に向かう時間には二人は確実に寝ていた。一方、麗慈の方はというと昼間は研修医として働き、夜は梓のレッスンを受ける。
巳継と顔を合わせずに済んで良いと呑気に日々を送っていた麗慈であったが、ある日出勤前の京哉から突然クレームが入った。
「絶対変だ、あの人!うちの親父の事、教祖か何かだと思ってる!話合わせてやるのも疲れたし、親父が褒めちぎられてるの聞いてると蕁麻疹出てくる!助けて!」
京哉曰く、顔を合わせる度に託斗の話題を振られるというのだ。楽団の主要幹部であるが故、その素性が気になるから色々教えて欲しい…というよりは、ただ一方的に様々な曲の感想を述べられ、賞賛してくるというのだ。
「…良かったじゃん。あんなヤツでもファンの一人や二人はいるってことだ」
「僕を巻き込まないで欲しいんだってば!」
悪い事では無いが、本人が嫌がっているのなら口を挟むべきなのだろうか…しかし何故自分が?そんな葛藤に悩まされながら、麗慈はその日のレポートがあるからと一度自室に籠った。
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昔の誼みという事で彼に味方するハメになった麗慈は、三人の生活時間が昼間に揃う日曜日に巳継を居間に呼び出した。
「何か用か?」
あからさまに突っ慳貪な態度でそう言い放つ巳継を一瞥した麗慈は、頭の中で何かのメーターが1段階上がったような気配を感じた。
グランドピアノの所から拝借した椅子を部屋の隅に置いて二人の様子を観察していた京哉は、麗慈にだけ見える角度から拳を突き上げている。深いため息をついた麗慈は、面倒臭いから早くこの場を解散させたいという一心でとっとと本題に移る事にした。
「京哉が、あんまり自分の父親の話はしてほしく無いって言ってんだけど」
「……何故お前にそんな事を言われる必要があるんだ?」
予想していた通りの答えが返ってきてしまい、こちらも用意していた文句を出してやる。
「…アイツとは昔色々あって面倒見てやってた仲なんだよ。だからアンタの事相談されて、今こうして話してんの」
「そうか」
あまりにも素っ気ない返事に、理解してくれたのか否かもわからない。ギュッと目を瞑って眉間を指の先でグリグリと押さえながら、麗慈は思わず心の中でずっと燻っていた言葉を出してしまっていた。
「アイツの曲がどーのこーのは、まぁわかるけど…今後本人と関わる事になるなら、人間性には期待しない方が良いぞ」
言い終わってから、しまった…と思って顔を上げた麗慈。やはり、巳継はじっと彼の方を睨み付けて怒りに打ち震えている。
「あ、いや…今のは…」
「右神先生を侮辱するのか、お前は!それもご子息の目の前で!いち社員の分際であまりにも無礼が過ぎるぞ!第一、何故お前のような医療班の人間にまで右神先生の楽譜が与えられるのか甚だ疑問だな!」
怒涛の勢いでそう捲し立ててきた巳継は、真っ直ぐに麗慈の方を指差して続ける。
「さっさと楽譜を返しに行け!そして二度と俺の前に姿を現すな!」
あまりにも一方的な言い分に、彼の相手をしている間徐々にゲージが上がっていった麗慈の中の何かのメーターが勢い良く振り切れた。
「アンタにそんな事言われる筋合い無いだろ!誰を崇拝しようと勝手だが俺達を巻き込むなっつってんだよ!俺も京哉もアイツの話は聞きたくねーの!一生庭の枯れ木にでもほざいてろ!」
話し合いの筈が唐突に雲行きが怪しくなり、部屋の端で見ていた京哉もあわあわと落ち着かない様子で椅子から立ち上がった。
「れ、麗慈…良いって、もう!僕が聞き流せば良かったって話だし……」
そろりそろりと近付いてきた京哉の方に、同時に視線を向けた二人がこれまた同時に彼に尋ねる。
「君はお父様を侮辱されて怒りが沸かないのか?あの方は楽団の屋台骨を支える偉大なる大幹部だ!あんなにも素晴らしい作曲家を愚弄するこんな奴に、彼の曲を演奏する資格は無いと思わないか!?」
「第一印象からコイツとは合わないと思ってたんだよ!託斗の事先生、先生って呼んでんのも気色悪りぃ!あのタコスケに俺が散々な目にあわされたのは知ってんだろ?」
両サイドから詰め寄られ、両手を挙げながら後退した京哉は隙を見て部屋を飛び出して行ってしまった。
原因は、他ならぬ右神託斗という一人の男。オーストリアに亡命してきたばかりの麗慈に、「オーストリアでは常識」と言いながら変な事を教え込んで彼に恥ずかしい思いをさせたり、笑わせようと思ったという理由で子供のような馬鹿らしい悪戯を幾度となく仕掛けたり…と。麗慈にとって託斗は、師匠の梓の次に恩を感じている人間であるのと同時に、彼の嫌いランキング堂々の一位に輝き続ける男なのである。
そんな男を崇拝し、持て囃している巳継とは根本的に信条が合わないのだ。そして、悪気無く人をイラつかせる物言いをする彼と、アレコレ気を回しがちな麗慈とでは性格の相性も抜群に悪い。
その後も1時間近くに渡って不毛な口論を続けた麗慈と巳継の間には、こうして決して埋まることのない深い溝が形成されてしまった。
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人間関係こそ最悪であったが、コテージでの超絶技巧の訓練自体は順調に進んでいた。麗慈は昼型、巳継は夜型の生活をしている為、意図的に顔を合わせようとしなければお互いに口をきくタイミングすら無いからだ。
そして、レッスンを受け始めてから3ヶ月が経過した頃。仕事に向かう前の京哉が麗慈に話し掛けてきた。
「閖塚さん、明日から通しでの演奏始めるんだってさ。もうそろそろ、ココ出て行くんじゃない?」
「…へー」
特に興味無さそうに答えた麗慈であったが、同時に練習を始めて彼方の方が先に修得しかけている、というのは矢張り実力差を感じずにはいられなかった。
巳継が一体何歳で楽器を始めたのかはわからないが、京哉が旋律師になる前までは、彼が最年少実力者だったという噂も耳にしている。
通しでの練習をする際は京哉がその場に同席する、という託斗からの忠告通りに、翌日の巳継のレッスン部屋には彼のオーボエの師匠も含めて3人の人間がいた。
「ありゃ、タクトの生き写しじゃのぅ」
突然背後から声を掛けてきた巳継のオーボエの師匠に、京哉は苦笑いを浮かべながら頭をペコペコと下げた。生き写しと言われた事は数え切れないほどある。
そんなに気分の良いものではないが、この年配の男も悪気があるのでは無い事だけは確かであり、京哉は極力気にしないように立ち振る舞うしかなかった。
「それでは…よろしくお願いします」
譜面台の前に立った巳継が一言告げてから、細いリードを食む。
水の神をモチーフにした罔象女神の物語。清らかな水が流れる様が曲調に現れており、運指の難しさが窺い知れる。
音のコントロールが難しい楽器と評されるオーボエで、これ程安定して譜面に忠実な演奏ができる奏者は楽団の中でもそういないだろう。
巳継の演奏に聴き入っていた京哉は、窓ガラスが徐々に結露で曇っていく様子に気が付いていなかった。そして、室内の異様な湿度の高さをようやく感じ始めた瞬間に、隣に座って演奏を聴いていた老爺が突如床に向かって倒れたのだ。
大きな物音に、何事かと巳継が口からリードを離したその時、天井から長さ30センチ程にまで急成長した円錐形のツララが二人を頭上から襲う。
間一髪の所で串刺しになる事を回避した京哉と巳継。しかし、床に倒れ伏している老爺の直上から垂直に彼目掛けて鋭い氷の切先が落下しようとしていた。
すかさず床を蹴った京哉が老爺を壁際に突き飛ばして回避させる。しかし、落下してきたツララは京哉の背中から突き刺さって鳩尾あたりを貫通すると、勢い良く床まで伸びて彼を縫い付けた。
その後も続け様に降り注ぐ大きな氷の槍が、今度は四方八方から京哉を襲い続ける。
巳継はツララを腕で払い除けながら窓を突き破ってコテージの外に退避すると、終始肌身離さず持ち歩いている楽団のPHSで本社への連絡を試みた。
しかし、端末の表面には霜がおり、どのボタンを押しても反応しない。こんな山奥で外界と連絡手段を取る方法は他に無く、どうするべきかと頭をフル回転させている時……
大学病院から帰ってきた麗慈は、血だらけの状態でコテージの外に突っ立っている巳継を見て只事では無いと駆け出した。
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扉から漏れ出す白い冷気。急いでその扉を開け放つと、室内は氷の世界と化していた。
鋭利に尖ったツララが床や壁面、天井から植物のように伸び、二人の侵入を拒む。
扉の近くに転がされていた巳継のオーボエの師匠の男は辛うじて息がある様で、すぐさま廊下に救出した。
「……意識が戻らないな。低体温状態になってる。とりあえず、部屋中から毛布と布団を掻き集めて温めろ」
老爺の全身状態を見て巳継に指示を出した麗慈は、再び氷漬けにされた部屋に足を踏み入れる。
中央に据えられた譜面台の上に鎮座する楽譜、そして氷に絡め取られたオーボエ。その場所から天井近くまで高く突き出した一際大きな氷の柱に貫かれた状態で、京哉が宙吊りになっていた。
足を踏み込むたびにバキバキと細かな氷が割れて滑りそうになる。どうにか京哉の近くまで辿り着いた麗慈は、すぐに全身状態の悪さを察知した。
氷点下の部屋に閉じ込められた状態で腹部や腕、脚の至る所から出血した痕が見受けられる。幸い、氷漬けにされているお陰でそれ程の出血量では無いが、呼吸はしていない。
『どんな感じ?生きてそう?』
コテージに入る前から本社と繋がっている麗慈のPHSからは、託斗の声が聞こえてきた。
「……生きてて欲しいが、普通に考えたら死んでる。救出するには氷を引き抜くか切り出す必要があるが、外気温で溶けた瞬間に大出血する可能性がある。あと、一度凝縮した血液が血管の中を流れ始めた瞬間に至る所で詰まって多臓器不全の可能性も…」
傍から見れば冷静に事態を把握しようとしている麗慈であったが、かなり焦っていた。どう考えても、目の前の人間が助かる見込みはない。状況的に考えて、既にほぼ死んでいるのだ。
「…託斗……俺はどうすれば良い…」
医学の心得のある人間として、それを聞く事は憚られた。しかし、こんな時に頼れるのは普段からめちゃくちゃな言動で事態を何度も解決してきた託斗しかいない。
「麗慈、君にはもう渡してあるじゃないか」
渡してある、その言葉で彼の言わんとする言葉の意味を察する。
「異能を得る楽譜……」
正直、まだ完全に演奏できるとは思えない。そして、『演奏』だけで人の命が救える方法があるとするならば、そんなものは異能を超越し、神の御業である。
「俺はまだ…それに、本当にアンタの曲で…」
「考えてる時間は無い筈だ、麗慈……僕の息子を助けてやってくれ」
躊躇する麗慈の言葉を遮った託斗は、医療班の到着を待っている余裕は無いと判断していた。
普段聞くことのない真剣な声色でそう訴えてきた託斗の言葉に、麗慈は気付けば部屋を飛び出していた。
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ヴァイオリンを抱えて戻ってきた麗慈に、部屋の外で師匠の介抱をしていた巳継が小首を傾げた。
「…何をするつもりだ……?」
「決まってんだろ…人命救護だよ」
そう言いながら、麗慈は本やタオルなど家中から掻き集めてきた燃えそうな物を京哉が宙吊りにされている氷柱の根本に積み上げてライターの火を近付けた。
「止めろ!どんな異能を得られるかもわからないんだぞ…!それに……」
麗慈の腕を掴んだ巳継の脳裏に、自分の演奏によって巻き起こった今回の惨事がフラッシュバックする。
不完全な状態で演奏をすれば、どんな災厄が齎されるかわからない。仲間が生きるか死ぬかという状況で試すべきでは無い、と言いたいのであろう。
「……わかってる」
「それなら何故……ッ」
巳継の腕を振り払った麗慈は、タオルや本の上に乗せた乾いた木屑にライターで着火した。
「…………医者になりたいと言った俺に…今の環境を与えてくれた人間の頼みだからだ。救って欲しいと言われた」
みるみる燃え広がった炎で氷の柱がパチパチと音を立てながら徐々に溶けていく。そして、京哉の身体を貫いていたツララが縮んでいく様子を見ながら、麗慈は左顎にヴァイオリンを挟んだ。
「京哉が床に投げ出される前に支えろ」
麗慈が弓を構えながらそう指示を出すと、巳継は最後の最後まで尻込みをしながらも小さく首を縦に振った。
燃え広がった炎は、氷柱からボタボタと滴る水によって次第に小さくなり、やがて鎮火する。示し合わせたかのようなタイミングで落下してきた京哉を巳継が受け止めた。
京哉の腹からは、氷柱から解放されたのと同時に鮮血が溢れ出し、彼の背中を支えていた巳継の服を真っ赤に染めている。
演奏が始まるのと同時に、赤い光が室内を包み込み、溶け残った氷に乱反射して幻想的な光景を生み出していた。
記憶力の良い麗慈にとって、暗譜は容易い。しかし、12歳でヴァイオリンを始めた頃から常に表現力の乏しさを梓に指摘されていた。
『アンタって、やっぱりソリスト向きじゃないね』
昨夜のレッスンで梓に改めてそう言われた。音が前に出てこない。麗慈には彼女のその言葉の意味を理解する事ができず、非常に悩んだ。
『前に出るっていうのは……こう、訴えかけてくる?みたいな?』
「抽象的だな…」
『そうだよ。抽象的なんだよ、表現力なんてものは』
どんな演奏にしたいか、どんな音を作り出したいか。
奏者がどう聴かせたいかを自分自身で考え、それを表現できるかどうか、だと。
『京ちゃんもアイツに結構怒られてんだよ、表現力が無いって』
時折、オーストリアから電話をかけてきては、あの男が梓に息子の演奏について一方的に愚痴られるのだという。
『アンタと京ちゃんじゃあ、要求される演奏レベルが全然違うんだろうけどさ……あの子、ミーアのレッスン受けてかなり実力付けたでしょ』
京哉は2年間、[[rb:旋律師 > メロディスト]]としての演奏技術をミーアのもとで学んだ。彼女が得意とする金属の状態変化と再造形。
「何を作りたいか…を意識するようになった、とか?」
『ま、そんな感じ?アンタとは目指してる所がちがうんだけどね。でも、医者にもあるんじゃないの?目の前の患者をどうしたら救えるのかっていう…』
人体の構造、骨の形、血管の本数、それらの位置。
麗慈はオーストリアに来てから死に物狂いに勉強して、それら全てを頭に叩き込んでいた。
正常な状態と比較して、損傷箇所とその原因を発見する。そして、元の身体に戻る為に必要な処置を施した上で細胞を再構築する。
全ての医者が、頭の中で考えた術式を1パーセントの狂いもなく実施できたら、今よりもどれだけ多くの患者の命が救われているだろうか。
それを可能にする神の御業とも呼べる異能は、大己貴命を医者の膨大な知識を持つ人間が演奏する事で初めて、現実のものとなるのである。
京哉の腹から次々に溢れ出ていた出血が止まり、壊された臓器や骨の再生が始まる。一際室内に乱反射する赤い光が強さを増した瞬間に、シンと静まり返っていた心拍が再開した。
徐々にその背中に人間の体温が戻ってくるのを掌で感じ取った巳継は、彼の皮膚が縫合の痕も無く綺麗に修復されている様子を見て目を見開いて驚愕する。
そして麗慈が最後の1音を奏で終わり、室内に暗さが戻ると同時に京哉は薄らと瞼を持ち上げてぼんやりと天井を見上げていた。
…………………………………………………………………………………
そこから先の麗慈の記憶は非常に曖昧で、目覚めた時には楽団社員寮の自室のベッドの上だった。
重だるい腕を布団の中から引き抜いて腕時計の盤面に目を凝らす。時刻は21時過ぎ。京哉の蘇生措置を始めてから3時間程が経過していた。
確か、京哉が目を開いたすぐ後に急激な睡魔に襲われて床に吸い込まれたような覚えはある。どうやってここまで辿り着いたのか、あの後コテージの面々はどうなったのか。
気になる事ばかりだが、鉛のように全身が重くて今は脚の一本も動かしたく無い状況であった。
そんな時に聞きたくないあの男の声が激しいノックの音と共に鼓膜を震わせて、麗慈は思い切り顔を顰めて布団を頭から被った。
「やあやあお疲れさーん!あれ?まだ寝てる?おーい」
無遠慮にマットレスに座り、子供のようにボフボフと上下に揺らしながら呼びかけてきた託斗。たまらず布団を頭から退かすと、彼の満面の笑みが待っていた。
「………どういう状況?」
「ああ、君がぶっ倒れてからどうなったかって?」
やけに楽しそうな様子で語り始めた託斗によると、京哉が息を吹き返した数分後に楽団から派遣した医療班がコテージ内の人間を全員保護したのだという。
巳継と彼の師匠は今も治療中だが命に別条は無く、京哉に至っては擦り傷一つ見受けられない健康体だというが、念の為精密検査を受けている。
「凄いねェ、大己貴命は。ほぼ死んでる人間まで蘇生できるんだ」
演奏する事で治癒を可能にする…という異能を与える事を期待して、託斗はこの曲を書いた。しかし、実際に得た能力は彼のイメージとは少し乖離していた様だった。
聴いた人間の損傷が修復されるならば、その場にいた巳継や彼の師匠の症状も完治している筈だ。しかし、そうではない。
麗慈が明確に『治療対象』だと認識し、治癒するまでの過程を想像していた京哉だけが全快していたのだ。
「凄い力だけど、人間はどう足掻いたって神にはなれない。救けられるのはその手の届く範囲だけって事かな。あとはあずあずン所で精度上げていけばちゃんとモノになるって感じだ」
勝手に納得した様子で、ウンウンと首を縦に振る託斗。そして、ヘラヘラと不真面目な笑いを辞めた彼は真っ直ぐ麗慈の方を見据えた。
「……よく頑張ったね、麗慈」
不意に伸びてきた手にわしゃわしゃと栗色の短髪を撫でられて、麗慈は年甲斐もなく泣きそうになってしまった。幼い頃から施設で育てられ、親の愛情を知らない彼にとって、託斗はある意味育ての親のようなもの。普段から文句ばかり言っていても、褒められれば嬉しい。
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騒動がひと段落した頃、研修医の勤務から社員寮に帰ってきた麗慈の元を京哉が尋ねてきた。
「麗慈のお陰でめっちゃ元気になってさぁ、僕!」
その言葉通り、あの日ほぼ死んでいた人間とは思えない程満面の笑みである。
かつて共に暮らしていた部屋の変わり映えしない内装を眺めながら、唯一がらんどうになったままの彼が使っていた部屋の前で踵を返した京哉。
「まだ同じ部屋住んでんだー。引っ越さないの?社員寮じゃ彼女とか呼べなくない?」
「……忙しいんだよ、俺は。それに今の病院で全科の研修を一通り終えたら日本に派遣される予定だから、今引っ越しても無駄になんだろ」
相変わらず託斗に似た表情で軽口を叩いてくる京哉を睨みながら答えてやる。
「日本行っちゃうんだ。最近物騒だもんね、あの国」
自分の育った第一の祖国とも言えるのに、彼は遠い外国の事だと無関係なテイでそんな感想を述べていた。
「お前はヨーロッパにいても物騒な事やらされてんだろ。師匠から聞いたけど」
「あー…そうそう。毎日嫌ンなるよね。僕まだ15歳なのに……」
途中で声を詰まらせた京哉の顔から表情が消えた。
母親を目の前で殺され、想像に耐え難い環境で育てられた彼は、オーストリアに亡命してからもおよそ“普通”の子供としての扱いを受けてこなかった。
旋律師になった今は、その手を他人の血で染めている。
「…… なる為に通る地獄と、なってから落ちる地獄がある」
それはかつて、麗慈が梓から教えられた言葉であった。
旋律師になれば、楽団の命令に叛く事は許されない。京哉が要人暗殺、組織殲滅ばかりを請け負う事になったのは、彼の能力がそれらに向いていたからである。彼の心など関係なく、次々に命令は下される。やりたくない、が罷り通る世界では無い事は京哉も十分理解していた筈だった。
「…10歳から地獄で生きてるのか、僕」
そう自嘲気味に笑いながら俯いた彼の横顔にはまだ幼さが残っている。
これから成長していくに連れて、より深淵の任務に向かう事になるであろう。そんな京哉の背中をパシンと叩いた麗慈は驚いて顔を上げた彼の頭を乱暴に撫でる。
「ソレ…やらねー約束。忘れたのかよ?」
それは、彼らがオーストリアで出会ってから間も無い頃に交わした約束。
無理に笑わない。泣きたい時は泣く。でも、それはお互いの前だけだ、と。
気が付けばグレーの瞳からはポロポロと大粒の雫が溢れ出し、頬を伝い始めていた。
じっと床を見つめながら静かに涙している京哉の頭をそっと肩に抱き寄せてやる。途端に声を上げて号泣し始めた京哉は、麗慈の服で涙を拭ったり終いには鼻までかみだした。慌てて引き剥がそうと頭頂部を押し返すが、ビクともしない。
「おい!馬鹿!汚ぇ!!離れろ!!」
あまりの体幹の強さに呆れ顔を見せて諦めた麗慈は、深くため息をつく。昔は腰の位置までしか無かった身長が、今やほぼ並ばれている。無駄に図体ばかりデカくなりやがってと言ってやりたがったが、その文句は今は心の中に留めて置くことにした。
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巳継の演奏が引き起こした災厄の暴走は、マエストロの認識違いであった。楽譜に書かれていた託斗からの要求とは違う奏法を巳継に勧めていたのだ。
この件で彼の師匠は楽団を追放される事となり、新たなマエストロとして作曲者である託斗が直接巳継を指導する事になった。
「そんな事したら、あのタクト教への執心度合いが加速しちゃうんじゃないの?」
後日、偶然楽団社内ですれ違った時、京哉は心底面倒臭そうな表情でそう呟いていた。麗慈は、巳継が超絶技巧を修得した後にバディを組まされるような事をロジャー達が言っていた事を思い出して苦笑する。
今度は麗慈の方から「ご愁傷様です」と京哉に向けて手を合わせる。
「他人の心配なんてしてる場合じゃ無かった…!社長に呼ばれてんの、僕」
呑気に手を振りながら駆け出した京哉は、社屋最上階に向かう為エレベーター前で待つ人集りに混ざる。
表向きは健全な会社として営業している楽団では、一応定時は17時と決められている。その為、退勤の為に並ぶ人間が殆どで上の階に向かう人間はいなかった。
一向に上階行きのエレベーターが止まらない様子に、自力で階段を昇り始めようかと迷い始めた京哉の肩を後方より叩いたのは支部長のミーアであった。
「社長室なら直通のがある。ついてきなさい」
踵を返してツカツカと歩き始めた彼女の後を言われるがままについて行くと、上層部の人間だけが所持しているカードキーを通して開く自動ドアの奥に、大人二人程度なら問題無く乗れる広さの古いエレベーターが存在していた。
「ありがとうございます。遅れたら怒られちゃうかもしれないんで…」
「あの人は理由もなく怒ったりしないよ。小言は言われるかもしれないが」
そう返しながら左腕の時計に視線を落としたミーアに、京哉が尋ねる。
「支部長も社長に呼び出されてたりします?」
すると、ゆっくりと踵を返して彼と視線を合わせたミーアが少しその表情を曇らせながら口を開いた。
「ああ。かねてから、君の働きぶりが優秀だと褒められていてね。今度から外部の協力者の元に潜伏して依頼解決に向かわせてはどうかと提案されているんだ」
協力者の存在については、京哉も何となく認識はしていた。各支部からは手の届かない僻地や、戦争の絶えない地域、または反音楽を大々的に掲げている地域での活動の為に、単身乗り込む際の生活の補助をするサポーター的役割の人間がいる、と。
「じゃあ、近いうちに僕も一人で色々活動するようになるんですね」
「ああ…そうなると、きっと……」
楽団の外に出て活動する事についてあまり理解していない様子の京哉を前に、ミーアはぐっと言葉を噤む。
これまではミーアを通して依頼を受けていたが、今後は楽団上層部からJACを通して直接依頼を受ける事になる。
楽団は、所謂社会悪に対峙する組織ではない。正義のヒーローではないのだ。
顧客から依頼を受けてエージェントを送り出し、報酬を貰って成り立つビジネスであり、上層部が必要だと判断すれば悪にも手を染めなければならない。
そのような依頼を受けないように、今まで必死に彼を守ってきたのはミーアであった。
しかし、これからはそうはいかない。
より深淵の任務へと駆り出される。
齢十五にして、京哉は世界の秩序たる理不尽を、その身を持って経験する事になっていくのであった。
[34] Zaleo 完
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ウィーン医科大学に14歳で入学した神童は、その後も順調に医学の道を進んでいった。20歳で無事に医師免許を取得して卒業すると、今度は大学病院で研修医として働きながら旋律師専門医としての技術を身につける為の訓練を行う二重生活が始まった麗慈。
その日はロジャーに呼び出され、楽団本社の最上階にある社長室を訪れていた。
招かれた応接間の長椅子の端には既にスーツ姿の一人の青年が座っていたが、麗慈とは面識の無い人間だった。
「忙しい所、済まないね二人とも。あぁ、レイジは大学卒業おめでとう。まだ二十歳だろう?大したもんだ」
唐突に切り出してきたロジャーに褒めちぎられて、麗慈は気後れしながらもペコッと頭を下げた。
「紹介しよう。隣に座っている彼は、先週までアジア地域を担当していたミツキ・ユリヅカだ」
ロジャーに紹介された青年は、レンズ幅の細いメガネのフレームをクイッと持ち上げた。
「ミツキ、彼はレイジ・ワカノミヤ。今度から医療班に配属される。いつか世話になるかもしれないから、顔と名前ぐらいは覚えておくと良い」
今度は自分の紹介をしてきたロジャーに合わせて、巳継の方に頭をペコッと下げる麗慈。しかし、巳継の反応は薄く、「はぁ」と気のない返事だけで目も合わせようとしてこなかった。
「今日君達をこの場に呼んだのは……」
ロジャーがそう切り出した時だった。社長室の扉が開いたかと思えば、そこには返り血で赤黒く汚れた白い燕尾服を纏った身長170センチ程の青年が突っ立っている。
応接スペースの長椅子に座る二人と目が合い、瞬きを繰り返す彼の手には同じく血で汚れた書類の束が丸めて握られていた。
「……そこに置いておきなさい」
呆れた様子のロジャーが自分のデスクを指差してそう伝えると、ようやく場の雰囲気を察した様で足早に書類を置きに向かう。
横を通り過ぎる際、どこか見覚えのある顔だと思った麗慈が小首を傾げていると、踵を返した彼と目が合ってしまった。
数秒間、時が止まったかのようにお互いの顔を見つめ合って動かなくなる二人。先に口を開いたのは燕尾服の青年の方だった。
「……麗慈じゃん。ひっさしぶりー…」
声も話し方も全然知らないのに、麗慈には絶対に知ってる人間だという確信だけはあった。そして、一か八かでその名を呼んでみる。
「…………お前…京哉?」
何で疑問系なんだよ?とケラケラ笑う様子からは、過去の面影ではなく、彼の父親の姿が連想される。
10歳で旋律師になり各地を飛び回るようになった京哉とは、彼が父親と共に超絶技巧の修得に向かった後から会っていない。
身長は70センチ近く伸び、声変わりもしていれば、あの時とはまるで違う性格。いくら2年間ルームシェアした人間と言えども彼だと気が付くのは容易ではない。
楽しげに笑っている京哉を横目に咳払いをしたロジャーは、早く出て行けと暗に催促していた。唇を尖らして歩き出した京哉の背中が廊下に消えていくのを見届けた直後、再び扉が大きく開いて今度は託斗が姿を現した。左手にはアタッシュケース、右手には先程退室したはずの彼の息子の襟首を引っ掴んでいる。
「やあ、お二人さん。持ってきたよ、例のもの!」
応接机のローテーブルにアタッシュケースをドカっと乱暴に置いた託斗は、鼻高々に蓋を開けて中身を見せつけて来た。しかし、麗慈と巳継の反応があまりにも皆無だった為、託斗はキョロキョロと周囲を見回しながらロジャーに説明を求めていた。
「……まだ言ってない。色々と邪魔が入ってな」
邪魔と言って託斗に引き摺られて戻ってきた京哉の方を顎で指すロジャー。
「邪魔とは失敬な!巳継と京哉を組ませるって言ったのはロジャーじゃないか」
「それは彼が超雑技巧を修得できたらの話だろう。今日は楽譜を渡すだけだと……」
ごちゃごちゃと口喧嘩を始めてしまったロジャーと託斗の間からすり抜けた京哉は、まだ事態を把握できていない二人の元へと歩み寄っていった。
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広げられたアタッシュケースの中を覗き込んだ京哉は全てを察した様で、麗慈に向かって「ご愁傷様です」と小声で呟いた。
「…いや、説明しろよ。何だ、コレ?」
ハードカバーの楽譜を目の前にしてもピンと来ていない様子の麗慈を見た京哉は、二人掛けのソファの真ん中に無理矢理身体を捩じ込んで座る。
「親父が書いた異能を修得する為の曲。麗慈と…えぇと…」
指を差しながら、えぇとー…と唸る京哉を見て、巳継が名乗った。
「閖塚巳継」
「…サンにその曲をやらせようって事じゃない?」
流石に血だらけの手で触る事は憚られた様子で、そのまま背もたれに背中を預けて眠そうに唸り始めた京哉。見るからに疲労困憊状態の彼に寄り掛かられるも、麗慈は肘でガツガツ頭を押し返しながら訝しげな表情を見せた。
「お前…本当に京哉か?」
「えー?疑ってんの?酷くない?…6年前と比べられても困るんだけど」
確かに6年前の京哉と言えば8歳。麗慈は彼がオーストリアでの生活に慣れるまで色々と世話を焼いた事を思い出す。
それと同時に、あの時は言葉足らずだったが割と従順で大人しい性格だった京哉が、まるで託斗の生き写しのように成長してしまった事に落胆を覚える。
他人の血液で汚れた皮膚を放置するなど言語道断だと、医者らしい文句で京哉に手を洗って来るように言い聞かせた麗慈は、横に座る巳継が何か言いたげに口をまごまごさせている様子に気が付いた。
「…何?」
「あ、いや……今君と会話をしていた彼は…?」
完全に会話に置いてけぼりにしてしまっていたようだ。まず、社長と言い争っているのは誰だ、と聞かれて託斗の顔を知る者は楽団社内でも本当に限られた人間だけだったのだと思い知らされる。
「アレはその目の前の楽譜を書いた…」
「右神託斗先生か…!?」
食い気味に問い返され、そしてまさかの先生呼びに、麗慈は吃りながら首を小さく縦に振る。
「で、あの燕尾服はその息子」
「ご子息がおられるのか!?」
またまた興奮した様子で距離を詰めてくる巳継に恐怖に似た感情を覚えながらも、そうだと返してやった。
何とか話が纏まったようで不毛な口喧嘩には終止符が打たれた。再び対面に腰掛けたロジャーがアタッシュケースに収納された楽譜を取り出して二人にそれぞれ手渡す。
「ミツキには罔象女神、レイジには大己貴命を練習してもらいたい」
与えられた冊子の表紙を捲ると、託斗の手書きで曲が連ねられていた。超絶技巧と呼ばれるだけに、かなりの技術力を要する曲である事は一目でわかる。
隣で打ち震えている巳継が視界の端に入ってしまい、思わず視線をそちらに向ける。何やらぶつぶつと小声で呟いている様子だった。
「時間は掛けてもらって構わないけど、それぞれ必ずマエストロに師事すること。これから二人には楽団が用意した人目に付かない場所で生活してもらいながら、練習してもらうことになったよ」
そう話し掛けてきた託斗の方を仰ぎ見た麗慈は、スッと小さく手を挙げた。
「……俺、昼は大学病院で研修医勤務なんだけど…」
「うん。夜練習すれば良くない?」
キッパリと笑顔でそう答えられると、指示通りにするしかない。麗慈は楽団に多額の借金を背負わされている上に、学業や生活における全ての費用を負担してもらった身の上なのだ。
これから始まる辛い二重生活を前にして絶望に打ちひしがれる彼の隣では、巳継がパッと元気良く手を挙げていた。
「私からも質問宜しいでしょうか?」
「はい、どうぞ」
託斗に笑顔を向けられたのが余程嬉しかったのか、明らかに先程までとは様子が違う。
「人目につかない場所…というのは、やはり楽団内部でも情報漏洩をさせない為という事でしょうか?」
「まぁ…そういう面もあるんだけど、他にも理由はあって……」
答えを濁す託斗の様子に何か言い辛い事でもあるのかと小首を傾げた二人。その背後からは、血糊を綺麗に落として着替えまで済ませてきた京哉が音もなく入室して先程の楽譜は一体どうなったのかと覗き込んでいた。
「もし、うまくいかなかった場合の被害を最小限に食い止める為……かな」
そう口に出した託斗は、再び京哉の襟首を引っ掴んで二人の目の前に連れて来る。
「通して演奏する場合は、必ず京哉の目の前でやる事。良いね?」
不完全な演奏による災厄の暴発によって周囲に人的、物理的な被害が及ぶと判断すれば、すぐ対処するように。超絶技巧を既に修得している京哉には、暗にそう命令されているのだとすぐに理解できた。
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ハイリゲンシュタットはウィーン中心部の旧市街地から北に位置する街である。閑静な街並みを更に奥に進んだ場所に、楽団が二人の練習場所として借り上げたコテージが佇んでいた。
例の如く鍵穴に詰まった落ち葉を取り除いてから錆びついた鍵を突き刺して回す。立て付けの悪いドアを軋ませながら一気に引くと、埃っぽい屋内の空気が三人に向けて放出された。
「ゲホゲホッ……あー…まずは掃除からやれって事だな、コレは…」
蜘蛛の巣を払い除けながら進入していく麗慈がそう呟くと、えぇー…とやる気のない声をあげる京哉。そんな彼の方をへと踵を返した巳継は、スチャッと眼鏡を直しながら詰め寄ってきた。
「な…何スか……」
「マスク……要るかい?これだけ酷い埃を吸い込めば肺機能に支障をきたす可能性がある」
スッと手渡されたマスクを思わず受け取ってしまった京哉は、愛想笑いを見せながらそれを大人しく装着した。そんな彼の様子を見て満足したのか、巳継は自分の分のマスクも取り出して紐を耳にかける。
「俺のは?」
不満げにそう問う麗慈の方に視線を向けた巳継は、何故お前に?という訝しげな表情を見せていた。
「弦楽器だろ、お前」
「っ……そうっスね」
あまり関わりたく無い部類の人間だと再認識した麗慈。漂ってくる埃を手で払い除けながら廊下を進んでいった。
換気のために開け放った窓からは黄色く色付く街路樹が見える。住宅地からも一本外れた区画に建てられていたこのコテージは、エネルギー革命以前に住処を追われた人々が身を寄せ合う場所として政府が用意したものの一つであるという。
一通り掃除を終えた頃には陽は大きく西に傾いており、ろくに手伝いもしなかった京哉はこれから仕事で出かけるのだと言う。
今の時代、学校教育制度が破綻していない国は稀であったが、エネルギー供給と国内の治安が安定しているオーストリアでは、小学校から大学まで多くの子供達が通い、普通に教育を受ける事ができた。
本来なら京哉ぐらいの年齢ならば学校に通っている。しかし、彼はオーストリアに亡命して楽団の人間として生きる事を余儀なくされた8歳の時から、こうなることは決められていたのだ。
10歳で超絶技巧を修得してからすぐ旋律師として顧客の依頼を受けて来た様だが、先日社長室で見た彼の姿から察するに、後ろ暗い内容なのであろう。
その割には元気よく手を振って出発していった京哉に手を振り返してやった麗慈は、明日から始まる研修医との二重生活の前に少しでも譜読みをしておこうと譜面台の前に立った。
隣の部屋からは既に練習を始めていた巳継の奏でるオーボエの音色が聞こえてくる。託斗に忠告された通り、彼の部屋にはオーボエの師匠か訪ねてきているようで、時折年配の男と会話する声が聞こえてきた。
ふと腕時計に視線を落とした麗慈。現在の時刻は18時前。彼の師である梓のいる日本とは約8時間の時差があり、あちらはガッツリ深夜であった。どうしたものかと考えたが、意を決してPHSの通話ボタンを押した。
長い長い電子音の後にようやく聞こえてきた梓の声は、案の定機嫌が悪い。
『丑三つ時に電話かけて来る奴がいるかよ』
「……すんません」
一応、事前に連絡は入れてあった。超絶技巧を練習する事になった事、そして練習は夜になるから真夜中から明け方にかけてレッスンしてもらうという事。
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Webカメラを繋いで梓に楽譜の内容を見せると、彼女はカァーッと乾いた声をあげながら大きく仰け反った。そして、長い黒髪を乱雑に掻き上げながら感想を述べる。
『アンタ、ヴァイオリン始めて8年だっけ?まぁそれなりに頑張って何とか旋律師としてやってけるぐらいの力は身につけてもらったんだけどさぁ…正直、託斗の曲は練習量だけじゃどうにもならないよ』
凡人にはどうしても越えられないセンスが壁という形で存在するならば、託斗の書いた全21楽章の超絶技巧はその全てが鉄壁で囲われており、常人ならば初見で諦めるのだという。
「京哉は10歳で完璧に吹いたって託斗が言ってた」
「あの子は特別でしょうに……まぁ、今はそのせいで結構可哀想な事やらされてるみたいだけどね」
梓も人伝てに聞いた内容だというが、京哉には既に要人暗殺や組織の殲滅などの命令も下されており、裏社会では13歳の時点で懸賞金を掛けられているという噂もある。
「アンタは幸せな方だよ。医療班には音楽家とは関係ない一般の看護師も結構在籍してるみたいだし、奪う側じゃなくて救う側なんだもん。だから文句言わずにちゃんと練習しろよ」
文句は言ってねーんだけど…と小声で呟いた言葉もその地獄耳にはハッキリと届いていたようで、画面越しに睨まれた麗慈は急いでヴァイオリンを左顎に挟んで弓を構えた。
超絶技巧修得の為の共同生活を始めてから、麗慈には気が付いた事がある。既に旋律師として日々依頼解決に向かっている京哉と巳継とは基本的に生活の時間が合わない。
朝、大学病院に向かう時間には二人は確実に寝ていた。一方、麗慈の方はというと昼間は研修医として働き、夜は梓のレッスンを受ける。
巳継と顔を合わせずに済んで良いと呑気に日々を送っていた麗慈であったが、ある日出勤前の京哉から突然クレームが入った。
「絶対変だ、あの人!うちの親父の事、教祖か何かだと思ってる!話合わせてやるのも疲れたし、親父が褒めちぎられてるの聞いてると蕁麻疹出てくる!助けて!」
京哉曰く、顔を合わせる度に託斗の話題を振られるというのだ。楽団の主要幹部であるが故、その素性が気になるから色々教えて欲しい…というよりは、ただ一方的に様々な曲の感想を述べられ、賞賛してくるというのだ。
「…良かったじゃん。あんなヤツでもファンの一人や二人はいるってことだ」
「僕を巻き込まないで欲しいんだってば!」
悪い事では無いが、本人が嫌がっているのなら口を挟むべきなのだろうか…しかし何故自分が?そんな葛藤に悩まされながら、麗慈はその日のレポートがあるからと一度自室に籠った。
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昔の誼みという事で彼に味方するハメになった麗慈は、三人の生活時間が昼間に揃う日曜日に巳継を居間に呼び出した。
「何か用か?」
あからさまに突っ慳貪な態度でそう言い放つ巳継を一瞥した麗慈は、頭の中で何かのメーターが1段階上がったような気配を感じた。
グランドピアノの所から拝借した椅子を部屋の隅に置いて二人の様子を観察していた京哉は、麗慈にだけ見える角度から拳を突き上げている。深いため息をついた麗慈は、面倒臭いから早くこの場を解散させたいという一心でとっとと本題に移る事にした。
「京哉が、あんまり自分の父親の話はしてほしく無いって言ってんだけど」
「……何故お前にそんな事を言われる必要があるんだ?」
予想していた通りの答えが返ってきてしまい、こちらも用意していた文句を出してやる。
「…アイツとは昔色々あって面倒見てやってた仲なんだよ。だからアンタの事相談されて、今こうして話してんの」
「そうか」
あまりにも素っ気ない返事に、理解してくれたのか否かもわからない。ギュッと目を瞑って眉間を指の先でグリグリと押さえながら、麗慈は思わず心の中でずっと燻っていた言葉を出してしまっていた。
「アイツの曲がどーのこーのは、まぁわかるけど…今後本人と関わる事になるなら、人間性には期待しない方が良いぞ」
言い終わってから、しまった…と思って顔を上げた麗慈。やはり、巳継はじっと彼の方を睨み付けて怒りに打ち震えている。
「あ、いや…今のは…」
「右神先生を侮辱するのか、お前は!それもご子息の目の前で!いち社員の分際であまりにも無礼が過ぎるぞ!第一、何故お前のような医療班の人間にまで右神先生の楽譜が与えられるのか甚だ疑問だな!」
怒涛の勢いでそう捲し立ててきた巳継は、真っ直ぐに麗慈の方を指差して続ける。
「さっさと楽譜を返しに行け!そして二度と俺の前に姿を現すな!」
あまりにも一方的な言い分に、彼の相手をしている間徐々にゲージが上がっていった麗慈の中の何かのメーターが勢い良く振り切れた。
「アンタにそんな事言われる筋合い無いだろ!誰を崇拝しようと勝手だが俺達を巻き込むなっつってんだよ!俺も京哉もアイツの話は聞きたくねーの!一生庭の枯れ木にでもほざいてろ!」
話し合いの筈が唐突に雲行きが怪しくなり、部屋の端で見ていた京哉もあわあわと落ち着かない様子で椅子から立ち上がった。
「れ、麗慈…良いって、もう!僕が聞き流せば良かったって話だし……」
そろりそろりと近付いてきた京哉の方に、同時に視線を向けた二人がこれまた同時に彼に尋ねる。
「君はお父様を侮辱されて怒りが沸かないのか?あの方は楽団の屋台骨を支える偉大なる大幹部だ!あんなにも素晴らしい作曲家を愚弄するこんな奴に、彼の曲を演奏する資格は無いと思わないか!?」
「第一印象からコイツとは合わないと思ってたんだよ!託斗の事先生、先生って呼んでんのも気色悪りぃ!あのタコスケに俺が散々な目にあわされたのは知ってんだろ?」
両サイドから詰め寄られ、両手を挙げながら後退した京哉は隙を見て部屋を飛び出して行ってしまった。
原因は、他ならぬ右神託斗という一人の男。オーストリアに亡命してきたばかりの麗慈に、「オーストリアでは常識」と言いながら変な事を教え込んで彼に恥ずかしい思いをさせたり、笑わせようと思ったという理由で子供のような馬鹿らしい悪戯を幾度となく仕掛けたり…と。麗慈にとって託斗は、師匠の梓の次に恩を感じている人間であるのと同時に、彼の嫌いランキング堂々の一位に輝き続ける男なのである。
そんな男を崇拝し、持て囃している巳継とは根本的に信条が合わないのだ。そして、悪気無く人をイラつかせる物言いをする彼と、アレコレ気を回しがちな麗慈とでは性格の相性も抜群に悪い。
その後も1時間近くに渡って不毛な口論を続けた麗慈と巳継の間には、こうして決して埋まることのない深い溝が形成されてしまった。
…………………………………………………………………………………
人間関係こそ最悪であったが、コテージでの超絶技巧の訓練自体は順調に進んでいた。麗慈は昼型、巳継は夜型の生活をしている為、意図的に顔を合わせようとしなければお互いに口をきくタイミングすら無いからだ。
そして、レッスンを受け始めてから3ヶ月が経過した頃。仕事に向かう前の京哉が麗慈に話し掛けてきた。
「閖塚さん、明日から通しでの演奏始めるんだってさ。もうそろそろ、ココ出て行くんじゃない?」
「…へー」
特に興味無さそうに答えた麗慈であったが、同時に練習を始めて彼方の方が先に修得しかけている、というのは矢張り実力差を感じずにはいられなかった。
巳継が一体何歳で楽器を始めたのかはわからないが、京哉が旋律師になる前までは、彼が最年少実力者だったという噂も耳にしている。
通しでの練習をする際は京哉がその場に同席する、という託斗からの忠告通りに、翌日の巳継のレッスン部屋には彼のオーボエの師匠も含めて3人の人間がいた。
「ありゃ、タクトの生き写しじゃのぅ」
突然背後から声を掛けてきた巳継のオーボエの師匠に、京哉は苦笑いを浮かべながら頭をペコペコと下げた。生き写しと言われた事は数え切れないほどある。
そんなに気分の良いものではないが、この年配の男も悪気があるのでは無い事だけは確かであり、京哉は極力気にしないように立ち振る舞うしかなかった。
「それでは…よろしくお願いします」
譜面台の前に立った巳継が一言告げてから、細いリードを食む。
水の神をモチーフにした罔象女神の物語。清らかな水が流れる様が曲調に現れており、運指の難しさが窺い知れる。
音のコントロールが難しい楽器と評されるオーボエで、これ程安定して譜面に忠実な演奏ができる奏者は楽団の中でもそういないだろう。
巳継の演奏に聴き入っていた京哉は、窓ガラスが徐々に結露で曇っていく様子に気が付いていなかった。そして、室内の異様な湿度の高さをようやく感じ始めた瞬間に、隣に座って演奏を聴いていた老爺が突如床に向かって倒れたのだ。
大きな物音に、何事かと巳継が口からリードを離したその時、天井から長さ30センチ程にまで急成長した円錐形のツララが二人を頭上から襲う。
間一髪の所で串刺しになる事を回避した京哉と巳継。しかし、床に倒れ伏している老爺の直上から垂直に彼目掛けて鋭い氷の切先が落下しようとしていた。
すかさず床を蹴った京哉が老爺を壁際に突き飛ばして回避させる。しかし、落下してきたツララは京哉の背中から突き刺さって鳩尾あたりを貫通すると、勢い良く床まで伸びて彼を縫い付けた。
その後も続け様に降り注ぐ大きな氷の槍が、今度は四方八方から京哉を襲い続ける。
巳継はツララを腕で払い除けながら窓を突き破ってコテージの外に退避すると、終始肌身離さず持ち歩いている楽団のPHSで本社への連絡を試みた。
しかし、端末の表面には霜がおり、どのボタンを押しても反応しない。こんな山奥で外界と連絡手段を取る方法は他に無く、どうするべきかと頭をフル回転させている時……
大学病院から帰ってきた麗慈は、血だらけの状態でコテージの外に突っ立っている巳継を見て只事では無いと駆け出した。
…………………………………………………………………………………
扉から漏れ出す白い冷気。急いでその扉を開け放つと、室内は氷の世界と化していた。
鋭利に尖ったツララが床や壁面、天井から植物のように伸び、二人の侵入を拒む。
扉の近くに転がされていた巳継のオーボエの師匠の男は辛うじて息がある様で、すぐさま廊下に救出した。
「……意識が戻らないな。低体温状態になってる。とりあえず、部屋中から毛布と布団を掻き集めて温めろ」
老爺の全身状態を見て巳継に指示を出した麗慈は、再び氷漬けにされた部屋に足を踏み入れる。
中央に据えられた譜面台の上に鎮座する楽譜、そして氷に絡め取られたオーボエ。その場所から天井近くまで高く突き出した一際大きな氷の柱に貫かれた状態で、京哉が宙吊りになっていた。
足を踏み込むたびにバキバキと細かな氷が割れて滑りそうになる。どうにか京哉の近くまで辿り着いた麗慈は、すぐに全身状態の悪さを察知した。
氷点下の部屋に閉じ込められた状態で腹部や腕、脚の至る所から出血した痕が見受けられる。幸い、氷漬けにされているお陰でそれ程の出血量では無いが、呼吸はしていない。
『どんな感じ?生きてそう?』
コテージに入る前から本社と繋がっている麗慈のPHSからは、託斗の声が聞こえてきた。
「……生きてて欲しいが、普通に考えたら死んでる。救出するには氷を引き抜くか切り出す必要があるが、外気温で溶けた瞬間に大出血する可能性がある。あと、一度凝縮した血液が血管の中を流れ始めた瞬間に至る所で詰まって多臓器不全の可能性も…」
傍から見れば冷静に事態を把握しようとしている麗慈であったが、かなり焦っていた。どう考えても、目の前の人間が助かる見込みはない。状況的に考えて、既にほぼ死んでいるのだ。
「…託斗……俺はどうすれば良い…」
医学の心得のある人間として、それを聞く事は憚られた。しかし、こんな時に頼れるのは普段からめちゃくちゃな言動で事態を何度も解決してきた託斗しかいない。
「麗慈、君にはもう渡してあるじゃないか」
渡してある、その言葉で彼の言わんとする言葉の意味を察する。
「異能を得る楽譜……」
正直、まだ完全に演奏できるとは思えない。そして、『演奏』だけで人の命が救える方法があるとするならば、そんなものは異能を超越し、神の御業である。
「俺はまだ…それに、本当にアンタの曲で…」
「考えてる時間は無い筈だ、麗慈……僕の息子を助けてやってくれ」
躊躇する麗慈の言葉を遮った託斗は、医療班の到着を待っている余裕は無いと判断していた。
普段聞くことのない真剣な声色でそう訴えてきた託斗の言葉に、麗慈は気付けば部屋を飛び出していた。
…………………………………………………………………………………
ヴァイオリンを抱えて戻ってきた麗慈に、部屋の外で師匠の介抱をしていた巳継が小首を傾げた。
「…何をするつもりだ……?」
「決まってんだろ…人命救護だよ」
そう言いながら、麗慈は本やタオルなど家中から掻き集めてきた燃えそうな物を京哉が宙吊りにされている氷柱の根本に積み上げてライターの火を近付けた。
「止めろ!どんな異能を得られるかもわからないんだぞ…!それに……」
麗慈の腕を掴んだ巳継の脳裏に、自分の演奏によって巻き起こった今回の惨事がフラッシュバックする。
不完全な状態で演奏をすれば、どんな災厄が齎されるかわからない。仲間が生きるか死ぬかという状況で試すべきでは無い、と言いたいのであろう。
「……わかってる」
「それなら何故……ッ」
巳継の腕を振り払った麗慈は、タオルや本の上に乗せた乾いた木屑にライターで着火した。
「…………医者になりたいと言った俺に…今の環境を与えてくれた人間の頼みだからだ。救って欲しいと言われた」
みるみる燃え広がった炎で氷の柱がパチパチと音を立てながら徐々に溶けていく。そして、京哉の身体を貫いていたツララが縮んでいく様子を見ながら、麗慈は左顎にヴァイオリンを挟んだ。
「京哉が床に投げ出される前に支えろ」
麗慈が弓を構えながらそう指示を出すと、巳継は最後の最後まで尻込みをしながらも小さく首を縦に振った。
燃え広がった炎は、氷柱からボタボタと滴る水によって次第に小さくなり、やがて鎮火する。示し合わせたかのようなタイミングで落下してきた京哉を巳継が受け止めた。
京哉の腹からは、氷柱から解放されたのと同時に鮮血が溢れ出し、彼の背中を支えていた巳継の服を真っ赤に染めている。
演奏が始まるのと同時に、赤い光が室内を包み込み、溶け残った氷に乱反射して幻想的な光景を生み出していた。
記憶力の良い麗慈にとって、暗譜は容易い。しかし、12歳でヴァイオリンを始めた頃から常に表現力の乏しさを梓に指摘されていた。
『アンタって、やっぱりソリスト向きじゃないね』
昨夜のレッスンで梓に改めてそう言われた。音が前に出てこない。麗慈には彼女のその言葉の意味を理解する事ができず、非常に悩んだ。
『前に出るっていうのは……こう、訴えかけてくる?みたいな?』
「抽象的だな…」
『そうだよ。抽象的なんだよ、表現力なんてものは』
どんな演奏にしたいか、どんな音を作り出したいか。
奏者がどう聴かせたいかを自分自身で考え、それを表現できるかどうか、だと。
『京ちゃんもアイツに結構怒られてんだよ、表現力が無いって』
時折、オーストリアから電話をかけてきては、あの男が梓に息子の演奏について一方的に愚痴られるのだという。
『アンタと京ちゃんじゃあ、要求される演奏レベルが全然違うんだろうけどさ……あの子、ミーアのレッスン受けてかなり実力付けたでしょ』
京哉は2年間、[[rb:旋律師 > メロディスト]]としての演奏技術をミーアのもとで学んだ。彼女が得意とする金属の状態変化と再造形。
「何を作りたいか…を意識するようになった、とか?」
『ま、そんな感じ?アンタとは目指してる所がちがうんだけどね。でも、医者にもあるんじゃないの?目の前の患者をどうしたら救えるのかっていう…』
人体の構造、骨の形、血管の本数、それらの位置。
麗慈はオーストリアに来てから死に物狂いに勉強して、それら全てを頭に叩き込んでいた。
正常な状態と比較して、損傷箇所とその原因を発見する。そして、元の身体に戻る為に必要な処置を施した上で細胞を再構築する。
全ての医者が、頭の中で考えた術式を1パーセントの狂いもなく実施できたら、今よりもどれだけ多くの患者の命が救われているだろうか。
それを可能にする神の御業とも呼べる異能は、大己貴命を医者の膨大な知識を持つ人間が演奏する事で初めて、現実のものとなるのである。
京哉の腹から次々に溢れ出ていた出血が止まり、壊された臓器や骨の再生が始まる。一際室内に乱反射する赤い光が強さを増した瞬間に、シンと静まり返っていた心拍が再開した。
徐々にその背中に人間の体温が戻ってくるのを掌で感じ取った巳継は、彼の皮膚が縫合の痕も無く綺麗に修復されている様子を見て目を見開いて驚愕する。
そして麗慈が最後の1音を奏で終わり、室内に暗さが戻ると同時に京哉は薄らと瞼を持ち上げてぼんやりと天井を見上げていた。
…………………………………………………………………………………
そこから先の麗慈の記憶は非常に曖昧で、目覚めた時には楽団社員寮の自室のベッドの上だった。
重だるい腕を布団の中から引き抜いて腕時計の盤面に目を凝らす。時刻は21時過ぎ。京哉の蘇生措置を始めてから3時間程が経過していた。
確か、京哉が目を開いたすぐ後に急激な睡魔に襲われて床に吸い込まれたような覚えはある。どうやってここまで辿り着いたのか、あの後コテージの面々はどうなったのか。
気になる事ばかりだが、鉛のように全身が重くて今は脚の一本も動かしたく無い状況であった。
そんな時に聞きたくないあの男の声が激しいノックの音と共に鼓膜を震わせて、麗慈は思い切り顔を顰めて布団を頭から被った。
「やあやあお疲れさーん!あれ?まだ寝てる?おーい」
無遠慮にマットレスに座り、子供のようにボフボフと上下に揺らしながら呼びかけてきた託斗。たまらず布団を頭から退かすと、彼の満面の笑みが待っていた。
「………どういう状況?」
「ああ、君がぶっ倒れてからどうなったかって?」
やけに楽しそうな様子で語り始めた託斗によると、京哉が息を吹き返した数分後に楽団から派遣した医療班がコテージ内の人間を全員保護したのだという。
巳継と彼の師匠は今も治療中だが命に別条は無く、京哉に至っては擦り傷一つ見受けられない健康体だというが、念の為精密検査を受けている。
「凄いねェ、大己貴命は。ほぼ死んでる人間まで蘇生できるんだ」
演奏する事で治癒を可能にする…という異能を与える事を期待して、託斗はこの曲を書いた。しかし、実際に得た能力は彼のイメージとは少し乖離していた様だった。
聴いた人間の損傷が修復されるならば、その場にいた巳継や彼の師匠の症状も完治している筈だ。しかし、そうではない。
麗慈が明確に『治療対象』だと認識し、治癒するまでの過程を想像していた京哉だけが全快していたのだ。
「凄い力だけど、人間はどう足掻いたって神にはなれない。救けられるのはその手の届く範囲だけって事かな。あとはあずあずン所で精度上げていけばちゃんとモノになるって感じだ」
勝手に納得した様子で、ウンウンと首を縦に振る託斗。そして、ヘラヘラと不真面目な笑いを辞めた彼は真っ直ぐ麗慈の方を見据えた。
「……よく頑張ったね、麗慈」
不意に伸びてきた手にわしゃわしゃと栗色の短髪を撫でられて、麗慈は年甲斐もなく泣きそうになってしまった。幼い頃から施設で育てられ、親の愛情を知らない彼にとって、託斗はある意味育ての親のようなもの。普段から文句ばかり言っていても、褒められれば嬉しい。
…………………………………………………………………………………
騒動がひと段落した頃、研修医の勤務から社員寮に帰ってきた麗慈の元を京哉が尋ねてきた。
「麗慈のお陰でめっちゃ元気になってさぁ、僕!」
その言葉通り、あの日ほぼ死んでいた人間とは思えない程満面の笑みである。
かつて共に暮らしていた部屋の変わり映えしない内装を眺めながら、唯一がらんどうになったままの彼が使っていた部屋の前で踵を返した京哉。
「まだ同じ部屋住んでんだー。引っ越さないの?社員寮じゃ彼女とか呼べなくない?」
「……忙しいんだよ、俺は。それに今の病院で全科の研修を一通り終えたら日本に派遣される予定だから、今引っ越しても無駄になんだろ」
相変わらず託斗に似た表情で軽口を叩いてくる京哉を睨みながら答えてやる。
「日本行っちゃうんだ。最近物騒だもんね、あの国」
自分の育った第一の祖国とも言えるのに、彼は遠い外国の事だと無関係なテイでそんな感想を述べていた。
「お前はヨーロッパにいても物騒な事やらされてんだろ。師匠から聞いたけど」
「あー…そうそう。毎日嫌ンなるよね。僕まだ15歳なのに……」
途中で声を詰まらせた京哉の顔から表情が消えた。
母親を目の前で殺され、想像に耐え難い環境で育てられた彼は、オーストリアに亡命してからもおよそ“普通”の子供としての扱いを受けてこなかった。
旋律師になった今は、その手を他人の血で染めている。
「…… なる為に通る地獄と、なってから落ちる地獄がある」
それはかつて、麗慈が梓から教えられた言葉であった。
旋律師になれば、楽団の命令に叛く事は許されない。京哉が要人暗殺、組織殲滅ばかりを請け負う事になったのは、彼の能力がそれらに向いていたからである。彼の心など関係なく、次々に命令は下される。やりたくない、が罷り通る世界では無い事は京哉も十分理解していた筈だった。
「…10歳から地獄で生きてるのか、僕」
そう自嘲気味に笑いながら俯いた彼の横顔にはまだ幼さが残っている。
これから成長していくに連れて、より深淵の任務に向かう事になるであろう。そんな京哉の背中をパシンと叩いた麗慈は驚いて顔を上げた彼の頭を乱暴に撫でる。
「ソレ…やらねー約束。忘れたのかよ?」
それは、彼らがオーストリアで出会ってから間も無い頃に交わした約束。
無理に笑わない。泣きたい時は泣く。でも、それはお互いの前だけだ、と。
気が付けばグレーの瞳からはポロポロと大粒の雫が溢れ出し、頬を伝い始めていた。
じっと床を見つめながら静かに涙している京哉の頭をそっと肩に抱き寄せてやる。途端に声を上げて号泣し始めた京哉は、麗慈の服で涙を拭ったり終いには鼻までかみだした。慌てて引き剥がそうと頭頂部を押し返すが、ビクともしない。
「おい!馬鹿!汚ぇ!!離れろ!!」
あまりの体幹の強さに呆れ顔を見せて諦めた麗慈は、深くため息をつく。昔は腰の位置までしか無かった身長が、今やほぼ並ばれている。無駄に図体ばかりデカくなりやがってと言ってやりたがったが、その文句は今は心の中に留めて置くことにした。
…………………………………………………………………………………
巳継の演奏が引き起こした災厄の暴走は、マエストロの認識違いであった。楽譜に書かれていた託斗からの要求とは違う奏法を巳継に勧めていたのだ。
この件で彼の師匠は楽団を追放される事となり、新たなマエストロとして作曲者である託斗が直接巳継を指導する事になった。
「そんな事したら、あのタクト教への執心度合いが加速しちゃうんじゃないの?」
後日、偶然楽団社内ですれ違った時、京哉は心底面倒臭そうな表情でそう呟いていた。麗慈は、巳継が超絶技巧を修得した後にバディを組まされるような事をロジャー達が言っていた事を思い出して苦笑する。
今度は麗慈の方から「ご愁傷様です」と京哉に向けて手を合わせる。
「他人の心配なんてしてる場合じゃ無かった…!社長に呼ばれてんの、僕」
呑気に手を振りながら駆け出した京哉は、社屋最上階に向かう為エレベーター前で待つ人集りに混ざる。
表向きは健全な会社として営業している楽団では、一応定時は17時と決められている。その為、退勤の為に並ぶ人間が殆どで上の階に向かう人間はいなかった。
一向に上階行きのエレベーターが止まらない様子に、自力で階段を昇り始めようかと迷い始めた京哉の肩を後方より叩いたのは支部長のミーアであった。
「社長室なら直通のがある。ついてきなさい」
踵を返してツカツカと歩き始めた彼女の後を言われるがままについて行くと、上層部の人間だけが所持しているカードキーを通して開く自動ドアの奥に、大人二人程度なら問題無く乗れる広さの古いエレベーターが存在していた。
「ありがとうございます。遅れたら怒られちゃうかもしれないんで…」
「あの人は理由もなく怒ったりしないよ。小言は言われるかもしれないが」
そう返しながら左腕の時計に視線を落としたミーアに、京哉が尋ねる。
「支部長も社長に呼び出されてたりします?」
すると、ゆっくりと踵を返して彼と視線を合わせたミーアが少しその表情を曇らせながら口を開いた。
「ああ。かねてから、君の働きぶりが優秀だと褒められていてね。今度から外部の協力者の元に潜伏して依頼解決に向かわせてはどうかと提案されているんだ」
協力者の存在については、京哉も何となく認識はしていた。各支部からは手の届かない僻地や、戦争の絶えない地域、または反音楽を大々的に掲げている地域での活動の為に、単身乗り込む際の生活の補助をするサポーター的役割の人間がいる、と。
「じゃあ、近いうちに僕も一人で色々活動するようになるんですね」
「ああ…そうなると、きっと……」
楽団の外に出て活動する事についてあまり理解していない様子の京哉を前に、ミーアはぐっと言葉を噤む。
これまではミーアを通して依頼を受けていたが、今後は楽団上層部からJACを通して直接依頼を受ける事になる。
楽団は、所謂社会悪に対峙する組織ではない。正義のヒーローではないのだ。
顧客から依頼を受けてエージェントを送り出し、報酬を貰って成り立つビジネスであり、上層部が必要だと判断すれば悪にも手を染めなければならない。
そのような依頼を受けないように、今まで必死に彼を守ってきたのはミーアであった。
しかし、これからはそうはいかない。
より深淵の任務へと駆り出される。
齢十五にして、京哉は世界の秩序たる理不尽を、その身を持って経験する事になっていくのであった。
[34] Zaleo 完
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