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#040 lamentoso
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東京都・26歳男性「人格者という言葉が正に相応しい。素晴らしい感性と技術をお持ちでいらっしゃる先生。今日も笑顔が眩しい。御冗談のセンスも非常に素晴らしい。ファンクラブがあるなら会員番号1は絶対に俺が…
…………………………………………………………………………………
都営団地の最上階の一室に梓の姿があった。湯河原から移動後、茅沙紀と共に都内に戻った彼女は楽団からの依頼で旋律師一名の教育を行う事になっている。
「梓さんの旦那さん、また海に出られてるんですか?」
使われていない部屋の片付けを手伝っていた茅沙紀は、押入れの中から布団を運び出している梓に尋ねた。
梓の夫は遠洋漁業の漁師で、一年のほとんどを海上で過ごしている。帰るタイミングも不規則で、ここ半年は連絡も取れていないという話を、茅沙紀は奥多摩の別荘で梓の口から聞いていた。
「そうそう。マグロとかね、今は本当に数が少なくて大変みたいよ。昔は赤身のお寿司が二貫一皿100円って時代もあったっていうからビックリよねぇ」
「安っ…!お寿司なんて食べた事無いですよ私……。そっかぁ…どの職業の方も大変ですね…」
しみじみと畳に雑巾掛けをする茅沙紀に布団を干してくると言い残した梓。南向きの日当たりの良い部屋の窓を開け放って外の空気を取り入れる。
ゴムのサンダルを引っ掛けてベランダに出ると、押入れから持ち出してきたシングルの掛け布団を物干し竿に勢い良く乗せた。
カバーのシワを手で伸ばしながら纏っていたセーターのポケットに手を突っ込んだ梓は、徐にPHSを取り出す。端末は一定間隔でブルブルと震えていた。
「はいはい、何よ急に」
『そりゃあ君が新人イジメしないように釘を刺しておこうと思ってさ』
妙に明るい声色に、梓は眉を顰めて通話終了ボタンに指を掛ける。それを察した様子の電話口の相手は慌ててそれを制した。
『うそうそごめんってば!……以前僕が都内にばら撒いたフェイクの楽譜あったでしょ?』
どうやら通話の相手は託斗のようである。
「あぁ、そんな事言ってたわねぇ。それがどうかした?」
『敵さん、まんまと見つけてくれたみたいでさぁ!』
嬉しそうに語っている託斗のしたり顔を想像して、梓は再び電話を切ってやろうと指を伸ばす。
『ちょちょちょっ!今切ろうとしたでしょ!やめてよね!』
「忙しいんだよコッチは!要件だけ言え!要件だけ!」
ピシャリと怒鳴られ、託斗はエグエグと泣き真似をしながら続きを話し始めた。
『そろそろ動き出しそうじゃない?僕が日本にいるってわかってるし、とっ捕まえにさ』
「…アンタを?」
そうそうと軽い調子で返して来た託斗はまるで他人事の様に能天気だ。
もし異端に捕えられれば、彼等の知りたがっている超絶技巧のロジックを説明するまでどんな手を使われるかなど想像したくもないというのに。
「なに、巳継が来てんでしょ?守ってもらいなさいよ」
『巳継が来てるから…だよ』
含みを持たせた託斗の回答に、梓は彼の言わんとする事を察した様子だった。そして、開け放った窓の方を一瞥しながらフゥッと息を吐く。
「……このタイミングで私の所に人寄越すって事は、やっぱり調べがついたんだ」
寒空にのぼる日差しを受けて輝く埃を眺めながら、梓はどこか落胆した様子で呟く様に返す。彼女の声色の変化に、託斗はわざとらしくからかい始める。
『頼むよあずあずぅ~?鉄の女の本領発揮じゃないかぁ』
「それ以上その呼び方続けんなら本気でシメんぞ…」
真顔で凄んで速攻で通話終了ボタンを押した梓は、PHSを再び上着のポケットにしまって屋内に戻っていった。
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ガタガタと肩を震わせながらPHSを懐に仕舞った託斗の様子を見て、彼の目の前で待機していた巳継は狼狽え始めた。
「う…右神先生!?どうされましたか!?」
「あぁ…僕の気持ちなんて誰もわかってくれないんだメソメソ。僕はただ、場を和ませようとメソメソ…」
わざとらしく泣き真似をする託斗とそれに構う巳継の寸劇を遠目に舌打ちをしていたのは麗慈であった。
楽団本社からの通達で託斗と巳継の二人は医院の箱物内で預かる事が決まってしまい、結局追い出す事ができなかったのだ。
相変わらず地味なイタズラや嫌がらせを続ける子供大人と相性最悪な彼の忠犬に日々苛々を募らせる麗慈。加えて彼の仕事内容は相変わらずで、ほぼ蘇生不可能な仲間の肉体を一時的に預かって葬儀屋に引き渡す事を繰り返していた。
異端の指示役と名乗るスーツの男と対峙して以降、敵側に目立つ動きは見えない。しかしながら、日々都内の至る場所で彼等と相見えた楽団関係者が命を奪われている現状は憂慮すべきであろう。
書類仕事を片付け、気分転換に外の空気でも吸ってこようと椅子から立ち上がった麗慈の視線の先には、いつも以上にニヤニヤと不適な笑みを浮かべる託斗の姿があった。
何か企んでいるに決まっている彼の表情は見飽きている。今度はどんな面倒を押し付けようとしているのかと身構えた麗慈の強張った表情に、託斗は良い心がけだと言わんばかりに大きく頷きながら歩み寄っていく。
「ちょっと頼み…」
「絶対無理。忙しい。無理」
手に持っていたバインダーを託斗の顔に押し付けて物理的に黙らせる。
「おい、若乃宮。右神先生の依頼を断るな。無礼者が」
横から託斗に手を貸したのは彼の熱狂的信者である巳継だった。バインダーを掻っ攫い逃走しかけた麗慈の襟首を掴む。
「馬鹿!邪魔すんな!お前が頼み事でも何でも聞いてやりゃあ良いだろうが!」
「先生がお前を指名しているんだ。特別な理由があるに決まってるだろ。そうでなければ誰がお前のような戦力にならない人間にわざわざ頼み事なんてするんだ、馬鹿はお前だ」
両者の間にバチバチと火花が散り始めたのを感じた託斗は、慌てて仲裁の為に二人の間に割って入る。
「まぁまぁ。僕の為に争うのはやめたまえ、君達」
聞き飽きた文言に眉一つ動かす事なくスルーしようとしていた麗慈の前に、託斗はピシッと人差し指を立てて強制的に視線を向かせる。
「今回は一つ電話を入れてもらうだけで良いんだ。簡単なお願いだろ?」
電話?と呟くように反復した麗慈は、託斗が次に口にした一言で全てを理解した。そして、白衣の胸ポケットに仕舞っていたPHSを静かに取り出しながら遮光カーテンの閉まる窓際へと移動していく。
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総理官邸には異端の面々と都野崎を筆頭とする政界の中心人物達が集結していた。定例の報告会を開催する為である。
前回と同様、会食という形を取ってはいるものの、とても和やかな雰囲気にはなれない。
その第一の理由であるミゲルの不在について事前に聞き及んでいた都野崎は、早速前回の廃雑居ビルの件について質問を始めた。
「まずは…ミゲルさんの件ですが……失敗された、という事でしょうか?」
国会答弁時と同様の穏やかな口調ではあるが、明らかに彼らを嗜める意図を孕んでいた。
「楽団の要である右神託斗の居場所を突き止めた所までは良かった様ですが……相手に先手を打たれていたようで。しかも、司令塔であるミゲルさんがわざわざ現地に赴いたかと思えば、また勧誘活動をされたとか」
対岸の席に並んで座る異端の面々を順番に眺める都野崎によって次々に痛い所を突かれていく。
「…おっしゃる通りです。ミスタートノザキ」
押し黙った彼らを横目に声を上げたのはユリエルであった。不気味な反面の奥に平常通りの余裕の笑みを見せる様子にどんな弁明を用意してきたのかと、政治家連中は彼の方に一斉に向き直った。
「それでは、不用意に楽団側の人間と接触し、損失を産んだ事をお認めになる…と?」
「損失…ですか。あなた方が何を持って損失と仰ろうと言うのか…私には少々理解に苦しむ部分があるのですがね」
まさかの挑発的な返答を寄越したユリエルに対して、場に同席した全員が目を見開いた。
「……ミスタートノザキ。貴方が目指す将来の日本の絵という物を、我々は最初にお会いした際に見せていただきました」
武力とは、誰もが平等に恐れる存在でなければならない。
音の武力化が実現された世界では、音楽的技術、センスを持ち得る者だけが大きな力を振り翳す事が出来てしまう。
音楽の取り締まりが一切行われていない国において、悪意ある人間が隠し持った楽器で他者を傷付けたと仮定しよう。
もし、目撃者がいなければその犯罪は立証されない。何故ならば、犯人がただ楽器を持っていただけなのだと主張し続ければ、それまでなのである。
音を凶器に変えることの出来る限られた人間だけに与えられた免罪符。
かつてアメリカは銃社会であった。
相手が銃を隠し持っているかもしれない。だから、此方も銃を持って身をも守らなければならない。
何時、何処で、誰が自分の命を狙っているのかわからない恐怖と隣り合わせであった。
しかしそれは全ての国民に“共通”しており、自衛の為に自らも銃を手に取る事で皆が平等に武力を恐れる社会であったのだ。
エネルギー革命でのハンネス機関の台頭、そして音の武力化の実現性が世に知らしめられる形になって以降、武器弾薬等目に見える危険に成り変わったのが音楽家の存在そのものであった。
自ら音エネルギーを生み出すことのできる音楽家達は、その他の人間では自衛することの出来ない武力を自らの技術という形で常に携帯している。
持たざる者達は、彼らによっていつでも振り翳すことの出来る刃を常に突き付けられているようなものであった。
しかし、それは明確な“悪意”無しには成し遂げられない。
音楽家の誰しもが隣人を襲おうと身構えているような事は決して有り得ないからである。それどころか、世の中に存在する大半の音楽家達は、自らの奏でる音を凶器に変えることはできない。
日本国首相、都野崎仁一が掲げた徹底的な音楽禁止路線は、全ての音楽家を危険分子として排除する極めて独裁的な政治方針であった。
職業差別を超越し、人権を無視した音楽家達に対する迫害とも言える政策の数々。
全ての国民が音を奏でる行為を禁じられ、違反した者には厳罰を課した。
しかし、このような政府の横暴に対する反対運動が広がりを見せたのは、実の所ハンネス機関による新エネルギーの利用を大きく制限する動きを見せてからであった。
音楽家を追いやる行為に対して大きく反対の声を上げる者はいない。それはつまり、国民誰もが都野崎の危惧する『隣人の音楽家に傷付けられる』ような事態を心のどこかで恐れていたからである。
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「豊かなエネルギー資源と引き換えに、持たざる者が常に恐怖に苛まれながら生きる社会になってはならない…貴方の考えに我々は大いに感銘を受けました。だから手を組ませていただきました。しかし、貴方は今も我々を完全に信用し切っておられない……貴方が“持たざる者”だからでしょう」
ユリエルが静かな口調で語った言葉に、都野崎はピクっと眉を顰めた。
「……我々は音楽家です。楽団の旋律師と異端の人間は同じ穴の狢だと…そうお思いでしょう」
「………明確な違いを証明できるとは正直思っていませんね。仰る通り、あなた方は私どもが最も毛嫌いする存在…同類なのですから」
睨み合った両者の間に重苦しい空気が漂う。
これ以上クライアントに食ってかかれば今後のビジネスに響くと、ユリエルの隣に座っていたサラフィエルが止めに入ろうとした時であった。
逆に彼女の目前にユリエルが掌を向けて動きを制する。そして、再び都野崎に向けて口を開いた。
「ハンネス機関と同じ…でしょう?石油の枯れた今、安定して電気を生み出す方法は音エネルギーによる発電の他存在しないのと同様に、旋律師に対抗する手立ては我々同類の人間が持つ能力以外無い」
「………」
グッと押し黙った都野崎の様子を見て、ユリエルは口元に笑みを浮かべながら続ける。
「奴らの持つ超絶技巧…私がわざわざアレを模倣して曲を書くのには理由がありまして……。ほら…ミスタートノザキのプロパガンダでは多用されているでしょう?“平等”ですよ。私が目指しているところは」
「……皆が異能を持つ……と仰りたいのですか?」
都野崎の指摘に再び場が騒然となる。
超絶技巧によって異能を得る為には二つの要件を満たす必要がある。
まずは何より、音をエネルギーに変換する為の奏法を熟知し、実践できること。
そして、作曲者の意図通りに完奏すること。
しかし、ユリエルの作り出す模倣楽譜には呪詛を込めた託斗本人の意図が反映されていない為、例え完奏したとしても祝福を受ける事なく災厄が暴走してしまう。
「タクト・ウガミをこちら側に取り込む事は結果的に貴方の目指す日本の姿に近づく事になる……と考えているのですがね」
超絶技巧のロジックを託斗本人の口から聞き出す為、異端に引き入れる必要があると述べるユリエル。そして籠城する託斗を引き摺り出す為の妙案を彼は持ち合わせていると仲間達には暗に示していたのだ。
「ミゲルの件はタクト・ウガミと接触するのが狙いでしたから。まぁ…手足の一本や二本は彼への手土産ですよ」
最後にニヤリと笑って見せたユリエルの姿に、その半面の奥にどんな企みを隠しているのかと戦々恐々とする日本政府の面々はそれ以上彼らを糾弾する事はできなかった。
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都営団地の駐車場に停車する一台の黒いセダン。例外なくハンネス機関を溶接された違法車両である。
後部座席のドアが開き、車内から外に出た一人の壮年の男が運転手の方を覗き込んで会釈をした。
所々ひび割れたガラス張りのエントランスから彼の様子を眺めていた茅沙紀は訝しげな表情で梓に尋ねる。
「もしかして…梓さんが教える人って、あの方……いや、でもどう見てもそんな筈は…」
教育という言葉だけで勝手に相手が若者だと想像していた彼女の頭の中は混乱していたようだった。
「楽団に最近入社したてってだけで、新卒って訳じゃないわよ、別に。どこかのオケに入ってたんだけど、訳あって大金稼がなくちゃいけなくなったとか、そんな感じの人も割と多いし」
ガラス扉の取手に手をかけた梓の返答に、茅沙紀は感嘆の声を漏らしながら彼女の後に続いて建物の外に出た。
周囲をキョロキョロと見回していた壮年の男は、歩み寄る二人の姿を見るや和やかな表情でニコリと笑う。白髪混じりの坊主頭で細身、目は開いているのか閉じているのか、全体的におっとりとした雰囲気を醸し出している。
「どうもー。あなたが敦賀侑儞さんですね」
敦賀と呼ばれた男は、ペコペコと愛想良く頭を下げながら梓に手持ちの紙袋を手渡した。
「お出迎えいただきありがとうございます。ええと…そちらの方は?」
梓の隣を歩く茅沙紀を一瞥した敦賀が尋ねる。
「あぁ。ウチで保護しているお嬢さんです。那珂島茅沙紀チャン。若い女の子だからってイタズラしちゃダメですよ」
冗談混じりに返した梓に、紹介された本人は苦笑いを浮かべながら会釈した。
つい先刻まで二人で掃除をした空き部屋に通された敦賀。彼が運んできた手荷物の少なさに茅沙紀は違和感を感じる。恐らく肩から背負っているリュックタイプのジュラルミンケースには楽器が入っている筈だが、まるで日帰り旅行の様な身軽さだった。
じっと自分の方を見据えている茅沙紀の視線に気が付いた敦賀は、恥ずかしそうに後頭部を掻いていた。
「あっ…すみません!荷物少ないんだなぁ…って思っていただけで他意は全然無くて!」
手をバタバタ忙しなく動かしながら慌てて弁明する茅沙紀は、隣でクスクスと笑っている梓に助けを求める。
「あ、梓さん笑わないでください!」
「いやぁ…茅沙紀チャンって思ってる事が全部顔に出てるし、すぐ口からも出てくるから本当に素直な子だと思って……ごめんごめん」
顔の前で両手を合わせた梓は、顔を真っ赤にしている茅沙紀を手招いて敦賀に空け渡した部屋から退出するように促した。
レッスンの為に譜面台が置かれたリビングのローテーブルに突っ伏している茅沙紀に、キッチンで湯を沸かしていた梓が話し掛ける。
「…ねぇ、茅沙紀チャン。どう思う?」
唐突な問い掛けに、顔を上げた茅沙紀は一瞬戸惑って言葉を詰まらせる。
「えっ……と……どう、とは…?」
「何か感じたかどうかって事」
ティーバックを入れたポットにやかんの湯を注ぐ梓の表情からは、先程までの笑みは消えていた。
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両手で包み込むようにして持っているティーカップの水面に映るのは、不安と緊張感を孕んだ茅沙紀の表情だった。
「じゃあ…敦賀さんって……もしかしたら日本政府が送り込んだスパイかもしれないって事ですか?」
ニュー千代田区画内の発電所爆発事件で、奇跡的に一命を取り留めた茅沙紀。一度は保護されたものの、音楽家であるという素性を隠し通す事が難しいと悟った彼女は病院を抜け出して命からがら京哉の元を訪ねてきた身であった。
「茅沙紀チャンは京ちゃんと麗慈と一緒に顔写真付きで特別手配されてるっていう情報を楽団は掴んでる。七白っていう政府の狗が心中した時に深傷を負わされてからの茅沙紀チャンの行方は不明って事になってるみたいだけど……」
既に梓が茅沙紀の身柄を保護しているという情報を政府側が掴んでいるとすれば、“楽団が教育を受けさせるために預けた新人”という敦賀について疑う余地があるのかもしれない。
梓によると、楽団本社は茅沙紀が彼女の元で身を隠している事を知らないという。組織と無関係な人間を何の利益も無しに保護する道理は無いのだ。本部の知るところとなれば当然然るべき措置を取られる事になる。
「無関係…ですよね。確かに……あの楽譜を演奏してしまった事以外は…」
超絶技巧第17楽章宇迦之御魂神を完奏したものの、託斗の描いたロジックから外れてしまい災厄の暴走の被害を受けた茅沙紀。
「今も覚えてたりする?弾けって言われればできちゃう?」
「えぇと…多分できます。文字通り血が滲むまで弾かされたので指が覚えていると言いますか……でもでも、またおかしくなりたくないので絶対にやらないですよ!」
荼吉尼天と稲荷に心身を引き裂かれた経験は記憶に新しい。顔を真っ青にして首を横に振った彼女の様子を見て、梓は眉を下げながらローテーブルに三つのティーカップを並べていった。
「私も反対。あの馬鹿がもう一度弾かせようとしてきたら教えて頂戴。頭蓋骨カチ割ってあげるから」
託斗に対しては異様に当たりが強く、いつも治安の悪い物言いばかりの梓に、茅沙紀はいつも通り苦笑いを見せた。
「まぁ、とにかく…新人ってのは文字通り、組織に新しく加入してきた人間ってこと。素性は一応調べ上げるけど、それも加味して嘘で塗り固められた経歴で本性を隠してる奴も過去に何人も見てきた訳。敦賀さんの事も多少なり用心するに越した事はないわね」
面倒くさそうにフゥっと息を吐いてから立ち上がった梓は、一人取り残してきた敦賀を呼ぶためにリビングを後にした。
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米軍横田基地を出発した黒いワゴン車には、オーストリアからの長旅を終えた京哉達が乗り込んでいた。悪路に大きく揺れる車両を悠々とした表情で操る鬼頭は、フロントミラー越しに最後部座席を睨み付けた。
「呼び出しておいてさっさと眠りこけるたぁ、良い度胸だな」
オーストリアから日本まで約15時間のフライト時間中ずっと眠り続けていたというのに、京哉はシートを占領して居眠りを始めていた。
「起きててもうるさいし、寝てる方がまだマシだよ」
助手席で外の様子を眺めながら答えたシェリーも疲労が溜まっているのか冴えない表情をしていた。
鬼頭は楽団の外部協力者である為、シェリーに関する秘匿情報について詳しくは知らされていない。しかし、彼女がオルバスの娘である事から大体の事情は推察しており、今回楽団で相当な苦労を強いられた事も容易に想像できた。
「オーストリアはどうだんたっだ?初めてだって聞いてたが」
「どうって……街並みは綺麗だったし、ご飯は美味しかったし……あと、音楽が禁止されてないってやっぱり凄かったよ。住んでる人も観光客も何となく余裕そうっていうか…」
楽団での出来事には触れず、旅行として楽しんだ部分について語ったシェリー。鬼頭のアテは少し外れてしまったが、疲れた顔色の中に何処か嬉しそうな様子を垣間見る。
「良かっただろ。俺も早くこんな窮屈な国での仕事を終えてオーストリアに帰りてぇよ。あぁ…支部長とは話したか?」
「うん……良い人もいるんだね、楽団に。アタシが日本で知り合った人達って相当変だったから…」
そう漏らしたシェリーの横顔を一瞥した鬼頭は、彼女が想像している変の一部に自分も含まれているとは毛ほども思っていない様子だった。
休憩の為に立ち寄った地下駐車場跡地。
寒さが本格的になってきた外の空気よりも閉塞的な空間の中は格段に肌寒く感じられた。
鬼頭、シェリー、椿の三人が車外に出て談笑していると、ピリピリとけたたましい電子音が反響し始める。それは、空気を入れ替えようと開け放っていたワゴンの窓から漏れ出しており、ぶつぶつと寝言のような文句が聞こえてきた後にピタリと止んだ。
PHSの着信を受けた京哉は眠りを邪魔された事が相当気に食わなかった様子で、いつも以上に不機嫌な態度を電話口の相手に不満をぶつけている。
『どうしたんだい、キョウヤ?時差ボケかな?』
「そう思うんなら掛けてくんなっての……今は猫探しもできないぐらい疲れてんだけど」
大きな欠伸をしながら上体を起こした京哉は、寝癖のついた髪を左手でわしゃわしゃと掻きながらジャックからの指令を耳に入れる。
『1ヶ月間近く無能だった訳だからね。かなり体が鈍ってるんじゃないのかな?そんな君にピッタリな依頼が来てるよ』
「アンタ今、余計な事しか言ってないからね?AIってそんな面倒くさい進化してんの?っていうか…例の設計図をブン取りに行くのが優先じゃねーんだ」
相手がAIだとわかっていながらも、あまりにも人間的な会話が成立してしまうジャックを前にすると愚痴の一つや二つも言いたくなってしまう。
時々文句を言いながら相槌を打っている京哉を車外から覗き見ていた三人は、彼の顔色が突然真っ青になったのを見て視線を合わせる。
「どうした、京哉?日本に帰って早速お仕事たぁ、精が出るじゃねぇか」
京哉の通話が終了したのと同時に、運転席に戻った鬼頭が話し掛けた。ヘニャヘニャと力無くシートにもたれ掛かっている京哉は、情け無い声色で発狂する。
「創くん……ホントにあの人来てんの?」
「あ?あの人だァ?」
抽象的な問い掛けの内容に聞き返す鬼頭だったが、京哉の項垂れ具合を見てすぐにあの人の正体を悟った。
「…来てるな。お前の穴を埋める為に楽団が寄越してきたぞ」
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『依頼主は大手建設会社「大山田建設」の社長夫人…大山田ひな子。夫の大山田淳弥がどうも浮気をしてるんじゃないかと心配していてね』
まさかの浮気調査の依頼に、京哉はシートからズリ落ちそうになる。
「そ…そういうのもやるんだ…ウチの会社……」
『勿論、何のメリットも無しに受ける内容じゃないさ。この大山田建設、実はタクトが破壊した発電所の再建を一手に担ったらしくてね。社長の大山田淳弥という男、かなりプレジデント・トノザキからの信頼が厚いと言えるだろう』
ニュー千代田区画以外はインフラが壊滅的な筈の現代日本において、どういう訳か潤沢なエネルギーを供給されている秘密の空間が存在するという噂があるのが、大山田が足繁く通っているという新宿の一画である。
政府の人間と強いコネクションを持つ人物が、近親者が不信感を抱くような頻度で足を運ぶ場所。そこで、異端と結託した首相を始めとする周辺の大物議員達が楽団にとって何か良からぬ事を企てているのではないか。上層部の見立てとしてはそのような所であろう。
そして、妻・ひな子の依頼を受けた理由は、関係者でなければ入り込めない“疑惑の場所”への侵入を容易にする為である。
後に控えている、オルバスの設計図を奪うというミッションの前に政府側を下手に刺激する必要は無い。白か黒かを突き止めて報告するだけの非常に簡単な依頼内容は、復帰直後の京哉のリハビリ、そしてその後の動きに影響を及ぼさない為の最低限の活動を両立した非常に理想的なものであった。
『荒事にならないようにだけ、十分注意してくれよ。調査が終わるまでの間は、引き続き彼に君の管轄をお願いしておくからね』
通話を終了しようとしたジャックを引き止めて、彼の言葉を繰り返す。
「……彼に…?僕の管轄を……?どういうこと?」
『え?誰にも聞いてない?ミツキをそっちに送ったのさ。今はタクトと一緒にレイジの所に身を置いてもらってるから、時間が空いたら声掛けて……あれ?聞いてるかい?おーい………』
最後部の座席でブツブツと独り言を唱えながら顔を真っ青にしている京哉を睨み付けたシェリーは、小声で鬼頭に尋ねた。
「…あの人って、一体何なの?キョウヤがあんなに取り乱してるなんて……」
「ああ…。アイツにも苦手な人間ってのがいんだよ。まぁ、会って話してみりゃわかるさ……」
珍しく言葉を濁す鬼頭の様子に、シェリーは小首を傾げて一つ後ろの席に座る椿と顔を見合わせる。
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ニュー千代田区画に入る手前でワゴンを降りた京哉は、周囲を警戒しながら依頼人との待ち合わせ場所に向かう。
特別手配されている事は楽団より報告されていた為、一応マスクと伊達メガネを掛けて気持ち程度の変装をしていた。
綺麗に舗装された地面が広がり、『上級国民』達が悠々と暮らす場所に足を踏み入れた事を知らせる。
真昼間だと言うのに街頭には煌々と明かりが灯っており、聳え立つ高層ビルを見上げれば壁面に施された電飾がビカビカと無駄に光り輝いていた。
「成程…仕事が早い男はよくモテるって訳か」
爆破された巨大な発電プラントを単独一社で超短期間に復旧させた大山田淳弥の手腕は相当な物なのだろう。お陰様でニュー千代田区画は、見ての通り有り余るエネルギーを無駄に放出し続ける余裕がある状況に戻っていた。
指定された場所は、賑やかな大通りから少し離れた住宅街の一角。あえて昭和の雰囲気を再現した見た目の喫茶店のドアベルを鳴らすと、店内には客が一人しかいなかった。
薄いブルーの上品なワンピースにふんわりとしたミンクの襟巻きを纏った、いかにもな女。
所謂美魔女というやつで、聞いていた年齢よりもだいぶ若い見た目をしていた。シワひとつない手入れの行き届いた肌に薄い化粧を施した彼女は、京哉の姿を見るなりそろそろと立ち上がって会釈する。
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ…」
名前も確認せず、自分の座っていた卓の正面に誘導してくるひな子。言われるがままに木の椅子に腰掛けた京哉は、再び頭をペコリと下げてきた彼女の頭頂部を見詰めながら尋ねる。
「あのー…大山田ひな子さん…で合ってますよね?僕があなたの依頼を受けてきた人間だって、どうしてわかったんですか?」
「今日は1日、この店を貸し切っておりますから…。あなたが到着する時間まではわからないと言われておりましたので」
さも人と会う時の当然な作法のようにアッサリと述べたひな子に、京哉は生きている世界の違いを痛感させられて思わず声を漏らす。
「そ、そうなんですね…凄いな…。ええと、それでは早速なんですが…」
「夫の大山田淳弥が浮気をしているか否かを調べてください」
食い気味に早口を飛ばしてきたひな子の目は本気そのものであった。あまりの気迫に若干気後れしながらも、一度咳払いをして仕切り直す。
「どうして旦那様が浮気をされてると疑うようになられたのですか?」
日本政府と懇意にしている大企業社長の嫁が、対立組織である楽団に頼ってまで浮気の真偽を確かめようというのだ。確固たる証拠でも掴んでいるのかと思っていた京哉であったが、彼の予想に反してひな子の回答は非常に曖昧なものだった。
「勘です」
「……カン…?」
「女の勘、です」
もしかしたら、復帰早々にとんでもないはずれクジを引かされてしまったのかもしれないと眉を顰めた京哉は、どうにか笑顔を取り繕いながら再びひな子に問う。
「旦那様が向かわれている場所の目星は付いていらっしゃいますか?」
「はい。新宿2丁目の地下商業施設跡…今は綺麗に改装されて、『極楽町』という架空の地名で呼ばれている場所です」
聞き慣れない地名は、ジャックから事前に聞かされていた秘匿された場所の事だろうと察する。
「極楽町…」
「はい。政府関係者や警察高官、財閥当主など…選ばれた人間のみが入る事を許されている巨大な社交場です。入場には事前に登録された戸籍上のマイIDと共に生体情報認証が必要になります」
日本国内で産まれた時に交付される個人番号がマイIDである。生体情報の偽造はできるにしても、このマイIDに関しては難儀する事が予想された。
政府関係者が出入りする社交場だ。不審な番号を検知すれば、犯罪発生を危惧してすぐさま警察機関が捜査に乗り出すだろう。非常に動きにくくなってしまう。
「マイIDの偽造はいくら手を尽くしても難しい…でも、調査に入る為には必ず必要になります。だから…人を一人買いました」
いきなり依頼人の口から飛び出した物騒なワードに、京哉は目を見開く。
「ひ…人を買った?」
「大した事ではありません。極楽町内で勤務している一般の方にお声掛けして、戸籍を譲っていただいたのです。もちろん、彼には我が家の使用人になっていただいて、生涯身の安全は保証すると約束しています」
スッとひな子が右手を上げると、厨房の奥から一人の青年が姿を現した。
身長180センチの長身で、華奢な体躯。京哉と似た体型の男であった。ニコリと笑ってみせた彼の表情は非常に爽やかで、端正な顔立ちが非常に眩しい。
[40] lamentoso 完
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都営団地の最上階の一室に梓の姿があった。湯河原から移動後、茅沙紀と共に都内に戻った彼女は楽団からの依頼で旋律師一名の教育を行う事になっている。
「梓さんの旦那さん、また海に出られてるんですか?」
使われていない部屋の片付けを手伝っていた茅沙紀は、押入れの中から布団を運び出している梓に尋ねた。
梓の夫は遠洋漁業の漁師で、一年のほとんどを海上で過ごしている。帰るタイミングも不規則で、ここ半年は連絡も取れていないという話を、茅沙紀は奥多摩の別荘で梓の口から聞いていた。
「そうそう。マグロとかね、今は本当に数が少なくて大変みたいよ。昔は赤身のお寿司が二貫一皿100円って時代もあったっていうからビックリよねぇ」
「安っ…!お寿司なんて食べた事無いですよ私……。そっかぁ…どの職業の方も大変ですね…」
しみじみと畳に雑巾掛けをする茅沙紀に布団を干してくると言い残した梓。南向きの日当たりの良い部屋の窓を開け放って外の空気を取り入れる。
ゴムのサンダルを引っ掛けてベランダに出ると、押入れから持ち出してきたシングルの掛け布団を物干し竿に勢い良く乗せた。
カバーのシワを手で伸ばしながら纏っていたセーターのポケットに手を突っ込んだ梓は、徐にPHSを取り出す。端末は一定間隔でブルブルと震えていた。
「はいはい、何よ急に」
『そりゃあ君が新人イジメしないように釘を刺しておこうと思ってさ』
妙に明るい声色に、梓は眉を顰めて通話終了ボタンに指を掛ける。それを察した様子の電話口の相手は慌ててそれを制した。
『うそうそごめんってば!……以前僕が都内にばら撒いたフェイクの楽譜あったでしょ?』
どうやら通話の相手は託斗のようである。
「あぁ、そんな事言ってたわねぇ。それがどうかした?」
『敵さん、まんまと見つけてくれたみたいでさぁ!』
嬉しそうに語っている託斗のしたり顔を想像して、梓は再び電話を切ってやろうと指を伸ばす。
『ちょちょちょっ!今切ろうとしたでしょ!やめてよね!』
「忙しいんだよコッチは!要件だけ言え!要件だけ!」
ピシャリと怒鳴られ、託斗はエグエグと泣き真似をしながら続きを話し始めた。
『そろそろ動き出しそうじゃない?僕が日本にいるってわかってるし、とっ捕まえにさ』
「…アンタを?」
そうそうと軽い調子で返して来た託斗はまるで他人事の様に能天気だ。
もし異端に捕えられれば、彼等の知りたがっている超絶技巧のロジックを説明するまでどんな手を使われるかなど想像したくもないというのに。
「なに、巳継が来てんでしょ?守ってもらいなさいよ」
『巳継が来てるから…だよ』
含みを持たせた託斗の回答に、梓は彼の言わんとする事を察した様子だった。そして、開け放った窓の方を一瞥しながらフゥッと息を吐く。
「……このタイミングで私の所に人寄越すって事は、やっぱり調べがついたんだ」
寒空にのぼる日差しを受けて輝く埃を眺めながら、梓はどこか落胆した様子で呟く様に返す。彼女の声色の変化に、託斗はわざとらしくからかい始める。
『頼むよあずあずぅ~?鉄の女の本領発揮じゃないかぁ』
「それ以上その呼び方続けんなら本気でシメんぞ…」
真顔で凄んで速攻で通話終了ボタンを押した梓は、PHSを再び上着のポケットにしまって屋内に戻っていった。
…………………………………………………………………………………
ガタガタと肩を震わせながらPHSを懐に仕舞った託斗の様子を見て、彼の目の前で待機していた巳継は狼狽え始めた。
「う…右神先生!?どうされましたか!?」
「あぁ…僕の気持ちなんて誰もわかってくれないんだメソメソ。僕はただ、場を和ませようとメソメソ…」
わざとらしく泣き真似をする託斗とそれに構う巳継の寸劇を遠目に舌打ちをしていたのは麗慈であった。
楽団本社からの通達で託斗と巳継の二人は医院の箱物内で預かる事が決まってしまい、結局追い出す事ができなかったのだ。
相変わらず地味なイタズラや嫌がらせを続ける子供大人と相性最悪な彼の忠犬に日々苛々を募らせる麗慈。加えて彼の仕事内容は相変わらずで、ほぼ蘇生不可能な仲間の肉体を一時的に預かって葬儀屋に引き渡す事を繰り返していた。
異端の指示役と名乗るスーツの男と対峙して以降、敵側に目立つ動きは見えない。しかしながら、日々都内の至る場所で彼等と相見えた楽団関係者が命を奪われている現状は憂慮すべきであろう。
書類仕事を片付け、気分転換に外の空気でも吸ってこようと椅子から立ち上がった麗慈の視線の先には、いつも以上にニヤニヤと不適な笑みを浮かべる託斗の姿があった。
何か企んでいるに決まっている彼の表情は見飽きている。今度はどんな面倒を押し付けようとしているのかと身構えた麗慈の強張った表情に、託斗は良い心がけだと言わんばかりに大きく頷きながら歩み寄っていく。
「ちょっと頼み…」
「絶対無理。忙しい。無理」
手に持っていたバインダーを託斗の顔に押し付けて物理的に黙らせる。
「おい、若乃宮。右神先生の依頼を断るな。無礼者が」
横から託斗に手を貸したのは彼の熱狂的信者である巳継だった。バインダーを掻っ攫い逃走しかけた麗慈の襟首を掴む。
「馬鹿!邪魔すんな!お前が頼み事でも何でも聞いてやりゃあ良いだろうが!」
「先生がお前を指名しているんだ。特別な理由があるに決まってるだろ。そうでなければ誰がお前のような戦力にならない人間にわざわざ頼み事なんてするんだ、馬鹿はお前だ」
両者の間にバチバチと火花が散り始めたのを感じた託斗は、慌てて仲裁の為に二人の間に割って入る。
「まぁまぁ。僕の為に争うのはやめたまえ、君達」
聞き飽きた文言に眉一つ動かす事なくスルーしようとしていた麗慈の前に、託斗はピシッと人差し指を立てて強制的に視線を向かせる。
「今回は一つ電話を入れてもらうだけで良いんだ。簡単なお願いだろ?」
電話?と呟くように反復した麗慈は、託斗が次に口にした一言で全てを理解した。そして、白衣の胸ポケットに仕舞っていたPHSを静かに取り出しながら遮光カーテンの閉まる窓際へと移動していく。
…………………………………………………………………………………
総理官邸には異端の面々と都野崎を筆頭とする政界の中心人物達が集結していた。定例の報告会を開催する為である。
前回と同様、会食という形を取ってはいるものの、とても和やかな雰囲気にはなれない。
その第一の理由であるミゲルの不在について事前に聞き及んでいた都野崎は、早速前回の廃雑居ビルの件について質問を始めた。
「まずは…ミゲルさんの件ですが……失敗された、という事でしょうか?」
国会答弁時と同様の穏やかな口調ではあるが、明らかに彼らを嗜める意図を孕んでいた。
「楽団の要である右神託斗の居場所を突き止めた所までは良かった様ですが……相手に先手を打たれていたようで。しかも、司令塔であるミゲルさんがわざわざ現地に赴いたかと思えば、また勧誘活動をされたとか」
対岸の席に並んで座る異端の面々を順番に眺める都野崎によって次々に痛い所を突かれていく。
「…おっしゃる通りです。ミスタートノザキ」
押し黙った彼らを横目に声を上げたのはユリエルであった。不気味な反面の奥に平常通りの余裕の笑みを見せる様子にどんな弁明を用意してきたのかと、政治家連中は彼の方に一斉に向き直った。
「それでは、不用意に楽団側の人間と接触し、損失を産んだ事をお認めになる…と?」
「損失…ですか。あなた方が何を持って損失と仰ろうと言うのか…私には少々理解に苦しむ部分があるのですがね」
まさかの挑発的な返答を寄越したユリエルに対して、場に同席した全員が目を見開いた。
「……ミスタートノザキ。貴方が目指す将来の日本の絵という物を、我々は最初にお会いした際に見せていただきました」
武力とは、誰もが平等に恐れる存在でなければならない。
音の武力化が実現された世界では、音楽的技術、センスを持ち得る者だけが大きな力を振り翳す事が出来てしまう。
音楽の取り締まりが一切行われていない国において、悪意ある人間が隠し持った楽器で他者を傷付けたと仮定しよう。
もし、目撃者がいなければその犯罪は立証されない。何故ならば、犯人がただ楽器を持っていただけなのだと主張し続ければ、それまでなのである。
音を凶器に変えることの出来る限られた人間だけに与えられた免罪符。
かつてアメリカは銃社会であった。
相手が銃を隠し持っているかもしれない。だから、此方も銃を持って身をも守らなければならない。
何時、何処で、誰が自分の命を狙っているのかわからない恐怖と隣り合わせであった。
しかしそれは全ての国民に“共通”しており、自衛の為に自らも銃を手に取る事で皆が平等に武力を恐れる社会であったのだ。
エネルギー革命でのハンネス機関の台頭、そして音の武力化の実現性が世に知らしめられる形になって以降、武器弾薬等目に見える危険に成り変わったのが音楽家の存在そのものであった。
自ら音エネルギーを生み出すことのできる音楽家達は、その他の人間では自衛することの出来ない武力を自らの技術という形で常に携帯している。
持たざる者達は、彼らによっていつでも振り翳すことの出来る刃を常に突き付けられているようなものであった。
しかし、それは明確な“悪意”無しには成し遂げられない。
音楽家の誰しもが隣人を襲おうと身構えているような事は決して有り得ないからである。それどころか、世の中に存在する大半の音楽家達は、自らの奏でる音を凶器に変えることはできない。
日本国首相、都野崎仁一が掲げた徹底的な音楽禁止路線は、全ての音楽家を危険分子として排除する極めて独裁的な政治方針であった。
職業差別を超越し、人権を無視した音楽家達に対する迫害とも言える政策の数々。
全ての国民が音を奏でる行為を禁じられ、違反した者には厳罰を課した。
しかし、このような政府の横暴に対する反対運動が広がりを見せたのは、実の所ハンネス機関による新エネルギーの利用を大きく制限する動きを見せてからであった。
音楽家を追いやる行為に対して大きく反対の声を上げる者はいない。それはつまり、国民誰もが都野崎の危惧する『隣人の音楽家に傷付けられる』ような事態を心のどこかで恐れていたからである。
…………………………………………………………………………………
「豊かなエネルギー資源と引き換えに、持たざる者が常に恐怖に苛まれながら生きる社会になってはならない…貴方の考えに我々は大いに感銘を受けました。だから手を組ませていただきました。しかし、貴方は今も我々を完全に信用し切っておられない……貴方が“持たざる者”だからでしょう」
ユリエルが静かな口調で語った言葉に、都野崎はピクっと眉を顰めた。
「……我々は音楽家です。楽団の旋律師と異端の人間は同じ穴の狢だと…そうお思いでしょう」
「………明確な違いを証明できるとは正直思っていませんね。仰る通り、あなた方は私どもが最も毛嫌いする存在…同類なのですから」
睨み合った両者の間に重苦しい空気が漂う。
これ以上クライアントに食ってかかれば今後のビジネスに響くと、ユリエルの隣に座っていたサラフィエルが止めに入ろうとした時であった。
逆に彼女の目前にユリエルが掌を向けて動きを制する。そして、再び都野崎に向けて口を開いた。
「ハンネス機関と同じ…でしょう?石油の枯れた今、安定して電気を生み出す方法は音エネルギーによる発電の他存在しないのと同様に、旋律師に対抗する手立ては我々同類の人間が持つ能力以外無い」
「………」
グッと押し黙った都野崎の様子を見て、ユリエルは口元に笑みを浮かべながら続ける。
「奴らの持つ超絶技巧…私がわざわざアレを模倣して曲を書くのには理由がありまして……。ほら…ミスタートノザキのプロパガンダでは多用されているでしょう?“平等”ですよ。私が目指しているところは」
「……皆が異能を持つ……と仰りたいのですか?」
都野崎の指摘に再び場が騒然となる。
超絶技巧によって異能を得る為には二つの要件を満たす必要がある。
まずは何より、音をエネルギーに変換する為の奏法を熟知し、実践できること。
そして、作曲者の意図通りに完奏すること。
しかし、ユリエルの作り出す模倣楽譜には呪詛を込めた託斗本人の意図が反映されていない為、例え完奏したとしても祝福を受ける事なく災厄が暴走してしまう。
「タクト・ウガミをこちら側に取り込む事は結果的に貴方の目指す日本の姿に近づく事になる……と考えているのですがね」
超絶技巧のロジックを託斗本人の口から聞き出す為、異端に引き入れる必要があると述べるユリエル。そして籠城する託斗を引き摺り出す為の妙案を彼は持ち合わせていると仲間達には暗に示していたのだ。
「ミゲルの件はタクト・ウガミと接触するのが狙いでしたから。まぁ…手足の一本や二本は彼への手土産ですよ」
最後にニヤリと笑って見せたユリエルの姿に、その半面の奥にどんな企みを隠しているのかと戦々恐々とする日本政府の面々はそれ以上彼らを糾弾する事はできなかった。
…………………………………………………………………………………
都営団地の駐車場に停車する一台の黒いセダン。例外なくハンネス機関を溶接された違法車両である。
後部座席のドアが開き、車内から外に出た一人の壮年の男が運転手の方を覗き込んで会釈をした。
所々ひび割れたガラス張りのエントランスから彼の様子を眺めていた茅沙紀は訝しげな表情で梓に尋ねる。
「もしかして…梓さんが教える人って、あの方……いや、でもどう見てもそんな筈は…」
教育という言葉だけで勝手に相手が若者だと想像していた彼女の頭の中は混乱していたようだった。
「楽団に最近入社したてってだけで、新卒って訳じゃないわよ、別に。どこかのオケに入ってたんだけど、訳あって大金稼がなくちゃいけなくなったとか、そんな感じの人も割と多いし」
ガラス扉の取手に手をかけた梓の返答に、茅沙紀は感嘆の声を漏らしながら彼女の後に続いて建物の外に出た。
周囲をキョロキョロと見回していた壮年の男は、歩み寄る二人の姿を見るや和やかな表情でニコリと笑う。白髪混じりの坊主頭で細身、目は開いているのか閉じているのか、全体的におっとりとした雰囲気を醸し出している。
「どうもー。あなたが敦賀侑儞さんですね」
敦賀と呼ばれた男は、ペコペコと愛想良く頭を下げながら梓に手持ちの紙袋を手渡した。
「お出迎えいただきありがとうございます。ええと…そちらの方は?」
梓の隣を歩く茅沙紀を一瞥した敦賀が尋ねる。
「あぁ。ウチで保護しているお嬢さんです。那珂島茅沙紀チャン。若い女の子だからってイタズラしちゃダメですよ」
冗談混じりに返した梓に、紹介された本人は苦笑いを浮かべながら会釈した。
つい先刻まで二人で掃除をした空き部屋に通された敦賀。彼が運んできた手荷物の少なさに茅沙紀は違和感を感じる。恐らく肩から背負っているリュックタイプのジュラルミンケースには楽器が入っている筈だが、まるで日帰り旅行の様な身軽さだった。
じっと自分の方を見据えている茅沙紀の視線に気が付いた敦賀は、恥ずかしそうに後頭部を掻いていた。
「あっ…すみません!荷物少ないんだなぁ…って思っていただけで他意は全然無くて!」
手をバタバタ忙しなく動かしながら慌てて弁明する茅沙紀は、隣でクスクスと笑っている梓に助けを求める。
「あ、梓さん笑わないでください!」
「いやぁ…茅沙紀チャンって思ってる事が全部顔に出てるし、すぐ口からも出てくるから本当に素直な子だと思って……ごめんごめん」
顔の前で両手を合わせた梓は、顔を真っ赤にしている茅沙紀を手招いて敦賀に空け渡した部屋から退出するように促した。
レッスンの為に譜面台が置かれたリビングのローテーブルに突っ伏している茅沙紀に、キッチンで湯を沸かしていた梓が話し掛ける。
「…ねぇ、茅沙紀チャン。どう思う?」
唐突な問い掛けに、顔を上げた茅沙紀は一瞬戸惑って言葉を詰まらせる。
「えっ……と……どう、とは…?」
「何か感じたかどうかって事」
ティーバックを入れたポットにやかんの湯を注ぐ梓の表情からは、先程までの笑みは消えていた。
…………………………………………………………………………………
両手で包み込むようにして持っているティーカップの水面に映るのは、不安と緊張感を孕んだ茅沙紀の表情だった。
「じゃあ…敦賀さんって……もしかしたら日本政府が送り込んだスパイかもしれないって事ですか?」
ニュー千代田区画内の発電所爆発事件で、奇跡的に一命を取り留めた茅沙紀。一度は保護されたものの、音楽家であるという素性を隠し通す事が難しいと悟った彼女は病院を抜け出して命からがら京哉の元を訪ねてきた身であった。
「茅沙紀チャンは京ちゃんと麗慈と一緒に顔写真付きで特別手配されてるっていう情報を楽団は掴んでる。七白っていう政府の狗が心中した時に深傷を負わされてからの茅沙紀チャンの行方は不明って事になってるみたいだけど……」
既に梓が茅沙紀の身柄を保護しているという情報を政府側が掴んでいるとすれば、“楽団が教育を受けさせるために預けた新人”という敦賀について疑う余地があるのかもしれない。
梓によると、楽団本社は茅沙紀が彼女の元で身を隠している事を知らないという。組織と無関係な人間を何の利益も無しに保護する道理は無いのだ。本部の知るところとなれば当然然るべき措置を取られる事になる。
「無関係…ですよね。確かに……あの楽譜を演奏してしまった事以外は…」
超絶技巧第17楽章宇迦之御魂神を完奏したものの、託斗の描いたロジックから外れてしまい災厄の暴走の被害を受けた茅沙紀。
「今も覚えてたりする?弾けって言われればできちゃう?」
「えぇと…多分できます。文字通り血が滲むまで弾かされたので指が覚えていると言いますか……でもでも、またおかしくなりたくないので絶対にやらないですよ!」
荼吉尼天と稲荷に心身を引き裂かれた経験は記憶に新しい。顔を真っ青にして首を横に振った彼女の様子を見て、梓は眉を下げながらローテーブルに三つのティーカップを並べていった。
「私も反対。あの馬鹿がもう一度弾かせようとしてきたら教えて頂戴。頭蓋骨カチ割ってあげるから」
託斗に対しては異様に当たりが強く、いつも治安の悪い物言いばかりの梓に、茅沙紀はいつも通り苦笑いを見せた。
「まぁ、とにかく…新人ってのは文字通り、組織に新しく加入してきた人間ってこと。素性は一応調べ上げるけど、それも加味して嘘で塗り固められた経歴で本性を隠してる奴も過去に何人も見てきた訳。敦賀さんの事も多少なり用心するに越した事はないわね」
面倒くさそうにフゥっと息を吐いてから立ち上がった梓は、一人取り残してきた敦賀を呼ぶためにリビングを後にした。
…………………………………………………………………………………
米軍横田基地を出発した黒いワゴン車には、オーストリアからの長旅を終えた京哉達が乗り込んでいた。悪路に大きく揺れる車両を悠々とした表情で操る鬼頭は、フロントミラー越しに最後部座席を睨み付けた。
「呼び出しておいてさっさと眠りこけるたぁ、良い度胸だな」
オーストリアから日本まで約15時間のフライト時間中ずっと眠り続けていたというのに、京哉はシートを占領して居眠りを始めていた。
「起きててもうるさいし、寝てる方がまだマシだよ」
助手席で外の様子を眺めながら答えたシェリーも疲労が溜まっているのか冴えない表情をしていた。
鬼頭は楽団の外部協力者である為、シェリーに関する秘匿情報について詳しくは知らされていない。しかし、彼女がオルバスの娘である事から大体の事情は推察しており、今回楽団で相当な苦労を強いられた事も容易に想像できた。
「オーストリアはどうだんたっだ?初めてだって聞いてたが」
「どうって……街並みは綺麗だったし、ご飯は美味しかったし……あと、音楽が禁止されてないってやっぱり凄かったよ。住んでる人も観光客も何となく余裕そうっていうか…」
楽団での出来事には触れず、旅行として楽しんだ部分について語ったシェリー。鬼頭のアテは少し外れてしまったが、疲れた顔色の中に何処か嬉しそうな様子を垣間見る。
「良かっただろ。俺も早くこんな窮屈な国での仕事を終えてオーストリアに帰りてぇよ。あぁ…支部長とは話したか?」
「うん……良い人もいるんだね、楽団に。アタシが日本で知り合った人達って相当変だったから…」
そう漏らしたシェリーの横顔を一瞥した鬼頭は、彼女が想像している変の一部に自分も含まれているとは毛ほども思っていない様子だった。
休憩の為に立ち寄った地下駐車場跡地。
寒さが本格的になってきた外の空気よりも閉塞的な空間の中は格段に肌寒く感じられた。
鬼頭、シェリー、椿の三人が車外に出て談笑していると、ピリピリとけたたましい電子音が反響し始める。それは、空気を入れ替えようと開け放っていたワゴンの窓から漏れ出しており、ぶつぶつと寝言のような文句が聞こえてきた後にピタリと止んだ。
PHSの着信を受けた京哉は眠りを邪魔された事が相当気に食わなかった様子で、いつも以上に不機嫌な態度を電話口の相手に不満をぶつけている。
『どうしたんだい、キョウヤ?時差ボケかな?』
「そう思うんなら掛けてくんなっての……今は猫探しもできないぐらい疲れてんだけど」
大きな欠伸をしながら上体を起こした京哉は、寝癖のついた髪を左手でわしゃわしゃと掻きながらジャックからの指令を耳に入れる。
『1ヶ月間近く無能だった訳だからね。かなり体が鈍ってるんじゃないのかな?そんな君にピッタリな依頼が来てるよ』
「アンタ今、余計な事しか言ってないからね?AIってそんな面倒くさい進化してんの?っていうか…例の設計図をブン取りに行くのが優先じゃねーんだ」
相手がAIだとわかっていながらも、あまりにも人間的な会話が成立してしまうジャックを前にすると愚痴の一つや二つも言いたくなってしまう。
時々文句を言いながら相槌を打っている京哉を車外から覗き見ていた三人は、彼の顔色が突然真っ青になったのを見て視線を合わせる。
「どうした、京哉?日本に帰って早速お仕事たぁ、精が出るじゃねぇか」
京哉の通話が終了したのと同時に、運転席に戻った鬼頭が話し掛けた。ヘニャヘニャと力無くシートにもたれ掛かっている京哉は、情け無い声色で発狂する。
「創くん……ホントにあの人来てんの?」
「あ?あの人だァ?」
抽象的な問い掛けの内容に聞き返す鬼頭だったが、京哉の項垂れ具合を見てすぐにあの人の正体を悟った。
「…来てるな。お前の穴を埋める為に楽団が寄越してきたぞ」
…………………………………………………………………………………
『依頼主は大手建設会社「大山田建設」の社長夫人…大山田ひな子。夫の大山田淳弥がどうも浮気をしてるんじゃないかと心配していてね』
まさかの浮気調査の依頼に、京哉はシートからズリ落ちそうになる。
「そ…そういうのもやるんだ…ウチの会社……」
『勿論、何のメリットも無しに受ける内容じゃないさ。この大山田建設、実はタクトが破壊した発電所の再建を一手に担ったらしくてね。社長の大山田淳弥という男、かなりプレジデント・トノザキからの信頼が厚いと言えるだろう』
ニュー千代田区画以外はインフラが壊滅的な筈の現代日本において、どういう訳か潤沢なエネルギーを供給されている秘密の空間が存在するという噂があるのが、大山田が足繁く通っているという新宿の一画である。
政府の人間と強いコネクションを持つ人物が、近親者が不信感を抱くような頻度で足を運ぶ場所。そこで、異端と結託した首相を始めとする周辺の大物議員達が楽団にとって何か良からぬ事を企てているのではないか。上層部の見立てとしてはそのような所であろう。
そして、妻・ひな子の依頼を受けた理由は、関係者でなければ入り込めない“疑惑の場所”への侵入を容易にする為である。
後に控えている、オルバスの設計図を奪うというミッションの前に政府側を下手に刺激する必要は無い。白か黒かを突き止めて報告するだけの非常に簡単な依頼内容は、復帰直後の京哉のリハビリ、そしてその後の動きに影響を及ぼさない為の最低限の活動を両立した非常に理想的なものであった。
『荒事にならないようにだけ、十分注意してくれよ。調査が終わるまでの間は、引き続き彼に君の管轄をお願いしておくからね』
通話を終了しようとしたジャックを引き止めて、彼の言葉を繰り返す。
「……彼に…?僕の管轄を……?どういうこと?」
『え?誰にも聞いてない?ミツキをそっちに送ったのさ。今はタクトと一緒にレイジの所に身を置いてもらってるから、時間が空いたら声掛けて……あれ?聞いてるかい?おーい………』
最後部の座席でブツブツと独り言を唱えながら顔を真っ青にしている京哉を睨み付けたシェリーは、小声で鬼頭に尋ねた。
「…あの人って、一体何なの?キョウヤがあんなに取り乱してるなんて……」
「ああ…。アイツにも苦手な人間ってのがいんだよ。まぁ、会って話してみりゃわかるさ……」
珍しく言葉を濁す鬼頭の様子に、シェリーは小首を傾げて一つ後ろの席に座る椿と顔を見合わせる。
…………………………………………………………………………………
ニュー千代田区画に入る手前でワゴンを降りた京哉は、周囲を警戒しながら依頼人との待ち合わせ場所に向かう。
特別手配されている事は楽団より報告されていた為、一応マスクと伊達メガネを掛けて気持ち程度の変装をしていた。
綺麗に舗装された地面が広がり、『上級国民』達が悠々と暮らす場所に足を踏み入れた事を知らせる。
真昼間だと言うのに街頭には煌々と明かりが灯っており、聳え立つ高層ビルを見上げれば壁面に施された電飾がビカビカと無駄に光り輝いていた。
「成程…仕事が早い男はよくモテるって訳か」
爆破された巨大な発電プラントを単独一社で超短期間に復旧させた大山田淳弥の手腕は相当な物なのだろう。お陰様でニュー千代田区画は、見ての通り有り余るエネルギーを無駄に放出し続ける余裕がある状況に戻っていた。
指定された場所は、賑やかな大通りから少し離れた住宅街の一角。あえて昭和の雰囲気を再現した見た目の喫茶店のドアベルを鳴らすと、店内には客が一人しかいなかった。
薄いブルーの上品なワンピースにふんわりとしたミンクの襟巻きを纏った、いかにもな女。
所謂美魔女というやつで、聞いていた年齢よりもだいぶ若い見た目をしていた。シワひとつない手入れの行き届いた肌に薄い化粧を施した彼女は、京哉の姿を見るなりそろそろと立ち上がって会釈する。
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ…」
名前も確認せず、自分の座っていた卓の正面に誘導してくるひな子。言われるがままに木の椅子に腰掛けた京哉は、再び頭をペコリと下げてきた彼女の頭頂部を見詰めながら尋ねる。
「あのー…大山田ひな子さん…で合ってますよね?僕があなたの依頼を受けてきた人間だって、どうしてわかったんですか?」
「今日は1日、この店を貸し切っておりますから…。あなたが到着する時間まではわからないと言われておりましたので」
さも人と会う時の当然な作法のようにアッサリと述べたひな子に、京哉は生きている世界の違いを痛感させられて思わず声を漏らす。
「そ、そうなんですね…凄いな…。ええと、それでは早速なんですが…」
「夫の大山田淳弥が浮気をしているか否かを調べてください」
食い気味に早口を飛ばしてきたひな子の目は本気そのものであった。あまりの気迫に若干気後れしながらも、一度咳払いをして仕切り直す。
「どうして旦那様が浮気をされてると疑うようになられたのですか?」
日本政府と懇意にしている大企業社長の嫁が、対立組織である楽団に頼ってまで浮気の真偽を確かめようというのだ。確固たる証拠でも掴んでいるのかと思っていた京哉であったが、彼の予想に反してひな子の回答は非常に曖昧なものだった。
「勘です」
「……カン…?」
「女の勘、です」
もしかしたら、復帰早々にとんでもないはずれクジを引かされてしまったのかもしれないと眉を顰めた京哉は、どうにか笑顔を取り繕いながら再びひな子に問う。
「旦那様が向かわれている場所の目星は付いていらっしゃいますか?」
「はい。新宿2丁目の地下商業施設跡…今は綺麗に改装されて、『極楽町』という架空の地名で呼ばれている場所です」
聞き慣れない地名は、ジャックから事前に聞かされていた秘匿された場所の事だろうと察する。
「極楽町…」
「はい。政府関係者や警察高官、財閥当主など…選ばれた人間のみが入る事を許されている巨大な社交場です。入場には事前に登録された戸籍上のマイIDと共に生体情報認証が必要になります」
日本国内で産まれた時に交付される個人番号がマイIDである。生体情報の偽造はできるにしても、このマイIDに関しては難儀する事が予想された。
政府関係者が出入りする社交場だ。不審な番号を検知すれば、犯罪発生を危惧してすぐさま警察機関が捜査に乗り出すだろう。非常に動きにくくなってしまう。
「マイIDの偽造はいくら手を尽くしても難しい…でも、調査に入る為には必ず必要になります。だから…人を一人買いました」
いきなり依頼人の口から飛び出した物騒なワードに、京哉は目を見開く。
「ひ…人を買った?」
「大した事ではありません。極楽町内で勤務している一般の方にお声掛けして、戸籍を譲っていただいたのです。もちろん、彼には我が家の使用人になっていただいて、生涯身の安全は保証すると約束しています」
スッとひな子が右手を上げると、厨房の奥から一人の青年が姿を現した。
身長180センチの長身で、華奢な体躯。京哉と似た体型の男であった。ニコリと笑ってみせた彼の表情は非常に爽やかで、端正な顔立ちが非常に眩しい。
[40] lamentoso 完
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大西彩花(香川県出身、享年29歳、独身)は転生直後、維持神を名乗る存在から、いきなり土地神を命じられた。目の前は砂浜と海。反対側は枯れたような色の草原と、所々にぽつんと高い山、そしてずっと向こうにも山。神の権能『全知』によると、この地を豊かにして人や動物を呼び込まなければ、私という土地神は消えてしまうらしい。
現状は乾燥の為、樹木も生えない状態で、あるのは草原と小動物位。私の土地神としての挑戦が、今始まる!
の前に、まずは衣食住を何とかしないと。衣はどうにでもなるらしいから、まずは食、次に住を。食べ物と言うと、やっぱり元うどん県人としては……
(カクヨムと小説家になろうにも、投稿しています)
(イラストにあるピンクの化物? が何かは、お話が進めば、そのうち……)
社畜のおじさん過労で死に、異世界でダンジョンマスターと なり自由に行動し、それを脅かす人間には容赦しません。
本条蒼依
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山本優(やまもとまさる)45歳はブラック企業に勤め、
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【完結】異世界で魔道具チートでのんびり商売生活
シマセイ
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大学生・誠也は工事現場の穴に落ちて異世界へ。 物体に魔力を付与できるチートスキルを見つけ、 能力を隠しつつ魔道具を作って商業ギルドで商売開始。 のんびりスローライフを目指す毎日が幕を開ける!
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