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#045 Recitativo
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東京都・年齢不詳女性「何であのタコ助をそんなに邪険にするかって?逆に聞くけど、アイツを殴らずに済む方法教えてよ。苛つくのよね…主に全身が。髪の先すらムカつくってある意味才能でしょ…って思うんだけど?」
…………………………………………………………………………………
社員寮の自室前、一人の女がガチャガチャとドアノブを弄りながら何やら独り言を呟いている。
訝しげな表情で彼女の背後に歩み寄り、トントンと肩を叩く。
「あのー…私の部屋に何か用?」
新妻梓が声を掛けたのは、どうやら部屋を間違えていたらしいシエナであった。気まずそうに苦笑いを浮かべながら手に持っていた鍵を手提げ袋の中に投げ入れる。
「あちゃ~…ここよく見たら三階……」
「まぁまぁ、そういう間違えもあるでしょうね。良かったら入っていってよ。依頼人からケーキ貰ったんだけどさ、一人で食べるのも寂しいし」
甘い香りの漂う紙の箱を見せてきた梓に、シエナは嬉しそうにニカッと笑った。
シエナがミーアと共に託斗からレッスンを受けていた当時、梓は既に旋律師として依頼をこなす日々を送っていた。
「アズサさんって日本人ですよね?アジア支部もあるって聞いてたけど、こっちで仕事してるんだな~って思って」
ティーカップに香りの良い紅茶が注がれる様子に目を輝かせながら、シエナが尋ねる。
「まぁ…なんて言うか……私、楽団にヘッドハンティングされて入ったんだよね。で、そのままオーストリアに住む様になった感じ?」
「へっ……へっど?」
よくわかっていない様子のシエナがコテンと首を傾げる様子を見て、梓は皿に乗せたケーキを彼女の目の前に置きながら隣に座った。
「お仕事で…って事は家族とかみんな心配してるんじゃ…」
「家族とかいないいない!10歳の時に母親が逃げて、兄貴と父親の三人で暮らしてた時期もあったけどさ……」
豪快に笑い飛ばしている梓だったが、シエナにはその笑顔の奥にどこか仄暗い感情を内包している様に思えて仕方がなかった。
シエナが楽団に入社してから、出会う人間全員が同じ様に闇を抱えていた。旋律師として愛する音楽を凶器に変えなければならない事情を持つ奏者の集まりである。仕方の無い事なのだろう。
「…帰る場所があるなら、旋律師になるのはオススメしないな」
突然そう切り出してきた梓と目が合い、シエナは肩を震わせる。
「アイツのレッスン受けながら旋律師目指してるんでしょ?たまにシエナちゃんの演奏聴こえてくるけど、勿体無いなぁっていつも感じてたんだよ」
「もったいない…ですか?」
ショートケーキの上に乗ったイチゴにフォークを刺した梓は、柔らかな生クリームの上からそれを持ち上げながら答える。
「私たちの音って、聴こえないんだよね。エネルギーに変わっちゃうから。聴こえるように演奏すれば良いんだけどさ……そんな都合の良い事が許されるなんて、私は割り切れなくて」
奏でた音が人を殺める。旋律師とは何かという説明をロジャーから受けた日、シエナは恐怖で眠る事ができなかった。
「今は誰も殺さないので普通に音楽楽しんじゃいまーす……って気持ちになれないんだよね。だって、数秒前には自分の意思で人を殺す道具にしてたんだよ」
イチゴを口に運びながらそう付け足した梓の考えに、シエナはまだ迷い続けていた心が大きく揺り動かされていた。
「だから…シエナちゃんみたいに、自由に歌う様に演奏できる子が、こちら側に来ちゃいけないのになって思ってるの」
「……そ、そうですかねぇ~…でも、自分でも向いてないんだなぁってのは、ひしひしと感じてます…」
フォークでケーキの端に断面を作りながら、シエナは同僚と差が開くばかりのレッスンについて思い返していた。
何よりも縛られる事を嫌う彼女にとって、旋律師特有の奏法は最も苦手とする所である。そして、例え努力して力を得たとて、その先に明るい未来は無い。
…………………………………………………………………………………
梓に別れを告げ、彼女の部屋を後にしたシエナは、今度こそ自室に戻る為にもう一階分の階段を駆け上る。先程手提げ袋に適当に投げ入れてしまった鍵を探してガサゴソと手を突っ込んで弄っていると、不意に誰かの背中に顔をぶつけてしまった。
「っちちち……だーっ!またまたドジを…ごめんなさい、どこの誰だか存じ上げ……」
額を摩りながら顔を上げたシエナは、同じ様に背中を摩っている託斗と目が合う。
「…どしたの?私の部屋の前で…」
「君に用事があるからに決まってるんだけど…っていうか、基本的にその目は節穴だな。何も見ちゃいない」
ブツブツと文句を垂れながら彼が手渡してきたのは、明日からのレッスンで使うという楽譜であった。
「さっきミーアにも渡してきたとこ。君は当日渡しても問題無かったかもしれないけど」
「……あ、あぁ…そっか。ありがとね~」
にへらと笑いながら楽譜を手に取ったシエナであったが、彼女の様子がどことなく普段と違う事に託斗は気が付く。
その行動とは裏腹に普段通り散らかっている彼女の部屋に二人で入ると、ジャングルの中を分け入る様に進みやっとの思いでベランダに到着する。
月明かりが美しい空の様子を眺めながら、シエナは先程梓の部屋で話した内容を託斗に語った。
「それにしても、アズサさんって大人だねぇ…てっきり同い年ぐらいだとばかり。前のお仕事って何だったのかなぁ~?」
ヘラヘラと笑いながら話し掛けたシエナであったが、手摺にもたれ掛かって不満げな表情を見せる託斗に小首を傾げた。
「…殺し屋。それも、日本からわざわざ僕を殺しに来た」
「こ…ころしや!?」
思わず大きな声が出てしまい、シエナは慌てて両手で口を塞ぐ。梓の部屋はこの真下なのである。万が一にも聞こえていたらどうしようと思い、今度は極力声量を抑えて尋ねた。
「タクトを殺しに来たって…どういう事?怒らせる様な事したのかな?お風呂覗いたとか?」
難しい顔をしながら子供の様な想像力で話す彼女を横目に、託斗は梓と初めて出会った日の事を思い出していた。
呪詛・呪曲を継ぐ呪術師の一族、それが託斗の生まれ育った家であった。
血を守る為、世継ぎの存在はその一切を秘匿事項とされており、親族や家に仕える者を除いて彼を知る者はいなかった。
数少ない周辺住民にも子供は全員女だと認識されていたが、12歳で楽団に拉致された時、村の長が燃え残った母屋の家系図を発見した事によって事態が急変する。
燃え尽くされた敷地の何処にも男児の死体は発見されなかったのだ。
日本国内に残る特異な家系と血が受け継ぐ異能に関しては、遥か昔は平安時代の陰陽師・安倍晴明の頃より政府機関が秘密裏にその血縁関係を追跡調査している。
理由は大きく二つ。異能を持つ者を政府の管理下に置く事で他国との有事の際の切り札にするため、というのが一つ。そしてもう一つは、その異能の血が無闇に他国に渡る事を防ぐ為である。
右神家の末裔の失踪に関しても政府の知るところとなり、すぐに対処するべく大規模な調査が行われた。
当日の夜、敷地を襲撃した犯人に関する数少ない目撃情報を元にようやく楽団の関与を裏付ける証拠を手に入れる事に成功した調査機関は、直様オーストリアに人を送った。
…………………………………………………………………………………
目的は異能者の奪還ではなく、彼を殺害する事。
拉致が楽団による犯行であった事を加味しての判断であった。
呪曲と音楽家という最悪の組み合わせは、日本のみならず世界中の脅威になり得る。それら二つを邂逅させてしまった責任を取らされる痛手を考えれば、殺してしまった方がマシなのだろう。
そこで白羽の矢が立ったのが、彼らであった。
韓国にルーツを持つその家族は、政治家や経済界の重鎮から依頼を受けて対象を秘密裏に殺害する事を生業としていた。所謂、殺し屋稼業である。
ただ一点、同業者達と異なるのは彼らが旋律師と同様に音エネルギーの武力化を成し遂げた特異な力を持つ猛者であるという事。
彼らもハロルド・ロジャーが旋律師を育て自らの組織のエージェントとしたように、産まれた子供に対して殺し屋としての教育を施し、世に放っていた。
蒋潤由は幼い頃より人を殺す事を目的にヴァイオリニストとして育てられた少女であった。
オーストリアに到着したその日の深夜、ソンユは楽団社屋の警備の目を掻い潜り、地下牢に繋がる通気口まで侵入に成功していた。
格子状の金属製の蓋一枚を隔て、ソンユは壁に掛かった小さなランプのみに照らされた薄暗い牢の中を見回した。簡素な造りの机に突っ伏したまま寝てしまっている少年の姿。手に握られたペンの先が五線紙にインクだまりを作っており、熟睡している様子だった。
「……ウガミタクト…」
今回の彼女の標的である。これまで、命令とあらば自分より体の大きな男達の命も奪ってきたソンユにとって、子供の寝首を掻く事程技術的に簡単なものはなかった。
慎重に蓋を外し、音もなく牢の中に侵入を果たす。そして、腰のホルダーからナイフを取り出して右手に構えると、少年の首目掛けてその切先を勢い良く近付けた。
「もしかして女の子?カッコいいなぁー」
背後から声が聞こえた瞬間には、目の前に伏せて寝ていた少年の姿は消えていた。慌てて距離を取って身構えると、彼女の視線の先には大きなあくびをしながら眠そうに目を擦っている託斗が立っている。
暗殺に失敗したからには、何としても彼の口を塞ぐ必要がある。ナイフを逆手に持ち替えたソンユは、間髪入れずに距離を縮めて再び襲い掛かった。
迫る刃先を彼女の腕を掴んで去なすが、直ぐに体勢を立て直され背後から託斗の背中に膝蹴りが入る。少女の体躯からは想像も出来ないほど重い一撃に、託斗の息が一瞬詰まった。
隙をつかれてそのまま床に組み敷かれると、両手を拘束されてそのまま身動きが取れなくなってしまう。
…………………………………………………………………………………
再度振りかぶったナイフが託斗の首を狙うが、寸前のところで躱されて切先が木製の床に突き刺さって抜けなくなる。
「ちょっと待ってよ。聞きたい事あるんだけど」
見え見えの時間稼ぎに付き合っている暇は無いと、ソンユは力ずくでナイフを抜き取り、上半身を動かして抵抗を見せた託斗の身体を今度は仰向けに転がしてその首筋にナイフを当てがった。
「背負ってるのって、ヴァイオリン?ちょうど良かった、弾いてみて欲しいフレーズがあってさぁ…」
「っ……!?」
予想だにしなかった託斗の発言に、ソンユの動きが止まる。
「僕を殺すのはその後でも良いでしょ?今書きかけの曲仕上げちゃわないと死ぬに死にきれないからさぁ…」
諦めたように両手を上げて眉を下げる託斗に不信感を抱きながらも、ソンユはゆっくりとナイフを彼から遠ざける。
殺し屋としてこれまでも確実に任務を遂行してきたソンユ。標的の命乞いを聞いた事などもちろん唯の一度だって無かったのに…。
ケースから取り出したヴァイオリンを左顎に挟み、託斗から受け取った手書きの楽譜に視線を落とす。
「一小節前からの流れを見たいんだ。どっちのメロディが良いか教えてくれる?」
ニカニカと笑いながら譜面を指差した託斗を睨み付けたソンユだが、大人しく弓を動かし始める。
ヴァイオリンの美しい音色が無機質な牢屋の内装とあまりにも不釣り合いで、しかし反響の少ない室内で細かな音色までしっかりと鳴り渡った。
指定された通りに演奏を終えた彼女が弓を降ろすや否や、託斗は直様彼女の目の前で大袈裟に拍手をしてみせた。
「いやーーっ!素晴らしい!!さすが僕!実際に聴いたらどっちもめちゃくちゃ良いなぁ…」
褒められたのかと思えば自画自賛し始めた彼を再度睨み付けたソンユは、再び弓を構えて左手の指を動かし始めた。音は聴こえてこない。
託斗は周囲に何も無い真っ白な空間に一人佇む…錯覚に陥っていた。
ソンユの奏でる音は空気中の水分を特定の周波数で振動させて光の反射角を歪める。すると、周囲にいた筈の人や物の姿を認識できなくなるのだ。
絶体絶命、いつ何処からナイフに切り裂かれるともわからない状況だというのに、託斗は目を輝かせて楽しんでいる。
「なるほどー…こうやって警備網を抜けてきた訳だ!凄い技術だな……ヴァイオリンは誰に習ったの?」
まだ無駄口を叩き続ける託斗の首筋に冷たい金属が押し当てられた。一向に返事を寄越さないソンユであったが、託斗の奇想天外な同行にペースを崩されたせいか、すぐにそのナイフで首を掻っ捌く事ができなかった。
「ねぇ、名前教えてよ。ほら、よく言うじゃん。自分を殺した相手の名前くらい聞いておかないとってやつ?気になって死ぬに死ねなく…「……名前なんてどうだっていい。アンタ、今から私に殺されるんだよ?何ヘラヘラしてんの?」
息を詰まらせながら尋ねたソンユの声がする方向を見ながら、託斗はまたしてもニンマリと笑っている。
「それは、君がしたい事?」
「……え…?」
唐突な質問返しに、思わず言葉を失う。
「人を殺す事。誰かにやれって言われて来たの?それとも最初から僕の事が憎くてわざわざこんな所まで来たのかな?」
今まで殺してきた人間は数えきれない。しかし、その中の誰一人としてソンユが殺したいと思った者は存在しなかった。
ただ言われるがままに、殺してきた。それが、自分のやるべきことだと教え込まれてきたから。
では、何故自分は人殺しなどしなければならないのだろうか。何故、恨んでもいないそれまで無関係だった人間の命を奪い続ける必要があったのだろうか。
殺し屋の家に生まれたから?
家業を守らなければならないから?
ちがう。
ソンユの手からナイフが零れ落ち、床の上に転がって鈍い金属音が響いて幻覚を解いた。
両手で頭を抱え、項垂れる彼女はよろめきながら後退していく。
…………………………………………………………………………………
「ちがう……私は……」
言葉を押し殺すように下唇を強く噛んだ彼女の様子を見て、一歩踏み出した託斗がその両肩を掴んで揺さぶった。
真っ直ぐな眼差しが正面から突き刺さる。すると、自然と口が声を溢し始めていた。
「………私は…」
「うん」
「……ヴァイオリンが好きだったから………だからたくさん練習したのに……こんな事する為だなんて…」
膝から崩れ落ちたソンユの両目からは、大粒の涙が次々と溢れ出していた。
隣人が大事に飼育していたニワトリの小屋に入り、鳴き声を上げさせずに10羽全部殺して来る事。それが、ソンユが最初に命令された殺しだった。
理由を聞く事など許されなかった。躊躇えば直ぐに手を上げられるから。
初めて殺した人間は、活動家の子供であった。公園で遊ぶ幼児に歩み寄り、背後から深く刃物を突き刺した。その時の手の感覚は今でも鮮明に思い出される。
柔らかく、無抵抗な肉には簡単に刃物が沈んでいくのだ。
何人も、何人も手に掛けた。ただ只管に。命令されるがままに。
理不尽な体罰から逃れる為?
否……彼女は命令され、それに従うという関係性の中でしか家族としての繋がりを感じる事が出来なかったのだ。
父親と兄、彼らと家族でい続ける為に、彼女は殺し続けなければならなかった。
『よくやった』
その一言を聞くためだけに、他者の血でその手を汚していったのだ。
しかし、ソンユを絶望の底に突き落とす出来事が起こった。それは、成長期も終わりに近付いた頃。
暗闇の中、自室で寝ていた彼女を突如襲った見知らぬ男達からの性暴力であった。
朝になり、乱された衣服をそのままに、血の付着した布団に視線を落としたソンユは徐に立ち上がって部屋の外に響く兄の話し声に聞き耳を立てる。話している相手は自分を弄んだ男達であった。
そっと扉を開けて目の当たりにしたのは、数枚の紙幣を数えながら愉快そうに笑う兄の姿。ソンユは泣く事すらできなかった。
今まで家族だと思っていた人間は皆、彼女を金稼ぎの道具としてしか見ていなかったのだ。
「家族でいるために、人を殺してきた。でもさ……最初から違ったんだよ……私に家族なんていなかった。だったら何の為に殺したんだろうって…毎日考えてもわかんなくて…」
蹲っていたソンユが顔を上げる。震える唇で言葉を続けた。
「………大嫌い……殺して来いって命令する父親も、妹を平気でオモチャにする兄貴も、そんな奴等が付けた私の名前も、私自身も……全部……」
彼女が手を伸ばした先に転がっていたナイフを、託斗が咄嗟に蹴飛ばす。壁にぶつかった金属音が虚しく彼女の耳に届く。
「…君は僕を殺しに来たんだろ?君が死んでどうするんだよ?」
託斗は床に跪き、ソンユと目線を合わせる。
「どうせ任務を放棄するなら、いっその事全部捨てちゃえば良いんだよ」
「……全部…捨てる……?」
震える声で彼の言葉を繰り返したソンユは、目の前でニカニカと笑みを見せる託斗の顔を訝しげな表情で睨み付けた。
…………………………………………………………………………………
「まずは、家族を捨ててやろう。僕の実家も人の事言えたようなモンじゃなかったけど、君の父親も兄貴も相当クズだ。捨てられて当然だな」
いきなり饒舌にベラベラと口が回り始めた託斗は、楽しそうに続ける。
「殺し屋とかいう肩書きも捨てよう。名前も嫌いって言ってたね?じゃあ捨てよう。僕が代わりに名前を付けてあげるよ」
「ちょ…ちょっと……」
いくら彼が捨てると言ったとて、そんな絵空事現実になる筈がない。ソンユは慌てて託斗の服の袖を掴んで止めようとしたが、逆に手を握られて驚きで硬直してしまった。
小さな赤褐色の灯りに照らされたその横顔から先程までの笑顔は消えており、真っ直ぐに彼女を見つめている。
「……捨てたくないものは何?君が本当にしたい事は?」
そんな事を聞いてくる人間は、それまでの人生でただの一人もいなかった。自分に何かをしたいという欲求があるのかすら、わからなくなっていた。
初めてソンユは自分自身について考えた。
そして、辿り着いた答えは悲しくも人を殺す手段として学ばされ続けてきたヴァイオリン。しかし、楽器を奏でる時間だけが唯一心穏やかになれた彼女にとって、それは捨てることができないものであった。
「…捨てたくない……コレでたくさん人の命を奪ってきた癖に可笑しいよね…」
床に転がっていた自分のヴァイオリンを手に取ったソンユは、そのボディを手のひらで愛おしげに撫でた。
「おかしくないさ。君は根っからの音楽家って事だよ……ねぇ、そういう事だから見逃してやってよ!ロジャー!」
急にドイツ語で大声を出したかと思えば、託斗の振り向いた先にはいつの間にかロジャーの姿があった。深いため息をつき、一歩ずつ近付いてくる様子に身構えたソンユであったが、再び託斗が手を強く握ってきた。
「凄い技術だったでしょ?楽団に必要な人材なんじゃない?」
ニヤニヤと笑いながらロジャーを見上げた託斗は徐に立ち上がりながらソンユとの間に立ちはだかって距離を取らせた。
「……裏切らないという保証は?」
「裏切る?何言ってんのさ。楽団に入れるってなったら、この子のやる事なんて今までと大して変わらないだろ?」
楽団の旋律師になれば、依頼を受ければそれがどんな悪事であっても完遂しなければならない。下手をすれば、父親から下された命令よりも人の道に外れた行いを強要される場合もある。
「僕は命を狙われたんだ。この子を助けてやる義理なんて無いと思わない?」
「……殺さない温情でも利用しようというのか、お前は。人間の心理なんてそんな甘いものじゃないぞ、タクト」
相変わらず本心の見えない怪しげな笑みを浮かべている託斗は、「仕方ない」と呟いて踵を返したロジャーの背中に舌を出して見送った。
そして、意味を理解できない言語が飛び交う中でポカンと口を開けて床に座り込んでいたソンユの方を振り返る。
「決めた!」
明るく一言言い放った彼に小首を傾げるソンユ。次に何を言い出すのかと思えば、更にとんでもない提案であった。
「さっき言っただろ?僕が君に名前を付けてあげるって。今決めた!とびっきりキュートなやつ!」
「な…名前を付けるって……犬じゃあるまいし、そんな急に……」
困惑するソンユの手を握って引き上げると、無理矢理立ち上がらせた彼女の前で両腕を大きく広げてその名を口にしたのだ。
…………………………………………………………………………………
都営団地の最上階の一室。
月も眠りにつく時間、忙しない息遣いが室内に響いていた。
深い闇の中、その人影は肩を上下させながら一点を見つめている。
布団に滲む赤黒いシミはとめどなく流れ出る首の致命傷が作り出したもの。
新妻梓の動かなくなった身体を前に、人影が握っていた包丁がドサッとその足元に落下した。両手にこびり付いたねっとりと生暖かい液体に視線を落とし、成し遂げた事に安堵した様子で深く息を吐く。
「……ごめんなさい、梓さん。でも、こうするしかなくて……」
その乾いた声は、紛れもなく茅沙紀のものであった。
[45] Recitativo 完
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社員寮の自室前、一人の女がガチャガチャとドアノブを弄りながら何やら独り言を呟いている。
訝しげな表情で彼女の背後に歩み寄り、トントンと肩を叩く。
「あのー…私の部屋に何か用?」
新妻梓が声を掛けたのは、どうやら部屋を間違えていたらしいシエナであった。気まずそうに苦笑いを浮かべながら手に持っていた鍵を手提げ袋の中に投げ入れる。
「あちゃ~…ここよく見たら三階……」
「まぁまぁ、そういう間違えもあるでしょうね。良かったら入っていってよ。依頼人からケーキ貰ったんだけどさ、一人で食べるのも寂しいし」
甘い香りの漂う紙の箱を見せてきた梓に、シエナは嬉しそうにニカッと笑った。
シエナがミーアと共に託斗からレッスンを受けていた当時、梓は既に旋律師として依頼をこなす日々を送っていた。
「アズサさんって日本人ですよね?アジア支部もあるって聞いてたけど、こっちで仕事してるんだな~って思って」
ティーカップに香りの良い紅茶が注がれる様子に目を輝かせながら、シエナが尋ねる。
「まぁ…なんて言うか……私、楽団にヘッドハンティングされて入ったんだよね。で、そのままオーストリアに住む様になった感じ?」
「へっ……へっど?」
よくわかっていない様子のシエナがコテンと首を傾げる様子を見て、梓は皿に乗せたケーキを彼女の目の前に置きながら隣に座った。
「お仕事で…って事は家族とかみんな心配してるんじゃ…」
「家族とかいないいない!10歳の時に母親が逃げて、兄貴と父親の三人で暮らしてた時期もあったけどさ……」
豪快に笑い飛ばしている梓だったが、シエナにはその笑顔の奥にどこか仄暗い感情を内包している様に思えて仕方がなかった。
シエナが楽団に入社してから、出会う人間全員が同じ様に闇を抱えていた。旋律師として愛する音楽を凶器に変えなければならない事情を持つ奏者の集まりである。仕方の無い事なのだろう。
「…帰る場所があるなら、旋律師になるのはオススメしないな」
突然そう切り出してきた梓と目が合い、シエナは肩を震わせる。
「アイツのレッスン受けながら旋律師目指してるんでしょ?たまにシエナちゃんの演奏聴こえてくるけど、勿体無いなぁっていつも感じてたんだよ」
「もったいない…ですか?」
ショートケーキの上に乗ったイチゴにフォークを刺した梓は、柔らかな生クリームの上からそれを持ち上げながら答える。
「私たちの音って、聴こえないんだよね。エネルギーに変わっちゃうから。聴こえるように演奏すれば良いんだけどさ……そんな都合の良い事が許されるなんて、私は割り切れなくて」
奏でた音が人を殺める。旋律師とは何かという説明をロジャーから受けた日、シエナは恐怖で眠る事ができなかった。
「今は誰も殺さないので普通に音楽楽しんじゃいまーす……って気持ちになれないんだよね。だって、数秒前には自分の意思で人を殺す道具にしてたんだよ」
イチゴを口に運びながらそう付け足した梓の考えに、シエナはまだ迷い続けていた心が大きく揺り動かされていた。
「だから…シエナちゃんみたいに、自由に歌う様に演奏できる子が、こちら側に来ちゃいけないのになって思ってるの」
「……そ、そうですかねぇ~…でも、自分でも向いてないんだなぁってのは、ひしひしと感じてます…」
フォークでケーキの端に断面を作りながら、シエナは同僚と差が開くばかりのレッスンについて思い返していた。
何よりも縛られる事を嫌う彼女にとって、旋律師特有の奏法は最も苦手とする所である。そして、例え努力して力を得たとて、その先に明るい未来は無い。
…………………………………………………………………………………
梓に別れを告げ、彼女の部屋を後にしたシエナは、今度こそ自室に戻る為にもう一階分の階段を駆け上る。先程手提げ袋に適当に投げ入れてしまった鍵を探してガサゴソと手を突っ込んで弄っていると、不意に誰かの背中に顔をぶつけてしまった。
「っちちち……だーっ!またまたドジを…ごめんなさい、どこの誰だか存じ上げ……」
額を摩りながら顔を上げたシエナは、同じ様に背中を摩っている託斗と目が合う。
「…どしたの?私の部屋の前で…」
「君に用事があるからに決まってるんだけど…っていうか、基本的にその目は節穴だな。何も見ちゃいない」
ブツブツと文句を垂れながら彼が手渡してきたのは、明日からのレッスンで使うという楽譜であった。
「さっきミーアにも渡してきたとこ。君は当日渡しても問題無かったかもしれないけど」
「……あ、あぁ…そっか。ありがとね~」
にへらと笑いながら楽譜を手に取ったシエナであったが、彼女の様子がどことなく普段と違う事に託斗は気が付く。
その行動とは裏腹に普段通り散らかっている彼女の部屋に二人で入ると、ジャングルの中を分け入る様に進みやっとの思いでベランダに到着する。
月明かりが美しい空の様子を眺めながら、シエナは先程梓の部屋で話した内容を託斗に語った。
「それにしても、アズサさんって大人だねぇ…てっきり同い年ぐらいだとばかり。前のお仕事って何だったのかなぁ~?」
ヘラヘラと笑いながら話し掛けたシエナであったが、手摺にもたれ掛かって不満げな表情を見せる託斗に小首を傾げた。
「…殺し屋。それも、日本からわざわざ僕を殺しに来た」
「こ…ころしや!?」
思わず大きな声が出てしまい、シエナは慌てて両手で口を塞ぐ。梓の部屋はこの真下なのである。万が一にも聞こえていたらどうしようと思い、今度は極力声量を抑えて尋ねた。
「タクトを殺しに来たって…どういう事?怒らせる様な事したのかな?お風呂覗いたとか?」
難しい顔をしながら子供の様な想像力で話す彼女を横目に、託斗は梓と初めて出会った日の事を思い出していた。
呪詛・呪曲を継ぐ呪術師の一族、それが託斗の生まれ育った家であった。
血を守る為、世継ぎの存在はその一切を秘匿事項とされており、親族や家に仕える者を除いて彼を知る者はいなかった。
数少ない周辺住民にも子供は全員女だと認識されていたが、12歳で楽団に拉致された時、村の長が燃え残った母屋の家系図を発見した事によって事態が急変する。
燃え尽くされた敷地の何処にも男児の死体は発見されなかったのだ。
日本国内に残る特異な家系と血が受け継ぐ異能に関しては、遥か昔は平安時代の陰陽師・安倍晴明の頃より政府機関が秘密裏にその血縁関係を追跡調査している。
理由は大きく二つ。異能を持つ者を政府の管理下に置く事で他国との有事の際の切り札にするため、というのが一つ。そしてもう一つは、その異能の血が無闇に他国に渡る事を防ぐ為である。
右神家の末裔の失踪に関しても政府の知るところとなり、すぐに対処するべく大規模な調査が行われた。
当日の夜、敷地を襲撃した犯人に関する数少ない目撃情報を元にようやく楽団の関与を裏付ける証拠を手に入れる事に成功した調査機関は、直様オーストリアに人を送った。
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目的は異能者の奪還ではなく、彼を殺害する事。
拉致が楽団による犯行であった事を加味しての判断であった。
呪曲と音楽家という最悪の組み合わせは、日本のみならず世界中の脅威になり得る。それら二つを邂逅させてしまった責任を取らされる痛手を考えれば、殺してしまった方がマシなのだろう。
そこで白羽の矢が立ったのが、彼らであった。
韓国にルーツを持つその家族は、政治家や経済界の重鎮から依頼を受けて対象を秘密裏に殺害する事を生業としていた。所謂、殺し屋稼業である。
ただ一点、同業者達と異なるのは彼らが旋律師と同様に音エネルギーの武力化を成し遂げた特異な力を持つ猛者であるという事。
彼らもハロルド・ロジャーが旋律師を育て自らの組織のエージェントとしたように、産まれた子供に対して殺し屋としての教育を施し、世に放っていた。
蒋潤由は幼い頃より人を殺す事を目的にヴァイオリニストとして育てられた少女であった。
オーストリアに到着したその日の深夜、ソンユは楽団社屋の警備の目を掻い潜り、地下牢に繋がる通気口まで侵入に成功していた。
格子状の金属製の蓋一枚を隔て、ソンユは壁に掛かった小さなランプのみに照らされた薄暗い牢の中を見回した。簡素な造りの机に突っ伏したまま寝てしまっている少年の姿。手に握られたペンの先が五線紙にインクだまりを作っており、熟睡している様子だった。
「……ウガミタクト…」
今回の彼女の標的である。これまで、命令とあらば自分より体の大きな男達の命も奪ってきたソンユにとって、子供の寝首を掻く事程技術的に簡単なものはなかった。
慎重に蓋を外し、音もなく牢の中に侵入を果たす。そして、腰のホルダーからナイフを取り出して右手に構えると、少年の首目掛けてその切先を勢い良く近付けた。
「もしかして女の子?カッコいいなぁー」
背後から声が聞こえた瞬間には、目の前に伏せて寝ていた少年の姿は消えていた。慌てて距離を取って身構えると、彼女の視線の先には大きなあくびをしながら眠そうに目を擦っている託斗が立っている。
暗殺に失敗したからには、何としても彼の口を塞ぐ必要がある。ナイフを逆手に持ち替えたソンユは、間髪入れずに距離を縮めて再び襲い掛かった。
迫る刃先を彼女の腕を掴んで去なすが、直ぐに体勢を立て直され背後から託斗の背中に膝蹴りが入る。少女の体躯からは想像も出来ないほど重い一撃に、託斗の息が一瞬詰まった。
隙をつかれてそのまま床に組み敷かれると、両手を拘束されてそのまま身動きが取れなくなってしまう。
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再度振りかぶったナイフが託斗の首を狙うが、寸前のところで躱されて切先が木製の床に突き刺さって抜けなくなる。
「ちょっと待ってよ。聞きたい事あるんだけど」
見え見えの時間稼ぎに付き合っている暇は無いと、ソンユは力ずくでナイフを抜き取り、上半身を動かして抵抗を見せた託斗の身体を今度は仰向けに転がしてその首筋にナイフを当てがった。
「背負ってるのって、ヴァイオリン?ちょうど良かった、弾いてみて欲しいフレーズがあってさぁ…」
「っ……!?」
予想だにしなかった託斗の発言に、ソンユの動きが止まる。
「僕を殺すのはその後でも良いでしょ?今書きかけの曲仕上げちゃわないと死ぬに死にきれないからさぁ…」
諦めたように両手を上げて眉を下げる託斗に不信感を抱きながらも、ソンユはゆっくりとナイフを彼から遠ざける。
殺し屋としてこれまでも確実に任務を遂行してきたソンユ。標的の命乞いを聞いた事などもちろん唯の一度だって無かったのに…。
ケースから取り出したヴァイオリンを左顎に挟み、託斗から受け取った手書きの楽譜に視線を落とす。
「一小節前からの流れを見たいんだ。どっちのメロディが良いか教えてくれる?」
ニカニカと笑いながら譜面を指差した託斗を睨み付けたソンユだが、大人しく弓を動かし始める。
ヴァイオリンの美しい音色が無機質な牢屋の内装とあまりにも不釣り合いで、しかし反響の少ない室内で細かな音色までしっかりと鳴り渡った。
指定された通りに演奏を終えた彼女が弓を降ろすや否や、託斗は直様彼女の目の前で大袈裟に拍手をしてみせた。
「いやーーっ!素晴らしい!!さすが僕!実際に聴いたらどっちもめちゃくちゃ良いなぁ…」
褒められたのかと思えば自画自賛し始めた彼を再度睨み付けたソンユは、再び弓を構えて左手の指を動かし始めた。音は聴こえてこない。
託斗は周囲に何も無い真っ白な空間に一人佇む…錯覚に陥っていた。
ソンユの奏でる音は空気中の水分を特定の周波数で振動させて光の反射角を歪める。すると、周囲にいた筈の人や物の姿を認識できなくなるのだ。
絶体絶命、いつ何処からナイフに切り裂かれるともわからない状況だというのに、託斗は目を輝かせて楽しんでいる。
「なるほどー…こうやって警備網を抜けてきた訳だ!凄い技術だな……ヴァイオリンは誰に習ったの?」
まだ無駄口を叩き続ける託斗の首筋に冷たい金属が押し当てられた。一向に返事を寄越さないソンユであったが、託斗の奇想天外な同行にペースを崩されたせいか、すぐにそのナイフで首を掻っ捌く事ができなかった。
「ねぇ、名前教えてよ。ほら、よく言うじゃん。自分を殺した相手の名前くらい聞いておかないとってやつ?気になって死ぬに死ねなく…「……名前なんてどうだっていい。アンタ、今から私に殺されるんだよ?何ヘラヘラしてんの?」
息を詰まらせながら尋ねたソンユの声がする方向を見ながら、託斗はまたしてもニンマリと笑っている。
「それは、君がしたい事?」
「……え…?」
唐突な質問返しに、思わず言葉を失う。
「人を殺す事。誰かにやれって言われて来たの?それとも最初から僕の事が憎くてわざわざこんな所まで来たのかな?」
今まで殺してきた人間は数えきれない。しかし、その中の誰一人としてソンユが殺したいと思った者は存在しなかった。
ただ言われるがままに、殺してきた。それが、自分のやるべきことだと教え込まれてきたから。
では、何故自分は人殺しなどしなければならないのだろうか。何故、恨んでもいないそれまで無関係だった人間の命を奪い続ける必要があったのだろうか。
殺し屋の家に生まれたから?
家業を守らなければならないから?
ちがう。
ソンユの手からナイフが零れ落ち、床の上に転がって鈍い金属音が響いて幻覚を解いた。
両手で頭を抱え、項垂れる彼女はよろめきながら後退していく。
…………………………………………………………………………………
「ちがう……私は……」
言葉を押し殺すように下唇を強く噛んだ彼女の様子を見て、一歩踏み出した託斗がその両肩を掴んで揺さぶった。
真っ直ぐな眼差しが正面から突き刺さる。すると、自然と口が声を溢し始めていた。
「………私は…」
「うん」
「……ヴァイオリンが好きだったから………だからたくさん練習したのに……こんな事する為だなんて…」
膝から崩れ落ちたソンユの両目からは、大粒の涙が次々と溢れ出していた。
隣人が大事に飼育していたニワトリの小屋に入り、鳴き声を上げさせずに10羽全部殺して来る事。それが、ソンユが最初に命令された殺しだった。
理由を聞く事など許されなかった。躊躇えば直ぐに手を上げられるから。
初めて殺した人間は、活動家の子供であった。公園で遊ぶ幼児に歩み寄り、背後から深く刃物を突き刺した。その時の手の感覚は今でも鮮明に思い出される。
柔らかく、無抵抗な肉には簡単に刃物が沈んでいくのだ。
何人も、何人も手に掛けた。ただ只管に。命令されるがままに。
理不尽な体罰から逃れる為?
否……彼女は命令され、それに従うという関係性の中でしか家族としての繋がりを感じる事が出来なかったのだ。
父親と兄、彼らと家族でい続ける為に、彼女は殺し続けなければならなかった。
『よくやった』
その一言を聞くためだけに、他者の血でその手を汚していったのだ。
しかし、ソンユを絶望の底に突き落とす出来事が起こった。それは、成長期も終わりに近付いた頃。
暗闇の中、自室で寝ていた彼女を突如襲った見知らぬ男達からの性暴力であった。
朝になり、乱された衣服をそのままに、血の付着した布団に視線を落としたソンユは徐に立ち上がって部屋の外に響く兄の話し声に聞き耳を立てる。話している相手は自分を弄んだ男達であった。
そっと扉を開けて目の当たりにしたのは、数枚の紙幣を数えながら愉快そうに笑う兄の姿。ソンユは泣く事すらできなかった。
今まで家族だと思っていた人間は皆、彼女を金稼ぎの道具としてしか見ていなかったのだ。
「家族でいるために、人を殺してきた。でもさ……最初から違ったんだよ……私に家族なんていなかった。だったら何の為に殺したんだろうって…毎日考えてもわかんなくて…」
蹲っていたソンユが顔を上げる。震える唇で言葉を続けた。
「………大嫌い……殺して来いって命令する父親も、妹を平気でオモチャにする兄貴も、そんな奴等が付けた私の名前も、私自身も……全部……」
彼女が手を伸ばした先に転がっていたナイフを、託斗が咄嗟に蹴飛ばす。壁にぶつかった金属音が虚しく彼女の耳に届く。
「…君は僕を殺しに来たんだろ?君が死んでどうするんだよ?」
託斗は床に跪き、ソンユと目線を合わせる。
「どうせ任務を放棄するなら、いっその事全部捨てちゃえば良いんだよ」
「……全部…捨てる……?」
震える声で彼の言葉を繰り返したソンユは、目の前でニカニカと笑みを見せる託斗の顔を訝しげな表情で睨み付けた。
…………………………………………………………………………………
「まずは、家族を捨ててやろう。僕の実家も人の事言えたようなモンじゃなかったけど、君の父親も兄貴も相当クズだ。捨てられて当然だな」
いきなり饒舌にベラベラと口が回り始めた託斗は、楽しそうに続ける。
「殺し屋とかいう肩書きも捨てよう。名前も嫌いって言ってたね?じゃあ捨てよう。僕が代わりに名前を付けてあげるよ」
「ちょ…ちょっと……」
いくら彼が捨てると言ったとて、そんな絵空事現実になる筈がない。ソンユは慌てて託斗の服の袖を掴んで止めようとしたが、逆に手を握られて驚きで硬直してしまった。
小さな赤褐色の灯りに照らされたその横顔から先程までの笑顔は消えており、真っ直ぐに彼女を見つめている。
「……捨てたくないものは何?君が本当にしたい事は?」
そんな事を聞いてくる人間は、それまでの人生でただの一人もいなかった。自分に何かをしたいという欲求があるのかすら、わからなくなっていた。
初めてソンユは自分自身について考えた。
そして、辿り着いた答えは悲しくも人を殺す手段として学ばされ続けてきたヴァイオリン。しかし、楽器を奏でる時間だけが唯一心穏やかになれた彼女にとって、それは捨てることができないものであった。
「…捨てたくない……コレでたくさん人の命を奪ってきた癖に可笑しいよね…」
床に転がっていた自分のヴァイオリンを手に取ったソンユは、そのボディを手のひらで愛おしげに撫でた。
「おかしくないさ。君は根っからの音楽家って事だよ……ねぇ、そういう事だから見逃してやってよ!ロジャー!」
急にドイツ語で大声を出したかと思えば、託斗の振り向いた先にはいつの間にかロジャーの姿があった。深いため息をつき、一歩ずつ近付いてくる様子に身構えたソンユであったが、再び託斗が手を強く握ってきた。
「凄い技術だったでしょ?楽団に必要な人材なんじゃない?」
ニヤニヤと笑いながらロジャーを見上げた託斗は徐に立ち上がりながらソンユとの間に立ちはだかって距離を取らせた。
「……裏切らないという保証は?」
「裏切る?何言ってんのさ。楽団に入れるってなったら、この子のやる事なんて今までと大して変わらないだろ?」
楽団の旋律師になれば、依頼を受ければそれがどんな悪事であっても完遂しなければならない。下手をすれば、父親から下された命令よりも人の道に外れた行いを強要される場合もある。
「僕は命を狙われたんだ。この子を助けてやる義理なんて無いと思わない?」
「……殺さない温情でも利用しようというのか、お前は。人間の心理なんてそんな甘いものじゃないぞ、タクト」
相変わらず本心の見えない怪しげな笑みを浮かべている託斗は、「仕方ない」と呟いて踵を返したロジャーの背中に舌を出して見送った。
そして、意味を理解できない言語が飛び交う中でポカンと口を開けて床に座り込んでいたソンユの方を振り返る。
「決めた!」
明るく一言言い放った彼に小首を傾げるソンユ。次に何を言い出すのかと思えば、更にとんでもない提案であった。
「さっき言っただろ?僕が君に名前を付けてあげるって。今決めた!とびっきりキュートなやつ!」
「な…名前を付けるって……犬じゃあるまいし、そんな急に……」
困惑するソンユの手を握って引き上げると、無理矢理立ち上がらせた彼女の前で両腕を大きく広げてその名を口にしたのだ。
…………………………………………………………………………………
都営団地の最上階の一室。
月も眠りにつく時間、忙しない息遣いが室内に響いていた。
深い闇の中、その人影は肩を上下させながら一点を見つめている。
布団に滲む赤黒いシミはとめどなく流れ出る首の致命傷が作り出したもの。
新妻梓の動かなくなった身体を前に、人影が握っていた包丁がドサッとその足元に落下した。両手にこびり付いたねっとりと生暖かい液体に視線を落とし、成し遂げた事に安堵した様子で深く息を吐く。
「……ごめんなさい、梓さん。でも、こうするしかなくて……」
その乾いた声は、紛れもなく茅沙紀のものであった。
[45] Recitativo 完
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