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#046 Recitativo Ⅱ
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東京都・30歳女性「人ってある日突然死ぬんですね。やっぱり3度目の正直と言いますか、2回も死にかけて奇跡的に助かってしまったので…そりゃもう運も尽きる頃だったのかなぁって……残念ですけど」
…………………………………………………………………………………
時は京哉が極楽町に潜る数刻前に遡る。
玄関横のガスメーターが格納されている鉄の扉。小さな取手を捻って開くと、配電盤の下に一台のハンネス機関が据えられていた。ハンダで無理矢理取り付けられたジャックからシールドを抜き去り、室内に運び入れる。
電気の供給が完全に止まっている環境で文化的な生活を送る方法はただ一つ。反政府運動の抗争跡地からハンネス機関を回収し、家庭用電源として流用する事だ。
収音装置の前で曲を奏でてその日に使う分を蓄電しておくのは茅沙紀の仕事であった。
この都営団地に移り住んで来た初日、目の前で梓が手本を見せた時は2曲ほど演奏した段階で容量が限界に達していた。しかし、茅沙紀の場合はそうはいかない。
音エネルギーを最速で極大化する奏法を知らない非旋律師である彼女では、休憩を挟みながら長い時には2時間程演奏する必要があった。
「うーん……地味に苦行だなぁ。誰かに聴かせてる訳でもないし…」
愚痴を溢しながらも、自分にできることはこれぐらいしかないのだとも理解している。茅沙紀は左顎にヴァイオリンを挟んで弓を構えた。
そして、いざ演奏を始めようという時……背後からの視線に気が付く。彼女の背後に立っていたのは、梓のレッスンを受ける為に居候している敦賀であった。
「あっ…すみません。どうかお気になさらずに続けてください」
申し訳なさそうに後頭部を掻きながら腰をペコペコと曲げる敦賀。見るからに気の弱そうな壮年男だが、先日彼がこの部屋を訪れた時に梓から受けた忠告が、茅沙紀の頭の中を常に支配していた。
楽団の新人を装った、楽団と敵対するいずれかの組織の人間かもしれない…と。
生唾を飲んだ茅沙紀は、ヴァイオリンをスタンドに戻して彼の方に踵を返した。彼の真の目的がわかるまで、気を抜いてはならない相手である、と認識している。
梓は今外出中で頼れる人間はいない。一歩ずつこちらに近付いて来る敦賀を警戒して身構えていると、彼女の強張った表情を見た当の本人はピタリと動きを止めた。
「那珂島さん、どうされました…?」
何気ない問い掛け。しかし、茅沙紀にとってはそれが含みのあるものではないのかと邪推してしまう材料となる。額に滲む冷や汗をそのままに、彼女は意を決して尋ねた。
「………敦賀さん。貴方は一体…何者なんですか?」
政府からの依頼を受け、失踪していた茅沙紀を追跡してきた人間なのか。
真に楽団の人間であっても当たり障りのない聞き方。しかし、そうでなければ相応の返答を寄越す筈だと茅沙紀は考えていた。
真剣な表情でじっと身構える彼女の姿を目の前に、敦賀は一瞬驚いたような様子だったが、すぐに優しい笑顔に戻す。
「…すみませんが……自分が何者であるかを口外する事は組織から禁止されていますので。那珂島さんがそう思われたのなら……あながち、その勘は的中しているかもしれませんよ」
回りくどい言い方であったが、茅沙紀が敦賀は黒だと独自に判断するには十分な内容だった。
…………………………………………………………………………………
彼女の病室を訪れたのは、不気味な白い面で顔の半分を隠した金髪の男であった。隣にはペッタリとした七三分けに丸眼鏡を装着した中肉中背の男。
奇妙な容貌の来訪者に身構える茅沙紀を前に、二人は無遠慮にベッドの横に据えられた椅子に腰掛けた。
「はじめまして、那珂島茅沙紀さん。ボクは横浜の方で医者をしていた椙浦と申します。こちらは同僚のユリエルさんです」
丁寧な口調で切り出してきた椙浦と名乗る男に、茅沙紀は思わず頭を下げる。
「あの…どういったご用件で……?」
「お辛い時にすみません。我々は国際人権団体の職員でして…」
ユリエルを一瞥した茅沙紀は、とてもそのような肩書きの人間には見えないという感想は胸の内に仕舞い、大人しく椙浦の話に耳を傾ける。
「貴女は発電所地下のオーケストラ団員の一人…でしたよね?岡島貴一郎氏の管理していたデータベースに貴女の情報が登録されていました。顔写真付きで」
記憶喪失の怪我人を演じ、音楽家という身分を隠していた茅沙紀にとって椙浦が明らかにした事実は絶望的なものであった。じきに警察によって捕らえられ、然るべき処罰を受けることになるだろう、と。
見るからに顔色が悪くなった茅沙紀を落ち着かせようと、椙浦はにこやかに続けた。
「ご安心ください。我々は貴女の人権保護を目的にここまでやってきたのです。」
「私…の……?政府から守ってくださる…ってことですか?」
僅かばかりの希望が見えた茅沙紀であったが、静かに首を横に振った椙浦の挙動に眉を下げる。
「大変心苦しいのですが、我々の組織も諸外国の政治方針に真正面から口を挟む事ような権利は持ち合わせておりません。ただ…貴女が有益な人間であるという事を訴えて処分を遠回しにする事なら可能です」
石油が枯渇したこの時代に、原子力発電を放棄した日本が大量の電気を得る方法はハンネス機関による音エネルギー発電より他存在しない。
事実、日本政府は音楽等禁止法を施行しながらも電気を得る為に地下空間にオーケストラを隠していたのだ。
つまり、排除すべき存在でありながらも政府にとって有益な人間であるという認識がなされれば、彼らも早々に茅沙紀を処刑するに至らないのだという。
「政府にとって有益…私は一体何をすれば…?」
神妙な面持ちで尋ねた茅沙紀は、願う様な気持ちで椙浦の指示を仰いだ。しかし、彼から齎されたのは実に意外な回答であった。
「貴女は何もする必要はありません。まずは貴女が無害である証明が必要です。世の中には音エネルギーを武力化できる人間も存在しますからね…」
茅沙紀の目の前に一枚の紙が差し出される。
「これは独自ルートで我々が入手した情報です。今後12時間以内に発電所爆発事件に関与した重要参考人3名が特別指名手配されます」
椙浦が見せてきた手配書には、茅沙紀を地下空間から救出した二人と自分の顔写真が印刷されていた。
「政府と警察の対応には多少のタイムラグが生じる可能性があります。我々が政府に働きかけをして、その情報が警察の担当機関に周知されるまでに時間がかかる恐れがあるのです」
「……もし、先に特別手配されたら…私は警察に…?」
情報が浸透するまでにどれ程の時間を要するかは不明だが、音楽家ならば逮捕後処刑の執行までそう時を置かないのはごく普通であった。
爆破事件の主犯格である彼らについて何も知らない茅沙紀から聞き出せる情報が少ないのならば尚更、だ。
「はい。捕まれば危険です。だから…今は逃げてください。捜査を撹乱させるように我々が裏で手を回しておきました」
「逃げる……でも何処に?実家も仙台だし、何の準備も無しにとても歩いて逃げられる距離じゃ…」
そう尋ねる間にも、いつこの病室に警官が突入してくるかわからない恐怖に表情は強張り、声は震えてくる。
「取り敢えず貴女を助け出したこの男の元に向かいましょう。政府の情報によれば、彼は新宿を根城に音楽を生業としている男です。貴女の今後の生き方に何かヒントを与えてくれるかもしれません」
椙浦が指差したのは、手配書に印刷された京哉の顔。
「無事に逃げられたと判断しましたら、タイミングを見計らってまたこちらから接触させていただきます。安心してください。我々は貴女の味方です」
『味方』という言葉が、この時の茅沙紀にとってどれだけ救いになった事だろうか。
こうして病院を抜け出して新宿に向かった茅沙紀は、京哉達の保護下に置かれることになったのだ。
そう、異端の目論見通りに。
…………………………………………………………………………………
梓が茅沙紀を匿う様になった展開は、異端にとって想定外であった。当時の時点で現役の旋律師ではない梓は、彼らのデータベース外の人物だったのだ。
しかし、この想定外は楽団の要に繋がる一打を繰り出す結果になった。
新妻梓は右神託斗と関係の深い人物であること。梓を攻撃する事によって、楽団のエージェントに守護された託斗が組織の命令を無視し、独断で異端に近付こうとするのではないか。
ユリエルは機が熟すのを待った。
そして、第21楽章に繋がる手掛かりが潰えたこのタイミングで再び茅沙紀に接触を図ったのだ。
都営団地の一室が彼女の根城だと突き止めたユリエルは椙浦にある依頼をした。
茅沙紀が蓄電の為に、日に一度回収に出るハンネス機関。その近くに書き置きを残した。
指示通り梓が就寝したタイミングでそっと部屋を出て団地の駐輪場に降りた茅沙紀は、待機していた椙浦から『最悪の状況』について聞かされる事になる。
「椙浦さん、ご無沙汰しております。その節はどうも…」
茅沙紀にとって、彼らは政府や警察の手から逃れる機会を与えてくれた恩人であった。何も疑う事なく近づいてしまう。
「那珂島さん、お久しぶりです。唐突にすみません、呼び出したりして……ですが、事態は急を要するものでして…」
彼の言い回しを聞いて、茅沙紀の表情が険しくなる。
「……何かあったんですか?」
「はい…。我々も尽力して貴女が政府側にとって有益な人間である事を何度も説明してきました。しかし、具体的な説明が出来ずに誤魔化し続けるにも限界がありまして…」
政府への説得で警察の追跡を食い止めていたのだと話す椙浦だったが、肝心の政府が『有益である事の証明』を求める段階に至ったのだという。
「このままでは、再び警察の捜査の手が及ぶのも時間の問題です。現に、貴女のこの居場所についての情報も政府の調査機関が調べ上げたデータベースから拝借致しましたので…」
時間が無い、危険が及ぶ、と茅沙紀の不安を煽り続ける椙浦。
当然の事ながら、それらは全てユリエルがシナリオを描いた茅沙紀を利用する為の虚言である。
「そんな…それじゃあ……もう……」
青褪めた顔で言葉を絞り出した茅沙紀は震え上がっていた。
いざとなったら梓や楽団の面々が守ってくれるかもしれない。しかし、彼らを頼り切れない事情が茅沙紀にはあった。
「既にご実家の近くには警視庁の人間を待機させているという情報も得ています…。逃走した音楽家の家族ともなれば、かなり重い罰が下る可能性も…」
茅沙紀の実家には両親と高齢の祖母が生活している。彼女だけが生き延びたとて、今度は家族がどんな目に遇うかわからない。
実家の家族も助けてほしい。そんな願いを、梓達は聞き入れてくれる筈もない。
『旋律師は正義のヒーローじゃない』
急死に一生を得た2度目の後、茅沙紀が京哉に言われた言葉である。楽団は営利目的で動く法人であり、人助けをする為に人材を抱えている訳ではないのだと。
「椙浦さん。私はどうすれば良いんですか?どうすれば…家族にも危険が及ばずに…」
「貴女は今、楽団の人間の保護下にいますね。政府が最も忌み嫌う彼等と仲間のように振る舞われている様では、全くもって説得力がありません」
茅沙紀は次に椙浦が放った言葉に耳を疑った。それは、幾度と無く彼女を救ってくれた存在への裏切り行為であり、何より人の道に背くもの。
「時間はありません、那珂島さん。もうじき政府の派遣した人間がやって来ます……ご家族の為です。決意なさってください」
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六本木のネットカフェ跡は、どのDVDを視聴するかを争うジャンケン大会の真っ最中であった。
ここの所、3日連続でフユキの持ってきたB級ホラー鑑賞会が続いている。今日こそは感動の動物映画を観てやると、意気込んでいたシェリーが出したパーが見事に一人負けを喫する横を通り過ぎた京哉はフルートを収納したジュラルミンケースを背負っていた。
「京ちゃん、昼なのに仕事?」
静かに読書をしていた祐介がフラットスペースの扉を開けて顔を出す。基本的に夜勤帯で動く旋律師であるが、仕事道具を背負っている京哉はどうやらこれから仕事に向かう様であった。
「もしかして…設計図を取りに行くの?それなら私も…」
DVDのケースを机の上に置いて立ち上がったシェリーを制したのは、今日も勝ち残ったフユキであった。
「シェリーちゃんは僕達と一緒にお留守番です。今日のホラーは一番怖いですよぉ」
フユキに両肩を掴まれて力尽くで座らされているシェリーの横で、ナツキが早く出るようにと京哉にハンドサインを出している。
「…祐ちゃんには戻ってから話す。悪いな」
「あ、うん…」
人を気遣うような事を言う男だっただろうか?と、あまりにも平常時と様子の違う京哉に、祐介は思わず吃ってしまった。そして、これは何か重大な事があったに違いないと悟る。
『良いかい。これから君達にはオルバス・シェスカの設計図を奪う為に異端の本拠地に向かってもらう』
雑居ビル前に横付けされた鬼頭のワゴンに乗り込むと、車内には既に巳継と麗慈が座っていた。
京哉は自身のPHSをスピーカーモードにして、全員にJACの指示が伝わるように端末を掲げる。
『さて、アズサの件は聞いてるかい?』
「……ああ。葬儀屋呼んだのは俺だ。皆知ってる」
頬杖をついて窓の外を見たままの麗慈が淡々と答えた。
『わかったよ。じゃあ、ターゲットについても周知されてるかな。チサキ・ナカジマ……今、異端の人間と共に本部に向かって移動中のようだ』
茅沙紀の名前が聞こえたのと同時に、京哉の表情が曇る。
『チサキ・ナカジマの殺害はキョウヤの担当だ。初めて乗り込む敵本部ってのもあってあちらの戦力は未知数。ミツキにはキョウヤのサポートをお願いしたい。レイジは設計図の回収を頼んだ』
端的に述べられた指示。その後、すぐに通信が切られるがいつまでも車内に響く単調な電子音に、麗慈は最後部の座席に座る京哉の方を振り向いた。
「おい、切れてんぞ」
彼の一言でそろそろと腕を下げた京哉は、端末を操作しながら不貞腐れた表情で座席に勢い良く寝転がった。
「…全く、恐れ入ったな。俺も気にはなっちゃいたが、こういう展開になるとは思ってもみなかったぜ」
サングラスを持ち上げてフロントミラー越しに京哉の様子を一瞥した鬼頭に、麗慈がため息混じりで答える。
「全部あの日から繋がってたんだと思うと、完全にアイツの目論見通りだった訳だ」
「先生をアイツ呼ばわりするな、無礼だぞ」
巳継の横入りで、彼らが誰について語っているのかが判明する。
賑わう車内で唯一難しい顔をしている京哉に、麗慈が再度話し掛けた。
「何怒ってんだよ?」
背もたれの方に顔を埋めていた京哉は、眉間に皺を寄せながら寝返りを打つ。そして、不貞腐れた子供のように唇を尖らせていた。
「怒るだろ、普通。僕にだけ内緒にしてたんだろ?そんな口軽い奴に見える?」
「ちげーよ。お前に全容知れたらどんな行動するかなんて大体想像つくからだろ。託斗なりの優しさだと思え」
納得いかないといった様子でルーフを睨み付けた京哉は、到着したら起こせと言い残して短い眠りに就いた。
…………………………………………………………………………………
時は遡り、発電所爆破事件の4日前。
唐突に麗慈の管理している医院を訪れた託斗は、特に脈略の無い世間話をうだうだと続けていた。ほぼ一方的な彼の話を聞き流していた麗慈であったが、ふと思い立って何故いきなり日本に来たのかを問いただす。すると、息子に仕事を全振りしてきたと白状してきたのだ。
「いやいや、アンタ何しに来たんだよ…。京哉も可哀想な奴」
「えー?そう思うなら麗慈が助けに行ってやりなよ。……あ、そうだ。君にはお願いがあって来たんだった」
この男のお願いというものは、大体まともではないとわかりきっていた麗慈。そそくさと彼の前から退散しようとする。しかし、襟首を掴まれて無理矢理診察台に座らされ、間髪入れずに目の前に一枚の写真を突き出された。
そこに写し出されていたのは、一人の女。…首にチョーカーを巻いた茅沙紀であった。
「……誰コレ?」
「奪われた第17楽章を完奏しちゃった不運なコ」
そもそも宇迦之御魂神の楽譜を奪還すべく来日したという託斗。何処から入手したのだろうか、既に完奏者についての情報は彼の手元にあった。
「政府に飼い殺しにされてるオーケストラの団員でね。彼女には少し楽団の役に立ってもらおうと考えててさ」
「アンタの独断か?また社長に怒られるぞ…」
ケラケラと笑いながら写真をしまった託斗は、得意げな表情になって麗慈の前でチッチッと人差し指を振った。
「甘いね、麗慈くん。敵を欺くにはまず味方からってね……まぁまぁ、帰国したらちゃんとロジャーには報告しとくよ」
忘れてたんじゃねぇかよ…、と小声で文句を言う麗慈を無視して託斗が続ける。
「旋律師の中でも限られた人間しか演奏を許されない僕の超絶技巧を暗譜した一般の音楽家なんて史上初じゃない?どんな手を使ってでも、楽団と繋がるように仕向けるだろうね」
「まぁ…利用するに越したことはねぇよな。それで…ソイツを俺にどうしろと?」
託斗が麗慈に託したのは、たった一つ。那珂島茅沙紀の生命を維持する事。
そして、万が一麗慈自身が彼女の身柄を保護できない状況になった場合、一番信頼のおける人物を頼る事。
彼女が死んでしまっては、ここから先の計画が頓挫してしまうのだという。
「僕の曲を盗作してる奴と繋がるんじゃないかって考えててね」
「…確かに、アンタの楽譜を暗譜して演奏した人間には興味あるだろうな。じゃあ、京哉もその女を探して動いてんのか?」
その疑問に対して、託斗はニヤニヤと怪しげな笑みで返す。何事かと一歩引いた麗慈は、目の前の男が一体何を考えているのか全く見当がつかず訝しげに顔を歪めた。
「アイツには内緒だよ。きっと、最後に汚れ役を担うのは京哉だからね。要らない情報を入れてやる必要は無いでしょうに」
楽団の要たる託斗の書いた超絶技巧は、本来門外不出であり情報が漏れた際には関係者の口を物理的に閉ざす事が通例となっていた。今回も例外ではないのだろう。
那珂島茅沙紀が『一般の音楽家』であり続ける以上、楽団の処刑対象であるという事実はどう足掻いても覆らない。
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真昼だというのに、使い切れないほどの電気を持て余したニュー千代田区画内では街中の街灯にビカビカと明かりがともっていた。
これ程の電気を生み出す為に、大編成のオーケストラが其々体の痛みに耐えながら演奏を続けているのだろう。
広い幹線道路を飛ばす一台のセダン。後部座席に乗せられた茅沙紀の震える両手は、まだ梓の血で赤黒く汚れていた。
「那珂島さん、もうすぐ我々の拠点に到着します。ユリエルがお会いしたいそうなのですが、先に汚れを落とされますよね?」
助手席から上半身を捻りながら尋ねてきた椙浦の言葉は、茅沙紀の耳を右から左へとすり抜けていく。ハッと我に帰って顔を上げた彼女は、ペコペコと頭を下げ始めた。
「す、すみませんっ!ぼうっとしてしまって…」
「お疲れでしょう。大変な事を成し遂げたんですから」
椙浦の言葉を聞いて、茅沙紀の脳内にフラッシュバックが発生する。
台所で手にした包丁を握り、シンと静まり返った梓の部屋に忍び込む。
物音を、息の音さえも押し殺してベッドの前まで歩み寄れば、目の前には就寝中の梓が横たわっていた。
目眩を起こす程、心臓はバクバクと高速で脈打っている。震える足を一歩前に出し、右手に持った包丁を逆手に持ち替えた。耳の位置まで振りかぶるが、滲み出る手汗で握っていた柄がツルツルと滑る。
政府がこの場所を嗅ぎつけた。
政府に対して自身の有用性を示す必要がある。
さもなくば、自身と家族の身の安全は保証できない。
何度も頭の中を駆け巡るのだ。茅沙紀が生存し続ける為の条件と、その為に切り捨てなければならない物とが。
椙浦の言葉が彼女を悩ませ続けている最中、敦賀という男の登場が命令を実行に移す後押しとなった。
敦賀は楽団の新人という身分を装って近付いてきた政府の関係者。そう判断した茅沙紀は、もう本当に時間が無いのだと勝手に自身を追い込んでいった。
その瞬間はあまり記憶に無い。気付いた時には鋭利な先端が無防備な首筋を滑り、勢い良く鮮血が吹き出ていた。
…………………………………………………………………………………
天を穿つように聳える高層ビル群の一角、異端が拠点としている場所に到着したセダンは、玄関前のロータリーを悠々と回り、玄関に一番近い位置でピタリと停止する。
助手席で運転手に礼を告げ終わった椙浦が先に車外に出て後部座席のドアを開いた。冷たい風に吹かれながら、茅沙紀は左脚をアスファルトに接地させた。
地を這うように吹き込んだ冷気が白い霧を纏い、セダンの周囲を取り囲む高さ5メートル程の氷の壁が形成され、茅沙紀の前を歩いていた椙浦との間を隔てる。
細かな氷の粒が風に舞い陽光を浴びてキラキラと流れる幻想的な光景の中、彼女の正面に純白の人影が突如現れてその行く手を阻む。
ゆっくりと顔を上げれば、見覚えのある顔があった。
「…右神さん……」
感情を一切含まない表情。無を体現した、という表現が相応しい。茅沙紀が彼のこの表情を向けられるのは2回目だった。
しかし、あの時ともまた雰囲気が違う。
あの時は、楽団という組織に近付かないように、という彼なりの優しさがあってこその行動であった。
茅沙紀は気が付いてしまう。
目の前の男は今、かつて彼女から遠ざけようとした組織の一員として接触しに来たのだと。
「……梓さんの事…ですよね?」
彼の同僚の命を奪った事に対する報復なのだと、茅沙紀は視線を伏せた。しかし、この場所に来て初めて口を開いた京哉からは、予想外の回答が飛び出す。
「知ったこっちゃねーよ、そんなの」
「……え?」
次第に視界が狭まり、身体が地面に吸い込まれていく。体の中心からズルリと冷たい感触が抜けていき、生温い液体が茅沙紀を包み込んだ。
「僕達は誰が何処で野垂れ死のうと、弔う時間も与えられなければ、涙する資格すら無い。そういう世界に生きてる。アンタはその世界に触れた時から、こうなる事が決まってた。……ひでぇ話だけどな」
茅沙紀には、唯一最後のフレーズだけが彼の心からの言葉なのだと直感した。
楽団の世界に触れた時…それは紛れもなく、発電所の地下で岡島貴一郎から楽譜を渡された瞬間であろう。
一音、また一音と奏でる度に、彼女は死ぬ運命へと近付いていったのだ。それは、荼吉尼天によって身体を奪われる事でも、首に巻かれたチョーカーに頭部を吹き飛ばされる事でもない。
右神託斗という男の描いた神々の世界に足を踏み入れてしまった罪に対する罰であり、部外者が触れた痕跡の全てを抹消する為の楽団による粛清という当然の結末である。
それならば、自分が梓を手に掛けるまでに受けて来た彼らからの施しは一体何だったのだろうか。
発電所の爆発後や七白に刺された後に、何故命を救ったのだろう。
その答えを、茅沙紀が知る事はなかった。
…………………………………………………………………………………
刀身にこびりついた血液を拭い、真っ赤に染まった分厚いクロスを投げ捨てる京哉。ヒラヒラと舞い落ちる布の先で溶けていく氷の壁。
隔絶されていた空間の外側から京哉の方を睨み付けているのは、イースト・アラベスクで何度も顔を合わせた医者を名乗る男であった。
椙浦が異端の人間なら、シェリーに執着していた理由にも合点が行く。
「アンタ、異端の人間だったのか。道理で悪趣味な訳だ」
京哉の足元に横たわる茅沙紀を一瞥した椙浦はすぐにその視線を戻す。
「……悪趣味なのは貴方の方だと思いますが。良い年こいてまだお人形連れて回ってるそうじゃないですか」
高層ビルの中から次々とアサルトスーツの男達が現れ、入れ替わるように椙浦が屋内へと逃げていった。
武装した男達が京哉に向かって襲い掛かる間際、再び氷の壁が形成されて彼等を弾き飛ばすと、何処からともなく姿を現して京哉の横に並んだ巳継が目配せをした。
「若乃宮は目ぼしい場所に到着したそうだ。京哉くんは奴を追いながらなるべく騒ぎを大きくしてくれ」
「はーい、了解」
軽々と氷の壁を乗り越え、地面に悶絶するアサルトスーツの集団の上を一気に飛び越えた京哉は、椙浦の逃げていった方向へと駆け出していく。
『相手の戦力がわからない以上、下手な戦闘は極力避けるべきだ。今回の襲撃の真意を見破られないように、キョウヤとミツキには時間を稼いで欲しい』
JACから事前に出されていた指示は、オルバスの設計図を回収するという真の目的から相手の注意を逸らす為に二手に分かれて行動する、というものであった。
「そんなに戦力を一方に偏らせて大丈夫なのか?若乃宮は戦闘では全く役に立たないと聞いていたが」
悪気無く本人を目の前に悪口を言う巳継を睨み付けた麗慈であったが、彼の能力が表立った戦闘に向いていない事は確かであった。設計図を捜索する最中に敵に見付かった場合の解決策を予め考えておく必要がある。
ただ、JACが念を押したように敵の本部に乗り込もうというのに相手の戦力についての調査が不十分であった。
この状況は、『本作戦の決行時期が未定』であった事を意味している。つまり、茅沙紀の行動がトリガーとなって発動するものであり、彼女の行動は予め予想されていた事なのだ。
PHSが震えて着信を知らせる。白衣の胸ポケットから端末を取り出して画面を確認した麗慈は、これから彼が敵と対峙する事なく目的を達成する為にどう動けば良いのか、それを一瞬で理解した。
…………………………………………………………………………………
椙浦がビル内に駆け込んだのと同時に非常ベルが鳴動し、1階フロアの両端からエントランス方向に向かって防災シャッターが大きな音を立てて順に閉まっていく。
中央の自動ドアに掛かる最後のシャッターが閉ざされる間際に屋内へ滑り込んだ京哉は、右手に握っていた太刀をフルートの形状に戻して10メートル程離れた位置を走って逃げる椙浦の後を追いかけた。
異端が本拠地としているビルの低層階は官僚達が業務するフロアになっているようで、スーツ姿の一般人が突然の非常事態に大慌てで逃げ惑っている。
大挙する人の流れに逆らいながら進むのは難儀であり、椙浦が乗り込んだエレベーターのドアがあと一歩という所で虚しくも閉ざされてしまう。
「いたぞ!あそこだ!」
エレベーターが止まる階を確認しようとホールに留まっていたところに、アサルトスーツの集団がドタドタと忙しない足音を立ててやって来た。
「やーっべ…」
袋小路になっている現在地では、京哉にとって不利な状況。自動小銃が構えられた瞬間に走り出し、非常階段を猛ダッシュで駆け上がっていく。
鉛玉の雨が壁を抉りながら京哉の行手を阻もうとするが、彼が走りながらリッププレートを下唇に乗せた瞬間に耳を劈くような発砲音が一斉に沈黙した。
そして数秒後にはアサルトスーツの男達が構えていた小銃の銃身が急激に熱を帯びて膨張し、ポップコーンが弾ける様に金属の塊が破裂してしまった。
負傷した彼らの悲鳴を背に十分な距離を取った京哉は、一度3階のエレベーターホールに出て椙浦が乗っていった籠が止まった階数を確認する。
「あーっ!よりにもよって最上階かよ……」
オレンジ色のランプは階数が羅列する表示器の一番上に点灯したまま止まっていた。椙浦が京哉を撹乱させる為に途中で降りて籠だけ上に向かわせた可能性もあるものの、最上階まで虱潰しに捜索する時間的余裕は無い。
そして京哉は作戦前、最上階にだけは向かってはならないとJACから忠告されていた。恐らくそこには異端の拠点本部が存在し、今回楽団が奪取しようとしているオルバスの設計図の予測所在地でもあるからだ。下手に最上階まで京哉が到達してしまい、敵の警戒心を煽って麗慈の動きを邪魔する訳にはいかない。
そろそろ異端側の人間も敵襲への対処に駆り出される頃合いであろうとフルートを太刀の姿に変えた所で、突如エレベーターホールの雰囲気が一変した。
…………………………………………………………………………………
言語化できない違和感が周囲に張り詰め、左脚を引いて太刀を下段に構えた京哉は警戒を強める。
そして次の瞬間、それまで何も存在しなかった場所から伸びてきたコンバットナイフの鋭利な切先が照明に煌めく。
不意をついた攻撃を仕掛けてきたのは、道夫を陥れた廃雑居ビルにてナツキと鬼頭が対峙したチェロ弾きの少年…アミティエルだった。
[46] Recitativo Ⅱ 完
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時は京哉が極楽町に潜る数刻前に遡る。
玄関横のガスメーターが格納されている鉄の扉。小さな取手を捻って開くと、配電盤の下に一台のハンネス機関が据えられていた。ハンダで無理矢理取り付けられたジャックからシールドを抜き去り、室内に運び入れる。
電気の供給が完全に止まっている環境で文化的な生活を送る方法はただ一つ。反政府運動の抗争跡地からハンネス機関を回収し、家庭用電源として流用する事だ。
収音装置の前で曲を奏でてその日に使う分を蓄電しておくのは茅沙紀の仕事であった。
この都営団地に移り住んで来た初日、目の前で梓が手本を見せた時は2曲ほど演奏した段階で容量が限界に達していた。しかし、茅沙紀の場合はそうはいかない。
音エネルギーを最速で極大化する奏法を知らない非旋律師である彼女では、休憩を挟みながら長い時には2時間程演奏する必要があった。
「うーん……地味に苦行だなぁ。誰かに聴かせてる訳でもないし…」
愚痴を溢しながらも、自分にできることはこれぐらいしかないのだとも理解している。茅沙紀は左顎にヴァイオリンを挟んで弓を構えた。
そして、いざ演奏を始めようという時……背後からの視線に気が付く。彼女の背後に立っていたのは、梓のレッスンを受ける為に居候している敦賀であった。
「あっ…すみません。どうかお気になさらずに続けてください」
申し訳なさそうに後頭部を掻きながら腰をペコペコと曲げる敦賀。見るからに気の弱そうな壮年男だが、先日彼がこの部屋を訪れた時に梓から受けた忠告が、茅沙紀の頭の中を常に支配していた。
楽団の新人を装った、楽団と敵対するいずれかの組織の人間かもしれない…と。
生唾を飲んだ茅沙紀は、ヴァイオリンをスタンドに戻して彼の方に踵を返した。彼の真の目的がわかるまで、気を抜いてはならない相手である、と認識している。
梓は今外出中で頼れる人間はいない。一歩ずつこちらに近付いて来る敦賀を警戒して身構えていると、彼女の強張った表情を見た当の本人はピタリと動きを止めた。
「那珂島さん、どうされました…?」
何気ない問い掛け。しかし、茅沙紀にとってはそれが含みのあるものではないのかと邪推してしまう材料となる。額に滲む冷や汗をそのままに、彼女は意を決して尋ねた。
「………敦賀さん。貴方は一体…何者なんですか?」
政府からの依頼を受け、失踪していた茅沙紀を追跡してきた人間なのか。
真に楽団の人間であっても当たり障りのない聞き方。しかし、そうでなければ相応の返答を寄越す筈だと茅沙紀は考えていた。
真剣な表情でじっと身構える彼女の姿を目の前に、敦賀は一瞬驚いたような様子だったが、すぐに優しい笑顔に戻す。
「…すみませんが……自分が何者であるかを口外する事は組織から禁止されていますので。那珂島さんがそう思われたのなら……あながち、その勘は的中しているかもしれませんよ」
回りくどい言い方であったが、茅沙紀が敦賀は黒だと独自に判断するには十分な内容だった。
…………………………………………………………………………………
彼女の病室を訪れたのは、不気味な白い面で顔の半分を隠した金髪の男であった。隣にはペッタリとした七三分けに丸眼鏡を装着した中肉中背の男。
奇妙な容貌の来訪者に身構える茅沙紀を前に、二人は無遠慮にベッドの横に据えられた椅子に腰掛けた。
「はじめまして、那珂島茅沙紀さん。ボクは横浜の方で医者をしていた椙浦と申します。こちらは同僚のユリエルさんです」
丁寧な口調で切り出してきた椙浦と名乗る男に、茅沙紀は思わず頭を下げる。
「あの…どういったご用件で……?」
「お辛い時にすみません。我々は国際人権団体の職員でして…」
ユリエルを一瞥した茅沙紀は、とてもそのような肩書きの人間には見えないという感想は胸の内に仕舞い、大人しく椙浦の話に耳を傾ける。
「貴女は発電所地下のオーケストラ団員の一人…でしたよね?岡島貴一郎氏の管理していたデータベースに貴女の情報が登録されていました。顔写真付きで」
記憶喪失の怪我人を演じ、音楽家という身分を隠していた茅沙紀にとって椙浦が明らかにした事実は絶望的なものであった。じきに警察によって捕らえられ、然るべき処罰を受けることになるだろう、と。
見るからに顔色が悪くなった茅沙紀を落ち着かせようと、椙浦はにこやかに続けた。
「ご安心ください。我々は貴女の人権保護を目的にここまでやってきたのです。」
「私…の……?政府から守ってくださる…ってことですか?」
僅かばかりの希望が見えた茅沙紀であったが、静かに首を横に振った椙浦の挙動に眉を下げる。
「大変心苦しいのですが、我々の組織も諸外国の政治方針に真正面から口を挟む事ような権利は持ち合わせておりません。ただ…貴女が有益な人間であるという事を訴えて処分を遠回しにする事なら可能です」
石油が枯渇したこの時代に、原子力発電を放棄した日本が大量の電気を得る方法はハンネス機関による音エネルギー発電より他存在しない。
事実、日本政府は音楽等禁止法を施行しながらも電気を得る為に地下空間にオーケストラを隠していたのだ。
つまり、排除すべき存在でありながらも政府にとって有益な人間であるという認識がなされれば、彼らも早々に茅沙紀を処刑するに至らないのだという。
「政府にとって有益…私は一体何をすれば…?」
神妙な面持ちで尋ねた茅沙紀は、願う様な気持ちで椙浦の指示を仰いだ。しかし、彼から齎されたのは実に意外な回答であった。
「貴女は何もする必要はありません。まずは貴女が無害である証明が必要です。世の中には音エネルギーを武力化できる人間も存在しますからね…」
茅沙紀の目の前に一枚の紙が差し出される。
「これは独自ルートで我々が入手した情報です。今後12時間以内に発電所爆発事件に関与した重要参考人3名が特別指名手配されます」
椙浦が見せてきた手配書には、茅沙紀を地下空間から救出した二人と自分の顔写真が印刷されていた。
「政府と警察の対応には多少のタイムラグが生じる可能性があります。我々が政府に働きかけをして、その情報が警察の担当機関に周知されるまでに時間がかかる恐れがあるのです」
「……もし、先に特別手配されたら…私は警察に…?」
情報が浸透するまでにどれ程の時間を要するかは不明だが、音楽家ならば逮捕後処刑の執行までそう時を置かないのはごく普通であった。
爆破事件の主犯格である彼らについて何も知らない茅沙紀から聞き出せる情報が少ないのならば尚更、だ。
「はい。捕まれば危険です。だから…今は逃げてください。捜査を撹乱させるように我々が裏で手を回しておきました」
「逃げる……でも何処に?実家も仙台だし、何の準備も無しにとても歩いて逃げられる距離じゃ…」
そう尋ねる間にも、いつこの病室に警官が突入してくるかわからない恐怖に表情は強張り、声は震えてくる。
「取り敢えず貴女を助け出したこの男の元に向かいましょう。政府の情報によれば、彼は新宿を根城に音楽を生業としている男です。貴女の今後の生き方に何かヒントを与えてくれるかもしれません」
椙浦が指差したのは、手配書に印刷された京哉の顔。
「無事に逃げられたと判断しましたら、タイミングを見計らってまたこちらから接触させていただきます。安心してください。我々は貴女の味方です」
『味方』という言葉が、この時の茅沙紀にとってどれだけ救いになった事だろうか。
こうして病院を抜け出して新宿に向かった茅沙紀は、京哉達の保護下に置かれることになったのだ。
そう、異端の目論見通りに。
…………………………………………………………………………………
梓が茅沙紀を匿う様になった展開は、異端にとって想定外であった。当時の時点で現役の旋律師ではない梓は、彼らのデータベース外の人物だったのだ。
しかし、この想定外は楽団の要に繋がる一打を繰り出す結果になった。
新妻梓は右神託斗と関係の深い人物であること。梓を攻撃する事によって、楽団のエージェントに守護された託斗が組織の命令を無視し、独断で異端に近付こうとするのではないか。
ユリエルは機が熟すのを待った。
そして、第21楽章に繋がる手掛かりが潰えたこのタイミングで再び茅沙紀に接触を図ったのだ。
都営団地の一室が彼女の根城だと突き止めたユリエルは椙浦にある依頼をした。
茅沙紀が蓄電の為に、日に一度回収に出るハンネス機関。その近くに書き置きを残した。
指示通り梓が就寝したタイミングでそっと部屋を出て団地の駐輪場に降りた茅沙紀は、待機していた椙浦から『最悪の状況』について聞かされる事になる。
「椙浦さん、ご無沙汰しております。その節はどうも…」
茅沙紀にとって、彼らは政府や警察の手から逃れる機会を与えてくれた恩人であった。何も疑う事なく近づいてしまう。
「那珂島さん、お久しぶりです。唐突にすみません、呼び出したりして……ですが、事態は急を要するものでして…」
彼の言い回しを聞いて、茅沙紀の表情が険しくなる。
「……何かあったんですか?」
「はい…。我々も尽力して貴女が政府側にとって有益な人間である事を何度も説明してきました。しかし、具体的な説明が出来ずに誤魔化し続けるにも限界がありまして…」
政府への説得で警察の追跡を食い止めていたのだと話す椙浦だったが、肝心の政府が『有益である事の証明』を求める段階に至ったのだという。
「このままでは、再び警察の捜査の手が及ぶのも時間の問題です。現に、貴女のこの居場所についての情報も政府の調査機関が調べ上げたデータベースから拝借致しましたので…」
時間が無い、危険が及ぶ、と茅沙紀の不安を煽り続ける椙浦。
当然の事ながら、それらは全てユリエルがシナリオを描いた茅沙紀を利用する為の虚言である。
「そんな…それじゃあ……もう……」
青褪めた顔で言葉を絞り出した茅沙紀は震え上がっていた。
いざとなったら梓や楽団の面々が守ってくれるかもしれない。しかし、彼らを頼り切れない事情が茅沙紀にはあった。
「既にご実家の近くには警視庁の人間を待機させているという情報も得ています…。逃走した音楽家の家族ともなれば、かなり重い罰が下る可能性も…」
茅沙紀の実家には両親と高齢の祖母が生活している。彼女だけが生き延びたとて、今度は家族がどんな目に遇うかわからない。
実家の家族も助けてほしい。そんな願いを、梓達は聞き入れてくれる筈もない。
『旋律師は正義のヒーローじゃない』
急死に一生を得た2度目の後、茅沙紀が京哉に言われた言葉である。楽団は営利目的で動く法人であり、人助けをする為に人材を抱えている訳ではないのだと。
「椙浦さん。私はどうすれば良いんですか?どうすれば…家族にも危険が及ばずに…」
「貴女は今、楽団の人間の保護下にいますね。政府が最も忌み嫌う彼等と仲間のように振る舞われている様では、全くもって説得力がありません」
茅沙紀は次に椙浦が放った言葉に耳を疑った。それは、幾度と無く彼女を救ってくれた存在への裏切り行為であり、何より人の道に背くもの。
「時間はありません、那珂島さん。もうじき政府の派遣した人間がやって来ます……ご家族の為です。決意なさってください」
…………………………………………………………………………………
六本木のネットカフェ跡は、どのDVDを視聴するかを争うジャンケン大会の真っ最中であった。
ここの所、3日連続でフユキの持ってきたB級ホラー鑑賞会が続いている。今日こそは感動の動物映画を観てやると、意気込んでいたシェリーが出したパーが見事に一人負けを喫する横を通り過ぎた京哉はフルートを収納したジュラルミンケースを背負っていた。
「京ちゃん、昼なのに仕事?」
静かに読書をしていた祐介がフラットスペースの扉を開けて顔を出す。基本的に夜勤帯で動く旋律師であるが、仕事道具を背負っている京哉はどうやらこれから仕事に向かう様であった。
「もしかして…設計図を取りに行くの?それなら私も…」
DVDのケースを机の上に置いて立ち上がったシェリーを制したのは、今日も勝ち残ったフユキであった。
「シェリーちゃんは僕達と一緒にお留守番です。今日のホラーは一番怖いですよぉ」
フユキに両肩を掴まれて力尽くで座らされているシェリーの横で、ナツキが早く出るようにと京哉にハンドサインを出している。
「…祐ちゃんには戻ってから話す。悪いな」
「あ、うん…」
人を気遣うような事を言う男だっただろうか?と、あまりにも平常時と様子の違う京哉に、祐介は思わず吃ってしまった。そして、これは何か重大な事があったに違いないと悟る。
『良いかい。これから君達にはオルバス・シェスカの設計図を奪う為に異端の本拠地に向かってもらう』
雑居ビル前に横付けされた鬼頭のワゴンに乗り込むと、車内には既に巳継と麗慈が座っていた。
京哉は自身のPHSをスピーカーモードにして、全員にJACの指示が伝わるように端末を掲げる。
『さて、アズサの件は聞いてるかい?』
「……ああ。葬儀屋呼んだのは俺だ。皆知ってる」
頬杖をついて窓の外を見たままの麗慈が淡々と答えた。
『わかったよ。じゃあ、ターゲットについても周知されてるかな。チサキ・ナカジマ……今、異端の人間と共に本部に向かって移動中のようだ』
茅沙紀の名前が聞こえたのと同時に、京哉の表情が曇る。
『チサキ・ナカジマの殺害はキョウヤの担当だ。初めて乗り込む敵本部ってのもあってあちらの戦力は未知数。ミツキにはキョウヤのサポートをお願いしたい。レイジは設計図の回収を頼んだ』
端的に述べられた指示。その後、すぐに通信が切られるがいつまでも車内に響く単調な電子音に、麗慈は最後部の座席に座る京哉の方を振り向いた。
「おい、切れてんぞ」
彼の一言でそろそろと腕を下げた京哉は、端末を操作しながら不貞腐れた表情で座席に勢い良く寝転がった。
「…全く、恐れ入ったな。俺も気にはなっちゃいたが、こういう展開になるとは思ってもみなかったぜ」
サングラスを持ち上げてフロントミラー越しに京哉の様子を一瞥した鬼頭に、麗慈がため息混じりで答える。
「全部あの日から繋がってたんだと思うと、完全にアイツの目論見通りだった訳だ」
「先生をアイツ呼ばわりするな、無礼だぞ」
巳継の横入りで、彼らが誰について語っているのかが判明する。
賑わう車内で唯一難しい顔をしている京哉に、麗慈が再度話し掛けた。
「何怒ってんだよ?」
背もたれの方に顔を埋めていた京哉は、眉間に皺を寄せながら寝返りを打つ。そして、不貞腐れた子供のように唇を尖らせていた。
「怒るだろ、普通。僕にだけ内緒にしてたんだろ?そんな口軽い奴に見える?」
「ちげーよ。お前に全容知れたらどんな行動するかなんて大体想像つくからだろ。託斗なりの優しさだと思え」
納得いかないといった様子でルーフを睨み付けた京哉は、到着したら起こせと言い残して短い眠りに就いた。
…………………………………………………………………………………
時は遡り、発電所爆破事件の4日前。
唐突に麗慈の管理している医院を訪れた託斗は、特に脈略の無い世間話をうだうだと続けていた。ほぼ一方的な彼の話を聞き流していた麗慈であったが、ふと思い立って何故いきなり日本に来たのかを問いただす。すると、息子に仕事を全振りしてきたと白状してきたのだ。
「いやいや、アンタ何しに来たんだよ…。京哉も可哀想な奴」
「えー?そう思うなら麗慈が助けに行ってやりなよ。……あ、そうだ。君にはお願いがあって来たんだった」
この男のお願いというものは、大体まともではないとわかりきっていた麗慈。そそくさと彼の前から退散しようとする。しかし、襟首を掴まれて無理矢理診察台に座らされ、間髪入れずに目の前に一枚の写真を突き出された。
そこに写し出されていたのは、一人の女。…首にチョーカーを巻いた茅沙紀であった。
「……誰コレ?」
「奪われた第17楽章を完奏しちゃった不運なコ」
そもそも宇迦之御魂神の楽譜を奪還すべく来日したという託斗。何処から入手したのだろうか、既に完奏者についての情報は彼の手元にあった。
「政府に飼い殺しにされてるオーケストラの団員でね。彼女には少し楽団の役に立ってもらおうと考えててさ」
「アンタの独断か?また社長に怒られるぞ…」
ケラケラと笑いながら写真をしまった託斗は、得意げな表情になって麗慈の前でチッチッと人差し指を振った。
「甘いね、麗慈くん。敵を欺くにはまず味方からってね……まぁまぁ、帰国したらちゃんとロジャーには報告しとくよ」
忘れてたんじゃねぇかよ…、と小声で文句を言う麗慈を無視して託斗が続ける。
「旋律師の中でも限られた人間しか演奏を許されない僕の超絶技巧を暗譜した一般の音楽家なんて史上初じゃない?どんな手を使ってでも、楽団と繋がるように仕向けるだろうね」
「まぁ…利用するに越したことはねぇよな。それで…ソイツを俺にどうしろと?」
託斗が麗慈に託したのは、たった一つ。那珂島茅沙紀の生命を維持する事。
そして、万が一麗慈自身が彼女の身柄を保護できない状況になった場合、一番信頼のおける人物を頼る事。
彼女が死んでしまっては、ここから先の計画が頓挫してしまうのだという。
「僕の曲を盗作してる奴と繋がるんじゃないかって考えててね」
「…確かに、アンタの楽譜を暗譜して演奏した人間には興味あるだろうな。じゃあ、京哉もその女を探して動いてんのか?」
その疑問に対して、託斗はニヤニヤと怪しげな笑みで返す。何事かと一歩引いた麗慈は、目の前の男が一体何を考えているのか全く見当がつかず訝しげに顔を歪めた。
「アイツには内緒だよ。きっと、最後に汚れ役を担うのは京哉だからね。要らない情報を入れてやる必要は無いでしょうに」
楽団の要たる託斗の書いた超絶技巧は、本来門外不出であり情報が漏れた際には関係者の口を物理的に閉ざす事が通例となっていた。今回も例外ではないのだろう。
那珂島茅沙紀が『一般の音楽家』であり続ける以上、楽団の処刑対象であるという事実はどう足掻いても覆らない。
…………………………………………………………………………………
真昼だというのに、使い切れないほどの電気を持て余したニュー千代田区画内では街中の街灯にビカビカと明かりがともっていた。
これ程の電気を生み出す為に、大編成のオーケストラが其々体の痛みに耐えながら演奏を続けているのだろう。
広い幹線道路を飛ばす一台のセダン。後部座席に乗せられた茅沙紀の震える両手は、まだ梓の血で赤黒く汚れていた。
「那珂島さん、もうすぐ我々の拠点に到着します。ユリエルがお会いしたいそうなのですが、先に汚れを落とされますよね?」
助手席から上半身を捻りながら尋ねてきた椙浦の言葉は、茅沙紀の耳を右から左へとすり抜けていく。ハッと我に帰って顔を上げた彼女は、ペコペコと頭を下げ始めた。
「す、すみませんっ!ぼうっとしてしまって…」
「お疲れでしょう。大変な事を成し遂げたんですから」
椙浦の言葉を聞いて、茅沙紀の脳内にフラッシュバックが発生する。
台所で手にした包丁を握り、シンと静まり返った梓の部屋に忍び込む。
物音を、息の音さえも押し殺してベッドの前まで歩み寄れば、目の前には就寝中の梓が横たわっていた。
目眩を起こす程、心臓はバクバクと高速で脈打っている。震える足を一歩前に出し、右手に持った包丁を逆手に持ち替えた。耳の位置まで振りかぶるが、滲み出る手汗で握っていた柄がツルツルと滑る。
政府がこの場所を嗅ぎつけた。
政府に対して自身の有用性を示す必要がある。
さもなくば、自身と家族の身の安全は保証できない。
何度も頭の中を駆け巡るのだ。茅沙紀が生存し続ける為の条件と、その為に切り捨てなければならない物とが。
椙浦の言葉が彼女を悩ませ続けている最中、敦賀という男の登場が命令を実行に移す後押しとなった。
敦賀は楽団の新人という身分を装って近付いてきた政府の関係者。そう判断した茅沙紀は、もう本当に時間が無いのだと勝手に自身を追い込んでいった。
その瞬間はあまり記憶に無い。気付いた時には鋭利な先端が無防備な首筋を滑り、勢い良く鮮血が吹き出ていた。
…………………………………………………………………………………
天を穿つように聳える高層ビル群の一角、異端が拠点としている場所に到着したセダンは、玄関前のロータリーを悠々と回り、玄関に一番近い位置でピタリと停止する。
助手席で運転手に礼を告げ終わった椙浦が先に車外に出て後部座席のドアを開いた。冷たい風に吹かれながら、茅沙紀は左脚をアスファルトに接地させた。
地を這うように吹き込んだ冷気が白い霧を纏い、セダンの周囲を取り囲む高さ5メートル程の氷の壁が形成され、茅沙紀の前を歩いていた椙浦との間を隔てる。
細かな氷の粒が風に舞い陽光を浴びてキラキラと流れる幻想的な光景の中、彼女の正面に純白の人影が突如現れてその行く手を阻む。
ゆっくりと顔を上げれば、見覚えのある顔があった。
「…右神さん……」
感情を一切含まない表情。無を体現した、という表現が相応しい。茅沙紀が彼のこの表情を向けられるのは2回目だった。
しかし、あの時ともまた雰囲気が違う。
あの時は、楽団という組織に近付かないように、という彼なりの優しさがあってこその行動であった。
茅沙紀は気が付いてしまう。
目の前の男は今、かつて彼女から遠ざけようとした組織の一員として接触しに来たのだと。
「……梓さんの事…ですよね?」
彼の同僚の命を奪った事に対する報復なのだと、茅沙紀は視線を伏せた。しかし、この場所に来て初めて口を開いた京哉からは、予想外の回答が飛び出す。
「知ったこっちゃねーよ、そんなの」
「……え?」
次第に視界が狭まり、身体が地面に吸い込まれていく。体の中心からズルリと冷たい感触が抜けていき、生温い液体が茅沙紀を包み込んだ。
「僕達は誰が何処で野垂れ死のうと、弔う時間も与えられなければ、涙する資格すら無い。そういう世界に生きてる。アンタはその世界に触れた時から、こうなる事が決まってた。……ひでぇ話だけどな」
茅沙紀には、唯一最後のフレーズだけが彼の心からの言葉なのだと直感した。
楽団の世界に触れた時…それは紛れもなく、発電所の地下で岡島貴一郎から楽譜を渡された瞬間であろう。
一音、また一音と奏でる度に、彼女は死ぬ運命へと近付いていったのだ。それは、荼吉尼天によって身体を奪われる事でも、首に巻かれたチョーカーに頭部を吹き飛ばされる事でもない。
右神託斗という男の描いた神々の世界に足を踏み入れてしまった罪に対する罰であり、部外者が触れた痕跡の全てを抹消する為の楽団による粛清という当然の結末である。
それならば、自分が梓を手に掛けるまでに受けて来た彼らからの施しは一体何だったのだろうか。
発電所の爆発後や七白に刺された後に、何故命を救ったのだろう。
その答えを、茅沙紀が知る事はなかった。
…………………………………………………………………………………
刀身にこびりついた血液を拭い、真っ赤に染まった分厚いクロスを投げ捨てる京哉。ヒラヒラと舞い落ちる布の先で溶けていく氷の壁。
隔絶されていた空間の外側から京哉の方を睨み付けているのは、イースト・アラベスクで何度も顔を合わせた医者を名乗る男であった。
椙浦が異端の人間なら、シェリーに執着していた理由にも合点が行く。
「アンタ、異端の人間だったのか。道理で悪趣味な訳だ」
京哉の足元に横たわる茅沙紀を一瞥した椙浦はすぐにその視線を戻す。
「……悪趣味なのは貴方の方だと思いますが。良い年こいてまだお人形連れて回ってるそうじゃないですか」
高層ビルの中から次々とアサルトスーツの男達が現れ、入れ替わるように椙浦が屋内へと逃げていった。
武装した男達が京哉に向かって襲い掛かる間際、再び氷の壁が形成されて彼等を弾き飛ばすと、何処からともなく姿を現して京哉の横に並んだ巳継が目配せをした。
「若乃宮は目ぼしい場所に到着したそうだ。京哉くんは奴を追いながらなるべく騒ぎを大きくしてくれ」
「はーい、了解」
軽々と氷の壁を乗り越え、地面に悶絶するアサルトスーツの集団の上を一気に飛び越えた京哉は、椙浦の逃げていった方向へと駆け出していく。
『相手の戦力がわからない以上、下手な戦闘は極力避けるべきだ。今回の襲撃の真意を見破られないように、キョウヤとミツキには時間を稼いで欲しい』
JACから事前に出されていた指示は、オルバスの設計図を回収するという真の目的から相手の注意を逸らす為に二手に分かれて行動する、というものであった。
「そんなに戦力を一方に偏らせて大丈夫なのか?若乃宮は戦闘では全く役に立たないと聞いていたが」
悪気無く本人を目の前に悪口を言う巳継を睨み付けた麗慈であったが、彼の能力が表立った戦闘に向いていない事は確かであった。設計図を捜索する最中に敵に見付かった場合の解決策を予め考えておく必要がある。
ただ、JACが念を押したように敵の本部に乗り込もうというのに相手の戦力についての調査が不十分であった。
この状況は、『本作戦の決行時期が未定』であった事を意味している。つまり、茅沙紀の行動がトリガーとなって発動するものであり、彼女の行動は予め予想されていた事なのだ。
PHSが震えて着信を知らせる。白衣の胸ポケットから端末を取り出して画面を確認した麗慈は、これから彼が敵と対峙する事なく目的を達成する為にどう動けば良いのか、それを一瞬で理解した。
…………………………………………………………………………………
椙浦がビル内に駆け込んだのと同時に非常ベルが鳴動し、1階フロアの両端からエントランス方向に向かって防災シャッターが大きな音を立てて順に閉まっていく。
中央の自動ドアに掛かる最後のシャッターが閉ざされる間際に屋内へ滑り込んだ京哉は、右手に握っていた太刀をフルートの形状に戻して10メートル程離れた位置を走って逃げる椙浦の後を追いかけた。
異端が本拠地としているビルの低層階は官僚達が業務するフロアになっているようで、スーツ姿の一般人が突然の非常事態に大慌てで逃げ惑っている。
大挙する人の流れに逆らいながら進むのは難儀であり、椙浦が乗り込んだエレベーターのドアがあと一歩という所で虚しくも閉ざされてしまう。
「いたぞ!あそこだ!」
エレベーターが止まる階を確認しようとホールに留まっていたところに、アサルトスーツの集団がドタドタと忙しない足音を立ててやって来た。
「やーっべ…」
袋小路になっている現在地では、京哉にとって不利な状況。自動小銃が構えられた瞬間に走り出し、非常階段を猛ダッシュで駆け上がっていく。
鉛玉の雨が壁を抉りながら京哉の行手を阻もうとするが、彼が走りながらリッププレートを下唇に乗せた瞬間に耳を劈くような発砲音が一斉に沈黙した。
そして数秒後にはアサルトスーツの男達が構えていた小銃の銃身が急激に熱を帯びて膨張し、ポップコーンが弾ける様に金属の塊が破裂してしまった。
負傷した彼らの悲鳴を背に十分な距離を取った京哉は、一度3階のエレベーターホールに出て椙浦が乗っていった籠が止まった階数を確認する。
「あーっ!よりにもよって最上階かよ……」
オレンジ色のランプは階数が羅列する表示器の一番上に点灯したまま止まっていた。椙浦が京哉を撹乱させる為に途中で降りて籠だけ上に向かわせた可能性もあるものの、最上階まで虱潰しに捜索する時間的余裕は無い。
そして京哉は作戦前、最上階にだけは向かってはならないとJACから忠告されていた。恐らくそこには異端の拠点本部が存在し、今回楽団が奪取しようとしているオルバスの設計図の予測所在地でもあるからだ。下手に最上階まで京哉が到達してしまい、敵の警戒心を煽って麗慈の動きを邪魔する訳にはいかない。
そろそろ異端側の人間も敵襲への対処に駆り出される頃合いであろうとフルートを太刀の姿に変えた所で、突如エレベーターホールの雰囲気が一変した。
…………………………………………………………………………………
言語化できない違和感が周囲に張り詰め、左脚を引いて太刀を下段に構えた京哉は警戒を強める。
そして次の瞬間、それまで何も存在しなかった場所から伸びてきたコンバットナイフの鋭利な切先が照明に煌めく。
不意をついた攻撃を仕掛けてきたのは、道夫を陥れた廃雑居ビルにてナツキと鬼頭が対峙したチェロ弾きの少年…アミティエルだった。
[46] Recitativo Ⅱ 完
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ファンタジー
大学生・誠也は工事現場の穴に落ちて異世界へ。 物体に魔力を付与できるチートスキルを見つけ、 能力を隠しつつ魔道具を作って商業ギルドで商売開始。 のんびりスローライフを目指す毎日が幕を開ける!
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