MELODIST!!

すなねこ

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#067 Variation Ⅴ

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東京都・年齢不詳女性「どうもウチらのボスは秘密主義で困る。何も言わずにフラフラ出て行って面倒はこっちに全部押し付けやがるんだ。宝探しの次は人攫いだァ?便利屋じゃねーんだよこっちは!まったく仕方ねェな」


…………………………………………………………………………………



 大海原を進む、一隻の豪華客船。
 公海上を航行し、世界を周遊するイースト・アラベスクの船内には楽団ギルドの公募によって集められた音楽家達が多く乗り込んでいた。
 7人姉妹のクラリネット奏者が所属する船内オーケストラが奏でる優雅な音色を聴きながら、音楽家達を引率していたニーチェは最後にロジャーから言い渡された言葉の意味を咀嚼する。



『今回の客はたった1人だ。かつてお前に不適合の烙印を押された唯一無二の怪物。…あぁ、彼方はお前の事など覚えていないだろうが』



 集められたオーケストラの面々は、東南アジアでの招待公演であると聞かされている。客が1人とは。唯一無二の怪物とは。眉間に深い皺を刻みながら木製の手すりに両肘をついて考え込むニーチェ。

 楽団ギルド所有のオーケストラが海外での初公演を迎えるというのに、社長はおろか上層部の人間は誰も同行していない。
 一体何を企んでいるのか。問いただす勇気も、そもそもそんな資格も無い一般人である自分は、これからどんな運命を辿るというのだろうか。
 ふわりと残響が吹き抜け空間に消えていき、曲が終わる。拍手喝采で盛り上がりを見せる船内で、オーケストラの面々が椅子から立ち上がりその歓声に応えてお辞儀をしていた。

「改めまして、我々船内オーケストラの演奏会にお集まりいただき誠にありがとうございました。この後も引き続き、目的地までの船旅を心ゆくまでお楽しみください」










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 オーディションを行っているホールから社長室に戻って来たロジャー達は、再びローテーブルの上に置かれた機動説明書を囲んで今後の動きについて話し合いを始めていた。

「日本までは1ヶ月近く掛かりますが…その間に異端カルトが先に動きを見せた場合はいかがされるおつもりですか?」

ロジャーが尋ねると、起動手順書を挟んで向かい側に座るクロークスがその件については想定済みの質問である様子で回答をスラスラと述べ始める。

「まず第一目標である日本…俄には信じ難いですが、この国の政府は間も無く自国民の数を必要最低限まで減らす政策に踏み出すようです。例の未確認兵器の投入はその試験段階と言えるでしょう」
「なるほど…内政に忙しいうちにこちらの準備を整える、という事ですか」

ロジャーの隣に座る託斗は、神妙な面持ちでじっと分厚いファイルを睨みつけていた。
 シエナの脳を取り出して造った殲滅兵器を起動させ、国を滅ぼす段取りになど耳を貸せる訳がない。そんな事は許されない。
 会話の途中で突如立ち上がった託斗の顔を見上げたロジャー。彼とは長い付き合いであり、事の真相を告げた時から気が付いていた。彼はこの世界政府の依頼を受ける事に反対であると。

「どした?タクト」
「ああ…ちょっと流石に疲れたかな。そういう難しい話は二人で済ませて欲しい」

部屋に戻ると言って歩き出した託斗の背中を一瞥したロジャーは、その視線をモーガンの方に移す。即座に反応した優秀な秘書は、背広の内ポケットに忍ばせていた端末から緊急メッセージを発信した。
 そんな彼らの動きを目だけで追うクロークス。そして、扉の向こう側に集まってきた足音との会話を聞き漏らすまいと耳を澄ませた。


 社長室から出た託斗は、既に10名ほどの旋律師メロディスト達に囲まれていた。
「タクト・ウガミ……アンタを生きてるうちに拝めるなんて光栄だよ。でも悪いが、大人しくしててもらおうか」
両サイドから瞬時に近寄ってきた旋律師メロディスト達に取り押さえられると、床に組み敷かれた状態で後ろ手に手錠をはめられる。足首にも同様に手錠をはめられて身動きが取れない状態にされてしまった。
「……尊敬してる割には扱いが雑だな。折角だからサインの一つでもあげようと思ったのに」
「生憎、ウチには昔のメジャーリーグのサインボールがいっぱいでな。これ以上飾るスペースが無いんだよ」
苦笑いを浮かべた旋律師メロディストの合図で、仕上げに猿轡と目隠しまでされた託斗。



 部屋の外に静けさが戻ると、クロークスはゆっくりと顔を上げてロジャーに尋ねた。
「……ミスター右神は貴方の腹心だと聞いておりましたが……」
「少々おイタが過ぎるところがありましてね。今回のご依頼に関しても彼が自由に動ける状況では都合が悪い。そこら辺の調べはついておられるのでしょう、ヴァーグさん?」
じっとりと心の中を見透かされているような視線に、クロークスは底知れない恐怖のような物を感じずにはいられなかった。

 これが、裏社会に暗躍する秘密結社を纏め上げる人間。身内であっても目的の為には手段を選ばないこの男であれば、成程信頼はおける。
 クロークスはその口元にひっそりと笑みを浮かべていた。






…………………………………………………………………………………




 
 二人の旋律師メロディストに担がれてやってきたのは、彼がオーストリアに来た時最初に捕えられていた地下牢であった。
 埃っぽいのに湿った空気が停滞する居心地の悪い空間。そういえば昔はよくこの場所で過ごしていたのだと、託斗は過去の記憶をぼんやりと思い出す。






 12歳で楽団ギルドに拉致されてきた託斗は、短期間でドイツ語を叩き込まれた後すぐに曲を書き始めるようにと命令を下されていた。
 具体的な要求は無く、3日以内という期限だけを突き付けて来たのはそれまでロジャーの右腕として専属作曲家の地位にいたシモン・サントスという男であった。

 呪詛・呪曲の知識しか持たなかった託斗は当時、現代オーケストラや洋楽器に関する作曲経験が全く無く、その無理難題に応えることができなかった。
 期日になってもまっさらな五線譜を見たサントスは、その理由を聞くこともなく託斗を地下牢に入れた。
 檻の中に用意されていたのは、簡単な造りをした椅子と机が一式、そして遠隔で操作が可能な音楽プレーヤーが設置されていた。
 スピーカーからは絶えず様々なクラシックが流れ続け、消灯時間というものは存在していない。意識があるうちは常に曲を聞き続け、気づいた頃には意識を失っているという生活を10日間繰り返した後に檻から出された託斗。
 驚くべき事に、この10日の間で西洋のクラシック音楽に関する知識を耳からの情報のみで大量に吸収していた。そして、洋楽器の名前もまだわからないうちに一曲仕上げてきたのである。

 それからも、サントスに叩きつけられた無茶な要求を完全な独学で身につけた知識と持ち前の作曲センスで解決していき、次々に曲を生み出していった。
 そして、ロジャーが託斗をオーストリアに連れて来てからちょうど半年が経過した頃の事である。託斗の作り出した曲を面白半分に演奏したサントスと仲の良かったヴァイオリニストが次の日寮室の窓から飛び降りて命を落とすという事件が起こってしまった。
 すぐさま両手両足首に枷をはめられた託斗は地下牢に閉じ込められる。そして、彼の作った曲に対する協議がサントスも同席のもと上層部会議にて行われた。

「死亡したのは、ロドリゲス・コスタ…旋律師メロディストとして養成中の社員でした」
「自殺……?前兆は無かったのか?」
「はい。前日もレッスンに参加しており、特に変わった様子は見られなかった、と……こちらが、彼の演奏した楽譜になります」

議長が机の上に置いたのは、流れるような筆跡、まるで絵の様に五線譜に音符を敷き詰めた独特な手書きの譜面であった。

「……日本から連れてきた呪術師の末裔だろ…?復讐を企んで呪いをかけたんじゃないのか?」

上層部の一人が怯えながら楽譜を指差すと、周囲の人間もガヤガヤと騒がしくなった。



…………………………………………………………………………………



「あのガキ……通りで目付きが悪いと思った。まだ諦めてなかったのか」
「地下牢に入れてもけろっとした表情で出てくるって聞いた事あるな。笑ってる様子を見たって奴も…本当に12歳か?」
「日本ではよく、あーいうガキの事を狐憑きって言うそうだよ。異常な行動繰り返す奴」

口々に託斗の事を話す上層部の面々。どれも彼を気味悪がる内容ばかりであった。
 人死にの出る曲を書いたという噂を聞き付けたロジャーの判断で楽団ギルドに拉致されてきた託斗。真実を知る者は逃げ出すか、皆命を絶っている。
 完全に否定する事のできないものに疑いを掛けるのは楽団ギルドの人間の常であった。

 其々が勝手な妄想や憶測で話を広げる中、咳払いでそれらを一蹴したロジャーがサントスに尋ねる。

「…シモン、タクトの教育は全面的にお前に任せきりだったが…どうなんだ?いくつか曲を書いたのだろ?」

ロジャーが何の躊躇も無く託斗の書いた楽譜を手に取った瞬間に、会議場内にどよめきが起こった。どうなんだ、と答えを催促されたサントスは額に汗を滲ませながら口を開く。

「それは…はい、何曲か……。しかしどれも稚拙な出来で、曲とすら呼べるものは…」
「なるほど。その稚拙な曲とやらがコレか」

内容を確認したロジャーは腕を組みながら背筋を伸ばし、背もたれに体を預ける。そして、サントスの方をじっと見据えたまま更に言葉を投げつけた。


「ヴァイオリン、クラリネット、フルート…まあこれくらいの知識はあったようだ。だが、その他の洋楽器については音色すら聴くのは初めてだと言ってな」

サントスの目が段々と見開かれていく。
 託斗の書いた曲にはオーボエ、ユーフォニアム、コントラバスといった楽器の名前も書き込まれていた。音符とは違い、下手なドイツ語で、だ。不揃いな文字の羅列。まるで、誰かに綴りを教わりながら1文字ずつ書き込んでいったかのような…。

「レッスン室のピアノを使っても良いかと聞かれたな、そういえば。そんなものはいくらでも使い倒せと答えたら嬉しそうにしていた」
「……そ、それは……」
額の汗が玉になって皮膚を滑り落ちていった。
「地下牢には簡易ベッドくらいは備え付けがあったはずだが、最近見かけないという報告を受けている。突っ伏して寝てると涎で五線譜が汚れるから勘弁してくれ、と笑っていたガキからの報告だ」

楽譜を手に取り、ゆっくりと立ち上がったロジャー。自席を離れて向かった先はサントスの目の前であった。周囲に座る上層部の人間達もそっと視線を伏せる。

「……良い曲じゃないか。お前よりもずっと上手に音の波を捉えている」
「っ……社長っ!」

ガタッと大きな物音を立てて立ち上がったサントスは震える拳を強く握りしめながら反論する。

「子供が遊びで書いた曲ですよ所詮は!それに…呪術師の末裔が書いた曲で人が死んだなんて聞いたら……もう誰もアイツの曲なんか演奏しませんよね?だからあんなガキなんてさっさと…「そうか」


サントスの熱弁に対してそっけなく短い返事を寄越したロジャーは、会議室の隅に立っていた秘書の男を呼び出して耳打ちをする。



…………………………………………………………………………………



 暫くして社長室に現れた託斗は、枷によって締め付けられていた手首を摩りながら革張りのソファに勢い良く腰掛けた。

「静かに座れと何度も言っただろ。勝手に物を食うな、来客用だ」

ローテーブルに置かれた上品な小袋に包まれたクッキーを勝手に頬張っている託斗を見て呆れ顔を見せるロジャーは、彼の頭の上に五線譜の束を乗せた。

「3曲目のファゴットの綴り、間違ってたぞ。丁寧に教えてやったってのに」
「教え方が悪いんじゃないのー?僕は勉強熱心で従順なこどもだから、ちゃんと教えられた事は守ってやってたんだよー?」
新しい袋に手を伸ばそうとした託斗の手の甲をペシっと引っ叩いたロジャーは隣に座って長めに伸びていた彼の前髪を上げる。瞼の上に広がる青紫色の痣。よく見ると頬や首元にも確認できた。
「変な所で従順なのは納得できんな」



 専属音楽家としての地位を脅かされると思ったサントスは、ロジャーから一任された託斗の教育という仕事を放棄していた。
 無理難題を押し付け、出来なかったと言って彼を詰った。そんな無理難題でさえも独学とセンスで解決してしまう託斗に対する劣等感から、サントスは彼に幾度となく手を上げていたという。
 そして、託斗の書いた曲のせいで社員が死んだという嘘を捏造する為に友人の寮室を訪ねて窓から彼を突き落とし、楽譜を机の上に置いたのだ。
「告げ口とか好きじゃないしさ。それに、この程度の事は日常だったし、相手がヒスった母親じゃないってだけでも全然ノーダメージ!むしろノーカン!」
ニッカリと歯を見せて笑う託斗の小さな頭を掴んでグリグリと力強く撫でたロジャーは眉尻を下げた。


 例え楽団ギルドから逃げ延びたとしても、彼には帰る場所など無い。奪い取ったのはロジャーの判断である。全ては楽団ギルドが彼によって生み出された力を独占する為であった。
 世間から隔絶された密教の郷に産まれた呪術師の後継者。女ばかりのきょうだいの中でやっと授かった男児とあらば、さぞ溺愛されて育ったかと思い蓋を開けてみれば、彼の相手をするのはいつも教育係か限られた使用人だけであった。
 手を伸ばせば届く場所にいるのにも関わらず、両親は託斗に対して一切の愛情をかけなかった。そして、不慮の事故によって娘達を一度に失うと、託斗の作った曲が人を呪ったのだと騒ぎ、更に彼を遠ざけたのだ。



「タクト…一つ聞いておくが……『呪い』は存在するのか?」

ロジャーの唐突な問いに、託斗は目を瞬かせながら彼の方を見上げた。そして、満面の笑みで答える。

「存在するよ。でも、よくみんなが想像してる感じとは少しちがうかな」
託斗は右手を出して、その親指から中指までの3本を立てた。
「僕が教えてもらった呪詛・呪曲の界隈では、呪いは“まじない”じゃなくて契約として扱われる。力を得る代わりに制約を科され、守れなければ力を得た本人が災厄を被る。呪い、つまり契約はこの災厄との間で発生するんだよ」
「人が人を呪う…というのではないんだな」
ロジャーの問いに手をブンブンと振って否定を示した。
「あくまでも僕の知る世界では…ね。だから、ロジャーが望む物、僕になら作れるって訳さ」

 ロジャーが託斗に望んだ物は大きく2つ。音エネルギーの極大化を最短時間で実現させる楽譜と、奏者に異能を付与し戦闘力を上げる楽譜。

「……契約だと行ったな。お前はその見返りに何を望む?」
うーん…と暫く悩む様子を見せた託斗は、ふと何か思い出したように鼓手を打つ。そして、再びニコニコと満面の笑みを浮かべた。
「100曲書いたら自由に外を…「それ以外でだ」
即座に却下され、シュンと肩を落とすフリをした託斗。
「じゃあ……ロジャーが死んだら、この会社僕にちょーだいよ!」
想定外に大きく出た託斗であったが、ロジャーには彼の述べた願望は『こどもの時の夢』の類であると直感した。ヒーローになりたい、ケーキ屋さんになりたい、お嫁さんになりたい…実現性など全く考えずに口から飛び出した言葉であると。
「お前…社長なんかになりたいのか。大変だぞ、特にこの会社はな…」
「確かに……上層部のオッサン達は意地悪だから嫌いだもんなー…。僕が社長になったら、いの一番に上層部解体しちゃおっかな」

物騒な事を口走って悪い笑みを浮かべる託斗に呆れ顔を見せるロジャーであったが、彼に楽団ギルドの将来を託すのも悪くないと考えていた。
 託斗ならばどんなオーケストラを築き上げていくのだろう。きっと前例の無い前代未聞の事をしでかしてくれるに違いない。
 そんな不安と期待を抱いてしまう程、ロジャーは託斗の才能と人柄に魅力を感じていたのだ。





…………………………………………………………………………………


 オーケストラのオーディションも終わり、楽団ギルド社屋に詰めかけていた人集りもすっかり消えて久しい時間。
 ロジャーはクロークスと二人きりでの会合を続けていた。


「零式自鳴琴起動時に必要とされる3つの力…先日もお伝え致しましたが、オーケストラの件で一つは解決です。しかし、残りの二つについては…」

分厚いファイルに挟まれた書類を捲りながら、悩ましげな表情で語るクロークス。

「シエナ・シルヴェスターが自己を認識する為の“関係者”の存在と、世界を正しい方向へ導く為の『鍵』…でしたかな」
「はい。関係者として考えられるのは、オルバス・シェスカとも面識のある人間……」

楽団ギルドの掟を破り、現在逃亡中の身であるミーア・ウィルソン、そしてシエナの人生を狂わせた男、右神託斗。

「…タクトは弊社にとって失う訳にはいかない存在でしてね……もし内部に取り込まれるような事が起これば一大事です」
「では、関係者としてはミーア・ウィルソンを?」
懐から取り出したメモに何かを書き込んでいるクロークスであったが、ロジャーの考え込む表情を見てペンを走らせる手を止めた。
「どうかされましたか?」
クロークスの呼び掛けで我に返ったかのように勢い良く顔を上げたロジャー。
「いや、済まない……それで問題ありません。彼女は今、楽団ギルドの処刑対象だ。日本で活動する旋律師メロディストに執行を依頼している所ですが…」


 京哉にミーアの処刑執行を命じたのは他でもない、ロジャーであった。実力的にも人選は問題なかったと考えている。
 しかし、楽団ギルド側はミーアが京哉を誘拐した事件の真相をまだ把握できずにいた。彼女が彼に何を語ったのか、その中にロジャーすら知り得ないものが含まれているのかもしれない。

 ロジャーには不思議でならなかった。
 第一オーケストラでの二人の様子は、当時を知る人間に聞いても皆「印象に無い」と答えるほど関係性すら持たない間柄であったのだ。
 その後、まともに会話をするようになったのは正式入社を経て旋律師メロディストになるためのレッスンを受け始めての事である。
 ミーアは何故、数々の危険を犯してまで託斗と結託し、シエナを日本に逃すような真似をしたのだろうか。


「それでは、零式の起動に向けて引き続きご協力のほど宜しくお願い致します」


深々と頭を下げたクロークスを玄関まで見送り、そっと扉を閉めてエントランスの中央付近に差し掛かった時であった。

 ふと鼻腔をつく焦げ臭い匂い。次の瞬間には非常ベルが響き渡り、受付に座る男女が慌てて立ち上がり状況確認の為に飛び出していった。

 オフィスフロアも騒然としており、不安げな表情を浮かべた社員達が上長の指示で非常階段を降り始めた時であった。館内放送が、地下の一室から火災が発生している事を告げたのである。



…………………………………………………………………………………


 通報からものの数分で到着した消防隊。出火元と見られる地下フロアに向かう階段を駆け降りていく最中、猛烈な熱風と共に激しい爆発に見舞われる。
 既に地下全体が炎の海と化しており、容易に近付くことはできなかった。


 続々と敷地外に逃げ出してきた社員達。リング通りに溢れた人だかりの中には野次馬の姿も混ざっていた。
 避難した社員に連れられた消防隊の一人がロジャーの前で敬礼する。それに合わせて頭を下げたロジャーは平静を装ってはいたが、内心不安に駆られていた。
 地下のあの一室には託斗が捕えられているはずなのだ。

「現在、消化活動中です。火の勢いが凄まじく、難航しているとの連絡がありました…。逃げ遅れた人は把握できていますか?」
「地上の人間は全員外に逃げた、と……。地下には一人だけ心当たりがあるのですが…」
ロジャーの回答を聞いた消防隊員の男は、わかりやすく表情を曇らせる。
「……承知しました。全力で捜索、救助に向かいます」
再び敬礼をして踵を返した彼が建物内に駆けていく姿を眺めながら、ロジャーは心臓が壊れてしまいそうなほどの激しい動悸を感じていた。

 もしかしたら託斗が……いや、アイツに限ってそれはない。どうにかして逃げ出した筈だ。

 問答を繰り返しては、都合の良い希望ばかりが思い浮かぶ。今までもずっとそうであった。殺しても死なない男だ。まさか、火事などで簡単に命を落とすなど…。

 絶望が見え隠れするロジャーの横顔を野次馬の人集りの中から見つめていたクロークスは、表情一つ変えずに踵を返してその場から消えていった。







 日が暮れた後も火の勢いは収まることはなく、懸命な消火活動は続いた。

 そして、翌朝…鎮火の連絡を受け秘書のモーガンと共に消防署を訪れたロジャーは、被害の状況を説明された。
 社屋は丸ごと一棟全焼し、隣接する社員寮も半分程が消失。そして、焼け跡からは性別不明の遺体が回収されており、手足には手錠がかけられていた…と。

「この身元不明遺体については、状態が状態だけに…警察も交えた確認が必要となります。これから聴取の為に署の方へと向かっていただきますが、よろしいでしょうか?」


 焼け跡から発見された拘束された遺体。
 ロジャーの希望は潰えた。状況をみても、まず託斗で間違いない。
 呆然とした表情で消防隊員に誘導されるロジャーの姿を目の当たりにしていたモーガンにも、彼に掛ける言葉が見つからなかった。






 オーストリア本社での火災の速報、そして関係各所には託斗の訃報が通達された。

 PHSの画面に視線を落とした京哉は、一瞬目を見開いたものの無言のまま端末を懐にしまって正面を見据えた。

 彼の視線の先には、返り血に塗れた白い燕尾服を纏い、雑居ビルの屋上から荒廃した街に昇る朝日に目を細めるミーアの姿があった。







[67] Variation Ⅴ 完
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