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第一章 凍てつく春と、雪解けのメス
第2話 雪の洗礼と、お守りのハンカチ
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「……なんで、お前がここにいるんだ」
9年ぶりの再会。
言葉を失った皐月と、冷たい眼差しの五十嵐。
廊下に、重苦しい沈黙が流れた。
「皐月ちゃん、お待たせ!」
女子更衣室からPHSを手に戻ってきた美雲が、弾んだ声で現れた。
美雲は五十嵐に気づくと、笑顔になった。
「五十嵐くん!久しぶり!形成外科は大変?」
「美雲先生、お久しぶりです……」
五十嵐は私に向けた冷たさを消し、美雲には穏やかに答えた。
「皐月ちゃん。紹介するね!」
美雲先生はそう言うと、五十嵐の腕を軽く叩いた。
「彼は五十嵐 拓海くん。形成外科の先生だよ。去年皮膚科ローテしてくれて、すごく優秀だったんだよ」
続けて、私の方を向いた。
「この子は天野 皐月先生だよ。都内私立大学病院で研修して、今年うちの皮膚科に入局したんだ。五十嵐くんと同期だよ。仲良くしてあげてね」
その紹介を聞いた五十嵐の表情が再び凍りついた。
五十嵐は美雲の言葉を遮ると、ぶっきらぼうに言った。
「俺、急いでるんで」
そう言い残し、彼は挨拶もせずに廊下を走り去った。
「え、五十嵐くん?」
美雲は突然の態度に驚き、呆然とその後ろ姿を見送った。
その間、皐月は心臓が冷えていくのを感じながら、どうにか気を取り直して医局へと戻った。
美雲は「彼、急いでたみたいだね」とフォローしてくれたけれど、その言葉が皐月の心の穴を埋めることはなかった。
医局のデスク。
皐月の席は、部屋の隅に用意されていた。
座って一息つく間もなく、隣の席の男性医師が、モニターから視線を外さずに口を開いた。
「……戻られましたか」
朝のカンファレンスで、皐月を値踏みするように見ていた細見の眼鏡の医師だ。
デスクには整然と医学書が並べられ、無駄な私物は一切ない。
「雪村 慧です。同期ですね、一応」
「一応」という言葉に、明確な棘があった。
雪村は淡々とキーボードを叩き続けながら、冷ややかな声を投げてくる。
「柊教授から聞きましたよ。都内の私立医大出身だとか。……ここは北関東の国立ですが、症例数も重症度も、そちらとは桁が違うと思いますよ。くれぐれも、足だけは引っ張らないでくださいね」
挨拶代わりの先制パンチ。
言い返そうと唇を開きかけた、その時だった。
医局の扉が開き、張り詰めた空気が流れ込む。
「天野先生」
「は、はい!」
現れたのは、医局長の佐伯。完璧にセットされた髪と、冷徹な眼差し。
「貴女、自分のデスクで呆けている暇はないわよ」
「あ……すみません」
「これ、今の入院患者さんのリスト。とりあえず全員分の病歴と現在の治療方針、午前中のうちに頭に入れておいて」
ドン、とデスクに置かれたのは、ずっしりと重みのあるファイルだった。
佐伯は腕時計を一瞥すると、早口で指示を続ける。
「私と和泉先生はこれからオペに入るから、しばらく医局を空けるわ。貴女はここでそのリストを確認すること。それが終わったら、午後は雨宮先生の外来陪席につきなさい。雨宮先生はもう外来ブースに降りているから、時間になったら行くように。いいわね?」
「はい、承知いたしました!」
皐月の返事を聞くと、彼女は美雲を目で促し、風のように去っていった。
美雲が申し訳なさそうに「ごめんね、行ってくるね!」と手を振って出ていく。
バタン、と扉が閉まる。
広い医局に残されたのは、皐月と、隣の冷徹な雪村だけ。
静まり返った部屋に、彼のタイピング音だけが響く。
完全なアウェイ空間だ。
皐月は逃避するように、渡された分厚いファイルを開いた。
そこからは格闘だった。
使い慣れない電子カルテのシステムに戸惑いながら、一人ひとりのデータを照合していく。
『天疱瘡』『メラノーマ』『スティーヴンス・ジョンソン症候群』……。
重篤な症例ばかりだ。
皐月は必死にメモを取り、データを頭に叩き込んだ。ここで躓くわけにはいかない。
気づけば、壁掛け時計の針は11時30分を回っていた。
(……ふぅ。なんとか、一通り見終わった)
予定より少し早めに終わらせることができた。
皐月は小さく息を吐いて、凝り固まった首を回す。
正午まで、あと30分。
午後の外来に向けて予習でもしようかと医学書に手を伸ばした、その時だった。
バサリ。
隣のデスクから、無造作に何かが投げられた。
「暇つぶしにはなったみたいですね」
雪村だ。
彼はモニターから視線を外さず、積み上げられた英語論文の山を顎で示した。
投げられたのは、その中の一部のようだ。
「……え?」
「午後までまだ時間があるなら、それ、翻訳しておいてください。今度の学会発表で引用するかもしれないので」
皐月は瞬きをして、彼と論文を交互に見た。
同期とはいえ、あまりに唐突だ。
「これ、翻訳するの?私が?」
「ええ。要約だけで構いませんので」
まあ、手伝いくらいなら。
時間も余っているし。
皐月は「わかった、やるよ」と短く答え、手元の論文に視線を落とした。
しかし、タイトルを見た瞬間、皐月の思考は完全にフリーズした。
『Epigenetic Dysregulation in Acral Lentiginous Melanoma: A Spatial Transcriptomics Perspective on the Immune Microenvironment』
(……は?)
メラノーマの論文だということはわかる。
けれど、その前後は皐月の知っている臨床の言葉じゃない。
パラパラとページをめくると、そこに広がっていたのは患者さんの写真でも病理組織の画像でもなく、見たこともない複雑な散布図や、遺伝子クラスターの色鮮やかなヒートマップだった。
これは医者が読む臨床論文というより、もはや最先端の分子生物学の研究書だ。
ページをめくる手が止まる。
意味が取れない専門用語が多すぎて、どこから辞書を引けばいいのかすらわからない。
固まってしまった皐月を見て、雪村の口元が微かに歪んだ。
「……はあ」
わざとらしいほど深い溜息。
雪村が、眼鏡の奥の瞳で冷ややかに皐月を見下ろしている。
敬語の壁が、余計に冷たく感じる。
「やっぱり、いいです。期待した僕が馬鹿でした」
「っ……」
「ごめんなさい。私立卒には難しすぎましたね」
頭を殴られたような衝撃が走った。
カッと顔が熱くなる。
それは単なる嫌味ではなく、明確な「選別」の言葉だった。
国立大卒で研究肌の彼にとって、私立医大卒の皐月は「共通言語を持たない、程度の低い人間」に見えているのだ。
「……やるよ」
皐月は論文を握りしめたまま、低い声で返した。
「やるってば。変な訳しなきゃいいんでしょ?」
「……へえ」
雪村は「どうせ無理だろう」という目で皐月を一瞥すると、興味を失ったように再びモニターに向き直り、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。
手の中にある論文が、鉛のように重い。
悔しさと恥ずかしさで、皐月の視界が滲む。
ここにいたたまれなくなって、皐月は逃げるように席を立った。
まだ手の中にある論文を、強く握りしめたまま。
*
非常階段の踊り場。
重たい防火扉が閉まると、院内の喧騒がふっと遠のいた。
皐月は冷たいコンクリートの壁に背中を預け、膝の上でくしゃくしゃになりかけた論文を広げた。
『Epigenetic Dysregulation...』
並んでいる英単語が、意味のない記号のように見える。
悔しさで滲んだ視界の端から、熱いものがこぼれ落ちそうになるのを、皐月は唇を噛んで必死に堪えた。
(……なんで、医者になんかなっちゃったんだろ)
元婚約者の裏切り。
歓迎されない職場。
かつての同級生の拒絶。
そして、圧倒的な実力差を見せつけられた今。
ここには私の居場所なんてない。
もう、全部投げ出して逃げてしまいたい。
その時。
私は震える手で、白衣のポケットに手を突っ込んだ。
指先が、柔らかい布の感触に触れる。
あの日、彼が貸してくれた濃紺のハンカチ。
ボロボロになるまで洗濯して、それでも大切に持ってきた、私の「お守り」。
それをギュッと握りしめると、掌からじんわりと温かさが伝わってくる気がした。
同時に、脳裏にあの「声」が蘇る。
『頑張れ』
低くて、落ち着いた、男性の声。
いつのことだっただろうか。
確か、受験勉強が辛かった高校3年生の頃だった気がする。
記憶にもやがかかっていて、前後の脈絡が思い出せない。
場所がどこだったのか、相手が誰だったのかも、わからない。
けれど、その人がくれた言葉の温もりだけが、呪いのように、あるいは祈りのように、皐月の心臓に焼き付いている。
『……君のような人が、医者になるべきだ』
君のような人が。
そう肯定された瞬間、張り詰めていた糸が解けて、救われたことだけは覚えている。
国立大学に落ちて絶望した時も、国家試験の勉強が辛かった時も、あの正体不明の「誰か」の言葉だけが、皐月をこの道に繋ぎ止めてきた。
あれは、皐月にとって最初で最後の「処方箋」だったのだ。
(……そうだよ。私は、あの言葉を嘘にしたくなくて、ここまで来たんじゃなかったの)
今の皐月を見たら、あの人は失望するだろうか。
英語の論文ひとつでめそめそ泣いて、逃げ出すような医者を、「医者になるべきだ」なんて言ってくれるはずがない。
皐月は袖で乱暴に目元を拭うと、深く息を吸い込んだ。
肺いっぱいに、病院特有の消毒液の匂いが満ちる。
「……やってやる」
小さく、けれど確かな声が出た。
皐月は手の中の論文を丁寧に伸ばし、強く握りしめた。
わからないなら調べればいい。一睡もしなくたって、意地でも完璧に訳してやる。雪村に「私立卒」なんて言葉、二度と言わせない。
重い防火扉を押し開ける。
相変わらずの雨音と、冷ややかな空気が皐月を出迎えた。
けれど、もう足は震えていない。
皐月は顔を上げ、歩き出した。
9年ぶりの再会。
言葉を失った皐月と、冷たい眼差しの五十嵐。
廊下に、重苦しい沈黙が流れた。
「皐月ちゃん、お待たせ!」
女子更衣室からPHSを手に戻ってきた美雲が、弾んだ声で現れた。
美雲は五十嵐に気づくと、笑顔になった。
「五十嵐くん!久しぶり!形成外科は大変?」
「美雲先生、お久しぶりです……」
五十嵐は私に向けた冷たさを消し、美雲には穏やかに答えた。
「皐月ちゃん。紹介するね!」
美雲先生はそう言うと、五十嵐の腕を軽く叩いた。
「彼は五十嵐 拓海くん。形成外科の先生だよ。去年皮膚科ローテしてくれて、すごく優秀だったんだよ」
続けて、私の方を向いた。
「この子は天野 皐月先生だよ。都内私立大学病院で研修して、今年うちの皮膚科に入局したんだ。五十嵐くんと同期だよ。仲良くしてあげてね」
その紹介を聞いた五十嵐の表情が再び凍りついた。
五十嵐は美雲の言葉を遮ると、ぶっきらぼうに言った。
「俺、急いでるんで」
そう言い残し、彼は挨拶もせずに廊下を走り去った。
「え、五十嵐くん?」
美雲は突然の態度に驚き、呆然とその後ろ姿を見送った。
その間、皐月は心臓が冷えていくのを感じながら、どうにか気を取り直して医局へと戻った。
美雲は「彼、急いでたみたいだね」とフォローしてくれたけれど、その言葉が皐月の心の穴を埋めることはなかった。
医局のデスク。
皐月の席は、部屋の隅に用意されていた。
座って一息つく間もなく、隣の席の男性医師が、モニターから視線を外さずに口を開いた。
「……戻られましたか」
朝のカンファレンスで、皐月を値踏みするように見ていた細見の眼鏡の医師だ。
デスクには整然と医学書が並べられ、無駄な私物は一切ない。
「雪村 慧です。同期ですね、一応」
「一応」という言葉に、明確な棘があった。
雪村は淡々とキーボードを叩き続けながら、冷ややかな声を投げてくる。
「柊教授から聞きましたよ。都内の私立医大出身だとか。……ここは北関東の国立ですが、症例数も重症度も、そちらとは桁が違うと思いますよ。くれぐれも、足だけは引っ張らないでくださいね」
挨拶代わりの先制パンチ。
言い返そうと唇を開きかけた、その時だった。
医局の扉が開き、張り詰めた空気が流れ込む。
「天野先生」
「は、はい!」
現れたのは、医局長の佐伯。完璧にセットされた髪と、冷徹な眼差し。
「貴女、自分のデスクで呆けている暇はないわよ」
「あ……すみません」
「これ、今の入院患者さんのリスト。とりあえず全員分の病歴と現在の治療方針、午前中のうちに頭に入れておいて」
ドン、とデスクに置かれたのは、ずっしりと重みのあるファイルだった。
佐伯は腕時計を一瞥すると、早口で指示を続ける。
「私と和泉先生はこれからオペに入るから、しばらく医局を空けるわ。貴女はここでそのリストを確認すること。それが終わったら、午後は雨宮先生の外来陪席につきなさい。雨宮先生はもう外来ブースに降りているから、時間になったら行くように。いいわね?」
「はい、承知いたしました!」
皐月の返事を聞くと、彼女は美雲を目で促し、風のように去っていった。
美雲が申し訳なさそうに「ごめんね、行ってくるね!」と手を振って出ていく。
バタン、と扉が閉まる。
広い医局に残されたのは、皐月と、隣の冷徹な雪村だけ。
静まり返った部屋に、彼のタイピング音だけが響く。
完全なアウェイ空間だ。
皐月は逃避するように、渡された分厚いファイルを開いた。
そこからは格闘だった。
使い慣れない電子カルテのシステムに戸惑いながら、一人ひとりのデータを照合していく。
『天疱瘡』『メラノーマ』『スティーヴンス・ジョンソン症候群』……。
重篤な症例ばかりだ。
皐月は必死にメモを取り、データを頭に叩き込んだ。ここで躓くわけにはいかない。
気づけば、壁掛け時計の針は11時30分を回っていた。
(……ふぅ。なんとか、一通り見終わった)
予定より少し早めに終わらせることができた。
皐月は小さく息を吐いて、凝り固まった首を回す。
正午まで、あと30分。
午後の外来に向けて予習でもしようかと医学書に手を伸ばした、その時だった。
バサリ。
隣のデスクから、無造作に何かが投げられた。
「暇つぶしにはなったみたいですね」
雪村だ。
彼はモニターから視線を外さず、積み上げられた英語論文の山を顎で示した。
投げられたのは、その中の一部のようだ。
「……え?」
「午後までまだ時間があるなら、それ、翻訳しておいてください。今度の学会発表で引用するかもしれないので」
皐月は瞬きをして、彼と論文を交互に見た。
同期とはいえ、あまりに唐突だ。
「これ、翻訳するの?私が?」
「ええ。要約だけで構いませんので」
まあ、手伝いくらいなら。
時間も余っているし。
皐月は「わかった、やるよ」と短く答え、手元の論文に視線を落とした。
しかし、タイトルを見た瞬間、皐月の思考は完全にフリーズした。
『Epigenetic Dysregulation in Acral Lentiginous Melanoma: A Spatial Transcriptomics Perspective on the Immune Microenvironment』
(……は?)
メラノーマの論文だということはわかる。
けれど、その前後は皐月の知っている臨床の言葉じゃない。
パラパラとページをめくると、そこに広がっていたのは患者さんの写真でも病理組織の画像でもなく、見たこともない複雑な散布図や、遺伝子クラスターの色鮮やかなヒートマップだった。
これは医者が読む臨床論文というより、もはや最先端の分子生物学の研究書だ。
ページをめくる手が止まる。
意味が取れない専門用語が多すぎて、どこから辞書を引けばいいのかすらわからない。
固まってしまった皐月を見て、雪村の口元が微かに歪んだ。
「……はあ」
わざとらしいほど深い溜息。
雪村が、眼鏡の奥の瞳で冷ややかに皐月を見下ろしている。
敬語の壁が、余計に冷たく感じる。
「やっぱり、いいです。期待した僕が馬鹿でした」
「っ……」
「ごめんなさい。私立卒には難しすぎましたね」
頭を殴られたような衝撃が走った。
カッと顔が熱くなる。
それは単なる嫌味ではなく、明確な「選別」の言葉だった。
国立大卒で研究肌の彼にとって、私立医大卒の皐月は「共通言語を持たない、程度の低い人間」に見えているのだ。
「……やるよ」
皐月は論文を握りしめたまま、低い声で返した。
「やるってば。変な訳しなきゃいいんでしょ?」
「……へえ」
雪村は「どうせ無理だろう」という目で皐月を一瞥すると、興味を失ったように再びモニターに向き直り、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。
手の中にある論文が、鉛のように重い。
悔しさと恥ずかしさで、皐月の視界が滲む。
ここにいたたまれなくなって、皐月は逃げるように席を立った。
まだ手の中にある論文を、強く握りしめたまま。
*
非常階段の踊り場。
重たい防火扉が閉まると、院内の喧騒がふっと遠のいた。
皐月は冷たいコンクリートの壁に背中を預け、膝の上でくしゃくしゃになりかけた論文を広げた。
『Epigenetic Dysregulation...』
並んでいる英単語が、意味のない記号のように見える。
悔しさで滲んだ視界の端から、熱いものがこぼれ落ちそうになるのを、皐月は唇を噛んで必死に堪えた。
(……なんで、医者になんかなっちゃったんだろ)
元婚約者の裏切り。
歓迎されない職場。
かつての同級生の拒絶。
そして、圧倒的な実力差を見せつけられた今。
ここには私の居場所なんてない。
もう、全部投げ出して逃げてしまいたい。
その時。
私は震える手で、白衣のポケットに手を突っ込んだ。
指先が、柔らかい布の感触に触れる。
あの日、彼が貸してくれた濃紺のハンカチ。
ボロボロになるまで洗濯して、それでも大切に持ってきた、私の「お守り」。
それをギュッと握りしめると、掌からじんわりと温かさが伝わってくる気がした。
同時に、脳裏にあの「声」が蘇る。
『頑張れ』
低くて、落ち着いた、男性の声。
いつのことだっただろうか。
確か、受験勉強が辛かった高校3年生の頃だった気がする。
記憶にもやがかかっていて、前後の脈絡が思い出せない。
場所がどこだったのか、相手が誰だったのかも、わからない。
けれど、その人がくれた言葉の温もりだけが、呪いのように、あるいは祈りのように、皐月の心臓に焼き付いている。
『……君のような人が、医者になるべきだ』
君のような人が。
そう肯定された瞬間、張り詰めていた糸が解けて、救われたことだけは覚えている。
国立大学に落ちて絶望した時も、国家試験の勉強が辛かった時も、あの正体不明の「誰か」の言葉だけが、皐月をこの道に繋ぎ止めてきた。
あれは、皐月にとって最初で最後の「処方箋」だったのだ。
(……そうだよ。私は、あの言葉を嘘にしたくなくて、ここまで来たんじゃなかったの)
今の皐月を見たら、あの人は失望するだろうか。
英語の論文ひとつでめそめそ泣いて、逃げ出すような医者を、「医者になるべきだ」なんて言ってくれるはずがない。
皐月は袖で乱暴に目元を拭うと、深く息を吸い込んだ。
肺いっぱいに、病院特有の消毒液の匂いが満ちる。
「……やってやる」
小さく、けれど確かな声が出た。
皐月は手の中の論文を丁寧に伸ばし、強く握りしめた。
わからないなら調べればいい。一睡もしなくたって、意地でも完璧に訳してやる。雪村に「私立卒」なんて言葉、二度と言わせない。
重い防火扉を押し開ける。
相変わらずの雨音と、冷ややかな空気が皐月を出迎えた。
けれど、もう足は震えていない。
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