『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第一章 凍てつく春と、雪解けのメス

第3話 招かれざる雷鳴と、デジャブの正体

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非常階段を出て、食堂へ向かう廊下を歩いていると、ポケットの中のPHSが震えた。

画面には『和泉 美雲』の文字。

「……はい、天野です」

『あ、皐月ちゃん? お疲れ様! 手術、予定より早く終わったから、お昼まだなら一緒にどう?』

受話器の向こうの明るい声に、皐月は張り詰めていた肩の力が少しだけ抜けた。

この病院で唯一、皐月に向けられる敵意のない声だ。

「ぜひ、お願いします」

職員食堂の入り口で合流した美雲は、術着から白衣に着替え、爽やかな笑顔で皐月を迎えてくれた。

二人でトレーを持ち、日替わり定食の列に並ぶ。

雑談のついでに、皐月は先ほどの出来事を――もちろん、悔し泣きしたことは伏せて――努めて何でもないことのように話してみた。

「さっき、雪村から英語論文の翻訳を頼まれたんです。入局したばかりなのに、もう学会発表の準備をしてるなんて、すごいですね……」

「あー、雪村くんね」

美雲は小鉢をトレーに乗せながら、苦笑い混じりに言った。

「彼は別格よ。学生時代からずっと成績トップで、この大学も首席で卒業したって噂だし。研修医の時に書いた論文が雑誌に載ったらしいわよ」

「しゅ、首席……」

「そう。バリバリの研究肌で、努力の基準が私たちとは違うのよね。私も先輩風吹かせたいところだけど、知識量じゃもうとっくに抜かされちゃってるもん。すごいよねー」

あっけらかんと笑う美雲の横で、皐月は言葉を失った。

首席で卒業したエリート中のエリート。

どうりで、私立卒の皐月を見る目が冷たいわけだ。彼にとって皐月は、単に能力が低いだけでなく、医師としてのスタートラインさえ違う存在なのだろう。

握りしめたポケットの中の論文が、さらに重く感じられた。

窓際の席に座り、食事を始めた頃だった。

「隣、いい?」

穏やかな男性の声がして、顔を上げると、優しげな目をした医師が立っていた。

形成外科のIDカードを下げている。

「あ、桐也くん! お疲れ様」

美雲がパッと花が咲いたような笑顔になる。

「皐月ちゃん、紹介するね。これ、夫の桐也。形成外科医よ」

「初めまして、皮膚科に入局した天野です」

「初めまして。美雲から聞いてるよ。これからよろしくね」

桐也は人当たりの良い笑顔で挨拶を返すと、美雲の隣に座った。

二人は新婚とのことだったが、その仲睦まじさは想像以上だった。

桐也が自分のハンバーグを一口分切り分けて美雲の皿に乗せ、美雲がお返しにエビフライをあげる。自然なやり取りの中にお互いを慈しむ空気が満ちていて、見ている皐月が照れてしまうほどだ。

(……いいな)

半年前まで、皐月にもあんな未来があったはずなのに。

幸せな既婚者の先輩と、男に裏切られて都落ちしてきた皐月。

あまりに残酷なコントラストに、胸の奥がちくりと痛んだ。

「おーい、五十嵐。こっち空いてるぞ」

桐也が、後ろを振り返って声をかけた。

ドキリとする。

トレイを持った五十嵐がすぐそこに立っていた。

しかし、彼は皐月と目が合った瞬間、表情を硬く強張らせた。

「……あ、すみません。俺、あっちに同期がいたんで」

五十嵐は視線を逸らすと、逃げるように踵を返し、遠くの席へと歩き去ってしまった。

桐也が不思議そうに首をかしげる。

皐月は俯いて、冷めかけた味噌汁を啜ることしかできなかった。

その時だ。

「おやおや。桐也、職場でイチャつくなよ。当てられちゃって可哀想に」

頭上から、芝居がかった声が降ってきた。

見上げると、白衣を着崩した派手な顔立ちの医師が、ニヤニヤと彼らを見下ろしていた。

胸元からは柄物のシャツが覗き、手首には高級そうな腕時計。医師というよりは、夜の街の住人のような雰囲気を纏っている。

「げ、雷久保先生……」

「ここ、いいかな? 満席でさ」

彼は桐也の嫌そうな顔を無視して、皐月の隣――五十嵐が座る予定だった席に、ドカッと腰を下ろした。

IDカードには『形成外科・雷久保』とある。

彼は席に着くなり、皐月の顔をじっと覗き込んできた。

「君だろ? 新しく来た、天野皐月ちゃんって」

「は、はい……」

雷久保の視線が、皐月の顔から首筋、手元へと舐めるように動く。

いやらしい視線ではない。まるで珍しい標本を観察するかのような、鋭く、探るような眼差しだ。

居心地の悪さに身を引くと、彼は不意に真顔になって小声で問いかけてきた。

「ねえ。君はなんで皮膚科医になったの?」

唐突な質問に、皐月は目を丸くした。

「え……?」

「いやさ、医者になる動機なんて人それぞれだけど。君みたいなタイプが、なんでまた皮膚科なのかなって思って」

試すような口調。

皐月は少し迷ったが、ありのままの理由を答えることにした。それは、さっき非常階段で思い出した「あの人」への誓いとも重なる、皐月の原点だ。

「……母が、この大学病院の皮膚科医だったんです。患者さんの心まで救うような医者で……私も、母のようになりたくて」

その瞬間。

雷久保の瞳の奥が、カチリと音を立てて光った気がした。

彼は口の端を吊り上げ、何か納得したように深く頷く。

「そっか。『母のような医者になりたい』、か。……なるほどね」

「はい……?」

「ふーん、いい動機だ。頑張んなよ」

彼は意味深に笑うと、皐月の肩をポンと軽く叩いた。

「『雨宮先生』によろしく」

なぜここで雨宮の名前が出てくるのだろう。指導医だからだろうか。

皐月は狐につままれたような気分で、彼の横顔を見つめた。

派手で、掴みどころがなくて、初対面のはずの人。

なのに。

(……あれ?)

なぜだろう。

どこかで会ったことがある気がする。

彼の横顔を見ていると、ふいに懐かしい感覚がこみ上げてくるのだ。

記憶のどこかに、この人がいたような――。

雷久保は皐月の視線に気づいているのかいないのか、上機嫌で箸を進めている。

和やかなはずの昼食の席に、奇妙な違和感が落ちていた。
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