『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第一章 凍てつく春と、雪解けのメス

第5話 五里霧中の朝と、陽だまりの爆弾

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翌朝。

カーテンを開けると、そこには久しぶりの快晴が広がっていた。

連日の雨が嘘のような、突き抜けるような青空。

けれど、医局の空気は天気とは裏腹に、朝からピリピリと張り詰めていた。
今日は週に一度の「教授回診」の日だ。

午前8時20分。

医局員たちは皆、自分のパソコンにかじりつき、担当患者のデータを必死にチェックしている。
回診中に教授から何を聞かれても即答できるように準備しなければならない。

皐月も昨日の雨宮の外来で学んだことを反芻しつつ、担当患者の検査値を頭に叩き込んでいた。

バンッ!

8時29分。始業1分前。

医局の扉が勢いよく開け放たれた。

「おはようございますっ! ご迷惑おかけしてすみません! 研修医2年の霧生 航きりゅう わたる、インフルエンザから完全復活しましたっ!」

しんと静まり返っていた医局に、場違いなほど元気な声が響き渡る。

入ってきたのは、少し焼けた肌に、人懐っこい笑顔を浮かべた男性研修医だった。まるで真夏の太陽をそのまま連れてきたような明るさだ。

「……霧生くん」

美雲が呆れたように、でも安堵した様子で声をかける。

「元気になってよかったよ。それにしても、4月のこの時期にインフルエンザになるなんてねぇ」

「いやー、マジびっくりっすよ! 季節外れもいいとこっすよね!」

彼は悪びれる様子もなくハハハと笑うと、クルッと視線を巡らせ、皐月を見つけて目を丸くした。

「あ、新しい先生っすか?」

「うん、紹介するね。今月から入局した天野皐月先生。都内の私立大学病院で研修して、こっちに来てくれたの」

美雲の紹介を受け、皐月は軽く手を挙げた。

「初めまして、天野です。よろし……」

「えっ!」

挨拶の途中で、霧生が素っ頓狂な声を上げた。

彼は皐月をまじまじと見つめ、信じられないものを見るように指を差した。

「え、天野先輩ですよね!? 覚えてますか? 俺です、霧生です! 同じ高校のサッカー部の!」

「えっ……?」

皐月は記憶の糸を手繰り寄せる。高校、サッカー部、後輩……。

「あ! 霧生くん!? あの、ゴールキーパーの?」

「そうですそうです! うわー、マジか! 天野先輩も医者になってたんすか! すげー偶然!」

霧生は皐月のデスクに身を乗り出し、興奮気味にまくし立てた。

美雲が目を瞬かせる。

「え、二人とも知り合いなの?」

「はい! 同じ高校なんですよ!」

霧生は満面の笑みで頷くと、医局中の空気を凍らせるような「爆弾」を、無邪気に投下した。

「ってことは天野先輩、五十嵐さんを追いかけてこの病院に来たってことっすか? 高校の時、いっつも二人で一緒にいて、すげー仲良かったっすもんね! 俺、絶対付き合ってると思ってましたもん!」

「……は?」

皐月の思考が停止した。

霧生は止まらない。

「え、もしかしてまだ続いてるってことっすか? あの『黄金コンビ』が? うわー、すげー! マジで純愛っすね!」

シン……。

医局のざわめきが一瞬で消え、次の瞬間、どよめきに変わった。

「え、五十嵐って……あの形成外科の?」

「去年うちをローテした、あの無愛想な五十嵐?」

「天野先生と彼が?」

好奇の視線が一斉に皐月に突き刺さる。

皐月は顔から火が出るほど狼狽した。

「ち、違っ……! そんなんじゃなくて……! 本当に偶然で……!」

必死に否定しようとするが、言葉が上滑りする。

その時だった。

「……業務中にくだらないことを話すな」

冷水を浴びせられたような、低く鋭い声。

雨宮だ。

彼は腕組みをしたまま、皐月と霧生を冷ややかに見下ろしていた。その目は、いつも以上に険しく、どこか苛立ちを含んでいるように見えた。

「病棟回診が始まるぞ。学生気分なら出ていけ」

「うっ……すみません!」

霧生が縮み上がって直立不動になる。

ちょうどそのタイミングで、柊教授と佐伯医局長が姿を現した。

「よし、回診を始めよう」

教授の一声で、彼らは慌ただしく白衣を整え、廊下へと整列した。

ぞろぞろと続く白い巨塔の行列。

皐月は最後尾を歩きながら、心臓のバクバクが止まらなかった。

(最悪だ……)

よりによって、一番知られたくない過去の関係を、こんな形で暴露されるなんて。

五十嵐を追いかけてきたストーカーみたいな扱い……。

チラリと前を見ると、雨宮の背中はいつも以上に冷たく、拒絶のオーラを放っているように見えた。



一時間後。

回診が終わり、医師たちはそれぞれのデスクに戻ってオーダーの変更やカルテ記載を始めていた。

皐月の隣のデスク。

雪村慧は、無表情にキーボードを叩きながら、先ほどの会話を反芻していた。

(……なるほど。そういうことか)

頭の中で、散らばっていたピースがパチリとはまった。

9年前。北関東の国立大学、前期日程の試験会場。

雪村は絶望の淵にいた。模試の偏差値が上がらずに親に見限られ、弟と比較され、追い詰められていた時期だ。

そんな彼の神経を、ある光景が逆撫でした。

試験開始直前の教室。 

張り詰めた静寂を破り、筆箱を派手に床にぶちまけた女がいた。 

周囲が冷ややかな目を向ける中、隣の席の男が、呆れたように自分の鉛筆を差し出したのだ。

『……ほら。使えよ』 

『え、でも……』 

『いいから』

五角形の合格祈願鉛筆。 

それを受け取り、顔を見合わせて頬を染め合う二人。

神聖な試験会場で、まるでそこだけラブコメのような、甘ったるい空気が流れていた。

その姿は、雪村のトラウマを刺激した。 

――4つ上の兄。 

女を作って受験戦争から逃げ出し、ヘラヘラと笑っていた「負け組」の兄。

それが、許せなかった。

『ここをどこだと思ってるんだ。遊びじゃないんだぞ』

鉛筆を渡してイチャつく彼らの姿は、楽な方へ逃げた兄の姿と重なり、生理的な嫌悪感を催させた。

そして4月。

入学式に、五十嵐あの男の姿はあったが、女はいなかった。

『……ほら見ろ。恋愛なんてくだらないことに現を抜かすから落ちるんだ』

雪村は内心で嘲笑った。自分は正しかったのだと。自分は兄とは違う、理Ⅲに進学した弟には負けたかもしれないが、まだ「こちら側」の人間なのだと確認したかったのだ。

雪村は横目で、隣の席の女を一瞥した。

天野皐月。

(あの時の不合格女が、お前か)

私立医大へ行き、今更ここへ戻ってきた「負け犬」。

五十嵐を追いかけてきた? まだ付き合っている?

……くだらない。結局こいつも兄と同じ、自分の人生を直視できない半端者だ。

雪村の瞳に、より一層の侮蔑の色が宿る。

その時。

視界の端に、白い紙の束が差し出された。

「……雪村」

顔を上げると、皐月が立っていた。

その表情は、今朝の狼狽した様子とは違い、どこか決意を秘めたように引き締まっている。

「これ、昨日言ってた論文の翻訳。できたよ」

彼女は分厚いプリントの束を、雪村のデスクに置いた。

最初から変わらぬ馴れ馴れしいタメ口。同期だからといって、自分と同格だと思っている態度が鼻につく。

雪村は不快感を隠さずに眉をひそめた。

「……はあ」

どうせ、偏差値の低い私立卒が、ネット翻訳をコピペしただけの粗悪品だろう。

基礎医学の素養などあるはずもない。

雪村は鼻で笑いながら、一番上の紙を手に取った。

しかし、一行目を読んだ瞬間、その表情が凍りついた。

『末端黒子型黒色腫におけるエピジェネティックな調節異常……』

正確だ。

専門用語の訳語も、文脈の捉え方も、完璧に近い。

ページをめくる。図表の解説まで、びっしりと手書きのメモが添えられている。

(これを、一晩で……?)

国立に落ちて、金で医師免許を買ったような低偏差値の私立卒が?

雪村のプライドが、またひとつ音を立てて傷ついた。兄のような「チャラい人間」が、自分と同じ土俵で努力をしている事実が、許せなかった。

彼は湧き上がる動揺を押し殺し、プリントをデスクに放り出した。

「……ふん」

冷ややかな視線を皐月に送る。

「要約でいいと言いましたよね? 全文訳してくるなんて、時間の無駄ですよ。」

「っ……」

「まあ、暇つぶしにはなったんじゃないですか?」

精一杯の嫌味。敬語という壁を使って、彼女を見下ろす。

けれど皐月は、怯むどころか、真っ直ぐに雪村を見返してきた。

「やるって言ったからには、ちゃんとやりたかったから。……じゃあね」

彼女はきっぱりと言い放つと、背を向けて自分の席に戻っていった。

雪村は舌打ちをし、再びモニターに向き直った。

手元に残された翻訳の束。

そこに込められた熱量が、指先から伝わってくるようで不愉快だった。

彼は乱暴にそれを引き出しに押し込み、視界から消した。
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