『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第一章 凍てつく春と、雪解けのメス

第6話 脚本のはじまりと、一粒の甘い嘘

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昼休み。

皐月は食堂へ向かおうとしていた霧生の首根っこを掴み、非常階段へと引きずり込んだ。

重い防火扉が閉まり、静寂が訪れるのを確認してから、皐月は彼に向き直った。

「……霧生くん」

「うわっ、なんすか先輩!いきなり拉致とか!」

霧生は目を白黒させている。皐月は彼に詰め寄り、声を潜めて、しかし鬼気迫る表情で訴えた。

「いい?さっき医局で言ったこと、訂正して。五十嵐とは何もないの。付き合ってないし、追いかけてきたわけでもないの!変な噂広めないで!」

皐月の必死の剣幕に、霧生は少し怯んだものの、すぐに不満げに口を尖らせた。

「えー、でも俺、見てましたよ?」

「何を!?」

「高校3年の夏、サッカー部の引退試合っすよ。あの時、五十嵐さんに特製ドリンク差し入れてたの、天野先輩でしたよね?」

「っ……!」

痛いところを突かれた。

確かにあの日、皐月は部活を引退する五十嵐に、手紙を添えたドリンクを渡した。でも、それは……。

「あれは!……クラスメイトとしての、ただの労いだよ!」

「いやいや、あんな『頑張れーっ!』って叫んで、最後泣きそうな顔で応援してるクラスメイト、普通いないっすよ! あれは完全に愛っす!」

「ち、違うってば!私はただ、熱が入りすぎちゃっただけで……!」

皐月の顔が熱くなる。

否定すればするほど、霧生の目は「照れてるんすね、わかります」と言いたげに輝いていく。

どうしてこの子は、こんな余計なことだけ鮮明に覚えているんだろう。

「へぇ。青春だねぇ」

その時。

頭上から、面白がるような声が降ってきた。

ギクリとして見上げると、上の階の踊り場から、雷久保が手すりに頬杖をついてこちらを見下ろしていた。

「ら、雷久保先生……!?」

「いやー、ごめんごめん。サボ……休憩してたら、面白い話が聞こえてきたもんでさ」

雷久保はカツカツと階段を降りてくると、ニヤニヤと皐月と霧生を見比べた。

「なるほどね。うちの五十嵐と、皮膚科の皐月ちゃんが、高校時代からの『愛』ねぇ」

「違います!雷久保先生、誤解です!」

皐月が食い気味に否定すると、雷久保は「ふーん」と鼻を鳴らし、さらりととんでもない嘘をついた。

「でもさっき、手術室で五十嵐が言ってたよ? 『皐月が俺を追いかけてきてくれて、実はすげー嬉しいんだ』って」

「は……?」

皐月の思考が停止する。

(……あいつが?あの、私を拒絶して逃げ回っている五十嵐が、そんなデレたことを言うわけがない)

1000%嘘だ。

でも、事情を知らない霧生は、その言葉に目を輝かせた。

「ほらー!やっぱそうなんじゃないっすか!うわー、五十嵐さんムッツリだなー!」

「え、ちょ、霧生くん!?」

「やっぱ二人はガチで『黄金コンビ』っすよ!放課後いっつも図書館で二人きりで勉強してたし、文化祭の時もお化け屋敷でツーショット撮ってたし!」

雷久保の嘘を燃料に、霧生の口から皐月の「黒歴史青春の思い出」が次々と暴露されていく。

雷久保は「へぇ、図書館デートか」「ツーショットねぇ」と相槌を打ちながら、楽しそうに情報を収集している。

皐月は頭を抱えて、その場にしゃがみ込みそうになった。

「お願いだから……もうやめてぇ……」

皐月の悲痛な叫びは、二人の盛り上がりに虚しくかき消された。



その日の午後。

悪夢のような密談を終え、皐月は重い足取りで医局に戻った。

扉を開けた瞬間、室内の空気がさっと変わったのがわかった。

視線。

デスクに向かっている医師たちの視線が、一瞬だけ皐月に向けられ、そしてすぐに逸らされる。そこに含まれているのは、好奇心と、嘲笑と、そして明確な敵意だった。

皐月が席に着こうとすると、奥の部屋の方からヒソヒソ声が漏れ聞こえてきた。

「……聞いた?天野先生のこと」

「ああ、霧生先生が言ってたやつでしょ?親のコネを使って、元カレを追いかけて入局したって」

「形成の五十嵐先生だっけ?すごい執念だよねぇ」

「私立卒のお嬢様は考えることが違うわー」

血の気が引いた。

霧生の「天然の暴露」に、皐月の「コネ入局」という事実。

それらが最悪の化学反応を起こし、皐月はいつの間にか「親のコネを使って元カレを追いかけてきた痛い女医」という、救いようのないレッテルを貼られてしまっていた。

(違う……!私は……!)

反論したくても、声が出ない。

助けを求めるように、斜め前の席にいる美雲を見た。彼女なら、きっと「また変な噂が立っちゃったね」と笑い飛ばしてくれるはずだ。

しかし。

皐月と目が合った瞬間、美雲の肩がビクリと跳ねた。彼女は困ったように眉を寄せると、何も言わずにふい、と視線を逸らし、逃げるようにパソコン画面に向き直ってしまった。

カチカチカチ、と乾いたマウスの音だけが響く。

(え……美雲先生まで……?)

医局のオアシスだった彼女でさえ、この空気には勝てなかったのか。

その拒絶にも似た沈黙は、何よりも深く皐月の心を抉った。



14時。

皐月は逃げるように医局を出て、中央手術室へと向かった。

午後は脂肪種の切除や全層植皮術の助手に入ることになっている。

女子更衣室に入ると、先客がいた。

皮膚科3年目の医師、霜田 凛しもだ りんだ。

黒髪をきっちりと一つに縛り、眼鏡をかけた知的な美人でクールな人だ。

「あ、お疲れ様です……」

皐月が挨拶しながらロッカーを開けると、霜田は術衣に着替えながら、鏡越しに皐月をじろりと見た。

「……聞いたわよ、天野先生」

心臓が跳ねる。また説教だろうか。

霜田は眼鏡の位置を直しながら、低い声で言った。

「形成外科の五十嵐を追いかけるために、うちに来たの?」

「い、いいえ!違います!あれは誤解で……」

皐月が必死に手を振って否定すると、彼女は意外な反応を見せた。

「ふうん……。まあ、わかるわ」

「え?」

「わかるわよ、その必死さ。私たち女医ってさ、研修医の期間を逃すと、本当に結婚厳しくなるからね。市場価値が暴落するっていうか、男が引くっていうか……」

「は、はぁ……」

霜田から出る、あまりに切実な言葉に、皐月は圧倒された。

この医局の女性医師は、独身だが年上の佐伯医局長や、すでに子育て中のママさんドクター、そして既婚で年下の美雲。

霜田にとって、皐月は初めて現れた「独身で、年齢の近い(話が通じるかもしれない)ターゲット」だったのだ。

彼女は着替えの手を早めながら、皐月のパーソナルスペースに踏み込んでくる。

「で、どうなの?上手くいきそう?私はこの前の合コンも全滅でさぁ……」

鬼気迫る表情で詰め寄られる。

この人、裏ではこんなキャラだったのか。

皐月が返答に窮していると、ベンチに置いてあった霜田のPHSが鳴った。

『あ、霜田先生?まだっすか?患者さん入室しますよー』

スピーカーから聞こえてきたのは、霧生の声だ。

「……わかってるわよ、今行く」

霜田は舌打ちをすると、一瞬で「鉄の女」の顔に戻った。

「……この話の続きは、また今度ね」

彼女は風のように去っていった。

慌ただしかったが、少しだけ噂話の重圧から気が逸れた気がした。



手術が無事に終了し、更衣室を出て廊下を歩いていると、前方から見知った顔が歩いてきた。

五十嵐だ。

彼も別の手術が終わったところなのだろう。

皐月の隣には、霧生がいる。

「あ、お疲れっすー!」

霧生が元気に手を挙げる。

五十嵐も手を挙げたが、五十嵐は皐月と目が合うなり、露骨に顔をしかめ、視線を床に落とした。

「……」

挨拶もない。

彼らがすれ違う瞬間、廊下には凍てつくような沈黙が流れた。

まるで、そこに皐月が存在しないかのような、あるいは汚いものでも避けるような態度。

皐月は胸が締め付けられる思いで、無言で彼とすれ違った。

二人の背中を見送った後、霧生が慌てて皐月の方へ戻ってきた。

「あ、あの……天野先輩」

霧生は気まずそうに頭をかいている。

「なんか……俺、勘違いしてたっぽいです」

「……え?」

「さっきの雰囲気……あれ、ただの喧嘩とか照れ隠しじゃないっすよね。もしかして、マジで仲悪いっていうか……」

彼の脳天気な笑顔が消えている。

今の五十嵐の拒絶反応を間近で見て、ようやく事の深刻さに気づいたようだ。

「……ごめんなさい。俺、勝手に盛り上がって、変な噂広めちゃって……」

シュンと肩を落とす彼を責める気にはなれなかった。

「ううん、いいの。……事実、昔は仲良かったしね」

皐月は力なく笑って見せた。

「お疲れ様、霧生くん」

重い足取りで皮膚科の医局に戻ると、多くの医師は帰宅しており、室内は薄暗くなっていた。

皐月は自分のデスクに向かい、ため息をつきながら椅子を引いた。

その時。

キーボードの上に、何かが置かれているのに気づいた。

可愛い包み紙ののど飴が一つと、二つ折りにされた小さなメモ用紙。

不思議に思いながらメモを開くと、そこには丸文字でこう書かれていた。

『さっきは冷たい態度を取っちゃってごめんね。
周りの手前、話しかけづらくて……本当にごめんなさい。
皐月ちゃんとはまだ知り合って数日だけど、私はみんなが言うような子じゃないって思ってるよ。また明日、一緒に頑張ろうね。 美雲』

皐月の視界が、じわりと滲んだ。

張り詰めていた糸が切れ、目頭が熱くなる。

たった一つの飴と、数行の言葉。

今の皐月には、どんな高価な薬よりも効く「処方箋」だった。

皐月は飴を大切にポケットにしまうと、そっとメモを胸に抱いた。

「……ありがとうございます、美雲先生」

誰もいない医局で、皐月の小さな呟きが溶けていった。

明日はきっと、少しだけ顔を上げて歩ける気がした。



同時刻。街の喧騒から少し離れた、薄暗いバーのカウンター。

雨宮は氷が溶けかけたグラスを無言で見つめ、隣では上機嫌な雷久保がハイボールを煽っていた。

「傑作だったよ。否定はしてたけど、ありゃ図星だな」

雷久保はピーナッツを齧りながら、楽しげに笑った。

形成外科うちの五十嵐だよ。五十嵐を忘れられなくて、親のコネを使ってまで追いかけてきたんだとさ。皐月ちゃん、健気じゃないか」

その言葉に、雨宮の指がピタリと止まる。

胸の奥で、ドロリとした失望が広がった。

初対面で感じた、あの真っ直ぐな意志は買い被りだったのか。

結局、彼女もまた、医者としての志よりも私情を優先し、恵まれた環境を利用して男を追ってきただけのお嬢様だったというのか。

「……くだらない」

雨宮は短く吐き捨て、残っていたバーボンを一気に飲み干した。

乱暴に千円札をカウンターに叩きつけ、席を立つ。

「おいおい、嫉妬か?」

「調子に乗るな。……ただの失望だ」

店を出た雨宮は、雨の匂いがする夜風の中、独り歩き出した。

脳裏に浮かぶのは、皐月の顔。そして、五十嵐の顔。

勝手な幻想を抱くのはもうやめよう。

彼女がそういうつもりでここにいるのなら、指導医として、徹底的に医療の現実とプロの厳しさを教えてやるだけだ。

眼鏡の奥の瞳が、冷徹な光を帯びて光った。
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