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第一章 凍てつく春と、雪解けのメス
第7話 剥がれ落ちる嘘と、赤い皮膚
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翌朝。
どんよりとした曇り空の下、皐月が重い足取りで医局の扉を開けると、意外な光景が広がっていた。
「いやー、ホントすみません!昨日のあれ、俺の勘違いだったんすよ!」
朝の申し送り前の医局で、霧生がデスクを一つ一つ回り、ペコペコと頭を下げていたのだ。
「天野先輩と五十嵐さんは、ただの幼馴染っていうか、戦友みたいな感じで! ストーカーとかじゃないっす!俺が勝手に盛り上がっちゃっただけで……!」
その必死な姿に、医局員たちの反応は様々だった。
雪村は、霧生の声など騒音としか思っていない様子で、「……朝からうるさい。業務の邪魔だ」と冷たく切り捨て、モニターから目を離さない。
霜田は、少し残念そうに、「なーんだ、違うの?」と呟いた。その目は「面白い話のネタが減ったわ」と語っていた。
そして、美雲。
彼女は霧生の説明を聞くと、安堵したように大きく息を吐き、皐月の方を見てふわりと微笑んでくれた。
その笑顔を見て、皐月も胸のつかえが取れる。
皐月はそっと美雲のデスクに近づき、小声で伝えた。
「美雲先生。昨日は、ありがとうございました。すごく、救われました」
「ううん。誤解が解けてよかった。霧生くん、朝から必死に走り回ってたよ」
美雲がクスクスと笑う。
霧生のおかげで、医局内の空気はだいぶ和らいだ。「なんだ、勘違いか」という空気が広がり、突き刺さるような視線は消えていた。
ただ、一つだけ懸念があった。
雨宮の姿がないのだ。
(雨宮先生にも、ちゃんと伝わってるかな……)
指導医である彼にだけは、不純な動機で働いていると思われたくない。
皐月は一抹の不安を抱えながら、午前の業務へと向かった。
*
午前中の業務は、雪村との病棟処置だった。
移動式の処置カートを押しながら廊下を歩く間、2人の間には気まずい沈黙が流れていた。
「英語論文の翻訳」の一件に加え、朝の騒動。
雪村は相変わらず冷ややかなオーラを放っている。
「……306号室の奥田さんです」
病室の前で、雪村が短く言った。
70代の男性。診断は『湿疹続発性紅皮症』。
アトピー性皮膚炎などが原因で全身の皮膚が真っ赤になり、ボロボロと皮が剥け落ちてしまう重篤な疾患だ。皮膚の炎症のせいで体温調節がうまくできず、感染症のリスクも高い。
「失礼します。奥田さん、処置の時間ですよ」
カーテンを開けると、ベッドの上で奥田さんが小さく丸まっていた。
全身が赤く腫れ上がり、痒みと寒気で震えている。シーツには剥落した皮膚(落屑)が雪のように大量に散らばっていた。
「……はい、お願いします……」
弱々しい返事。
二人は手袋をし、手分けして処置を始めた。
この疾患の処置は過酷だ。
全身にステロイド軟膏をたっぷりと塗り、その上から亜鉛華軟膏を塗った『ボチシート』という布を貼り付け、さらに包帯でぐるぐる巻きにする。
わかりやすく言うと「ミイラ男」状態にするのだ。
時間もかかるし、ベタベタするし、何より患者さんにとっての苦痛が大きい。
「……痛い、痛いよぉ……」
奥田さんが呻き声を上げた。
炎症を起こした皮膚に触れられるのは、それだけで激痛なのだ。
「動かないでください。ズレます」
雪村は手を止めず、事務的に告げる。
彼の正論は正しい。早く終わらせることが、結果的に患者の負担を減らすことになるからだ。
けれど、奥田さんの震えは止まらない。
「なんで……なんで私の皮膚はこんなふうになっちゃったんだ……」
「前世で何か悪いことでもしたんか……」
「もう嫌だ……家に帰りたい……」
うわ言のように繰り返される嘆き。
雪村の眉間がわずかに動く。
(……非効率だ。喋っている暇があったらじっとしていてくれ。精神的ケアは今の優先事項じゃない)
彼は内心で舌打ちし、ペースを上げようとした。
その時だった。
反対側で足の処置をしていた皐月が、手を止めた。
「……奥田さん」
彼女は、ベッドに横たわる奥田さんと目線の高さを合わせた。
そして軟膏でベタつく手袋のまま、震える奥田さんの肩にそっと触れた。
「辛いですよね。痛いし、寒気がするし、不安ですよね」
「……先生……」
「皮膚が剥がれ落ちるのは、奥田さんの体が悪いものを外に出そうとして、一生懸命戦ってくれている証拠なんです。新しい皮膚を作るために、今、頑張ってるんですよ」
皐月は、子供に言い聞かせるように、ゆっくりと、穏やかな声で語りかけた。
「私たちも手伝います。このお薬とシートが、頑張っている皮膚を守ってくれますから。……もう少しだけ、一緒に頑張りましょう?」
その声には、不思議な響きがあった。
ただの慰めではない。根拠のない励ましでもない。
「あなたの痛みを知っている」という共感と、「必ず治す」という意志が込められた声。
奥田さんの目から、じわりと涙が滲んだ。
そして、大きく一つ息を吐くと、強張っていた全身の力がふっと抜けた。
「……ありがとう、先生。……頼むよ」
震えが止まった。
あれほど処置を嫌がっていた体が、協力的になる。
その後はスムーズだった。雪村と皐月、そして看護師の連携で、全身の処置は予定より早く完了した。
「終わりましたよ。ゆっくり休んでくださいね」
布団をかけ直す皐月に、奥田さんは何度もお礼を言っていた。
病室を出て、手洗い場へ向かう廊下。
雪村は無言のまま歩いていたが、胸の内には割り切れない何かが渦巻いていた。
(……なんだ、あれは)
技術なら、自分の方が上だ。知識も、手技も、処置のスピードも、診断力だって私立卒の彼女より遥かに勝っている自信がある。
実際、今日の彼女の手つきはまだぎこちなかった。
それなのに。
患者を安心させ、協力を取り付け、結果として処置を円滑に進めたのは――彼女の「言葉」だった。
非効率だと思っていた。
手を止めて話を聞くなんて、時間の無駄だと。
だが、彼女のアプローチは、薬理作用や外科的手技とは別のベクトルで、患者の苦痛を取り除いたのだ。
(……認めんぞ)
雪村は、蛇口をひねり、冷たい水で手を洗った。
認めてしまえば、自分が積み上げてきた「効率こそ正義」という価値観が揺らいでしまう気がした。
けれど、鏡に映る自分の顔は、いつものような冷徹な嘲笑を浮かべることはできず、どこか複雑に歪んでいた。
隣で手を洗う皐月が、「ふぅ、終わったね」と独り言のように呟く。
その横顔を、雪村は初めて「同期の医師」として、意識して盗み見た。
*
ランチタイム。
食堂のテーブルには、皐月、美雲、霜田、そして霧生が集まっていた。
「天野先輩、マジですみませんでした!」
カツカレーを前に、霧生がまたしても手を合わせる。
「もういいってば。霧生くんのおかげで、みんなの誤解も解けたし」
霧生は申し訳なさそうに眉を下げる。
「でも先輩……。2人に何があったかは詳しく知らないっすけど、このままじゃ絶対よくないっすよ! せっかく同じ病院にいるんだし、仲直りした方がいいんじゃないっすか?」
「そうだよ」
美雲もパスタを巻きながら同意する。
「形成外科と皮膚科って連携することも多いし。気まずいままじゃ仕事にも影響するよ?」
二人の正論に、皐月が言葉に詰まっていると、霜田が身を乗り出してきた。
「私は霧生くんに賛成ね。ここで元サヤに戻ってゴールイン、それが一番美しいわよ」
彼女の目がギラリと光る。
「天野先生の方が私より早く結婚するのは、正直ちょっと……いや、かなり尺に触るけど、不幸になるよりマシよ!」
早口で一気にまくし立てる霜田。
その迫力に、美雲が「あはは……霜田先生、落ち着いて……」と引き気味に苦笑する。霜田は美雲に向き直り、真顔で言った。
「和泉先生にはわからないのよ、この切実さが! 余裕のある既婚者は黙ってて!」
霧生が「よーし!じゃあ『仲直り大作戦』考えましょー!」と拳を突き上げ、女性陣2人が「おー!」と乗っかる。
完全にイベント感覚だ。
皐月は慌てて手で制した。
「ちょ、ちょっと待ってください!気持ちは嬉しいけど……これは、私と五十嵐の問題だから。自分でなんとかします!」
皐月の頑なな態度に、三人は顔を見合わせ、しぶしぶといった様子で引き下がった。
*
その賑やかなテーブルから少し離れた、食器返却口の近く。
トレーを片手に、五十嵐がふと足を止めていた。
彼は、同僚たちに囲まれて困ったように、けれど少しだけ笑っている皐月の横顔を、じっと見つめていた。
その瞳には、いつものような拒絶の色はない。
ただ、眩しいものを見るような、そしてそこに入っていけない自分を嘲るような、複雑な色が滲んでいた。
「……はぁ」
彼は誰にも聞こえないほど小さく息を吐くと、逃げるように視線を外し、背を向けて食堂を後にした。
*
その夜。
病院近くの自室に戻った皐月は、ベッドの上で膝を抱えていた。
「自分でなんとかする」と大見得を切ったものの、どうすればいいのか皆目見当がつかない。
スマホを取り出し、連絡先リストを開く。
そこには、決別する前から変わらないはずの『五十嵐』の名前があるけれど、通話ボタンを押す勇気はない。
――高校3年生のときの記憶が、フラッシュバックする。
あの公園。灰色の空。
皐月の励ましが、彼を傷つけたあの日。
『……まだ、後期日程があるよ!私たちなら大丈夫。最後まで一緒にがんばろう?』
皐月は、心からのエールを送ったつもりだった。
でも、彼は怒鳴った。
『お前とは違うんだ!』
あの一言。
拒絶と、怒りと、悲しみが混ざった叫び。
皐月が彼を怒らせたことはわかっている。皐月の言葉が浅はかだったことも、今ならわかる。
でも、「何が」あそこまで彼を追い詰め、「何が」決定的な引き金になったのか。その核心部分だけが、今でも霧がかかったように見えないままだ。
(私、何か大事なことを見落としてるのかな……)
答えの出ない問いを抱えたまま、皐月は深い溜息をついて枕に顔を埋めた。
どんよりとした曇り空の下、皐月が重い足取りで医局の扉を開けると、意外な光景が広がっていた。
「いやー、ホントすみません!昨日のあれ、俺の勘違いだったんすよ!」
朝の申し送り前の医局で、霧生がデスクを一つ一つ回り、ペコペコと頭を下げていたのだ。
「天野先輩と五十嵐さんは、ただの幼馴染っていうか、戦友みたいな感じで! ストーカーとかじゃないっす!俺が勝手に盛り上がっちゃっただけで……!」
その必死な姿に、医局員たちの反応は様々だった。
雪村は、霧生の声など騒音としか思っていない様子で、「……朝からうるさい。業務の邪魔だ」と冷たく切り捨て、モニターから目を離さない。
霜田は、少し残念そうに、「なーんだ、違うの?」と呟いた。その目は「面白い話のネタが減ったわ」と語っていた。
そして、美雲。
彼女は霧生の説明を聞くと、安堵したように大きく息を吐き、皐月の方を見てふわりと微笑んでくれた。
その笑顔を見て、皐月も胸のつかえが取れる。
皐月はそっと美雲のデスクに近づき、小声で伝えた。
「美雲先生。昨日は、ありがとうございました。すごく、救われました」
「ううん。誤解が解けてよかった。霧生くん、朝から必死に走り回ってたよ」
美雲がクスクスと笑う。
霧生のおかげで、医局内の空気はだいぶ和らいだ。「なんだ、勘違いか」という空気が広がり、突き刺さるような視線は消えていた。
ただ、一つだけ懸念があった。
雨宮の姿がないのだ。
(雨宮先生にも、ちゃんと伝わってるかな……)
指導医である彼にだけは、不純な動機で働いていると思われたくない。
皐月は一抹の不安を抱えながら、午前の業務へと向かった。
*
午前中の業務は、雪村との病棟処置だった。
移動式の処置カートを押しながら廊下を歩く間、2人の間には気まずい沈黙が流れていた。
「英語論文の翻訳」の一件に加え、朝の騒動。
雪村は相変わらず冷ややかなオーラを放っている。
「……306号室の奥田さんです」
病室の前で、雪村が短く言った。
70代の男性。診断は『湿疹続発性紅皮症』。
アトピー性皮膚炎などが原因で全身の皮膚が真っ赤になり、ボロボロと皮が剥け落ちてしまう重篤な疾患だ。皮膚の炎症のせいで体温調節がうまくできず、感染症のリスクも高い。
「失礼します。奥田さん、処置の時間ですよ」
カーテンを開けると、ベッドの上で奥田さんが小さく丸まっていた。
全身が赤く腫れ上がり、痒みと寒気で震えている。シーツには剥落した皮膚(落屑)が雪のように大量に散らばっていた。
「……はい、お願いします……」
弱々しい返事。
二人は手袋をし、手分けして処置を始めた。
この疾患の処置は過酷だ。
全身にステロイド軟膏をたっぷりと塗り、その上から亜鉛華軟膏を塗った『ボチシート』という布を貼り付け、さらに包帯でぐるぐる巻きにする。
わかりやすく言うと「ミイラ男」状態にするのだ。
時間もかかるし、ベタベタするし、何より患者さんにとっての苦痛が大きい。
「……痛い、痛いよぉ……」
奥田さんが呻き声を上げた。
炎症を起こした皮膚に触れられるのは、それだけで激痛なのだ。
「動かないでください。ズレます」
雪村は手を止めず、事務的に告げる。
彼の正論は正しい。早く終わらせることが、結果的に患者の負担を減らすことになるからだ。
けれど、奥田さんの震えは止まらない。
「なんで……なんで私の皮膚はこんなふうになっちゃったんだ……」
「前世で何か悪いことでもしたんか……」
「もう嫌だ……家に帰りたい……」
うわ言のように繰り返される嘆き。
雪村の眉間がわずかに動く。
(……非効率だ。喋っている暇があったらじっとしていてくれ。精神的ケアは今の優先事項じゃない)
彼は内心で舌打ちし、ペースを上げようとした。
その時だった。
反対側で足の処置をしていた皐月が、手を止めた。
「……奥田さん」
彼女は、ベッドに横たわる奥田さんと目線の高さを合わせた。
そして軟膏でベタつく手袋のまま、震える奥田さんの肩にそっと触れた。
「辛いですよね。痛いし、寒気がするし、不安ですよね」
「……先生……」
「皮膚が剥がれ落ちるのは、奥田さんの体が悪いものを外に出そうとして、一生懸命戦ってくれている証拠なんです。新しい皮膚を作るために、今、頑張ってるんですよ」
皐月は、子供に言い聞かせるように、ゆっくりと、穏やかな声で語りかけた。
「私たちも手伝います。このお薬とシートが、頑張っている皮膚を守ってくれますから。……もう少しだけ、一緒に頑張りましょう?」
その声には、不思議な響きがあった。
ただの慰めではない。根拠のない励ましでもない。
「あなたの痛みを知っている」という共感と、「必ず治す」という意志が込められた声。
奥田さんの目から、じわりと涙が滲んだ。
そして、大きく一つ息を吐くと、強張っていた全身の力がふっと抜けた。
「……ありがとう、先生。……頼むよ」
震えが止まった。
あれほど処置を嫌がっていた体が、協力的になる。
その後はスムーズだった。雪村と皐月、そして看護師の連携で、全身の処置は予定より早く完了した。
「終わりましたよ。ゆっくり休んでくださいね」
布団をかけ直す皐月に、奥田さんは何度もお礼を言っていた。
病室を出て、手洗い場へ向かう廊下。
雪村は無言のまま歩いていたが、胸の内には割り切れない何かが渦巻いていた。
(……なんだ、あれは)
技術なら、自分の方が上だ。知識も、手技も、処置のスピードも、診断力だって私立卒の彼女より遥かに勝っている自信がある。
実際、今日の彼女の手つきはまだぎこちなかった。
それなのに。
患者を安心させ、協力を取り付け、結果として処置を円滑に進めたのは――彼女の「言葉」だった。
非効率だと思っていた。
手を止めて話を聞くなんて、時間の無駄だと。
だが、彼女のアプローチは、薬理作用や外科的手技とは別のベクトルで、患者の苦痛を取り除いたのだ。
(……認めんぞ)
雪村は、蛇口をひねり、冷たい水で手を洗った。
認めてしまえば、自分が積み上げてきた「効率こそ正義」という価値観が揺らいでしまう気がした。
けれど、鏡に映る自分の顔は、いつものような冷徹な嘲笑を浮かべることはできず、どこか複雑に歪んでいた。
隣で手を洗う皐月が、「ふぅ、終わったね」と独り言のように呟く。
その横顔を、雪村は初めて「同期の医師」として、意識して盗み見た。
*
ランチタイム。
食堂のテーブルには、皐月、美雲、霜田、そして霧生が集まっていた。
「天野先輩、マジですみませんでした!」
カツカレーを前に、霧生がまたしても手を合わせる。
「もういいってば。霧生くんのおかげで、みんなの誤解も解けたし」
霧生は申し訳なさそうに眉を下げる。
「でも先輩……。2人に何があったかは詳しく知らないっすけど、このままじゃ絶対よくないっすよ! せっかく同じ病院にいるんだし、仲直りした方がいいんじゃないっすか?」
「そうだよ」
美雲もパスタを巻きながら同意する。
「形成外科と皮膚科って連携することも多いし。気まずいままじゃ仕事にも影響するよ?」
二人の正論に、皐月が言葉に詰まっていると、霜田が身を乗り出してきた。
「私は霧生くんに賛成ね。ここで元サヤに戻ってゴールイン、それが一番美しいわよ」
彼女の目がギラリと光る。
「天野先生の方が私より早く結婚するのは、正直ちょっと……いや、かなり尺に触るけど、不幸になるよりマシよ!」
早口で一気にまくし立てる霜田。
その迫力に、美雲が「あはは……霜田先生、落ち着いて……」と引き気味に苦笑する。霜田は美雲に向き直り、真顔で言った。
「和泉先生にはわからないのよ、この切実さが! 余裕のある既婚者は黙ってて!」
霧生が「よーし!じゃあ『仲直り大作戦』考えましょー!」と拳を突き上げ、女性陣2人が「おー!」と乗っかる。
完全にイベント感覚だ。
皐月は慌てて手で制した。
「ちょ、ちょっと待ってください!気持ちは嬉しいけど……これは、私と五十嵐の問題だから。自分でなんとかします!」
皐月の頑なな態度に、三人は顔を見合わせ、しぶしぶといった様子で引き下がった。
*
その賑やかなテーブルから少し離れた、食器返却口の近く。
トレーを片手に、五十嵐がふと足を止めていた。
彼は、同僚たちに囲まれて困ったように、けれど少しだけ笑っている皐月の横顔を、じっと見つめていた。
その瞳には、いつものような拒絶の色はない。
ただ、眩しいものを見るような、そしてそこに入っていけない自分を嘲るような、複雑な色が滲んでいた。
「……はぁ」
彼は誰にも聞こえないほど小さく息を吐くと、逃げるように視線を外し、背を向けて食堂を後にした。
*
その夜。
病院近くの自室に戻った皐月は、ベッドの上で膝を抱えていた。
「自分でなんとかする」と大見得を切ったものの、どうすればいいのか皆目見当がつかない。
スマホを取り出し、連絡先リストを開く。
そこには、決別する前から変わらないはずの『五十嵐』の名前があるけれど、通話ボタンを押す勇気はない。
――高校3年生のときの記憶が、フラッシュバックする。
あの公園。灰色の空。
皐月の励ましが、彼を傷つけたあの日。
『……まだ、後期日程があるよ!私たちなら大丈夫。最後まで一緒にがんばろう?』
皐月は、心からのエールを送ったつもりだった。
でも、彼は怒鳴った。
『お前とは違うんだ!』
あの一言。
拒絶と、怒りと、悲しみが混ざった叫び。
皐月が彼を怒らせたことはわかっている。皐月の言葉が浅はかだったことも、今ならわかる。
でも、「何が」あそこまで彼を追い詰め、「何が」決定的な引き金になったのか。その核心部分だけが、今でも霧がかかったように見えないままだ。
(私、何か大事なことを見落としてるのかな……)
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