『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第一章 凍てつく春と、雪解けのメス

第8話 閉ざされた耳と、更衣室の独白

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その日の朝、医局の空気は氷点下だった。

正確には、雨宮の周りだけが、極地のような寒さを放っていた。

皐月が「おはようございます」と挨拶しても、彼は視線すら合わせず、無言で頷くだけ。

昨日までの「厳しいけれど熱心な指導医」という雰囲気から一変し、そこには明確な「拒絶」があった。

(……やっぱり、噂のこと、何か思われてるのかな)

不安に思っていると、霧生が皐月のデスクに駆け寄ってきた。

「天野先輩、大丈夫っすか? なんか雨宮先生、機嫌悪くないっすか?」

「うん……たぶん、あの噂のせいだと思うんだけど」

「任せてください! 俺が今、ガツンと訂正してきますから!」

霧生はそう言うと、皐月の制止も聞かずに、コーヒーを片手に休憩スペースへ向かおうとしていた雨宮の背中に突撃していった。

遠くから、二人の様子を伺う。

霧生が何かを話しかける。

しかし、雨宮は足を止めず、冷ややかな横顔で一言、二言、何かを告げただけだった。

霧生が「えっ、あ、でも!」と食い下がるが、雨宮はピシャリと会話を切り上げ、去っていってしまった。

肩を落として戻ってきた霧生は、申し訳なさそうに頭をかいた。

「……ダメでした」

「何て言われたの?」

「『他人の色恋沙汰になど興味はない。くだらない話で業務を止めるな』って……。とりつく島もなかったっす」

その言葉に、皐月の心はすとんと重くなった。

興味がない、と言いつつ、あの態度は明らかに軽蔑の色を含んでいる。

弁解すら許されない状況。

信頼を取り戻すには、言葉ではなく、仕事で示すしかないのだと痛感した。

午後。医局内のカンファレンスルームは薄暗く、プロジェクターの光だけが青白く浮かび上がっていた。

週に一度の「皮膚病理カンファレンス」。

手術や生検で採取した皮膚組織のプレパラートを顕微鏡で拡大し、全員で診断を検討する重要な会議だ。

スクリーンには、赤とピンクで染色された細胞の画像が映し出されている。

進行役の佐伯医局長が、レーザーポインターで画像を指し示しながら、順に質問を飛ばしていく。

「さて、まずはこの検体。霧生くん、わかる?」

「えっ、あ、はい! えーと……このピンクのうねうねした所は、表皮……ですか?」

「正解。皮膚科志望じゃないのに偉いわね」

佐伯が優しく笑う。研修医への質問は基礎レベルだ。

しかし、専攻医への質問は容赦がない。

「次はこれ。小林先生」

指名されたのは、専攻医5年目の小林千景だ。もうすぐ専門医試験を控えているベテランで、愛妻家としても知られる穏やかな医師だが、今は緊張で顔が強張っている。

「表皮内での好中球の集積が見られます。角層下膿疱性皮膚症を疑いますが……」

「鑑別は?」

「IgA天疱瘡です。蛍光抗体法での確認が必要です」

「よろしい。これくらい即答できなきゃダメよ」

「は、はい……!」

千景が額の汗を拭う。ハイレベルな問答に、室内の空気が引き締まる。

「じゃあ次、雪村先生」

隣に座っていた雪村が指名された。スクリーンには、黒っぽい腫瘍の画像が映る。

「……基底細胞癌です。腫瘍細胞の柵状配列と、周囲のムチン沈着、あと裂隙が見られます」

「正解。よく勉強してるわね」

雪村は淡々と答えながら、内心で安堵と優越感に浸っていた。

(この程度の典型例なら簡単だ)

彼は横目で皐月を一瞥した。

次は天野の番だ。どうせ私立卒の彼女には、この顕微鏡画像の何が異常なのかすら分からないだろう。カンファレンスで公開処刑されればいい。

「最後、この症例。天野先生、どう思う?」

佐伯が画像を変えた。

映し出されたのは、一見するとただの湿疹のように見える、炎症を起こした皮膚組織だった。

雪村が眉をひそめる。

(……なんだこれ? 炎症細胞浸潤はあるが、特徴がない。ただの慢性湿疹か?)

雪村でさえ答えに窮する、難解な画像。

皐月が沈黙すると、雪村の口元が微かに歪んだ。やはり分からないか。

皐月はじっと画面を見つめ、都内の大学病院で見た数多くの症例を脳内で検索した。

表皮の中に、わずかだが違和感がある。

「……表皮のこの部分に、異型リンパ球の集簇のようなものが見られます」

皐月はスクリーンの一点を指差し、慎重に言葉を紡いだ。

「菌状息肉症の疑いがあります。……確定のために、免疫染色を追加した方が良いと思います」

一瞬、部屋が静まり返った。

雪村が驚愕の表情で皐月を見る。

菌状息肉症。 

名前に「菌」とつくが、その正体は「皮膚の悪性リンパ腫」――つまり、癌の一種だ。

初期はただの湿疹やアトピーと見分けがつかない。

だが、診断がつかずに放置して進行すれば、腫瘍を作り、内臓へ転移し、命を奪うこともある。

そんな、「湿疹の仮面を被った癌」。

病理診断が極めて難しいその初期像を、彼女はこの解像度で疑ったのか。

佐伯が、ほう、と感嘆の声を漏らした。

「よく気づいたわね。その微小なサインを見逃さないのが大事なの。」

「素晴らしい」

一番奥に座っていた柊教授が、深く頷いた。

「天野くん、よく勉強しているね。前の病院で多くの症例を見てきた経験が生きているようだ」

「ありがとうございます」

皐月は安堵して息を吐いた。

隣で雪村が、信じられないという顔でペンを握りしめているのが視界に入った。けれど、今の皐月には彼を気にする余裕などなかった。

ただ、仕事で褒めてもらえたことが嬉しかった。

カンファレンスルームの後方。

腕組みをして座っていた雨宮は、じっと皐月を見つめていた。

不純な動機で入局した、お嬢様医師。

そうレッテルを貼り、失望していたはずだった。

だが、今の彼女はどうだ。

暗い室内で、スクリーンの青白い光に照らされたその横顔。

唇を噛み締め、スクリーンを睨みつける、そのひたむきな瞳。

ドクリ、と。

雨宮の心臓が、不自然な音を立てた。

既視感(デジャヴ)。

いや、もっと鮮烈な、記憶のフラッシュバック。

周囲の音が遠のき、皐月の横顔が、遠い記憶の中の少女と重なる。

いつかの日。

絶望に打ちひしがれながらも、濡れた瞳で前を見据え、決して折れなかったあの強い眼差し。

『……君のような人が、医者になるべきだ』

思わず口をついて出たあの言葉は、気まぐれなどではなかった。あの時、確かに彼は彼女のその「熱」に心を動かされたのだ。

(……まさかな)

雨宮は眉間を押さえ、小さく首を振った。

彼女は、男を追ってここに来た女だ。あの日の少女とは違う。

そう自分に言い聞かせても、一度重なってしまった残像は消えない。胸の奥に灯った小さな火種が、冷え切っていた感情をじりじりと焦がしていく。

もし。

もしも彼女が、あの時の少女と同じ「光」を、まだ失っていなかったとしたら――。

雨宮は無言で眼鏡の位置を直した。

その瞳に宿る色は、もう単なる「指導医」の冷徹さだけではなかった。

疑念と、期待と、正体不明の焦燥。

それらを押し殺すように、彼は深く息を吐き出し、再び鉄仮面を被り直した。



その日の夕方。

中央手術室の男子更衣室は、一日の仕事を終えた医師たちの熱気と疲労感で充満していた。

皮膚科の手術助手を終えた霧生は、ロッカーの前で着替えながら、隣にいる人物の様子を伺っていた。

五十嵐拓海。

形成外科の手術を終えた彼もまた、着替えの最中だった。

霧生にとって、高校時代の直属の先輩であり、今は他科だが頼れる兄貴分だ。

五十嵐は無言で術衣を脱ぎ、Tシャツに頭を通している。その背中は、どこか小さく、疲れ切っているように見えた。

霧生は意を決して口を開いた。

「あの、五十嵐さん」

「……あ?」

五十嵐が気だるげに振り返る。

「俺、今月皮膚科回ってるんですけど……天野先輩と、仕事してるんすよ」

その名前が出た瞬間、五十嵐の手がピクリと止まった。

「……そうか」

彼は視線を逸らし、素っ気なくロッカーの扉を閉めようとする。

「がんばれよ。皮膚科は覚えること多いからな」

そう言い残して立ち去ろうとする五十嵐の背中に、霧生は衝動的に声を投げかけた。

「あの! 二人に、何があったんすか!?」

更衣室の空気が止まる。

奥で着替えていた他の医師たちが一瞬こちらを見たが、すぐに気まずそうに目を逸らした。

霧生は構わず続けた。

「俺、高校の時見てましたよ。あんなに仲良かったじゃないっすか! 天野先輩、五十嵐さんのことめっちゃ応援してたし、五十嵐さんだって……」

「……うるせぇな」

五十嵐の低い声が遮った。

「昔の話だ。今の俺たちには関係ない」

「関係なくないっすよ! 昨日だって、廊下ですれ違った時、先輩あんなに辛そうな顔して……。本当にこのままでいいんですか?」

五十嵐の足が止まった。

彼は扉のノブに手をかけたまま、しばらく動かなかった。

やがて、絞り出すような、掠れた声が聞こえた。

「……俺が」

「え?」

「俺が、ちっぽけで残念な人間だったからだよ」

五十嵐は、自嘲するように笑った。

「あいつは眩しすぎたんだ。俺みたいな余裕のない人間には、その光が痛すぎて……直視できなかった。ただそれだけだ」

それは、拒絶の言葉のようでいて、痛いほどの後悔に満ちた独白だった。

霧生は言葉を失った。

ただの喧嘩別れだと思っていた。でも、二人の間にある溝は、もっと深く、暗く、デリケートなものなのだと悟った。

五十嵐はそれ以上何も言わず、逃げるように更衣室を出て行った。

静まり返った更衣室に、霧生の溜息が落ちる。

「……なんだよ、それ」

「へぇ。青春だねぇ」

不意に、ロッカーの死角から声がした。

「うわっ!?」

霧生が飛び上がると、そこには白衣を片手に持った雷久保が立っていた。

ニヤニヤと笑っているが、その目はどこか鋭く光っている。

「ら、雷久保先生……! い、いつからそこに!?」

「ん? 最初からいたけど」

雷久保は悪びれもせず、五十嵐が出て行った扉の方を見やった。

「なるほどね。ただの未練かと思ったら、案外根深いコンプレックス案件か」

「あ……あの! 雷久保先生!」

霧生は慌てて姿勢を正した。

「昨日の噂、俺の勘違いでした! 天野先輩が追いかけてきたとか、全部嘘です! 俺が勝手に広めちゃっただけで……」

「ああ、それなら知ってるよ」

雷久保はあっさりと答えた。

「え?」

「桐也から聞いた。『美雲が、ようやく誤解が解けたって安心してたよ』ってな」

「な、なんだ、ご存知だったんすか……!」

霧生はほっと胸を撫で下ろした。

「よかった……じゃあ、雨宮先生にも伝わってますよね?」

「さあ、どうだろうねぇ」

雷久保は意味深に口角を上げた。

彼は昨夜、雨宮にあえて嘘の情報を吹き込み、親友の心を掻き乱した張本人だ。

今ここで、雨宮に真実を告げるべきか。

(……いや、まだだな)

真実を知って安堵する潤一を見るより、誤解したまま勝手に失望し、葛藤する鉄仮面を見る方が、遥かに面白い。

それに、この程度の誤解で揺らぐなら、あいつの「9年間の幻想」もその程度だったということだ。

「ま、俺の口からは何も言わないでおくよ。余計なお世話だしな」

雷久保は霧生の肩をポンと叩くと、鼻歌交じりに更衣室を出て行った。

こうして、誤解と真実がパズルのように噛み合わないまま、怒涛の最初の1週間が終わろうとしていた。

やがて4月が過ぎ、新緑が眩しい5月が訪れる。
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