『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第一章 凍てつく春と、雪解けのメス

第10話 夜明けの微熱と、雪解けの挨拶

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カーテンの隙間から差し込む朝日が、仮眠室の埃を白く照らし出していた。

短く浅い眠りから覚めると、全身が鉛のように重い。けれど、胸の奥には不思議な高揚感が残っていた。

昨夜の緊急オペ。壊死性筋膜炎という致死的な感染症を、形成外科との連携で食い止めたのだ。

重い足取りで医局へ戻ると、ふわりとコーヒーの香りが漂ってきた。

「あ、皐月ちゃん! おはよー」

給湯室から顔を出したのは、美雲だった。

皐月の顔を見るなり、ぱあっと表情を明るくして駆け寄ってくる。

「聞いたよ! 昨日の夜、すごいオペだったんだって?形成と合同で緊急デブリしたって」 

「ほんと、大変だったねぇ。天野ちゃんが早く気づかなかったら、足一本じゃ済まなかったかもよ。お手柄だね」

小林が、しみじみとした口調で温かい缶コーヒーを皐月の机に置いてくれた。

「ありがとうございます……。でも、形成外科の先生たちの判断が早かったおかげです」 

「もー、謙遜しないの。最初の診断つけたのは皐月ちゃんでしょ?自信持ちなよ」

美雲が皐月の背中をバンと叩く。その温かさに、張り詰めていた糸が少しだけ緩んだ。

だが、その和やかな空気を裂くように、低い声が響いた。

「……天野。昨夜の件、報告に来い」

振り返ると、雨宮が腕組みをして立っていた。

その表情は、周囲の称賛ムードとは裏腹に、鋭く冷え切っていた。



外来の診察開始前。 誰もいない第3診察室で、皐月は直立不動で報告を終えた。

「……以上です。術後の経過は安定しており、ICUで管理中です」

雨宮はモニターに映し出されたカルテと手術記録を無言で確認していたが、やがてゆっくりと椅子を回転させ、皐月を射抜くように見据えた。

「……なぜ、私に電話しなかった」

低く、抑揚のない声。しかし、そこには明確な怒気が含まれていた。

皐月は息を呑んだ。 

「え……それは、症状から壊死性筋膜炎の可能性が高いと判断し、一刻を争う状況だったので……直接、形成外科へコンサルトしました」

「判断に迷わなかった、ということか」

「は、はい。所見は典型的でしたし……」

ダンッ!

雨宮がデスクを叩いた音に、皐月はビクリと震え上がった。

「それが慢心だと言っているんだ」

雨宮が立ち上がり、皐月に詰め寄る。

眼鏡の奥の瞳が、凍てつくような光を放っている。

「今回は結果的に良かった。お前の診断は正しかったし、患者は助かった。……だがな」

彼は皐月の目の前で、静かに、しかし重く告げた。

「もし、判断を間違えていたらどうする?別の疾患の可能性は?形成外科が手術適応なしと判断したら? ……その一瞬の迷いや遅れが、患者の命にかかわるんだ」

「っ……」

「お前はまだ研修医が終わったばかりの専攻医1年目だ。経験も知識も圧倒的に足りない。自分一人で背負えると思うな」

その言葉は厳しかった。けれど、単なる叱責ではなかった。

雨宮の瞳の奥に、揺らめくような「恐怖」が見えた気がしたからだ。

かつて、自分の知識を過信し、救えるはずの命を救えなかった過去。

その消えない古傷が、彼にここまで言わせているのだと、皐月は本能的に感じ取った。

「……申し訳ありませんでした。次は必ず、相談します」

皐月が深く頭を下げると、雨宮はふぅと息を吐き、少しだけ声を和らげた。

「……午後の手術、お前は外す」

「えっ、でも……」

「判断能力が落ちてる奴が現場にいても邪魔だ。昨日のオペ記録とサマリーの整理に回れ」 

それは、彼なりの不器用な「休息命令」だった。

「……はい。ありがとうございます」

夕方、医局の空気が少し変わった。

2週間に1度行われる、形成外科との合同カンファレンス(症例検討会)の時間だ。

会議室に入ると、形成外科のメンバーがすでに到着していた。

末席に、五十嵐の姿がある。

彼は手元の資料に目を落としていたが、皐月が入ってきた気配に気づき、ふと顔を上げた。

目が合う。

いつもなら、すぐに逸らされるか、無視される場面だ。

でも、昨夜の共闘が、皐月にほんの少しの勇気をくれた。

(……挨拶くらい、してもいいよね)

皐月は立ち止まり、彼に向かって小さく頭を下げた。

「……お疲れ様」

蚊の鳴くような声。

五十嵐は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにいつものぶっきらぼうな表情に戻り――それでも、わずかに顎を引いて応えた。

「……おう」

それだけのやり取り。

でも、無視されなかった。拒絶されなかった。

それだけで、皐月の胸は温かくなった。

カンファレンスが始まると、五十嵐は以前のように皐月を無視することなく、彼女のプレゼンを真剣な眼差しで聞いていた。

仕事仲間として、対等に扱われている。

その実感が、皐月の背筋を伸ばさせた。



一時間の会議が終わり、解散の流れになる。

資料を抱えて立ち上がった時、出口へ向かう五十嵐とすれ違った。

皐月は緊張して身構えたが、通り過ぎざま、五十嵐の方から足を止めた。

「……おい、天野」

「えっ、あ、はい!」

「昨日の患者、経過いいみたいだな。傷もきれいだった」

彼の方から、話しかけてくれた。 皐月は嬉しさで声が上擦るのを抑えながら、大きく頷いた。

「うん! 五十嵐のおかげだよ。……本当に、ありがとう」

「……仕事だからな」

五十嵐はそっぽを向いたが、その口元は少しだけ緩んでいるように見えた。 「じゃあな。お疲れ」

彼は片手を軽く上げて、部屋を出て行った。 

その背中は、もう以前のような「他人」のそれではなかった。

「うおー! やりましたね天野先輩!」

背後から、霧生が満面の笑みで飛びついてきた。

「今の見ました!? 五十嵐さんから声かけたじゃないっすか! こないだまで氷河期だったのに、雪解け早すぎっすよー!」

「ちょ、霧生くん声大きい……!」

「いやー、やっぱ昨日のオペが効いたんすね! 雨降って地固まるってやつだ! こりゃまた昔みたいな『伝説の黄金コンビ』復活も近いんじゃないっすか!?」

霧生は「ヒューヒュー!」と茶化すように皐月の肩を小突く。 皐月も、今回ばかりは怒る気になれず、照れくさそうに笑ってしまった。

「……くだらん」

その時、背後から絶対零度の声が降ってきた。

ビクリとして振り返ると、会議室の出口に雨宮が立っていた。

彼は去りゆく五十嵐の背中と、霧生に絡まれて笑っている皐月を、無表情のまま見下ろしている。

その瞳は、朝の指導の時とは違う、底知れぬ暗さと苛立ちを湛えていた。

「あ、雨宮先生……?」

「学生の部活じゃないんだ。過去の馴れ合いなど、医療の現場には必要ない」

吐き捨てるような、棘のある言葉。 雨宮は皐月から視線を外すと、踵を返して足早に廊下へと消えていく。

その背中には、「不機嫌」という文字が張り付いているようだった。

霧生が「うわ、なんか地雷踏んだっぽいっす……」と青ざめている。

皐月は慌てて資料を抱え直し、その背中を追いかけた。

その後ろ姿を見送りながら、会議室に残ったもう一人の男が、楽しそうに喉を鳴らした。 

「くくっ……わかりやすいねぇ、潤一も」

雷久保だ。 彼は椅子の背もたれに深く体重を預け、面白がるように目を細めていた。

「部下が元カレ(仮)と仲良くしてるのが、そんなに気に入らないかねぇ」

彼はニヤリと口角を上げ、空になったペットボトルをゴミ箱へ放り投げた。

「ま、無自覚なのが一番タチ悪いけどな」

雪解けの予感と、新たな嵐の気配。 長い一日が、ようやく暮れようとしていた。
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