『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第二章 五月雨の迷路と、横浜の微熱

第18話 雨の記憶と、重なり合うピース

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6月末。

昨日の五十嵐家での出来事が、まだ現実味を帯びないまま、皐月の心の中で燻っていた。

擦り切れた畳。質素な仏壇。
そして五十嵐の母が語った、あまりに過酷な過去。

『俺には後がねぇんだよ!』

9年前の叫びが、今さら鮮明な痛みとなって胸を突き刺す。

皐月はデスクでカルテを打ちながら、ふぅと深いため息をついた。

「……お疲れ、皐月ちゃん」

隣から声をかけられ、ハッとして顔を上げる。美雲だった。

「あ、美雲先生。お疲れ様です」

「どうしたの? ため息なんてついて。……また何かあった?」

美雲が心配そうに覗き込んでくる。

皐月は慌てて首を振った。
五十嵐の家のことは、誰にも言えない。
それは彼のプライドに関わることだから。

「いえ、ちょっと考え事を……」

「そっか。ならいいけど……。あ、そうだ! 今日、霧生くんの送別会だよ!」

「えっ、もうそんな時期ですか?」

「うん。6月いっぱいで皮膚科ローテ終わりだからね。仕事終わったなら一緒に行こう!」

美雲の明るい誘いに、皐月は少し救われた気持ちになった。

一人でいると、どうしても五十嵐のことばかり考えてしまう。今は賑やかな場所で、少しだけ頭を空っぽにしたかった。



一方その頃。外来ブース。

最後の患者を見送り、カルテの整理をしていた雨宮のもとに、白衣を着崩した男が現れた。

「よっ。潤一、飯行こうぜ」

雷久保だ。

雨宮は視線も上げずに答えた。

「断る。今日は皮膚科医局の送別会だ」

「あー、あの元気な研修医のか。真面目だねぇ、医局長でもないのに」

雷久保はニヤニヤしながらデスクの縁に腰掛けた。

「そういや、皐月ちゃんとの仲はどうなの?進展した?」

雨宮の手がピタリと止まる。

「……意味がわからないことを言うな」

「とぼけるなよ。学会で助けたんだろ?ヒーローじゃん」

雷久保は面白そうに喉を鳴らした。

「でもさぁ、最近、皐月ちゃんと五十嵐、いい感じだよ?」

雨宮の眉間がわずかに動く。

「この間も合同カンファレンスの前に、自販機の前ですげー仲良さそうに話してたし。なんかこう、二人だけの空気感っていうの? あれは俺たちが入れる隙間なさそうだったなー」

雷久保の言葉は、半分は事実で、半分は誇張だ。しかし、雨宮の心を逆撫でするには十分だった。

イラつきを隠すように、雨宮は乱暴にパソコンをシャットダウンした。

「……部下の交友関係になど興味はない。くだらん話なら他でやれ」

「はいはい、強がっちゃって」

雷久保は肩をすくめ、「ま、後悔しないようにね」と言い残して去っていった。

雨宮は舌打ちを一つこぼし、ネクタイを緩めた。

胸の奥に広がる、正体不明の焦燥感。
それを振り払うように、彼は足早に医局を出た。



会場は、大学近くの少し高級な和食居酒屋だった。

教授、医局長、ママさんドクターたち、そして大学院生や講師陣。皮膚科医局のほぼ全員が集結していた。

「3ヶ月間、本当にお世話になりました! 皮膚科で学んだことは一生忘れません!  次の科でもがんばります!」

霧生が元気よく挨拶し、拍手が起こる。

皐月は美雲、霜田、雪村、小林と一緒にテーブルについていた。

「寂しくなるねぇ、霧生くんがいなくなると」

美雲がしみじみと言う。

「そうですね。ムードメーカーでしたから」

皐月が同意すると、美雲は優しく微笑んだ。

「私ね、皐月ちゃんが入ってくれるって聞いた時、すっごく嬉しかったんだ。ほら、うちは田舎だし、都内の私立に行った子はそのまま向こうに残っちゃうことが多いでしょ?だから、歳の近い女の子の後輩が来てくれるのが、本当に楽しみだったの」

その言葉に、胸が熱くなる。

4月の歓迎会。
あの時は完全なアウェイだった。

上級医には相手にされず、雪村には敵視され、居場所がなかった。

でも今は、こうして普通に話ができている。

「……私立卒にしちゃ、頑張ってるんじゃないか」

雪村は相変わらずの憎まれ口を叩きながらも、皐月のグラスにビールを注いでくれる。

その時、小林のスマホがけたたましく鳴り響いた。オンコールだ。

「はい、皮膚科小林です……えっ、帯状疱疹?全身汎発?……はい、すぐ行きます!」

小林が慌ただしく立ち上がる。

「すみません、行ってきます!」

「やっぱあの人、『持ってる』わね……」

霜田が憐れむように呟く。

バタバタと出ていく小林と入れ違いに、遅れてやってきた雨宮が姿を現した。

「遅くなった」

彼は短く詫びると、空いていた小林の席――つまり、皐月の斜め前に座った。

途端に緊張が走る。けれど、お酒の入った霜田には関係ないようだった。

「あ、雨宮先生、お疲れ様ですー!どうぞどうぞ!」

霜田は雨宮にビールを注ぎながら、とんでもない爆弾を投下した。

「そういえば天野先生って、結局なんでうちの医局に来たの?形成外科の五十嵐を追いかけてきたっていうのは、間違いだったんでしょ?」

場の空気が凍る。

雨宮の手が止まり、グラス越しに皐月を見た。

(うわぁ……霜田先生、酔っ払うと怖いものなしか……)

皐月は冷や汗をかいた。

陽介とのいざこざは、絶対に言いたくない。
あんな惨めな話、酒の肴にされるのは御免だ。

それに、もし陽介の件がバレたら、「やっぱり男絡みで逃げてきたんじゃないか」と軽蔑されるかもしれない。

皐月は必死に思考を巡らせた。

嘘じゃない。
嘘じゃないけれど、もっと大事な原点。

それを話すことで、この場を乗り切りたかった。

「……実は、私の母が、昔この大学病院で皮膚科医をやっていて。そんな母の背中に憧れていたんです」

絞り出した言葉は、震えていたけれど、紛れもない本心だった。

「へぇ!お母さんも皮膚科医なの?」

美雲が目を丸くする。

「はい。だから、本当はこの大学に入りたかったんですけど……受験、失敗しちゃって」

皐月は苦笑いで誤魔化す。

半分は本当で、半分は隠している。

陽介の浮気がきっかけで戻ってきたのは事実だ。

でも、皐月が医師を目指した最初の動機は、間違いなくここにある。

「へぇー。で、お母様は今も現役?」

霜田が聞く。

「いえ。母は私が大学に入った頃に、医局を辞めてしまったんです。今は実家の近くでパート医をしてますけど」

皐月は言葉を濁した。

五十嵐の家で見た光景が脳裏をよぎる。

女手一つで子供を育てるために、朝から晩まで働き詰めていた五十嵐の母。

もしかして皐月の母も、皐月を私立医大に入れるために、キャリアを捨てて条件の良いパート医に切り替えたのではないか。

あの高額な学費と、都内での下宿代。
それを捻出するために、母が何を犠牲にしたのか、皐月は今まで考えたこともなかった。

(……私、本当に何も見えてなかったんだ)

五十嵐に対しても、母に対しても。

自分がどれほど恵まれていて、どれほど守られていたのかを知り、胸が締め付けられる。

その時だった。

皐月の話を黙って聞いていた雨宮が、ハッとしたように顔を上げた。

その瞳が、皐月を凝視している。

いつもとは違う、探るような、それでいて確信に満ちた強い視線。

雨宮の脳内で、散らばっていたピースが音を立てて嵌まっていく。

9年前。大学のキャンパス。

『……君のような人が、医者になるべきだ』

そう声をかけた少女。

彼女は言っていたはずだ。

『……お母さんみたいに、なりたい』

この大学病院の皮膚科で働く母。

雨宮は、自分が研修医時代に見た古い手術記録や、退院時サマリーに残っていた名前を思い出した。

『天野早織』

優秀だが、家庭の事情で惜しまれつつ退局した女性医師。

すべてが繋がった。

(……そうか)

雨宮は息を呑んだ。

彼女がここに来た経緯に、男(元婚約者)の影があるという噂は聞いていた。

だが、そんなことは些末な問題だ。

彼女の根底にあるのは、もっと純粋で、もっと古い「約束」だったのだ。

男を追ってきたのではない。

あの日の悔しさを、あの日の夢を、9年かけて叶えに来たのだ。

遠回りをしても、泥臭くても、彼女はあの日の少女のまま、真っ直ぐにここに立っている。

(……俺が、育てなければならない)

それは、指導医としての義務感を超えた、もっと個人的で、熱い使命感だった。

かつて自分が背中を押した少女が、傷つきながらも戻ってきた。

なら、今度は自分が、彼女が「母のような医師」になれるよう、守り、導く番だ。

視線を感じて、皐月は雨宮の方を見た。

彼は皐月を見ていた。

けれど、その目はいつもの厳しい指導医のものではなかった。

「嘘を見抜く」目ではなく、「真実を受け止める」目。

もっと深く、熱く、皐月の魂の形を確かめるような瞳。

「……雨宮先生?」

皐月が小声で呼ぶと、彼はふいと視線を逸らし、無言でグラスを煽った。

その横顔が、なぜか少しだけ、安堵しているように見えたのは気のせいだろうか。

誤解は解けただろうか。

彼の胸の内にある真実に、皐月はまだ気づいていなかった。
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