『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第二章 五月雨の迷路と、横浜の微熱

第19話 紫色の罪と、光への誓い

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飲み会からの帰り道。

夜風が火照った頬を冷ましていく。

雨宮の脳裏には、先ほど聞いた天野の言葉と、9年前の記憶が鮮やかに蘇っていた。

今まであえて蓋をしてきた、彼の医師としての原点。

それは、罪と無力感、そして一筋の光の物語だった。



国立大学医学部3年生。

当時の俺ーー雨宮潤一は、まだ医師という職業の重さを、本当の意味では理解していなかった。

講義を受け、試験をパスし、医学知識を詰め込むだけの学生生活。
週末は、生活費の足しにするために家庭教師のアルバイトをしていた。

教え子の家に同居していた祖母から、「顔に急にアザができた」と相談されたのはその頃だった。

「ぶつけた覚えもないのに、変ねぇ」

額にある、紫色の小さな斑点。

俺は教科書で得たばかりの知識を得意げに披露した。

「ああ、これは『老人性紫斑』でしょう。加齢で血管が脆くなって、少しの刺激で内出血するんです。放っておけば治りますよ」

彼女は「あら、そうなの。未来のお医者様に言われると安心だわ」と笑った。

俺も笑った。
自分の知識が役に立ったと、安易な自尊心を満たしていた。

異変に気づいたのは、数ヶ月後だった。

「ただのアザ」は範囲を広げ、赤紫色に盛り上がり、浸潤していた。

俺は戦慄した。
これは、ただの内出血じゃない。

慌てて大学病院へ行くよう勧めたが、診断結果は『血管肉腫』。

極めて予後不良な、皮膚の悪性腫瘍だった。

俺が大学5年生になる頃、彼女は亡くなった。

発見された時には、腫瘍細胞はすでに肺へ転移していたのだ。

「先生が病院へ行くように言ってくれて良かった」

葬儀の席で、教え子から感謝された。

だが、その言葉は俺の胸を抉った。
最初に相談された時、もっと真剣に診ていれば。

「ただのアザ」だと決めつけず、最悪の可能性を疑っていれば。

自分の無知と慢心が、彼女の発見を遅らせ、寿命を縮めたのだ。

その罪悪感が、消えない棘として心に深く突き刺さった。

それからの俺は、憑かれたように医学を勉強した。

二度と見落としをしないために。無知は罪だ。医師の無知は、人を殺す凶器になる。



無事に進級し、大学6年の夏。

過酷な卒業試験をパスし、いよいよ医師国家試験へ向けた勉強が本格化しようという時期だった。

俺は、父が経営する都内の美容皮膚科クリニックを手伝っていた。

そこで、決定的な事件が起きた。

長年通っているという中年の女性患者が、腕にできた黒いしこりを気にしていた。

「最近急に大きくなって、血が出るんです……」

俺の脳内で警鐘が鳴り響いた。
血管肉腫の教訓が、「これは悪性だ」と訴えかけていた。

形状、色調、急激な増大。
間違いなく、メラノーマを強く疑わせる所見だった。

俺はすぐに院長室の父の元へ走った。

「父さん、さっきの患者さんはメラノーマの疑いが濃厚です!すぐに大学病院へ紹介状を書いてください!」

今度こそ、間違えない。今度こそ、助けるんだ。

しかし、父はカルテを見もせずに冷徹に言い放った。

「潤一、待ちなさい。彼女は今日、高額なレーザー治療のコースを契約する予定なんだ。不安を煽ってどうする」

「な……何を言ってるんですか!? 命に関わります!」

「もしそうだったとしても、うちでは手に負えん。だが、今それを伝えれば、数百万の契約が流れてしまうだろう? まずは契約を済ませて、レーザーを当てて様子を見ればいい。紹介するのはそれからでも遅くない」

「ふざけるな!メラノーマにレーザーを当てるなんて!」

「黙りなさい!誰が今の生活を支えていると思っているんだ。経営者の判断に従え」

俺は耳を疑った。

父は、目の前の患者の命よりも、金を選んだのだ。

俺は無力だった。
まだ医師免許を持たない医学生の俺には、紹介状を書く権限もなく、父の命令に逆らうこともできなかった。

結局、父は言葉巧みに女性を安心させ、契約を結ばせた。女性は不安げながらも、「先生がそうおっしゃるなら」と笑顔で帰っていった。

その夜、俺はトイレで嘔吐した。

真夏の湿気が、吐き気を助長させた。

知識がなくて救えなかった過去。

知識があっても、権力と金に阻まれて救えなかった現在。

自分が何のために医者を目指しているのか、分からなくなった。

俺の手は、人を救うためにあるんじゃない。人を殺すためにあるのか。



それからの俺は、何もかもにやる気がでなくなった。

卒業試験は終わっていたが、肝心の国家試験の勉強が手につかない。

模試の成績は急降下し、部屋に引きこもる日々が続いた。

「おい潤一。お前、このままだと国試落ちるぞ」

心配してアパートを訪ねてきた同期の雷久保に、俺は答えた。

「……構わない。俺には、医者になる資格がない」

「はぁ?何があったか知らねぇが、ここで折れたら全部無駄になるぞ。お前のあの勉強量はなんだったんだよ」

雷久保の言葉も、俺の心には届かなかった。

父のクリニックを継ぐくらいなら、あんな汚い世界に行くくらいなら、いっそ全てを投げ出してしまいたかった。



そして迎えた、秋。最後の学祭。

「おい、引きこもってないで外に出ろ。気分転換だ」

無理やり雷久保に連れ出された俺は、大学のキャンパスを亡霊のように歩いていた。

その時だった。

人混みの中で、一人の女子高生が派手に転んだのが見えた。

コンクリートに膝を打ち付け、鮮血が流れる。
周りの人々は驚いて遠巻きに見るだけだ。

俺の体が、勝手に動いた。

駆け寄り、傷口を見る。深い擦過傷だが、動脈は傷ついていない。

俺は持っていたペットボトルの水で傷口を洗い、ハンカチで圧迫止血をした。

「……痛いか?」

「っ……はい、少し。でも、大丈夫です」

彼女は痛みに顔を歪めながらも、気丈に振る舞っていた。

「ありがとうございます……。手際が良いですね。もしかして、医学部の方ですか?」

「ああ。……一応、6年だ」

一応、という言葉に自嘲が混ざる。もう辞めるつもりの身分だ。

しかし、彼女は俺の顔を見ると、パァッと目を輝かせた。

「すごい!私、この大学の医学部が第一志望なんです!」

「……そうか。大変だぞ、ここは」

「はい、知ってます。でも……私の母が、ここの皮膚科医なんです」

ドキリとした。

彼女は、出血する膝を押さえながら、真っ直ぐな瞳で言った。

「母はすごく忙しそうだけど、患者さんの心まで救うような、すごいお医者さんだって聞いてて。……私も母みたいに、患者さんを助けられる『本物の医者』になりたくて! だから、絶対にここに入りたいんです!」

その言葉が、澱んだ俺の心を貫いた。

――本物の医者。

俺は無知で人を殺し、父は欲で人を見捨てた。

俺たちは「偽物」だ。

でも、目の前の少女は、ただ純粋に「人を助けたい」と願っている。その瞳には、一点の曇りも、金や名誉への欲もなかった。

(ああ……そうか)

俺がなりたかったのは、これだ。

父のような経営者でも、無力な学生でもない。

目の前の患者の痛みに気づき、正しい知識と技術で救い出せる、本物の医師だ。

過去の罪は消えない。

けれど、医者になるのを諦めて逃げることは、罪滅ぼしにはならない。

一生をかけて、皮膚という臓器と真摯に向き合い、二度と血管肉腫などの病気の見落としをせず、父のような不正も許さない。
そうやって一人でも多くの患者を救うことだけが、俺に残された道なのだ。

俺は震える手で、彼女の手を握り返した。

「……がんばれ。君のような人が、医師になるべきだ」

それは、彼女へのエールであり、自分自身への誓いだった。

「……この大学で、君を待っているよ」

彼女は満面の笑みで頷いた。

「はい!ありがとうございます!」

その笑顔が、俺への処方箋だった。


「……やっと戻ってきたか」

「……うるさいな」

隣でとニヤニヤする雷久保に悪態をつきながら、俺は空を見上げた。

雨上がりの秋の空が、痛いほど青かった。

迷いは消えた。

俺は国家試験に合格し、父のクリニックを継ぐことを拒否して絶縁し、この大学病院の皮膚科に入局した。

誰よりも厳しく、妥協を許さない「鉄仮面の指導医・雨宮潤一」が誕生した、本当の理由だった。



夜風が心地よい。

雨宮は、先ほど別れたばかりの部下――天野皐月のことを想った。

彼女は9年前、彼の言葉通りに医師になり、そして約束の場所に戻ってきた。

遠回りをしても、傷ついても、彼女の瞳の輝きはあの日のままだ。

「……待たせたな」

夜空に向かって、小さく呟く。

ーー今度は俺が、君を導く番だ。かつて君が俺を救ってくれたように。

雨宮は足取り軽く、家路についた。
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