『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第二章 五月雨の迷路と、横浜の微熱

第19.5話『持たざる者の聖域と、春の侵入者』

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雪村慧:大学2年生・3月

「怜は優秀ねぇ。兄たちみたいに失敗しないでよかったわ」

実家のリビング。
母の無邪気な声が、俺ーー雪村慧の鼓膜を突き刺した。

テーブルの上には、弟の怜の「東京大学理科三類」の合格通知書と、祝いの鯛、そして高価なワインが並んでいる。

父は満足げにグラスを傾け、俺の方を見もしないで言った。

「これで我が家も安泰だ。慧、お前も弟を見習って恥ずかしくない医者になれよ。……まあ、大学のレベルが違うがな」

俺は愛想笑いを浮かべて「おめでとう」と言うしかなかった。

部屋に戻り、ドアを閉めた瞬間、吐き気が込み上げてきた。

兄は受験に失敗し、ドロップアウトして「家の恥」扱いされた。

俺は必死に勉強して、現役で北関東の国立医学部に入った。
決して悪い大学ではないはずだ。

けれど、理Ⅲに受かった弟の前では、俺の努力など「誤差」でしかない。

(……俺は一生、弟の影だ)

暗い部屋で膝を抱える。

両親の目には、俺は「出来損ない」として映っている。

それが悔しくて、惨めで、俺は爪が食い込むほど腕を握りしめた。



大学3年生になり、基礎配属(研究室配属)が決まった。

希望なんてなかった。どこでもよかった。
適当に選んだのは、人気のない「皮膚科学教室」だった。

薄暗い実験室。

そこには、顕微鏡と膨大なデータだけがあった。

レンズを覗き込めば、そこにあるのは細胞の配列と遺伝子の発現データのみ。

そこには「偏差値」も「家柄」も「兄弟間格差」も存在しない。

あるのは、純粋な論理だけだ。

「学生か。よく来るな」

ある日、顕微鏡を覗いていると、白衣の男に声をかけられた。

専攻医1年目の雨宮潤一だった。
鋭い眼光。近寄りがたい雰囲気。

「……邪魔ですか」

「いや。……そのデータ、面白いな。整理の仕方が合理的だ」

雨宮は俺のノートを見て、短く言った。

(……褒められたのか?)

戸惑っていると、奥から柊教授が現れた。

「おや、雨宮くん。熱心な学生さんだね」

「ええ。この解析、使えますよ」

「ほう……君、名前は?」

「……雪村です」

「雪村くんか。君は真面目で優秀だね。期待しているよ」

優秀。
期待している。

その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが震えた。

親から一度も言われたことのない言葉。

弟と比較されず、「雪村慧」個人として認めてもらえた瞬間。

(……ここだ)

ここなら、俺は息ができる。

論理と結果だけで評価されるこの場所が、俺の唯一の「聖域」になった。

それからの俺は、取り憑かれたように皮膚科に通い詰めた。

忙しい初期研修の合間を縫って、睡眠時間を削り、データを解析し、論文を書いた。

実績を作らなければならない。
「ここにいていい」という証明書を得るために。

「お前みたいな熱心な学生はいなかったな」

雨宮先生も、呆れながらも認めてくれた。

俺は必死だった。

弟に負けた「出来損ない」じゃない。
俺はここで、誰よりも優秀な皮膚科医になるんだ。

そう自分に言い聞かせて、必死にこの席にしがみついてきた。

学生時代も研修医になってからもずっと研究を続けた。



初期研修医2年目の冬のある日の夜。

俺は医局に残って、学会発表の資料をまとめていた。

「雪村くん、まだ残ってたの?」

声をかけてきたのは、1つ上の先輩、専攻医1年目の和泉美雲だった。
彼女は手に缶コーヒーを持っている。

「……和泉先生。データの整理がまだなので」

「ふふっ。熱心だねぇ。……これ、良かったらどうぞ」

彼女は缶コーヒーを俺のデスクに置いた。
普段はふんわりとした雰囲気の彼女だが、皮膚科医としての腕は確かだ。

「……ありがとうございます。先生こそ、こんな時間までお疲れ様です」

「あはは、久しぶりにオンコールで呼ばれちゃってさー、大変だったよ」

和泉先生は疲れを感じさせない表情で伸びをした。

「……雪村くん、無理しないでね。雪村くんが優秀なのは、柊教授も雨宮先生も、みんな知ってるよ」

(……悪くない)

優秀で優しい先輩。
正当に評価してくれる指導医や教授。

ここは、俺が実力だけで勝負できる場所だ。
誰の影にも怯えず、自分の足で立てる。

来年度の4月からは晴れて皮膚科に入局が決まった。
この尊敬できる先輩たちの後輩になれる。

唯一苦手だったあの先輩も、来年度の4月から出向でいなくなると聞いた。
あの騒がしい人がいなくなれば、医局はもっと静かで、より研究に没頭できる場所になるはずだ。

環境は整った。ーーようやく、努力が報われる。

そう思っていた。



3月下旬。研修医2年目が終わる頃。

医局で噂話を耳にした。

「今度入る新入局員、都内の私立卒だって」

「え、私立?うちは学閥ないけど珍しいね」

「お母さんがここのOGらしくて、教授にお願いしてねじ込んだらしいよ。いわゆる『コネ入局』ってやつ?」

雪村の胸の中で、どす黒い感情が爆発した。

(……は?)

都内の私立医大。

俺の家では「金で入れる大学」と蔑まれていた場所だ。

学費だけで数千万。
努力しなくても、親の金があれば医者になれる温室育ち。

(そんな奴が?親のコネで?)

ふざけるな。

俺が、睡眠時間を削って、親の評価に耐えて、必死に努力して積み上げて、ようやく手に入れたこの席に。

泥水すすったこともないようなお嬢様が、土足で入ってくるのか。

それは逆恨みだと分かっている。
彼女に罪はないのかもしれない。

でも、許せなかった。

俺の「聖域」が、不純物で汚されるような気がした。

「……天野、皐月か」

名簿の名前を睨みつける。

許さない。
認めるものか。

俺たちの世界は、甘い場所じゃないということを、思い知らせてやる。

「……足だけは引っ張るなよ。お嬢様」

俺は決意した。

この場所を守るために、侵入者を徹底的に排除し、格の違いを見せつけてやると。

ーーそれが、彼なりの悲痛な防衛戦の始まりだった。
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