『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

文字の大きさ
48 / 63
第五章 秋風のロジックと、古びた記憶の鍵

第43話 隠された咳と、すりガラスの影

しおりを挟む
10月中旬。
季節は秋の深まりと共に乾燥した空気を帯び始めていた。

午後の皮膚科外来は、予約制の専門外来のみが稼働しており、一般外来の受付は終了している。

静かになった外来ブースには、キーボードを叩く乾いた音だけが響いていた。

「……よし。サマリー入力、完了っと」

研修医の新巻竜平が、エンターキーを軽快に叩いて呟いた。

隣のデスクで学会発表のスライド作りに悪戦苦闘していた皐月は、驚いて顔を上げた。

「えっ、もう終わったの? さっき始めたばっかりだよね? 5人分くらいあったはずじゃ……」

「テンプレート化してるんで。定型文の組み合わせと、特記事項の追記だけならこんなもんです。……先輩の方こそ、そのスライド、まだ悩んでるんすか?」

新巻が呆れたように皐月のモニターを覗き込む。

皐月は11月の地方会に向けて、初めての症例発表の準備に追われていた。

「うっ……構成がなかなか決まらなくて……」

「悩みすぎですよ。伝えたいこと一つに絞って、あとは削ればいいじゃないですか」

「それが難しいんじゃない……」

効率モンスターの的確すぎる指摘に、皐月はがっくりと肩を落とす。

色恋沙汰の喧騒が嘘のように、医局には静かで真面目な時間が流れていた。

その静寂を切り裂くようにーー

ピリリリリリ!

皐月のポケットに入っていた救急当番のPHSが、けたたましく鳴り響いた。 

瞬時に空気が張り詰める。 新巻の手が止まり、皐月は慌てて通話ボタンを押した。

「……はい! 皮膚科、天野です!」

『救急外来です。21歳男性、発熱と全身の皮疹です。薬を内服した後から発疹が出たとのことで、薬疹の疑いがあります』

「……わかりました。すぐ行きます」

電話を切ると、新巻はすでに白衣のポケットに聴診器とペンライトを突っ込み、立ち上がっていた。

「薬疹ですか。行きましょう」

「うん!」

二人が腰を浮かせた時、奥のデスクから声がかかった。

「……待て」

雪村だ。

彼は予定されていた手術が患者の体調不良でキャンセルになり、空いた時間で論文を執筆していたはずだった。

雪村は眼鏡を外し、PCをスリープモードにした。

「薬疹疑いなら、重症度によっては人手が必要になる。俺も行く」

「えっ、いいの? 論文は?」

「集中力が切れたところだ。……行くぞ」



救急外来の処置室。

ベッドには、ぐったりとした様子の少年が横たわっていた。

付き添いの母親が不安そうにしている。

一目見て、ただの薬疹ではないことがわかった。

顔面から体幹にかけて、境界が不明瞭な紅斑が広がり、所々に水疱が見られる。

「……失礼します。少しお口の中を見せてくださいね」

皐月がペンライトで口腔内を照らす。

唇赤くただれ、出血したあとがかさぶた(血痂)になっている。

さらに、眼球結膜も強く充血していた。

「雪村、これって……」

「……ああ。SJS(スティーヴンス・ジョンソン症候群)の可能性が高い」

雪村が即座に判断を下した。 隣にいた新巻が、少し顔を引き締める。

「……SJS。超重症の薬疹ですよね。進行が止まらないと全身の皮膚や目、口の粘膜も剥けて、死ぬこともあるっていう……」

「そうだ。粘膜症状が強いな。天野、すぐに眼科コールだ。眼の後遺症が残る前にステロイドパルスの準備をする」

「わかった!」

そこにはもう、ふざけた会話など微塵もなかった。

雪村は母親に向き直り、冷静に問診を始めた。

「発疹が出る前に飲んだ薬はありますか?」

「はい……3日ほど前から熱があって、家にあったアセトアミノフェン(解熱鎮痛剤)を飲みました」

「なるほど。ありがとうございます」

雪村は一瞥すると、皐月たちのところへ戻った。

「……アセトアミノフェン以外は内服していないらしい。アセトアミノフェンによるSJS疑いだ」

雪村の判断は論理的で、早かった。

教科書的にも、アセトアミノフェンによるSJSは頻度が高い。

「新巻、皮膚生検の準備だ」

「了解です。道具一式、ワゴンに出します」

新巻が無駄のない動きで器具を展開していく。
麻酔科志望だけあって、手際は完璧だ。

「確定診断のために組織を採る。……天野、写真撮影を頼む」

雪村が指示を飛ばし、皐月も同意してカメラを構えようとした、その時だった。

コン、コン、コン。

患者の少年が、苦しそうに咳き込んだ。

乾いた、硬い音。

「……大丈夫ですか?」

新巻が背中をさすりながら、独り言のように呟く。

「熱もあるし風邪ですよね。薬飲んでこれじゃ踏んだり蹴ったりだな……」

風邪薬を飲んでいたのだから、咳が出るのは当たり前。

雪村も生検部位のマーキングに集中している。

けれど、皐月の中で何かが引っかかった。

(……この音、ただの風邪にしては、変?)

痰が絡んでいない。乾いた咳。
胸の奥から響くような、しつこい咳。

皐月は、患者の胸に聴診器を当てた。
肺の音に、微かな違和感がある。

「……雪村、待って」

皐月は、処置の準備をする雪村の手を止めた。

「なんだ?急がないと進行するぞ」

「この咳……痰がらみのない、乾いた咳なの。それに、この肺の音……おかしいかも」

雪村が眉をひそめる。

「風邪を引いているんだから、咳くらい出るだろう」

「……あと、なんだか」

皐月は患者の顔を見つめ、率直な違和感を口にした。

「粘膜の症状が、強すぎる気がするの。皮膚の紅斑よりも、口と目のただれの方が目立ってるというか……」

皐月の言葉に、雪村の動きが止まった。

彼の鋭い視線が、患者の咳、皮膚、そして爛れた唇を高速で行き来する。

皐月が感じた「違和感」という断片を、雪村の膨大な「知識」が拾い上げ、パズルのピースとして組み上げていく。

21歳という若年者。頑固な乾いた咳。
そして、皮膚よりも優位な粘膜病変。

「……まさか」

雪村がハッとして顔を上げた。

「……マイコプラズマか」

雪村は即座に指示を切り替えた。

「おい、新巻。呼吸器内科にもコンサルトだ。『MIRM(マイコプラズマ関連の発疹症)疑い』と伝えろ」

「えっ、MIRM??SJSじゃないんすか?」

「MIRMはSJSに似ているが、若年者に多く、粘膜症状が強く出るのが特徴だ。マイコプラズマ関連だから呼吸器内科での治療が必要だ。レントゲンと、採血でマイコプラズマ抗体価も追加する。急げ」

「りょ、了解です!」

新巻が慌てて呼吸器内科にコールをかけた。

その後、到着した呼吸器内科の女医が診察をした。

「レントゲンですりガラス影があるし、聴診の所見も合わせて、マイコプラズマ肺炎だと思います」

彼女はそう診断を下し、呼吸器内科に入院することになった。



一段落したのは夕暮れ時だった。

医局に戻った皐月たちは、どっと疲れが出て椅子に座り込んだ。

「……ふぅ。まさかマイコプラズマだったとはね」

皐月が深く息を吐くと、新巻が椅子を回して感心したように言った。

「MIRMでしたっけ?いろんな病気があるんすね。俺、てっきりSJSだと思ってました」

「成人では少ないが、今回のような若年の場合は鑑別に上げないといけない」

雪村が缶コーヒーを開けながら、静かに付け足した。

「……薬に引っ張られて、バイアスがかかっていた。俺のミスだ」

彼は素直に認め、悔しそうに眼鏡を直した。

「お前が咳に気づかなかったら、ステロイドだけで治療して、感染症を悪化させていたかもしれない」

雪村の言葉に、皐月は首を振った。

「ううん。私が気づいたのは『変な咳だな』ってことだけだよ。そこから『粘膜症状が強いからマイコプラズマ』って結びつけて、すぐに治療を変えられたのは雪村の知識があったからでしょ?」

「……フン。まあ、そういうことにしておく」

雪村はそっぽを向いたが、その耳は少し赤かった。

新巻がパソコンに向かいながら言った。

「俺、完全にただの風邪だと思ってました。皮膚科も奥が深いっすね」

彼の手元を見ると、完璧な処置記録が既に完成していた。

口では適当なことを言いつつ、仕事はきっちりこなしている。

「あ、そうだ。雨宮先生に報告しなきゃ」

皐月はハッとしてPHSを手に取った。

以前のオンコールの時に「自分1人で背負うな」と怒られたことが頭をよぎる。

今回は雪村もいるし解決もしているが、報告は義務だ。

プルルル……。

『……はい』

「お疲れ様です、天野です。先ほど救急外来に21歳男性のSJS疑いの患者さんが来まして……」

皐月は経緯を報告した。

最初は薬を疑ったこと、咳からマイコプラズマを疑い、呼吸器内科と連携して治療を開始したこと。

雨宮は黙って聞いていたが、報告が終わると、静かな声で言った。

『……そうか。マイコプラズマを見抜いたのは誰だ』

「えっと、咳に気づいたのは私ですが、診断に結びつけたのは雪村先生です」

『……なるほどな』

電話の向こうで、雨宮の気配が少し緩んだ気がした。

『よく気づいた。初期対応としてはベストだ』

「! ありがとうございます……!」

『雪村と新巻にも伝えておけ。……よくやったな』

ブツリ、と通話が切れる。

短く、ぶっきらぼうな褒め言葉。
けれど、皐月にはそれが何よりの勲章のように感じられた。

「……なんて?」

雪村が聞いてくる。

「『よくやった』って!」

「……ふん。当たり前のことをしたまでだ」

雪村はすました顔で論文の執筆に戻ったが、キーボードの打鍵音は心なしか軽やかだった。

一方、新巻は。

「 ……マジか。レア演出っすね。ログに残しとこ」

彼はニヤリと笑い、カルテに何かを打ち込んでいた。



それからしばらくした後、適切な治療により、少年の皮膚症状と肺炎は徐々に快方へ向かい、退院していった。

あの日行った皮膚生検の病理組織は、『典型的な薬剤性SJSとは異なる』ものであった。

さらに後日、血液中のマイコプラズマ抗体価の上昇と薬剤アレルギー検査が陰性であることが確認され、今回の病態が『MIRM』と矛盾しないものであることが明らかになった。

皐月は経過記録を書きながら、隣の席の雪村を見た。

知識の雪村と、観察の皐月。
そして、それを支える新巻の手腕。

タイプは違うけれど、力が合わされば、一人では救えなかった患者を救うことができる。

その確信が、皐月の中に小さな自信となって積み重なった。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

ハイスペックでヤバい同期

衣更月
恋愛
イケメン御曹司が子会社に入社してきた。

地味系秘書と氷の副社長は今日も仲良くバトルしてます!

楓乃めーぷる
恋愛
 見た目はどこにでもいそうな地味系女子の小鳥風音(おどりかざね)が、ようやく就職した会社で何故か社長秘書に大抜擢されてしまう。  秘書検定も持っていない自分がどうしてそんなことに……。  呼び出された社長室では、明るいイケメンチャラ男な御曹司の社長と、ニコリともしない銀縁眼鏡の副社長が風音を待ち構えていた――  地味系女子が色々巻き込まれながら、イケメンと美形とぶつかって仲良くなっていく王道ラブコメなお話になっていく予定です。  ちょっとだけ三角関係もあるかも? ・表紙はかんたん表紙メーカーで作成しています。 ・毎日11時に投稿予定です。 ・勢いで書いてます。誤字脱字等チェックしてますが、不備があるかもしれません。 ・公開済のお話も加筆訂正する場合があります。

25番目の花嫁 ~妹の身代わりで嫁いだら、冷徹公爵が私を溺愛し始めました~

朝日みらい
恋愛
王都の春。 貴族令嬢リリアーナ・エインズワースは、第一王子ライオネル殿下との婚約を一方的に破棄された。 涙を見せないことが、彼女に残された唯一の誇りだった。だが運命は、彼女を思いがけない方向へ導く。 「氷の公爵」と呼ばれる孤高の男、ヴァレンティーヌ公爵。 二十四人の花嫁候補を断り続けた彼の元へ、「二十五番目の花嫁」として赴いたリリアーナ。 家の体裁のための結婚――そう割り切っていたはずなのに、氷のような瞳の奥に垣間見えた孤独が、彼女の心に小さな炎を灯してゆく。

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。

海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。 ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。 「案外、本当に君以外いないかも」 「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」 「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」 そのドクターの甘さは手加減を知らない。 【登場人物】 末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。   恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる? 田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い? 【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

ひとつの秩序

水瀬 葵
恋愛
ずっと好きだった職場の先輩が、恋人と同棲を始めた。 その日から、南莉子の日常は少しずつ噛み合わなくなっていく。 昔からの男友達・加瀬透真は、気づけばやたら距離が近くて、優しいのか、図々しいのか、よく分からない。 好きな人が二人いるわけじゃない。 ただ、先輩には彼女がいて、友達は友達の顔をしなくなっていく。 戻れると思っていた関係が、いつの間にか戻れなくなっている。 これは、仕事も恋もちゃんとやりたいのに、だいたい空回りしている大人たちの、少し不器用なラブコメディ。

そこは優しい悪魔の腕の中

真木
恋愛
極道の義兄に引き取られ、守られて育った遥花。檻のような愛情に囲まれていても、彼女は恋をしてしまった。悪いひとたちだけの、恋物語。

身代りの花嫁は25歳年上の海軍士官に溺愛される

絵麻
恋愛
 桐島花は父が病没後、継母義妹に虐げられて、使用人同然の生活を送っていた。  父の財産も尽きかけた頃、義妹に縁談が舞い込むが継母は花を嫁がせた。  理由は多額の結納金を手に入れるため。  相手は二十五歳も歳上の、海軍の大佐だという。  放り出すように、嫁がされた花を待っていたものは。  地味で冴えないと卑下された日々、花の真の力が時東邸で活かされる。  

ワケあり上司とヒミツの共有

咲良緋芽
恋愛
部署も違う、顔見知りでもない。 でも、社内で有名な津田部長。 ハンサム&クールな出で立ちが、 女子社員のハートを鷲掴みにしている。 接点なんて、何もない。 社内の廊下で、2、3度すれ違った位。 だから、 私が津田部長のヒミツを知ったのは、 偶然。 社内の誰も気が付いていないヒミツを 私は知ってしまった。 「どどど、どうしよう……!!」 私、美園江奈は、このヒミツを守れるの…?

処理中です...