『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第五章 秋風のロジックと、古びた記憶の鍵

第45話 手をつけないストックと、猛毒の正論

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10月下旬。
秋が深まり、病院の木々も色づき始めた頃。

昼休みの職員食堂は、今日も医師や看護師たちの喧騒に包まれていた。

「……で、先輩。そろそろ『立候補』の件、回答もらえますか?」

カツ丼を咀嚼しながら、新研修医・新巻竜平が表情一つ変えずに切り出した。

向かいの席でパスタを巻いていた皐月は、手を止めて顔を引きつらせた。

「え、……というか、新巻くん、本気なの?」

「本気っすよ。俺、無駄なことしないんで」

新巻は箸を置き、真顔で皐月を見据えた。

10月に入ってからというもの、彼の「合理的求愛」は止まらない。栄養管理、スケジュール調整、そしてこの直球の催促。

皐月が答えに窮していると、ドン、と隣にトレイが置かれた。

「……ここ、いいか」

低い声と共に、皐月の隣に五十嵐拓海が座った。

彼は不機嫌そうに眉を寄せ、目の前の新巻をジロリと睨みつけた。

「……またお前か」

「あ、どうも。五十嵐先生」

新巻は悪びれもせず、ペコリと頭を下げる。

五十嵐の放つ明確な牽制のオーラなど、どこ吹く風だ。
彼は再びカツ丼に向き合い、黙々とエネルギー補給を再開した。

「あ、立花。ここ空いてるよ」

五十嵐が振り返り、少し離れた場所にいた晴瑠を手招きした。

晴瑠は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔を作って首を振った。

「あ、すみません!あっちに友達いたんで!」

彼女はそそくさと遠くの席へ行ってしまう。その背中を見送ったところにーー。

「やあやあ。楽しそうだねぇ」

白衣を着崩した形成外科の雷久保が、新巻の隣の空席に滑り込んできた。

「歓迎会の告白、傑作だったよ。『管理したい』だっけ?若いねぇ」

「……そうですか」

新巻は箸を止めず、興味なさそうに返す。

雷久保はつまらなそうに肩をすくめると、視線を前の二人ーー皐月と五十嵐に移した。

「それにしても、二人は相変わらず仲がいいねぇ」

皐月が慌てて否定しようとするより早く、五十嵐が自然に皐月のコップに水を注ぎ足していた。

皐月もまた、無意識に五十嵐の皿から苦手なパセリを移している。

長年の習慣。言葉がなくても通じ合う、阿吽の呼吸。

(……最近、五十嵐は調子に乗りすぎている)

雷久保の目は、楽しげに笑う五十嵐を冷ややかに見据えていた。

怯えて逃げ回っていた情けない男はどこへやら。

今ではすっかり「俺こそが一番の理解者だ」とでも言いたげな顔で、皐月の隣に居座っている。

皐月もまた、そんな彼に心を許しきっている。

(このままじゃ、潤一が動く前にゲームエンドになってしまう)

潤一はまだ動かない。いや、動けない。

「指導医」という安全地帯に引きこもり、五十嵐と皐月の関係を指をくわえて見ているだけだ。

これでは、俺が思い描いた最高のエンディングが見られないまま、舞台が終わってしまう。

(……ここらで一度、徹底的に叩いておくか)

雷久保は、箸を動かしながら思考を巡らせた。

五十嵐の心をへし折り、再起不能にするための、とびきりのシナリオ。

ちょうど手元には新巻という『珍味』と、晴瑠という『スパイス』がある。

(さて、どう料理してやろうか)

雷久保は、隣に座る新巻を見た。

彼は咀嚼する手を止めて、目の前に座る五十嵐と皐月をジッと観察している。

その視線に気づいた雷久保は、新巻の耳元に顔を寄せ、楽しげに囁いた。

「……不思議でしょ?あの空気感」

雷久保の声を潜める。

「うちの五十嵐と皐月ちゃん、高校の同級生でさ。『黄金コンビ』って言われるくらい仲が良かったんだって」

新巻の目がわずかに見開かれた。

彼の視線の先では、五十嵐が皐月に何かを話しかけ、皐月が小さく笑っていた。

五十嵐の瞳には、隠しきれない柔らかな色が宿っている。

(……なるほど。そういうことか)

新巻の中で、データが更新された。

観察対象ターゲット五十嵐 拓海イガラシ タクミ
状態ステータス:ライバル(確定)

雷久保は、新巻の瞳に宿った理解の色を見て、ニヤリと笑った。



その日の夕方。
形成外科と皮膚科の合同カンファレンスが開かれた。

「五十嵐先輩、戻りますか?」

会議が終わり、晴瑠が五十嵐に声をかける。

「ちょっと用があるから先戻っててくれ」

「はーい」

晴瑠は桐也たちと戻って行った。

五十嵐は皐月に声をかけようとしていた。

(あ、天野……)

その時、彼は皐月が雨宮を呼び止めているところを見た。

先ほどの症例についての質問だろうか。
彼女は熱心にメモを取りながら、雨宮の言葉に頷いている。

「……そこは前回も言っただろう」

「すみません!でも、ここの所見はどう解釈すれば……」

「それはだな……」

雨宮の声は冷たく、厳しい。
けれど、その指摘は的確で、無駄がない。

叱られているはずの皐月の表情に、萎縮した色はなかった。

むしろ、新しい知識を得られたことへの喜びと、指導医への信頼が滲み出ている。

二人の間には、誰も入り込めない「共通言語」があるように見えた。

厳格な師と、それを仰ぐ弟子。

それは、五十嵐には決して作れない聖域だった。

彼女を励ますことはできても、彼女を「高み」へ引き上げてやることはできないのだと、まざまざと見せつけられた気がした。

ーー悔しいが、認めざるを得ない。
知識、経験、そして彼女を導く指導力。

(……どう足掻いても雨宮先生には届かない)

五十嵐は二人から逃げるように視線を逸らし、会議室を後にした。



会議室の外では、新巻が壁にもたれて誰かを待っていた。

彼が、わざわざ残業代の出ないカンファレンス後に居残る理由。
それは、ある「確認」をするためだった。

出てきた五十嵐を見つけ、新巻は声をかけた。

「五十嵐先生、ちょっといいですか」

「……あ?なんだ、新巻」

新巻は、五十嵐を人気が少ない階段まで連れ出した。

「で、なんの用だよ」

「五十嵐先生って、天野先輩のこと好きなんですか?」

五十嵐の目が大きく見開かれる。

「……はぁ?お前には関係ねえだろ」

「関係あります。俺、彼氏に立候補してるんで」

新巻は一歩も引かなかった。

「先日の焼肉の時から疑ってたんですが、今日の昼の様子を見てて、確信しました。先生は先輩のことが好きだし、先輩も先生に気を許してる」

それは、誰の目にも明らかな事実だった。

だが、新巻はそこで言葉を止めなかった。
彼の中で計算された「最大の矛盾」を、残酷なまでの正論として突きつけた。

「でも、不思議なんですよね」

新巻は首を傾げた。

「そんなにお互い想い合ってて、高校からの『黄金コンビ』だかなんだか知りませんが……」

彼は、五十嵐の目を真っ直ぐに見据えて言い放った。

「この10年近く、何やってたんですか?」

見えない刃物が、五十嵐の心臓を貫いた気がした。

「……」

「高校からってことは10年くらいありますよね?10年もあって、何も進展してないってことは、怠慢か、無能か、よっぽどのヘタレか。……どれにしても、効率が悪すぎますね」

「……在庫管理ストックのつもりですか?10年間、手もつけずに棚卸しもしない。……もし俺が管理者なら、そんな不良在庫、とっくに廃棄処分にしますけど」

新巻の言葉には、悪意はない。
ただ純粋な疑問と、呆れがあるだけだ。

五十嵐は唇をわななかせ、拳を握りしめたが、言葉が出なかった。

何も言い返せなかった。

彼の言う通り、自分はこの長い期間、ただ立ち止まって言い訳をしていただけなのだから。

「……回答がないなら、俺がもらっていきますよ」

新巻はそう言い捨てると、五十嵐の横を通り過ぎていった。

その背中は、「時間の無駄だった」と語っているようだった。



階段に一人残された五十嵐は、壁に背を預けて項垂れていた。
そこへ、雷久保が近づく。

「よっ。元気ないねぇ、五十嵐」

「……放っといてください」

「そういえば聞いた?晴瑠ちゃん、来年度から正式にうちの大学の皮膚科に入局が決まったって」

「……そうですか。戦力になるんじゃないですか」

「他人事だねぇ。……でもさ、不思議だと思わない?彼女、出身は東京のお嬢様学校で、実家も向こうなんだよ。普通なら、卒業と同時に都内に戻ると思わない?」

雷久保は、逃げ道を塞ぐように五十嵐の前に立った。

「そもそも、なんで彼女が初期研修の病院にここを選んだと思う?」

「それは……親友が残るから、とか……」

(園田夏美は、秋人と結婚するからここに残ったって聞いてる。……だから立花も、親友と離れ難くてここに残ったんだ)

五十嵐は、自分にそう言い聞かせる。

「それだけか?お前と晴瑠ちゃん、大学時代サッカー部の先輩後輩だったんだろ」

雷久保は冷徹な眼差しで、五十嵐の目の奥を覗き込んだ。

「彼女には、都内の病院で研修する選択肢だってあったはずだ。……それを止めてまでこの田舎に残ったのは、お前がいたからじゃないのか?」

五十嵐が息を呑む。

「あの子は初期研修の2年間を、お前への可能性に賭けてここに残った。そして今になって、お前が手に入らないことをようやく受け入れ、都内に戻ろうとしていたんだ」

雷久保は、五十嵐の胸を指先で小突いた。

「晴瑠ちゃんね、いろんな都内の病院のホームページを見てたよ。でも、この時期じゃもう遅いんだ。条件の良い都内の人気病院はとっくに定員が埋まってる。……その結果、あの子は傷心のまま、お前の顔が見えるこの病院で働き続けるしかなくなった」

五十嵐は、想像もしていなかった。
自分の態度が、単に彼女を傷つけただけでなく、彼女のキャリアと人生の選択肢そのものを、数年単位で奪い続けていたという現実を。

「……残酷だねぇ、五十嵐」

雷久保は、耳元で囁いた。

「お前の優しさは、猛毒なんだよ。……その思わせぶりな態度が、あの子の人生を狂わせたんだ」

「……ッ」

五十嵐は言葉を失い、崩れ落ちそうになる膝を必死に支えた。

雷久保は、俯いている五十嵐を無表情で見つめる。

(……潤一は過去を背負って、血を吐くような努力をして今の地位にいる)

それに比べて、お前は何だ?

何年もただ漫然と時間を浪費し、他人の人生を狂わせ、覚悟もなくヘラヘラと笑っているだけの男。

……そんな半端な人間に、潤一の『光』を渡すわけにはいかないんだよ。

雷久保はニヤッと笑って言った。

「……後輩の人生をめちゃくちゃにしといて、自分だけ幸せになろうとするなよ?な、五十嵐」

その言葉は、五十嵐の良心を完膚なきまでに叩き潰した。
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