『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第五章 秋風のロジックと、古びた記憶の鍵

第46話 指導医の仮面と、アンフェアな断罪

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10月末。

世間がハロウィンで浮かれている中、五十嵐の心は真冬のように凍てついていた。

『お前の優しさは、残酷なんだよ』

雷久保に突きつけられた言葉が、呪いのように頭の中を反響している。

「……五十嵐先輩?そろそろ手術に行かないとじゃないですか?」

背後から声をかけられ、驚いて振り返ると、晴瑠が困ったような顔をして立っていた。

『後輩の人生めちゃめちゃにしといて、自分だけ幸せになろうとするなよ?』

雷久保の言葉を思い出し、心がグッと苦しくなる。
……俺のせいで、立花の人生がめちゃくちゃに……。

「……わりぃ。先いくわ」

五十嵐はそう言うと、晴瑠と目も合わさず、一人で早足で行ってしまった。

(……あれ?先輩、何かおかしい?)

前までは手術室まで一緒に行ってたのに。

晴瑠はそんな五十嵐の様子に首を傾げつつも、手術室へ向かった。



その頃。中央手術室。

とある部屋で、皮膚科チームによる手術が行われていた。
執刀医は皐月、指導医は雨宮。そして助手に新巻が入っている。 

背部の脂肪腫の切除。

「……剥離、完了しました」

「よし。出血点を確認しろ。……そこだ、凝固」

「はい」

ジュッ、と電気メスが組織を焼く音がする。
皐月の手技は安定していた。雨宮の的確な指示に対し、迷いなく手が動く。

「……縫合に移る。真皮縫合、やってみろ」

「はい」

皐月が持針器を握り、針を通す。

雨宮は腕組みをして、その手元をじっと凝視していた。

一針、二針。創縁が合い、傷が閉じていく。

「……いいだろう」

雨宮が、マスク越しに短く言った。

「以前より、運針がスムーズだ。創縁にかかるテンションも均一になっている。……よく練習したな」

「!ありがとうございます……!」

皐月の目が輝く。
雨宮もまた、ほんの一瞬だけ目元を緩め、頷いた。

その空気感。

二人の間に流れる、言葉不要の信頼と、師弟関係を超えた親密な湿度。

それを、助手の新巻は冷ややかに観察していた。

(……なんだ、今の間は)

その時、新巻のPHSが鳴った。美雲からだ。

「ごめんね新巻くん。右下腿の蜂窩織炎疑いの患者さんが救急外来にいるみたいで、手術が終わったらこっちに来れるかな?」

救急外来からのコールが入ったため、新巻は手術室を抜けることになった。

「お疲れ様。こっちはやっておくから行ってらっしゃい」

皐月がニッコリと笑う。

新巻は「ありがとうございます」と軽く頭を下げ、手術室を後にした。

背後で、雨宮が皐月に優しく声をかけているのが聞こえた。

(……怪しいな)

新巻の脳内で、新たな仮説が構築され始めていた。



中央手術室の男子更衣室。

手術を終えた医師たちが、疲れた様子で着替えている。

「お疲れさん、新巻くん」

声をかけたのは、上機嫌な雷久保だった。

「この間、五十嵐と何か話してたけど、どうしたの?あの後あいつ、すごい凹んでてさー」

雷久保はニヤニヤしながら、探るように聞いた。

「あー、10年近く何やってたんですかって聞きました。……何も答えてくれませんでしたけど」

「ははは!最高だよ君!『何やってたんですか』か!」

雷久保は腹を抱えて笑った。

(いいねぇ、最高だ。この『駒』は、使える)

五十嵐のメンタルはもうボロボロだ。
……次は、あの鉄仮面だな。
『指導医』という安全地帯に隠れて、傷つくことを恐れている臆病な男。

(……新巻くん、頼むよ。君のその容赦ない正論パンチで、あの煮え切らない指導医に『喝』を入れてやってくれ)

「でもさ、新巻くん」

雷久保は笑いを収めると、スッと声を低くした。

「五十嵐なんて、実はザコなんだよね」

「……はい?」

「君の恋路を邪魔する『ラスボス』は、別にいるって話」

新巻の手が止まる。

「君も薄々気づいてるんじゃない?医局に一人、指導医という絶対的な権力を利用して、皐月ちゃんを囲い込もうとしてる卑怯な男がいることに」

雷久保は、あえて名前を出さなかった。

「評価権限を持ってる人間が、特定の部下だけを特別扱いして、精神的に依存させる……。それって、ハラスメントだよねぇ?公平な競争じゃないよなぁ」

雷久保は意味深に肩をすくめると、「ま、気をつけてね」と言い残して更衣室を出て行った。 

残された新巻は、目を細めた。

(指導医。権力。囲い込み……)

彼の脳内データベースが高速で検索をかける。

先ほどの手術室での光景。

そして、一人の人物の行動ログがヒットした。



翌日。皮膚科医局。 

新巻は、自分の業務を淡々とこなしながら、常に「ある人物」を観察していた。

観察対象ターゲット雨宮 潤一アマミヤ ジュンイチ

【観察ログ 9:00】回診中。
患者が天野先輩に感謝の言葉を述べた時。
雨宮先生が、自分のことのように微かに口元を緩めた。
……その視線は、指導医が部下を見るものではなく、所有者が所有物を愛でるそれに近い。

【観察ログ10:00】回診終了後。
他の専攻医への指導時間:平均45秒。指示は端的で合理的。
天野皐月への指導時間:3分20秒。
内容:「前も言ったが」「顔色が悪い」「無理をするな」。
……業務外の体調管理(及び説教)が含まれている。重複も多い。

【観察ログ 16:00】 医局にて。
俺が天野先輩に、効率的な栄養補給について提案をしている時。
雨宮先生のタイピング音が、通常時の1.5倍の強度(打鍵圧)を記録。
貧乏ゆすりの振動を確認。

明らかにイラついている。感情制御の不全。

「……確定だな」

新巻は、電子カルテの画面を見つめたまま、小さく呟いた。

ーー雷久保の言っていたことは事実だ。
これは、同じ「男」としての土俵に上がらずに優位に立とうとする、極めて不公平アンフェアな行為だ。

「……卑怯チートだ」

新巻の中で、排除すべき「エラー」として雨宮が認定された。



その日の夕方。

診療時間をとうに過ぎ、照明が落とされた外来フロアは、深海のように静まり返っていた。

その一角にある第3診察室ーー雨宮の個室ブースからだけ、明かりが漏れている。

ノックもせず、新巻はその扉を開けた。

「……雨宮先生」

部屋の中では、雨宮がデスクに向かい、論文の査読を行っていた。

「……新巻か。なんだ、ノックぐらいしろ」

「すみません。急ぎの案件だったんで」

新巻は扉を閉めた。

「どうした。症例の相談か? それともトラブルか」

「いえ。業務改善の提案です」

新巻は、雨宮の目を真っ直ぐに見据え、問いかけた。

「先生、天野先輩のこと、好きなんですよね?」

カチリ。

雨宮の手の中で、ボールペンの芯が戻る音がした。
狭い診察室の空気が、一瞬にして真空になったかのように張り詰める。

「……何を言っている。ふざけるな」

「ふざけてません。データは揃ってます」

新巻は一歩も引かなかった。

「指導時間の偏り、視線の滞留時間。それにさっき、俺が先輩と話していた時の打鍵圧の変化……どう見ても、指導医の範疇を超えてますよ」

「貴様……!」

雨宮が椅子を蹴って立ち上がった。

雨宮からは激しい怒気が放たれているが、新巻は柳のようにそれを受け流し、核心を突くトドメの一言を放った。

「指導医という絶対的な立場を使って、特定の部下を囲い込むのはやめてもらえませんか?それは『指導』という名の利益誘導です」

「……私は、彼女の指導医として、適正な……」

雨宮は反射的に反論しようとした。
だが、その言葉はあまりにも空虚で、最後まで続かなかった。
新巻の冷徹な瞳が、「それが言い訳だと、自分でも分かっているんでしょう?」と語りかけていたからだ。

「……不公平アンフェアですし、コンプライアンス的にリスクが高いです。……男として戦う気がないなら、邪魔しないでください」

新巻の放った正論は、鋭利なメスとなって雨宮の最も痛い「指導医としての一線」というプライドと、ひた隠しにしてきた恋心を、無残にも切り裂いた。

……反論できない。

薄暗い診察室の中、若き研修医に見下ろされ、鉄仮面の指導医は言葉を失って立ち尽くしていた。

「……失礼しました」

新巻は言いたいことだけ言うと、背を向けて部屋を出て行った。

扉が閉まる音が、静寂に大きく響いた。

雨宮は、力が抜けたように椅子に座り込んだ。

指導医失格だ。

研修医に見透かされるほどの感情を垂れ流し、立場を利用していると糾弾される。

自分は、皐月を守っているつもりで、ただ自分の檻に閉じ込めていただけなのか。

「……何やってるんだ、俺は」

雨宮は眼鏡を外し、両手で顔を覆った。



廊下を歩く新巻は、ポケットの中で手を握ったり開いたりしていた。

(……エラーだらけだ)

天野先輩の周りには、ろくな男がいない。

一人は10年近くも何もしないで、ただ「待っていた」だけの無能ポンコツ
もう一人は、指導医という権力を使って囲い込み、安全地帯から手を出さない卑怯者チーター

二人とも、俺が少し問い詰めただけで黙り込む。
反論する熱意も、彼女を守る気概もない。

(ルックス、スペック、将来性、遺伝子……どう計算しても、俺が最適解のはずだ)

ーーなのに、なぜ彼女は俺を選ばない?
あの二人のどこがいいと言うんだ?

(……バグか?)

新巻は首を傾げた。
理解不能なエラーコードが胸の中に蓄積されていく。

(……ま、どうせ付き合えたとしても、すぐ振られるんだろうけど)

そんな自虐的な予測変換が脳裏をよぎったが、新巻はそれを「ノイズ」として処理し、ゴミ箱へ捨てた。
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