『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第五章 秋風のロジックと、古びた記憶の鍵

第47話 欠落したフィルムと、恩人のヒント

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11月上旬の夜。雨宮の診察室。

デスクの明かりの下、雨宮は眉間に深い皺を刻み、モニターを睨みつけていた。
画面に映っているのは、皐月が作成した学会発表用のスライドだ。

「……ここ、論理が飛躍している。修正しろと言ったはずだ」

雨宮の声は、驚くほど低く、冷え切っていた。

皐月が、ビクリと肩を震わせる。

「す、すみません……。あの、こちらのデータを入れた方が説得力が増すかと……」

「不要だ。情報を詰め込めばいいというものではない。見る側の視点が欠けている」

雨宮は容赦なく切り捨てた。

皐月が涙目になりながらマウスを操作する。
その萎縮した姿に、胸の奥がチクリと痛む。

だが、雨宮はあえて言葉を緩めなかった。
脳裏に、数日前の言葉が呪いのようにこびりついているからだ。

『指導医という絶対的な立場を使って、特定の部下を囲い込むのはやめてもらえませんか?』

『アンフェアですし、男として戦う気がないなら邪魔しないでください』

新巻の氷のような正論。

自分は、指導医という立場を隠れ蓑にして、彼女を独占し、安全な場所から愛でていただけだ。

その卑劣さを指摘された今、雨宮は自身の振る舞い方がわからなくなっていた。

優しくすれば「囲い込み」になる。
距離を詰めれば「職権乱用」になる。
ーーならば、徹底的に「指導医」に徹するしかない。

私情を挟まず、厳しく、冷徹に。
それが、彼女に対する唯一の誠実さだと自分に言い聞かせて。

「……もう一度作り直してこい。構成から練り直せ」

「は、はい……」

皐月は震える声で返事をし、診察室を飛び出した。

雨宮は、自分のデスクの書類に目を落とした。

その時。
ノックもなしにドアが開いた。

「……ひどい顔だねぇ、潤一」

雷久保だ。
彼は面白がるような目で雨宮を見下ろした。

「さっき、皐月ちゃんが泣きそうな顔で走って行ったよ。……潤一さ、新巻に何か言われたか?」

雨宮の手がピクリと止まる。

「……黙れ」

「図星か。あいつの正論に痛いところを突かれて、慌てて『鬼指導医』の仮面を被り直したってわけだ」

雷久保はデスクの縁に腰掛け、冷ややかに笑った。

「臆病だな。その『指導医の鎧』を着ていれば、確かに安全だ。傷つくこともない」

彼は雨宮の胸元を指差した。

「でもな、鎧越しじゃ体温は伝わらないぞ。お前がかっこつけてる間に、生身でぶつかってくる奴に全部持っていかれる。……それでもいいのか?」

反論できない雨宮を残し、雷久保は満足げに部屋を出て行った。

雨宮は呆然と虚空を見つめた。

『体温は伝わらない』 

その言葉が、耳の奥で痛いほど反響していた。



翌日。大学病院の皮膚科医局。 

窓から見下ろすキャンパスは、年に一度の学祭に向けた準備で活気づいていた。
色づき始めた銀杏並木の下を、看板や資材を持った学生たちが楽しげに行き交っている。

「うわー、懐かしいねぇ!学祭の時期かぁ」

窓の外を眺めていた美雲が、歓声を上げた。

医局の窓辺には、休憩中のメンバーが集まっていた。

「青春って感じね。……私、学生時代の学祭で先輩に告白して、見事に玉砕したの思い出しちゃったわ。焼きそばの紅生姜を見るだけでその時のトラウマが……」

「霜田先生、朝から重いです」

遠い目をする霜田に、隣でコーヒーを飲んでいた雪村が冷静にツッコミを入れる。

「雪村くんは?学祭の思い出とかないの?」

「……俺は一度も参加してないですね。人が多い場所は非効率ですし、当時は研究室にこもっていたので」

「うわー、雪村くんらしい!」

美雲が笑うと、雪村は「余計なお世話です」と不服そうに眼鏡を直した。

そこへ、プロテインバーをかじっていた新巻が、ボソリと口を挟んだ。

「俺は、高校の時、ここの学祭来ましたよ」

「えっ、新巻くんが?意外!」

「志望校のデータ収集っすね。雰囲気とか設備とか、実際に見ないと分からないパラメータもあるんで」

相変わらずの合理主義だ。

そんな和やかな会話の中、美雲がふと皐月に話を振った。

「皐月ちゃんは?うちの学祭、来たことある?」

「え?あ、はい。高校3年生の時に、確か……」

皐月は記憶を辿った。

9年前の秋。
受験勉強の息抜きというか、モチベーションを上げるために、母の母校であるこの大学の学祭に来たことがあったはずだ。

「確か、母と一緒に来た……はず……」

そこまで言って、言葉が詰まる。

あれ?学祭で何があったっけ?
思い出そうとすると、頭の奥で砂嵐のようなノイズが走り、思考が白く霞んでしまう。
肝心なその日の「記憶」が、すっぽりと抜け落ちている。

「皐月ちゃん?」

「あ、すみません!……ちょっと寝不足なのか、ぼーっとしちゃって」

「昨日のオンコールも呼ばれたんだっけ?天野先生、小林先生の運の悪さを受け継いじゃって大変ね。少し休んできたら?」

「大丈夫です!すみません」

みんなの笑い声に包まれながら、皐月はもう一度、窓の外の景色を見つめた。 

あの日の記憶のピースは、まだ埋まらないままだった。



夕方。

病棟から戻る途中、長い廊下の向こうから五十嵐が歩いてくるのが見えた。
彼は俯き、足元を見つめるようにして歩いている。

「あ、五十嵐……?」

皐月が声をかけたが、彼は気づかずに通り過ぎてしまった。

視界に入っていないようだった。

「……はぁ」

その後ろを、形成外科の晴瑠が歩いてきた。
彼女は五十嵐の背中を心配そうに見つめていたが、皐月に気づくと足を止めた。

「あ、皐月先生」

「晴瑠ちゃん久しぶり。……五十嵐、元気ないね。どうしたの?」

「……最近ずっとあんな感じなんです。話しかけても上の空だし、食事も摂ってないみたいで」

晴瑠は眉を下げ、悲しげに言った。

「何かあったのか聞いても答えてくれないし……。先生、何か知りませんか?」

「何も聞いてない……。……どうしちゃったんだろうね」

二人は顔を見合わせ、ため息をついた。



晴瑠と別れたあと、皐月は一人廊下で物思いにふけていた。

(五十嵐……どうしちゃったんだろう……)

さっき見かけた姿は明らかに生気を失っていた。
だけど考えても、何も思い当たることはない。

(私のことも……無視をしたというより、全く気づいていなかった)

前は、距離を取られている感じがした。
でも今は……視界にすら入っていないみたいだった。
きっと何かあったはずだ。

皐月はスマホを取り出し、五十嵐にメッセージを送った。

『久しぶり。最近何かあった?晴瑠ちゃんも心配してるよ』

皐月はスマホをポケットにしまった。

彼女は、ふと窓の外を見た。
学生たちが学祭の準備をしている。

(高校3年生、9年前、学祭……)

皐月が考えを巡らせたその時、ふいに脳裏に先日の飲み会の会話がフラッシュバックした。

『俺たち、昔会ったことあるよね?9年くらい前に』
『学祭とかも、一緒に行ったよねー』

ーー雷久保先生は、何かを知っている?

なぜかはわからない。
だけど、あの日の記憶を知りたいーー知らなければならない、気がする。

(……聞きに行こう)

皐月は意を決して、形成外科医局へと向かった。



「……おや。皐月ちゃんじゃん」

形成外科医局の入り口で、ちょうど出てきた雷久保と鉢合わせした。

「どうしたの?五十嵐なら、さっき死んだような顔で病棟行ったけど」

「いえ、今日は雷久保先生にお聞きしたいことがあって」

「俺に?へぇ、告白?」

「違います」

皐月は真剣な眼差しで彼を見上げた。

ここは人が多い。

「……場所を変えてもいいですか?」

移動先は、人気の少ない非常階段の踊り場だった。

雷久保は手すりに寄りかかり、面白そうに皐月を見下ろしている。

「で?改まって何?」

「あの……以前、先生は『9年前に私に会ったことがある』って言ってましたよね?」

「言ったねぇ」

「私も、先生に初めて会った時、どこかで会ったような既視感があったんです。でも、どんなに考えても思い出せないんです」

皐月は、祈るように問いかけた。

「私とどこで会ったのか、教えてください。……気になるんです」

雷久保は、ふっと口元を緩め、懐かしむように目を細めた。

「……やっぱり覚えてないか」

彼は独り言のように呟くと、皐月の顔を真っ直ぐに見た。

「この大学の学祭でね、君は派手に転んで怪我をした」 

「……!」

「そこに通りかかった医学生が、君を助けた。傷を洗って、止血して、ハンカチを貸して」

ハンカチ。

その言葉に、皐月の記憶の蓋が揺らいだ。

無意識にポケットの中のハンカチに触れる。 
ーーそうだ。あの日、私は誰かに助けてもらった。

『君のような人が、医者になるべきだ』と言われたんだ。

「その時、俺も一緒にいたんだよ。その医学生の隣にね」

雷久保の言葉に、心臓が大きく跳ねた。
ーー雷久保先生は、私にハンカチをくれた「あの日のお兄さん」を知っている。

「じゃあ、私を助けてくれたのは……雷久保先生のお友達ですか?その方は、今どこに……」

「どこに、か」

雷久保はクスクスと笑った。

そして、一歩皐月に近づき、内緒話をするように声を潜めた。

「あのね、皐月ちゃん。……君の恩人は、君のすぐ近くにいるよ」

皐月の呼吸が止まる。

ーー近くにいる?

「君を助けた男は、あの日からずっと君を見ていた。……だが、見ての通り、彼は動かない」

雷久保は、静かに、しかし断定するように言った。

「なぜなら、彼は『指導医』という鎧を脱ぐのが怖いからだ」

見えない衝撃が走った。

「……えっ……」

恩人。指導医。雷久保の友人。

すべてのピースが、一人の人物を示す。

(……雨宮先生?)

顔から血の気が引いていく。

あの厳格な指導医が、私の人生の光だった人?
そして、彼は、私に真実を言えない?

……信じられない。

でも、あの夜。陽介から助けてくれた時の背中。
倒れそうになった日。車で送ってくれた時の優しさ。
スライド修正の時に感じた、不器用な熱。

それらの「温かさ」は、ハンカチを握ったときに感じるものに似ている気がした。

「……」

雷久保は、動揺する皐月を見て、不遜な笑みを浮かべた。

「かわいそうに。彼は、君の『理想の恩人』で居続けることを選んだ。……臆病なんだよ」

雷久保は、皐月の肩に手を置いた。

「行くべきだよ、皐月ちゃん。……君が、彼を突き動かせ」

甘く、しかし強く背中を押す言葉。
皐月は混乱の中で立ち尽くしていた。

確信には至らない。
けれど、疑惑は確信めいた重さを持って、胸の奥に沈殿していった。

雷久保は、硬直する皐月を残し、階段を登っていった。

「彼はずっと君を見てたよ。……ちゃんと思い出してね。君が本当に心から求めている人を」

その言葉は、呪いのようにも、祈りのようにも聞こえた。
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