『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第五章 秋風のロジックと、古びた記憶の鍵

第48話 道化師のシナリオと、眠り姫の目覚め

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雨宮潤一という男は、最初からあんなに退屈な「鉄仮面」だったわけではない。

医学部に入学したばかりの頃の彼は、むしろ俺ーー雷久保日向よりも、よく笑い、よく喋る男だった。

成績は優秀だが、鼻にかけたところがない。
くだらない下ネタで笑い、講義をサボってラーメンを食いに行き、将来の夢を熱く語る。

どこにでもいる、けれど誰よりも眩しい、等身大の青年だった。

「……雷久保。俺は、父さんのような医者にはなりたくない」

安酒を飲みながら、彼はよくそう言っていた。

経営重視の父親への反発と、理想の医師像。
その青臭い情熱が、俺は嫌いじゃなかった。

だが、自分の無知で患者を見殺しにし、実家の父に絶望したあの日から、雨宮潤一は死んだ。

笑顔は消え、冗談は通じなくなり、彼は自分自身を「感情のない機械」へと作り変えた。
贖罪のために、知識だけを詰め込むマシーン。

見ていて痛々しかった。
そして何より、つまらなかった。

俺は思ったものだ。

こいつをこの「地獄」から引きずり出せる人間など、もうこの世にはいないのではないか、と。

あの日、あの瞬間を見るまでは。



9年前の秋。学祭。
俺が無理やり連れ出したキャンパスで、その「奇跡」は起きた。

転んで怪我をした女子高生。

膝から血を流しながら、痛みに耐えて笑った少女。

『……私も母みたいに、患者さんを助けられる「本物の医者」になりたくて!』

その言葉を聞いた瞬間。
死んだ魚のようだった潤一の瞳に、パチリと火花が散るのを、俺は見た。

何年ぶりだろうか。

彼が、あんなに必死な顔で、他人の手を握りしめたのは。
彼が、あんなに熱のこもった声で、「頑張れ」と誰かを励ましたのは。

俺は直感した。

ああ、これだ、と。

この少女こそが、死にかけている雨宮潤一を蘇らせるための、唯一の『劇薬』なのだと。

だが、その劇薬は名前も告げずに去っていった。

潤一は、彼女との「約束」を守るためだけに医者になり、そしてこの大学病院に残った。

いつか彼女が来ることを信じて。



そして今年の3月。

俺は、皮膚科の医局で奇妙な光景を目にした。
潤一が、デスクで一枚の書類を凝視していたのだ。

普段なら事務的に処理するはずの入局希望者の履歴書。
それを、まるで宝の地図でも見るかのように、食い入るように見つめている。

「……何見てんの?潤一」

俺が後ろから覗き込むと、彼はハッとして書類を伏せようとしたが、遅かった。

「……誰それ」

「……4月から、うちに入局することになった研修医だ」

潤一は素っ気なく答えたが、その声は微かに上擦っていた。

俺は隙を見て、その履歴書の写真と経歴を盗み見た。

『氏名:天野 皐月』 
『出身高校:県立北関東高等学校』 
『出身大学:都内私立文京医科大学』

そして、証明写真に写る、栗色の髪と真っ直ぐな瞳。

(……ん?)

記憶の彼方にある映像が、フラッシュバックする。

9年前の学園祭。怪我をした少女。
面影がある。いや、間違いない。

(……マジかよ。帰ってきたのか)

潤一の待ち人が、9年の時を経て、本当に現れたのだ。

これは面白くなる。
俺は特等席で高みの見物を決め込むつもりだった。

しかし、事態はそう単純ではなかった。



4月。
職員食堂で、俺は「異変」を目撃した。

普段は冷静な五十嵐拓海が、何かに怯えるように顔面蒼白になり、トレイを持って逃げ出してきたのだ。

「……おいおい、どうした?」

俺の問いかけも無視して、彼は去っていった。

気になって彼が座ろうとしていた席を見ると、そこには一人の女性医師がいた。

天野皐月だ。

彼女は、空席の隣で、寂しそうに俯いていた。

(……へぇ?)

俺の勘が、けたたましくアラートを鳴らした。

俺は迷わず、その空席ーー五十嵐が逃げ出した席に滑り込んだ。

「ここ、いいかな?」

彼女は驚いた顔をしたが、俺は構わず話しかけ、核心を突く質問を投げた。

「ねえ。君はなんで皮膚科医になったの?」

彼女は少し迷ってから、真っ直ぐな瞳で答えた。

『……母が、この大学病院の皮膚科医だったんです。私も、母のようになりたくて』

ビンゴだ。

9年前、あの少女が潤一に言った言葉と同じ。
ーー彼女こそが、あの日の「劇薬」だ。

だが、俺の中で新たな疑問が生まれた。

なぜ、五十嵐は逃げた?
なぜ、彼女はあんなに悲しそうな顔をしていた?

……その答えは、数日後に判明した。

俺が非常階段でサボっていた時、下の階から話し声が聞こえてきたのだ。

『五十嵐とは何もないの。付き合ってないし、追いかけてきたわけでもないの!』

『えー、でも俺、見てましたよ?サッカー部の引退試合の時、五十嵐さんのとこに特製ドリンク差し入れてたの、天野先輩でしたよね?』

『あんな『頑張れーっ!』って叫んで、最後泣きそうな顔で応援してるクラスメイト、普通いないっすよ! あれは完全に愛っす!』

皐月と、研修医の霧生の会話だった。
壁の陰で、俺は思わず笑みを深めた。

……なるほど。そういうことか。

天野皐月は、潤一の「光」であると同時に、五十嵐拓海の「過去の因縁」でもあったのだ。

しかも、五十嵐のあの拒絶反応を見るに、ただの元カノではない。もっと根深く、厄介なコンプレックスが絡んでいる。

(……傑作だ)

潤一が9年間待ち焦がれた「運命の相手」は、潤一ではなく、五十嵐を見ていた。

しかも、潤一の記憶を、彼女はすっかり忘れているときた。



そして現在。11月上旬の夜。

大学病院の屋上で、雷久保は夜風に吹かれながら、缶コーヒーを弄んでいた。

「……長かったな」

あれからしばらくの間、俺はこの歪な三角関係を観察し続けた。 

彼女は『眠り姫』のように、肝心な恩人の記憶を忘却の彼方に封じ込め、五十嵐という過去の傷に囚われていた。

一方の潤一もまた、臆病風に吹かれて動こうとしない。 
「指導医と部下だ」などと自分に言い訳をして、安全地帯から彼女を見守るだけの「事勿れ主義」を決め込んでいる。

(……やれやれ。どいつもこいつも、手のかかる)

このままでは、何も変わらない。

眠り姫を目覚めさせ、臆病な王子を焚きつけるには、強烈なショック療法が必要だ。
平穏な日常をぶち壊し、彼らの感情を掻き乱す、強力な『治療』が。

だから、俺は利用した。 
五十嵐拓海という、最高に都合の良い『当て馬』を。

彼を煽り、追い詰め、皐月への未練を自覚させた。 
彼が本気になればなるほど、潤一の余裕は失われ、焦燥と独占欲が引きずり出される。
皐月もまた、過去と向き合わざるを得なくなる。

そして、忘れてはいけないのが、優秀な脇役たちだ。

まずは『天然の放火魔』。
あの空気が読めない研修医は、五十嵐と皐月の過去を「感動の実話」として周囲に広め、大火事を起こしてくれた。
悪意がない分、その言葉は誰にも止められない。最強の『拡声器』だ。

次に、当て馬に恋した哀れな『負けヒロイン』。
何年も五十嵐に振り回され、人生を狂わされたのに、報われない可哀想な子。
天然の放火魔によって心を焦がされた彼女の暴走は、過去最高のショーだった。
また、彼女の叶わぬ恋心と「戻れない事情」は、五十嵐に罪悪感を植え付ける最高のスパイスになった。

そしてもう一人。あの『感情のない怪物』。
あいつ自身はつまんない奴だったが、あいつは俺が少し誘導するだけで、五十嵐と潤一をかき回す素晴らしい『竜巻』として機能してくれた。

……ああ、そうそう。 
舞台に立たずして当て馬に敗れた『雑魚』もいたっけ。皐月の同期の眼鏡の男。
あいつも特等席で観戦させてやろう。
彼もまた、賢いふりをして何も手に入れられなかった、俺たちの同類だ。

「……さあ、舞台は整ったぜ」

雷久保は、眼下に広がる街の灯りを見下ろして、ニヤリと笑った。

五十嵐を追い込み、潤一の退路を断った。 
そして今夜、眠り姫に「真実」へのヒントを与えた。

もう、誰も逃げられない。

眠り姫が目を覚ませば、止まっていた時間は動き出す。

それが、ハッピーエンドになるか、悲劇になるかは知らないが、少なくともあの退屈な「鉄仮面」が剥がれ落ちる瞬間だけは、特等席で見せてもらおうじゃないか。

「……戻って来いよ、潤一。俺がお前を壊してやるから」

雷久保は、空になった缶をゴミ箱に放り投げると、満足げに闇へと消えていった。 
これから始まる、長い夜の幕開けを告げるように。
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