『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第五章 秋風のロジックと、古びた記憶の鍵

第49話 共犯者の嘘と、計算外のアドリブ

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11月上旬。 

形成外科の医局で、晴瑠はスマートフォンの画面を見つめ、深いため息をついていた。

画面には、皐月からのメッセージが表示されている。

『五十嵐に「何かあった?」って聞いてみたんだけど「何もない。心配するな」って言われちゃって。ごめんね、力になれなくて』

晴瑠は眉をひそめた。

五十嵐が落ち込んでいる。それは晴瑠も気づいていた。
ここ数週間、彼は生ける屍のように生気がなく、必要最低限の会話しかしない。

皐月と上手くいかなくて凹んでいるのかと一瞬疑ったが、皐月の文面を見る限り、彼女も理由が分からず困惑しているようだ。

(……先輩。いつまでそうしているつもりですか)

晴瑠は唇を噛み締めた。

また、元のうじうじしたかっこ悪い先輩に戻ってしまっている。
理由は何であれ、見ていられなかった。

話がしたい。喝を入れてやりたい。

けれど、今の五十嵐は晴瑠を徹底的に避けている。
「合わせる顔がない」というオーラを出し、目が合うと逃げてしまう。

正面から「話をしましょう」と誘っても、100%断られるだろう。

(……私一人じゃ、捕まえられない)

晴瑠は決意を固め、連絡先リストからある人物を選んだ。

雪村慧。

この病院で唯一、彼女の「本性」を知る共犯者だ。

『雪村先生。お願いがあります。五十嵐先輩を捕獲したいんです』

『先生の演技力を、お借りできませんか?』



その日の夕方。

形成外科と皮膚科の合同カンファレンスが始まる直前のことだった。
会議室へ向かう廊下で、皐月は雷久保に呼び止められた。

「よっ、皐月ちゃん」

「あ、雷久保先生。お疲れ様です」

雷久保は人懐っこい笑顔で近づいてきたが、その瞳はどこか探るような色を帯びていた。

「どう?その後」

「え?」

「思い出した?……君の恩人のこと」

声を潜めて問われ、皐月は言葉に詰まった。

あの日、非常階段で雷久保に言われた言葉。

『恩人はすぐ近くにいる』

『彼は指導医の鎧を着ている』

そのヒントが指し示す人物は、どう考えても雨宮しかいない。

けれど。

「……すみません。まだ、確認できてなくて」

「ふーん?なんで?」

雷久保が小首をかしげる。

「気にならないの?ずっと探してた相手だろ? 目の前にいるのに」

「気になります。……でも、今は」

皐月は手元の資料を強く握りしめた。

「地方会の準備でいっぱいいっぱいで……。今はそっちに集中したいんです。雨宮先生も、指導医として熱心に見てくださってますし……変に過去の話を持ち出して、今の関係を壊したくなくて」

それは、逃げかもしれない。

でも、今の皐月にとっての最優先事項は「過去のロマンス」ではなく、「医師としての責任」だった。

それに、心のどこかでブレーキがかかっていた。

もし彼が恩人だと確定してしまったら、今のーー五十嵐と向き合おうとしている自分の気持ちが、揺らいでしまう気がして。

「……そっか。仕事熱心だねぇ」

雷久保は薄く笑った。

だが、皐月が背中を向けて歩き出した瞬間、彼の表情から笑みが消えた。

(……つまんねぇな)

雷久保は苛立っていた。

自分の書いた脚本では、ヒントを与えれば、彼女はすぐに雨宮の元へ走り、劇的な再会を果たすはずだった。

それなのに、彼女は動かない。

「恩人」という最強のカードよりも、「目の前の仕事」や「現在の関係」を優先している。

(ま、いいさ。学会が終われば動くだろ)

雷久保は気を取り直し、会議室へと入っていった。



カンファレンスが終了し、医師たちが解散していく。

五十嵐は誰とも目を合わせず、出口へ向かっていた。
早く一人になりたかった。

「……おい、五十嵐」

背後から、低い声で呼び止められる。
振り返ると、雪村が資料を片手に立っていた。

「なんだ、雪村」

「さっきのお前のプレゼンについて、聞きたいことがある」

雪村は眼鏡の位置を直し、極めて事務的な口調で言った。

「あの皮弁の選択だが、血流維持の観点で議論の余地があると思う。……ちょっと来い」

仕事の話。しかも、同期からの技術的な指摘。
五十嵐の足が止まる。

プライベートな誘いなら断った。
だが、仕事となれば話は別だ。逃げるわけにはいかない。

「……わかった。どこでだ」

「ここじゃ人が多い。場所を変える」

雪村は顎で廊下をしゃくると、さっさと歩き出した。

五十嵐は小さく溜息をつき、その背中を追う。

連れて行かれたのは、皮膚科外来ブースの一角にある「光線療法室」だった。

乾癬や白斑の治療に使われる、紫外線照射装置(ナローバンドUVB)が置かれた、狭く閉鎖的な部屋だ。

昼間は患者で賑わっているが、夜の外来は消灯しており、人気はない。

「……ここか?」

「ああ。他人に聞かれたくない内容だからな」

五十嵐が中に入ると、治療器の陰から白衣の人影が現れた。

「……お待ちしてました、五十嵐先輩」

そこに立っていたのは、腕組みをして仁王立ちしている立花晴瑠だった。

「……は?」

五十嵐の思考が停止する。

電気がつき、背後でドアが閉まる音がした。

振り返ると、ドアの前に立った雪村が、冷ややかな視線を送っているのが見えた。

「おい、雪村。どういうことだ」

「プレゼンの話は嘘だ」

雪村は淡々と告げた。

「お前が逃げ回るから、強硬手段に出ただけだ。……あとは任せた」

雪村は腕組みをしてドアの前に立ち塞がった。見張り役だ。

完全な密室。逃げ場なし。

五十嵐は観念して振り返った。
晴瑠がじっと彼を見つめている。

「……何の真似だ、立花」

「こうでもしないと、先輩、私と話してくれないじゃないですか」

晴瑠は、怒っているような、泣き出しそうな顔をしていた。

彼女は一歩近づく。
五十嵐は思わず後退り、壁際の機器に背中をぶつけた。

「……先輩、最近おかしいです」

晴瑠の単刀直入な言葉。

「ご飯も食べてないみたいだし、顔色も最悪。……私と目が合うと、幽霊でも見たみたいに逃げるし」

「……」

「何かあったんですか?私、何か先輩を怒らせるようなこと、しましたか?」

彼女の声は真剣だった。
本当に、何も気づいていないのだ。

自分が「被害者」であることにも、五十嵐が「加害者意識」に押しつぶされていることにも。

その無垢な問いかけが、限界まで張り詰めていた五十嵐の心を決壊させた。

「……逆だ」

五十嵐は、顔を覆い、その場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。

「俺が、お前にしたんだ」

「……はい?どういう意味ですか?」

晴瑠が問うと、五十嵐は震える声で答えた。

「雷久保先生に言われたんだ。……お前がこの病院にいるのは俺のせいだって。俺が曖昧な態度でいたから、お前は帰りたかった都内に帰ることができなくなってしまった」

懺悔のような告白。晴瑠は目を見開いた。

「都内の医局は定員が埋まってて、戻る場所がないんだろ? ……だから、仕方なくここに残ることにしたんだろ?」

五十嵐は顔を覆ったまま、うめくように言った。

「俺の曖昧な態度のせいで、お前のキャリアも、帰る場所も奪って、人生を狂わせた……そんな俺が、お前の前で平気な顔をして笑えるわけないだろ」

重苦しい沈黙が、光線療法室を支配した。

しばらくして。

頭上から、深ーい溜め息が降ってきた。

「……はぁーあ」

呆れ果てたような、底抜けの声。
五十嵐が顔を上げると、晴瑠が腰に手を当てて、仁王立ちで見下ろしていた。

「……あのですね、先輩」

「あ、ああ……」

「バカなんですか?」

罵倒。
予想外の言葉に、五十嵐は目を丸くした。

「そりゃあ、戻りたかったですよ!振られて惨めだったし、東京の友達も恋しかったし!」

晴瑠は一気にまくし立てた。

「でも!戻れなかった結果、『ここで頑張ろう』って決めたのは私です!誰に言われたわけでもなく、私が自分で選んだんです!」

「で、でも、俺のせいで……」

「私の人生の責任を、勝手に背負わないでください!」

バシッ!

晴瑠の手が、五十嵐の肩をひっぱたいた。
痛くはない。
けれど、目が覚めるような一撃だった。

「だいたい、振った女にいつまで気を使ってるんですか!自意識過剰です!」

「ぐっ……」

「私の屍を越えていくんですから……さっさと幸せになってください!じゃないと私が成仏できません!」

「……っ」

五十嵐は言葉を失った。

自分が「償わなければ」と思っていたことは、彼女からすれば「自意識過剰」だったのだ。

「……本当に責任を感じるなら、私が7年も追いかけた男として、恥ずかしくない生き方をしてください」

「立花……」

その瞬間。
五十嵐の中にあった重い鎖が、音を立てて砕け散った。

「……ああ。わかった」

五十嵐は立ち上がった。
その瞳に、光が戻っている。
迷いが晴れ、本来の精悍な顔つきが戻っていた。

「ありがとう、立花」

「ふふ。今度ご飯奢ってくださいね!雪村先生の分も!」

「そうだな……雪村もありがとな」

「……ふん。遊離皮弁の議論はまた後日だ」

「お手柔らかにな」

五十嵐はドアを開け、夜の廊下へと走り出した。



残された光線療法室。

晴瑠は、大きく一つ息を吐くと、パンッ!と自分の頬を両手で叩いた。

「よしっ!スッキリした!」

その声は驚くほど明るく、湿り気など微塵もなかった。

雪村が眉をひそめて彼女を見る。

「……お前、泣かないのか」

「泣きませんよ」

晴瑠は勢いよく立ち上がり、白衣の乱れを整えた。

「私を振った男のために泣くなんて、涙と時間の無駄ですから……。五十嵐先輩よりずっといい男を捕まえて、結婚式に呼んで見せつけてやるんです!」

強がりではない。
憑き物が落ちたような、清々しい笑顔だった。

7年間の想いに自らピリオドを打ち、自分の足で前を向こうとしているその姿は、痛々しいほどに眩しかった。

「……そうか」

雪村は短く呟き、視線を逸らした。

胸の奥が、小さくざわついた気がした。

(……意外と、悪くない顔をする)

涙を見せず、気丈に笑うその横顔から、雪村は目が離せなかった。

「雪村先生、協力ありがとうございました!お礼に今度、何か奢りますね!」

「……研修医に奢られる趣味はない。……貸しにしとく」

「えー、素直じゃないなぁ。じゃあ行きましょ!」

晴瑠は部屋を出て行く。

その背中はしっかり伸びていた。

雪村は小さく溜息をつき、眼鏡の位置を直してから、彼女の後を追った。
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