『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第六章 木枯らしの夜と、選ばれた未来

第51話 メールの違和感と、地方会への助走

11月上旬。夜。

週に一度の外勤を終えた皐月は、職員通用口を出た。
冷たい北風が火照った頬を撫でる。

「うぅー。寒いな」

地方会の準備と、日々の業務に追われ、心身ともに疲労が溜まっていた。

「……はぁ」

ため息をついた、その時。

「お疲れ、天野」

隣から声をかけられ、皐月は顔を上げた。
同じく外勤を終えた五十嵐だった。

「あ、五十嵐。お疲れ様。一緒の時間になるの、久しぶりだね」

「そうだな。……駐車場まで一緒でいいか?」

「うん、もちろん」

二人は並んで、夜の駐車場へと歩き出した。
以前のような、生気を失った表情ではない。
少し痩せたけれど、その横顔にはしっかりとした光が宿っている。

「五十嵐、最近元気なかったから心配してたんだよ……元気になったみたいでよかったよ」

皐月が微笑むと、五十嵐はバツが悪そうに視線を逸らした。

「……心配かけたな」

「……雪村に聞いたんだけど、晴瑠ちゃんに元気づけてもらったんだってね」

皐月は五十嵐の顔を覗き込んだ。

「……辛いことがあったなら、私にも相談してほしかったな……。なんて」

皐月は、冗談めかして言ったつもりだった。
けれど、言葉にした瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。

「……本当に悪かった」

五十嵐の真剣な声に、皐月は慌てて首を振った。

「ううん、いいの。ただ……」

皐月は、自分の足元を見つめながら、素直な本音をこぼした。

「私だって五十嵐の力になりたいのにさ、晴瑠ちゃんにその立場をとられちゃったっていうのが、なんか悔しくて……。五十嵐が元気になってくれて嬉しいはずなのに、変だよね。ごめん」

嫉妬とも、寂しさともつかない感情。
それを聞いた五十嵐は、驚いたように目を見開き、やがて優しく相好を崩した。

「……そっか」

彼は歩みを緩め、皐月を見た。

「あのさ、お前の地方会が終わった次の週の約束……覚えてる?」

「うん。食事の約束だよね。覚えてるよ」

9月の終わりにした、「ちゃんとした食事」の約束だ。

「俺、その時、お前に話したいことがある」

その声色の真剣さに、皐月の心臓がトクン、と跳ねた。
彼が何を言おうとしているのか。 その予感が、肌を伝うようにわかった。

「……うん。私も」

皐月も、逃げずに彼を見つめ返した。

「私も、五十嵐にちゃんと話さなきゃいけないことがあるの」

9年前、彼を傷つけたこと。
全てを話して、謝って……そこからまた新しいスタートを切りたい。

「わかった。……楽しみにしてる。また日が近くなったら店とか決めよう」

「うん!」

二人はそれぞれの車の前で別れた。

エンジン音と共に遠ざかるテールランプを見送りながら、皐月はハンドルを握る手に力を込めた。

(……まずは、地方会を成功させよう)

皐月はゆっくりとアクセルを踏んだ。



翌日、皮膚科医局。

「皐月ちゃん、地方会の準備はどう?」

コーヒー片手に美雲が話しかけてきた。美雲も同じ地方会の演者だ。

「やっとまとまりそうです」

「いいね。私はここに来て『この考察でいいのかな?』って不安になってきちゃったよー」

美雲は溜息をつきながら自分のスライドを眺めている。

皐月はふと気になって尋ねた。

「そういえば美雲先生も、雨宮先生にスライド見てもらってるんですか?」

「うん!毎日メールしてるよ!修正点をわかりやすく教えてくれるし、雨宮先生って意外と優しいよね」

「そうかしら……。鬼宮のチェック、怖すぎると思うわよ」

美雲の隣から霜田が顔を出し、肩をすくめた。

「メールの文字面だけでも殺気を感じるというか……。論文のチェックになると殺気も3倍くらいになるから、天野先生も気をつけた方がいいわよ。雪村くんも、画面いっぱいの長文メールもらってたわよね?」

話を振られた雪村は、バツの悪そうな顔をした。

「……あのメールのことは思い出したくないです」

(……メール?)

雪村たちの話を聞いていた皐月の指は、キーボードの上で完全に止まっていた。

(……私は直接見てもらってるけど……普通はメールだけなんだ)

ほぼ毎日少なくない時間を、雨宮は自分のために割いている。
それは「熱心な指導」だと思っていた。

けれど、他の医局員たちがメール一本で済まされている現状を知り、胸がざわつく。

(なんで私だけ、あんなに時間をかけて見てくれるんだろう)

雷久保の言葉が脳裏をよぎる。

『君の恩人は、すぐ近くにいる。指導医の鎧を着ている』

(……雨宮先生が、あの日の「お兄さん」だから、私を特別扱いしているの?)

疑問を飲み込むように、皐月は再びモニターへ視線を戻した。



夜20時頃。

皐月が医局で一人スライドを修正していると、雨宮が入ってきた。

(雨宮先生……)

皐月は、動揺を悟られないよう、マウスを握る手に力を入れた。

「天野。スライドの最終版は完成したか?」 

彼は、皐月の背後から話しかけた。

「……はい!あと少しです」

努めて普段通りの声を出す。

「見せてみろ」

皐月の心臓が跳ねた。

(他の人はメールだけなのに、どうして……?)

皐月は息を飲み、そして震える声で答えた。

「……完成したらデータを送ります」

「……そうか」

雨宮は自分のデスクから荷物を取ると、退室していった。

「……ふぅ」

皐月は胸に手を当てて、深呼吸をした。

(……雨宮先生は、指導医として私立卒の出来が悪い私を気にかけているだけ)

高鳴る自分の心臓にそう言い聞かせ、皐月は作業に戻った。



21時。
今度は医局に新巻がやってきた。

「天野先輩、進捗どうですか」

「あ、新巻くん。当直お疲れ様。大分まとまってきたよ」

新巻は今日は研修医当直のため、院内で勤務しているのだ。

「それはよかったです。……じゃあ、もう一つの案件の進捗管理もしておきますね」

新巻はタブレットのカレンダーアプリを表示し、皐月に見せた。

「俺の『立候補』の件。……あれから1ヶ月経ちました」

事務的な口調で淡々と説明する。

「リソースの無駄は避けたいので、そろそろ決着をつけたいんですが」

「う、うん……」

「期限、切りましょう」

新巻は、12月上旬の日付を指で叩いた。

「先輩は今、初めての地方会でいっぱいいっぱいと推測します。なので、それが終わって少し落ち着いたあたり。……ここをデッドラインにします」

「12月の、頭……」

「地方会が終わったら、イエスかノーか、回答を出してください。それ以上は待ちません。時間の無駄なので」

新巻はそれだけ告げると、「じゃあ夜食買いに行くんで」と言って、医局を出ていった。

五十嵐との約束。新巻への回答期限。……そして恩人のこと。

すべては、地方会という山場を越えた先に待っている。

(……やるしかない)

スライドはもう少しで完成しそうだ。
それを雨宮に送ったら、家に帰ってゆっくりしよう。

地方会まで、少しずつ、確実に時計の針は進んでいた。



同日、22時頃。

雨宮は診察室のデスクで、皐月から提出されたスライドのデータを確認していた。

以前は粗削りだった構成が、見違えるように洗練されている。
彼女の努力と成長が見て取れた。

「……よくここまで仕上げたな」

雨宮はふと視線をカレンダーに移した。

11月X日、地方会。

それは県内で行われる、決して大きくはない学会だ。
だが、彼女にとっては医師としてのデビュー戦であり、大きな意味を持つ舞台。

(……もう、逃げられないな)

脳裏に、新巻の言葉が蘇る。

『指導医という絶対的な立場を使って、特定の部下を囲い込むのはやめてもらえませんか?』

『アンフェアですし、男として戦う気がないなら邪魔しないでください』

あの言葉は、的を射ていた。
これまで自分は、「指導医」という立場を隠れ蓑にして、安全な場所から彼女を見守ってきただけだ。
傷つかないように、嫌われないように、距離を保って。

『鎧越しじゃ体温は伝わらないぞ。お前がかっこつけてる間に、生身でぶつかってくる奴に全部持っていかれる。……それでもいいのか?』

雷久保の言葉を思い出し、雨宮は拳を力強く握りしめた。

五十嵐や新巻のような、生身でぶつかる奴に、彼女を持っていかれるーー。

「いいわけ……ないだろ……」

雨宮はPCを閉じ、深く息を吐いた。

「……もう、終わりにしよう」

鎧を捨て、生身の自分でぶつかるしかない。
そうしなければ、何も伝わらない。

「……地方会の日、すべてを伝える」

静かな、けれど熱を帯びた決意が、夜の診察室に落ちた。
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