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第二部
六十話 二人の舞姫の物語 前①
しおりを挟む外に出るともう空は真っ暗だった。
あれから、結局マスルールは姿を現さなかった。何か事情があるのか分からないが、いつまで待っても来ないのでルシアが彼を探しに行くと言って一人でイラムの下層に降りて行った。サラも地上に降りたままだから、マスルールにイラムに上げてもらわないと困ってしまう。
俺も一緒に行こうと言ったのだが、「レイナルド様はまだ休息が必要です。休んでいてください」と断られた。
マスルールに会ったら、俺もこっそり地上に降ろしてもらってグウェン達に会いに行こうと思っていたのに予定が変わってしまった。
グウェンは俺が来るのを待っているだろうか。
さっき部屋の窓ガラスを割られた時は、一瞬グウェンが来てくれたのかと思ったが、あいつなら姿を隠さずに堂々と現れるはずだ。窓の外からガラスを割って消えたのは誰だったんだろう。
内心で首を傾げながら考えたが、鈴園の中にいるメンバーで該当するような人物は思い浮かばない。
助かったことには違いはないから、お礼を言いたいけど相手が誰なのか本当に分からなかった。いつまで考えていても答えは出ないので、あれが誰だったのかという疑問は一回頭の隅に避けておくことにした。敵ではないならば、特に心配する必要もない。
それよりもグウェンのことが気にかかる。
まだ地上で俺を待っているとしたら悪いことをした。
……いや、待てよ。
さっき風呂に入った時に気がついたけど、俺の首には明らかに誰かに絞められたとわかる指の跡がついている。まだ鮮明なそれをグウェンに見られたら言い訳出来ないし、池で皇帝を殴ろうとした時にぶつけた手も、実は指の付け根の辺りが腫れ上がっていてえらいことになっている。見咎められたら今日何があったか洗いざらい吐かされるだろう。
その結果、ブチギレたあいつとアシュラフ皇帝の全面戦争になるな。
うん、今日の夜は会えないけど、我慢しよう。
明日の試験で下に降りるからその時きっとグウェンと接触できるはずだ。明日までに首の跡が消えているかどうかは微妙なところだが、多少薄くはなっているに違いない。
本当は、今日だって毒入りの茶を飲まされそうになるわ池に落ちるわ、挙句に首まで絞められてるんだから俺だってなりふり構わずグウェンに泣きつきたい。知らない国で気を張っているからまだ持ち堪えているが、これが俺の家かグウェンの屋敷だったらもう布団にくるまってグウェンに抱きついたまま動きたくないくらいの心境なんだ。
でも俺よりも若い子達が踏ん張っているのに、年長者の俺が彼女達を守らなくてどうする。あの悪魔みたいな皇帝は放っておいたら本気で何人か殺しにかかってくるだろう。ぶん殴ってでも止めないとロレンナ達が危ない。
一人で鈴宮のベッドに寝ていたらなんだか余計なことまで考えてしまいそうで落ち着かず、外の空気を吸おうと散歩に出ることにした。
頭に巻いたターバンの中でメルがごそごそ動いて足踏みしている。
覇気がない俺を元気つけるように「ぴぴ!」と小さく鳴いたメルの声に癒されながら、鈴宮から離れて夜の果樹園を歩いていた。
ふと何処からか声が聞こえたような気がした。
立ち止まって、耳をすませてみる。
「歌?」
誰かが歌っている声だった。
こんな時間に誰だろうと、不思議に思ってその声が聞こえる方へ足を踏み出す。
果樹園を奥に進んで、正殿からも鈴宮からも離れた場所に林道のようなならされた道が通っていて、それを進むと幅の広い水路があった。夜空の星を映した澄んだ水面は、星が流れる川のように見えて美しい。
そしてその水辺にライラが一人で立って歌っていた。
ライラだとわかったのは、彼女が首から革紐のお守り袋を下げていたからだ。
サーカスの時にも聞いたけれど、本当に綺麗な声だ。夜の静けさと闇に漂う微かな緊張感の中に彼女の星空のような声がよく通る。
俺が知らない歌だった。
言葉も、共通言語ではない。サーカスの時に聞いたラムルの少数民族の言語だろうか。言葉はわからないけれど、なんとなくもの悲しい響きのある歌だった。
苦しくて泣いてしまいたいのに涙が出ないと訴えているようなその歌声は、綺麗だけど胸が絞られるように切なくて、俺は林道の途中で立ち止まったまましばらく聞き入ってしまった。
歌い終えるとライラは少しの間俯いて水面を眺めてから、唐突に振り向いた。そして視界の先に俺を見つけてびくっと飛び上がった。
「レイさん?!」
「あ、ごめん。驚かせちゃって」
「いいえ、ごめんなさい私も気づかなくて。うわぁこんなところで浸ってるの見られるなんて、恥ずかしい」
「勝手に聞いちゃってごめんね、でも本当に歌が上手なんだな。ライラ」
見られていたとは思わなかったのか、ちょっとテンパっているライラの年相応な姿が可愛く見えて、俺は笑いながら歩み寄った。
突然現れた俺の姿を目を大きく開いて見ていた彼女は、その時思い出したようにぺこっと頭を下げた。
「レイさん、さっきは本当にありがとうございました」
「ライルは大丈夫?」
「あ、はい。もう心配いらないと思います」
頭を上げて頷いたライラを俺はほっとして見下ろした。
「深刻なことにならなくてよかった。ライラも怖かっただろう。よく頑張ったね」
俺がそう言うと、ライラは軽く瞬きしてからしゅんと眉を下げた。そして水路の方に身体を向けるとぺしゃんと空気が抜けたようにその場にしゃがみ込む。
「ライラ?」
「レイさん、昨日私は皆さんの前で気楽にやりますなんて言ったのに、もう帰りたいって言ったら、笑いますか?」
力のないその声を聞いて、俺は彼女に歩み寄るとその近くに同じようにしゃがんだ。卵の殻が入っている袋は上手く脇の方にずらす。
目の前に流れる水路にはきらきらと輝く星空が映っていて、ふっとその中に飲み込まれてしまいそうなほどに、本当に綺麗だ。
「笑わないよ。あんな最悪な奴を前にして、よく二人とも泣いたりしないんだな、って感心してるくらいだ」
「……怖いですよ。本当は。私、怖がりなんです。泳げないし。逃げてしまえるなら、私は今すぐさっさと故郷に逃げ帰りたいくらいなんです」
俯いてそう溢したライラに、俺は力強く頷いた。
「それは、当然だと思うけど。泳げないのに池に飛び込まされそうになったり、毒入りのお茶を飲まされそうになってるんだから。俺なんてとっくに本気で逃げようと思ってるからね」
そう言うと、ライラは微かに笑ってから首から下げたお守り袋を片手で触った。
「不安なんです。私じゃなくて、ライルに何かあるんじゃないかって。あの子は私と違って負けん気が強くて頑固だから、私は怖くて手を出せなくても、ライルは躊躇わずに行ってしまう。このままだと何か良くないことが起こりそうで……。私はライルを止めたいのに、今日だって逆にあの子を危険な目に合わせてしまった。レイさんがいなければ大変なことになっていました。怖いってだけで妹を助けることもできない私は、ダメな姉ですね」
悔やむような声を出すライラの顔を見たら、俺は何とかして彼女を元気づけなければならないと思った。
今日のことはあの皇帝の遊びに俺たちは完全に巻き込まれただけで、ライラがこんなふうに落ち込んで自分を責めているなんて許せないような気がしたのだ。
「今日のはライラのせいじゃないだろう。君はあの皇帝を前にしてよくやったよ。それに、何かを怖がるのは悪いことじゃない」
「……そうでしょうか。私は、本当に怖がりだから出来ないことも多いし、踊りや楽器も実は失敗ばっかりです。ライルにはもっとしっかりしろって怒られます」
しゅんとした彼女の小さな肩を見ていたら、ふと思い出したことがあって、それが自然に口から出ていた。
「昔ね、そういえば俺も結構怖がりだったな。家の庭の奥にある人気のない木の暗がりが怖くて、遊んでいても一人でそこに行くのは怖かった。でも怖いものがあるのは良いことだって、ある時言ってくれた人がいたよ」
「……良いことですか?」
「うん。怖ければ、そこで立ち止まるだろうって。本能が恐れていることを避けるのは、自分を守るためには必要なことだって言われたな。俺もその通りだと思う。ライラはライルの分まで怖がっていいんだよ。君が怖がることで、ライルも注意深くなるから。ライルが誰かを傷つけたり、怪我したりしないように、君が怖がればいい」
そう言いながらライラの顔を眺めたら、彼女は目を丸くして俺の顔をじっと見つめていた。
少し照れくさくなって、俺は軽く頬を掻いて苦笑いする。
「と言っても、これは受け売りなんだけどね。昔お世話になった人の」
どうして急に彼の言ったことを思い出したりなんかしたんだろう。
そういえば最初はラムルに来たらバレンダール公爵の手がかりが見つかるかとも思っていたけれど、そんなことを調べるような暇もゆとりもなかったな。
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