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第67話 旅路の果てに
しおりを挟むマルセイユで7日ほど過ごし、私たちはアルルへと出発した。温暖な気候は父の体に良かったのか、少し顔色が戻ったように見える。
アルルまでは3時間程度で到着する。車窓をぼんやりと眺めていたら、メアリーが声を上げた。
「お嬢様、見てください。空が広くなりましたね」
見渡す限りのオリーブ畑に、突き抜けるような青い空。アルルに着いたのだ。
駅はマルセイユよりも小さく、賑わいや活気とは程遠い場所だった。蒸気の音と、石炭の匂い。
降車して駅を抜けると、からっと乾いた風が吹く。
建物は低く、空はどこまでも高く、降り注ぐ光は強い。日向と影の境界線が鮮烈に見えた。
途端、身を裂くような冷たい風が吹き荒び、私は体を震わせた。
「寒い……マルセイユとは大違いね」
体の芯から冷えていく寒さに、心配からお父様の様子を伺った。
父もぶるりと体を震わせ、それでも懐かしそうに目を細めて目に映る景色を見渡していた。
「記憶の中と同じ風景だ……」
私たちはまずホテルに向かい、荷物を置いた。
午後は父と母が歩いた道を辿ることにした。
♢♢♢
アルルの町から少し離れると、小高い丘へ続く斜面があった。その道を昇ると、道の果てに、白く柔らかな花びらが青空へと手を伸ばしているような木が見える。
男爵の歩みは遅かった。私もエヴェリーナもメアリーも、彼の歩幅に合わせてゆっくりと歩いた。
「この道を、歩いたんだ……グレイスと……二人で」
途中何度か立ち止まり、白い花を眺めた。周囲は果樹園で、まだ見ぬ春を待って眠っている。
アーモンドの花だけが、この世界を祝福するように花開いていた。
斜面を登る途中で、一人の画家がキャンバスを前に黙々と手を動かしていた。厚手の古い外套を羽織り、赤毛で髭を生やしている男だ。
私たちは、彼のすぐ側で足を止めた。
男の書く絵は繊細で、美しいという言葉ではとても言い表せない。まるで絵の中で命が芽吹いているような、不思議な魅力があった。
彼は真っすぐにキャンバスを見つめていた。
男爵がその絵をみて、「良い絵ですね」と声をかけた。
男は驚いて筆を落としてしまったが、すぐに筆を拾い上げ、かぶっていた帽子を取って私たちに頭を下げた。
そしてまた、絵と向き合った。
エヴェリーナと男爵は前を向き、ゆっくりと坂道を登って行った。
「メアリー、私はここで待っているよ。男爵もエヴェリーナと二人で過ごしたいだろう」
メアリーは私に会釈をすると、早足で彼らの後を追った。
私は画家の男の顔を見つめた。生気を失くした顔をしているが、その瞳は情熱と狂気で爛々と輝いている。
まるで自分の命を削り取って絵筆に込めているようだった。
画家が座っている場所だけが、世界と切り離されている。ただひたすら絵を描き続けるこの男に、興味をひかれた。
「貴方はなぜ絵を描いているのですか?」
話しかけると、彼はのっそりと顔を上げて私に視線を向けた。
「……僕には、描くことしかできないから」
その表情は、酷く頼りなげで、孤独に見える。本当に、"それしか出来ない"と信じきっている口ぶりだ。
「この世界は、貴方にとって残酷かい?」
彼は、遥か彼方を見渡すような目をしていた。
ここではない、世界の最果てを目指している。
その瞳の中には、青い空と白い花が映りこんでいた。
「分からない。手に入らないものの方が多かった。神も、友も、愛も、誰も僕を救ってはくれない。世界は残酷なまでに美しい。だから、僕は描くんだ……誰かの心に何かを残したいから……」
キャンバスには、目もくらむような青空と、白い花弁が咲き誇っている。この世界は彼の瞳を通すとこんなにも鮮やかで強烈な輝きを放っているのだ。
「愛されれば、救われるんじゃないのか?」
思わず男に問いかけた。自分の身の内に潜む不安が彼の言葉によって刺激されたからだ。
彼は何も答えなかった。もう意識は絵の中にしかないようだ。
「……その絵、売ってくれる?イングランドのエイヴェリー男爵家に送って欲しいんだ」
男は目を大きく見開くと、強張っていた表情を緩め、「ありがとう……」と涙を浮かべて感謝の言葉を落とした。私は住所を書いたメモと小切手を彼に手渡した。
絵の相場が分からなくて20ポンドと書いたら、彼は椅子から転がり落ちてしまいそうになっていた。
「君の絵には価値があるよ」と言うと、彼はまた嬉しそうに笑った。最後まで名前を聞くことはなかったが、あの屋敷に飾るにふさわしいと思ってしまったんだ。
厳しい寒さにも耐えて美しく咲き誇るアーモンドの花は、エヴェリーナのようだと思ったから。
♢♢♢
私はお父様の背中を支え、アーモンドの花の木の前に立ち尽くしていた。遠くから見ると真っ白だと思っていた花弁は、近くで見ると淡い桃色に染まっている。
「お前の名前は、この花から着想を得たんだよ」
「アーモンドの花から?夏生まれなのに?」
「ああ。アーモンドの花は一番早くに世界を祝福する春だ。生命力の象徴で、希望だ。EvelinaのEveはヘブライ語で生命。どうだい、お前にぴったりな名前だろう」
「私って健康だけが取り柄だものね」
お父様は小さく笑った。
「グレイスも、エヴェリーナも、私にとっての春だったよ……」
白い花びらが、風にひらひらと舞った。空に吸い込まれるように、やがて見えなくなっていく。
「ねえ、いつか子どもができて、もしその子が人間だったらお父様が名付け親になってね」
「ははは……よし、今から考えておくよ」
しばらくすると、アルもゆっくりと丘の上にやってきた。四人でアーモンドの花を見上げ、少し早い春の訪れと、希望を感じる。
その美しい光景を、心に閉じ込めるようにしっかりと目に焼き付けた。
♢♢♢
ホテルに着くと、夕食の時間にはまだ早かった。一度客室に戻って休憩を、とホテルの長い階段を登っていく。
「アルルの名物のお料理って何かしら。マルセイユではブイヤベースが美味しかったわね」
「アルルは内陸ですから、肉料理でしょうか」
「お父様、夕食の時間は何時だったかしら……」
振り返ると、すぐ後ろにいたはずの父は階段の踊り場で手すりを掴んで立ち止まっていた。左手で胸元を押さえて、体は震えている。
「お父様……?」
父は膝をつき、苦しそうに呻きながらその場に倒れ込んだ。
周囲にいた宿泊客の騒めき。
アルとメアリーが階段を駆け下りる、足音。
お父様の、低く絞り出すような呻き声。
『お客様、どうされました!?』
『早く医師を!!』
『旦那様、しっかり!!』
全ての音が、海の底にいるみたいに遠ざかって聞こえた。
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