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第68話 祈るような願い
しおりを挟む「ナ……エヴェリーナ!」
アルに肩を掴まれ、びくりと肩が跳ねた。瞬きを数度繰り返し、ゆっくりと周囲を見回す。
私は客室の椅子に座っていた。ベッドには父が横たわり、すぐ側には白髪の壮年の男性がいた。
お父様が階段で倒れて、私はどうやってこの部屋に来たのだろう。自分でここまで歩いた記憶もなかった。
「顔が真っ青だ。メアリー、何か暖かい飲み物を」
「大、丈夫……お父様は……?」
私は命綱を握るように彼の上着を強く掴んだ。
「今、医師が診察をしています」
医師は聴診器を父の胸にあて、眉を顰めていた。その表情は厳しく、険しい。
彼が細く息を吐きだすと、父の瞼がゆっくりと持ちあがった。
「エイヴェリー男爵、気分はいかがですか」
「ああ……私は……?」
「彼が現在服用されている薬は?」
医師の言葉に、メアリーはトランクの中から数種類の白い紙袋を取り出した。それらを確認した医師は、さらに言葉を続けた。
「症状はいつからありましたか?」
「……数カ月、前から……咳と、胸の痛みが……」
「これは肺が原因ではありません。心音が弱っている。――心疾患の疑いがあります」
その瞬間、父の瞳が大きく見開かれた。
「そんな、何かの間違いでは……ロンドンの病院では、気管支炎だと……!」
医師は淡々と、耐え難い事実を述べた。
「心疾患で気管支炎に似た症状がでることがあります。現状ではイングランドへの帰国は医師として勧められません。しばらくマルセイユで療養されるのがよいかと」
「私に残された時間は……どのくらいでしょうか」
父の声は、弱々しく震えていた。
「……断定はできませんが、数週間から数カ月――この冬を超えられるかどうか……」
医師はそう言い残し、静かに客室を去った。残された私たちの心に、鉛のような重たさを残して。
お父様はしばらく俯いて黙り込んでいたが、メアリーにレターセットと羽ペンを用意するように命じた。
「生きているうちに、できることはやらねばな」
そう言って、手紙を綴り始めた。
「まず、英国領事館とロナルドに電報を打とう。遺言状の製作もはじめる。それから、ノアにも連絡を……」
「お父様」
「エヴェリーナたちは、予定通り来週帰国しなさい。私に付き合ってフランスに滞在する必要はない」
「お父様……!」
呼びかけても、お父様は私を見てくれない。こんな風に目も合わせてくれないのは初めてのことだった。目の奥に熱さがほとばしる。こみ上げてくる感情を飲み下そうとしても、喉元が震えてしまう。
「……っ!」
私はその場から立ち上がり、早足で自分の客室に戻った。
♢♢♢
ベッドに体を投げ出し、シーツを握り込んだ。涙はとめどなく溢れ、枕に冷たい染みが広がっていく。
「……お嬢様」
メアリーが側に来て、私の背中を撫でてくれる。
「旦那様の辛いお気持ちをどうかご理解ください……お嬢様の身を案じてらっしゃるのですよ」
「そんなの……分かっ……てるっ……!」
私はメアリーの膝に縋りつき、嗚咽を漏らした。理由の分からない不安の正体はこれだったのだ。
神様が、お母様の次はお父様を連れて行こうとしている。
「どうしてお父様が死ななくてはいけないの……?どうして、私ばっかり……!!」
激しい慟哭が部屋に響き渡る。きっと、お父様にも聞こえるだろう。
私の背中を撫でる手が、止まった。メアリーは声一つ上げずに、天井を見上げていた。
拝啓、天国のお母様。
お願いします。どうか、お父様をまだ連れて行かないでください。
♢♢♢
エヴェリーナが部屋から飛び出し、メアリーが後を追った。それに続こうとしたが、男爵の声が私を引き留めた。
「君に頼みがあるんだ」
私は先ほどまで医師が座っていた椅子に腰かけた。男爵の声は、小さく弱々しい。しかし、その瞳には強い意志が感じ取られた。
「約束して欲しい。何があっても、無理やりにでもエヴェリーナを連れて行ってくれ」
私は即答することができず、言い淀んだ。本音を言えば、そうしたい。だが、エヴェリーナがそれを望むのだろうか。
その迷いを断ち切るように、男爵は悲痛な面持ちで私の手を強く握りしめた。
「どこにそんな力があるのだろう」と思うくらい、鬼気迫るものがあった。
「お願いだ……私が死ねば、誰もあの子を守れない。大切な、一人娘なんだ……!」
「……分かりました。ですが、まだ時間は残されています。体調が安定するまで私たちもこちらに残ります。春になれば帰国許可もでるかもしれません。諦めずに、一緒にエイヴェリー領へ帰りましょう。エヴェリーナもそう望むはずです」
男爵は握りしめた手の力をふっと緩めると、穏やかな表情を浮かべた。
「ありがとう……君のような義息を持てて、私は運がいい男だ」
良心の呵責に苛まれた。
私は貴方から奥方を奪ってしまった存在だ。
さらに、娘まで世界の果てに連れて行こうとしているのに。
罪悪感を誤魔化すように、私は彼に鎮痛の魔法をかけた。その場しのぎで、治療にはならない。どれほど持ち堪えられるかは、彼の生きる力に賭けるしかないのだ。
嫌な予感は当たってしまった。
あの様子では、エヴェリーナが父親を置いて精霊の国に来てくれるとは到底思えない。
悪夢が現実と入れ替わろうとしている。
私は生まれて初めて見知らぬ神に祈った。
どうか、まだ男爵を連れて行かないでください。
それは、自己中心的で偽善的な祈りだった。
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