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第70話 未来へと続く愛
しおりを挟む春の種まきの季節が来た。
サリを、畑に返さなければいけない。
「うぃー?」
サリは掌の上で、不思議そうに私を見つめていた。首を傾げて、今から何が行われるのかちっとも分かっていないみたい。その姿が可愛らしくもあり、切なかった。
「サリ、帰る時が来たのよ……どうか、今年もこの領地に実りをもたらしてね。ありがとう」
額に口付けを贈り、そっと種袋の中に降ろした。サリは最後まで不思議そうな顔をしていた。
どんな人にも、いつか別れは来る。
どれだけ辛くとも、受け入れなくてはいけない。
それが命の限りがある、人間という種族なのだから。
♢♢♢
鏡の中には、アイボリー色のウェディングドレスに身を包んだ私がいる。首元まで覆われた繊細なレースに、流れるようになめらかなシルク。
ブライアが作ってくれた白い花のブーケは、野原からそのまま摘み取ったような可憐さを残していた。
メアリーが、ヴェールを被せてくれる。透き通る白い布は包み込むように、世界から私を遮断する。
「お嬢様、とても、とってもお綺麗ですよ……いえ、今日からはお嬢様じゃなくて、奥様とお呼びしなければいけませんね」
支度を整えてくれたメアリーは、顔を皺だらけにして涙声で褒めてくれる。彼女の硬くなった手の甲を撫でると、胸に熱いものが込み上げてきた。
「ありがとう、メアリー」
コンコン、とノック音が響く。
「アルサリオン様、どうぞ。花嫁のお支度が整いました」
振り返ると、扉の前でアルは私を見つめて立ち尽くしていた。彼は黒いモーニングコートに、アイボリーのベストとネクタイを締め、胸元にはブーケとお揃いの白い花が飾られている。
「エヴェリーナ……とても綺麗です」
ヴェールを被っていてよかった。布越しでなければ、とても彼の顔を見ていられない。
幸せそうに微笑んだ彼の瞳は、星屑が散りばめられたように煌めいていた。
「ありがとう」
私たちは、お父様のいる寝室に向かった。父はもう、立ち上がることすらできなかった。緩やかに、命が溢れ落ちていく気配が屋敷を包み込んでいく。
寝室には教会の牧師様と使用人たちが待っていた。小さなテーブルの上には、聖書と銀の燭台が並べてある。
静かに、そして粛々と私たちの結婚式は執り行われた。
精霊の国の川底から採取した砂金で作られた指輪には、白い花とマロルンの葉が彫られている。
その指輪を交換し、牧師様の言葉で誓いを交わすと、お父様は頷いて私たちの門出を祝福した。
ベッドに横たわる父の側に歩み寄ると、ゆっくりと重たそうに手を持ち上げた。
「綺麗だ……もっと、近くでよく見せておくれ……」
私はゆっくりとヴェールを上げた。父の唇は紫色で、瞼は今にも落ちそうだ。
跪き、お父様の手を握った。窓からは眩しい春の光が差し込み、柔らかく部屋を照らしているのに、父の手だけが氷のように冷え切っている。
私はお父様の胸に顔を埋め、肩を震わせて泣いた。
「私は、お父様に何も返せなかったわ……!」
父を一人で逝かせてしまう。今日まで育ててもらった愛を、何一つ返せないまま。
かさついた父の大きな手が、私の頬を撫でていく。
「――それは……違う。お前は、産まれただけでもう、十分すぎるほどの幸せをくれた……」
アルの手が、私の肩を支えるように添えられる。彼の手はどこか緊張しているように強張っていた。
「愛は、未来へ受け継ぐものだ……私とグレイスが与えた愛は……アルサリオン君や、いつか産まれる子どもに与えなさい……」
お父様の瞳はもう私を映していない。呼吸の間隔がどんどん短くなっていく。涙を堪えようとしても、嗚咽が漏れる。寝室には、静かに啜り泣く声が響いていた。
「ありが……と……」
深く息を吸った次の瞬間、父の瞼が、ゆっくりと閉じられていった。
「嫌ぁっ!お父様!――置いていかないで!!」
手を強く握り返したけど、父の手はだらりと投げ出されたままだった。
♢♢♢【side アルサリオン】
エヴェリーナが泣いている。
あの夏の日と同じように、心の奥が引き攣れるように痛んだ。
「私はお父様に……何も、返せなかったわ……!」
彼女の悲痛な叫びは、その場にいる人間全ての心を悲しみの淵に追いやる。
男爵の命の灯は、もう間も無く消えようとしていた。それでも彼の表情は穏やかで、とても死を前にした人間だとは思えない。
それがなぜなのか、分からなかった。
分からないから、知りたいと思った。
「――それは、違う。お前は、産まれただけでもう十分すぎるほどの幸せをくれた……」
エヴェリーナを支えるように、肩に手を添えた。男爵のか細い声に、全神経を研ぎ澄ませる。
彼が紡ぎ出す言葉に、私の中の何かが突き動かされた。
平坦なはずの感情が、心臓が、底の方から揺さぶられる。その振動は毛先から指先の細部に至るまで伝わり、胸に何かが芽吹いたように、魔力が結集した。
「愛は、未来へ受け継ぐものだ……私とグレイスが与えた愛は……アルサリオン君や、いつか産まれる子どもに与えなさい……」
「嫌ぁっ!お父様!――置いていかないで!!」
エヴェリーナの振り絞るような叫びを聞いた刹那、私の手は無意識に動いていた。
そうしなければならない、とでもいうような、抗いがたい衝動。
男爵の胸に両手を当て、決して口にしてはいけない禁呪を唱えた。
「《再び巡れ、円環に。抗え、世の理に》」
腕が痺れ、視界が白く爆ぜる。
全身にもの凄い引力がかかり、何かが引き摺り出される感覚があった。
男爵の胸に流れ込む青銀の光は、私の心臓から流星の速度で指先を伝って駆け抜ける。
エアリエルの静止の声が、遠くに聞こえた。
まだだ、もう少し。
あと少し。
帰って来てくれ――まだ逝ってはならない!
彼の命を引き留めるべく、私は禁忌魔法を施行した。それが、どんな代償を産むのか、この先どれほど苦しむことになるかも知らずに。
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