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第92話 間違いばかりを選んでしまった
しおりを挟む私の啜り泣く声だけが響いていた。赤黒い大地に、二人きり。雨雲は遠く彼方へ去り、空からは温かい日差しが降り注いでいる。
アルサリオンは、私を呆然と見上げていた。セレストブルーの瞳が大きく揺れた。
彼は何かを叫ぼうとしたが、口をはくはく、と動かすだけで声にはならなかった。
その時、彼の右目に涙が浮かんだ。
一雫の涙は真珠のように輝き、頬を滑って大地にころ、と転がった。それを、私はそっと拾い上げた。
その一滴を皮切りに、アルサリオンは音もなく涙を流し続けた。
すると、いつの間にかサリがすぐそばで私たちを見つめていた。
サリはゆっくりと近付くと、アルサリオンの顔の近くで止まった。そして左手を彼の頬にそっと伸ばした。
「サリ……?」
サリは私を見て、ニコッと笑った。小さな光の粒が、アルサリオンの中に吸い込まれていく。最後の粒がサリから抜け出た時、サリの体はパタリと沈んだ。
それっきりサリが動くことは二度となかった。
♢♢♢【side アルサリオン】
光の粒子が流れ込んでくる。
とても温かい光だ。
これは、この感情は――。
♢♢♢
コーンドールも随分上手に作れるようになったな。
エヴェリーナは受け取ってくれるだろうか。お人好しの彼女のことだから、なんだかんだいって、きっと受け取ってくれるんだろう。
感謝と敬意を込めたコーンドールなら、と言っていましたもんね。
エヴェリーナ。私の人生の、唯一の光。
貴女がいたから、生きる意味を見出せた。
私と出逢ってくれて本当にありがとう。
貴女は強く、誇り高い女性だ。
辛く苦しい日々にも美しい心を持ち続けた貴女を、私は心の底から尊敬している。
私以外にも貴女に恋慕する男はたくさんいるだろう。誰にも渡すつもりは元よりないけどね。
それから愛情も込めていいですよね。
エヴェリーナ、私は貴女のことを――。
……この気持ちは、お前に込めずに直接伝えるか。
エヴェリーナを幸せにしたい。
誰よりも、何よりも、君が一番大切だから――。
♢♢♢
「あ……」
その一瞬の感情が呼び水となって、たくさんの光景を連れてきた。
失くしていた記憶が、濁流のように押し寄せる。川は氾濫し、あっという間に決壊した。
彼女の柔らかな手が、私の頬に触れる。とても温かい。
雨も降っていないのに、どうしてこんなにも顔が濡れるんだ。視界がぼやけて滲んでいる。自分の指で頬に流れる雫を掬った。
「アルサリオン」
「――エヴェリーナ」
知っている。
私は、貴女が誰だか、知っている。
なんで忘れていられたんだ。
私が生きる意味の全てなのに。
手を地面につき、体を起こした。焦点が曖昧に揺れている。
ようやく瞳にはっきりと映り込んだ目の前の彼女は、雨に打たれてずぶ濡れだ。
アーモンド色だった髪は真っ白で、目は赤く染まっている。一体どれだけ泣かせてしまったんだ。
さっと血の気が引いた。
私のせいだ。
私が彼女をこんな姿にしてしまった。
呼吸が浅く、早くなる。
指先は冷え、心臓が軋む。
「ごめん、ごめん……!私のせいだ。私はいくつも選択を間違えた……!」
「何を間違えたの?」
「全部だ。何もかも間違えたんだ……貴女にしなくていい苦労をさせて、こんな……こんなに傷付けてしまった」
私は顔を覆って項垂れた。もうエヴェリーナの顔を見ることすら、許されないと思ってしまった。
何百回謝ったって足りない。
許して欲しいだなんて言えない。
何もかも、私の弱さがこの事態を招いたんだ。
「……私が選んでここにきたの。私の選択まで貴方の責任にしてしまわないで」
彼女の言葉に、肩が跳ねる。今は優しい言葉すら、私の心を突き刺す棘になった。
記憶を失っていた7年間のこともはっきりと覚えていた。再会した時の物のような酷い扱いも、あの夜穢そうとしたことも、全て。
精霊の国で待つだなんて言わなければよかった。全部諦めて死んだように生きていれば、エヴェリーナをこんなに傷付けずに済んだのに。
「私は、貴女に許されないくらい酷いことを……」
「記憶が無かったんだから、仕方がないわ」
「違う、違う!そうじゃない……代償は、選んだんだ。私が……自分で」
♢♢♢
あの日、精霊界に帰った私は、女王の前で裁きを受けた。
「《禁忌魔法を使用した者は、必ず代償を払わねばならない》」
提示された二つの選択肢は、どちらを選んでも苦しい代償だった。
ここで私は選択を誤ってしまった。
自分のプライドと一番大切な人との未来を秤に掛けて、自分を守ってしまったんだ。
「《記憶を……捨てます》」
「《……よいのだな?》」
無言で首を縦に頷いた。
記憶なら自力で取り戻してみせる。
きっとできる――自分の力を、過信した。
なんでも一人で出来ると驕り高ぶり、その選択がどんな結果を招くか深く考えもせず。
♢♢♢
「何も持たない私が、愛される資格なんかないと、そう思ってしまったんだ……」
彼女は黙って静かに聞いていた。
きっと怒っているだろう。呆れているだろう。
「こんな……こんな汚い、弱い自分を、貴女に知られたくなかった……」
私は叱られた子どものように、体を丸めて両手で自分の体をかき抱いた。
すると、私の手が彼女に握られる。反射的に体がびくりと跳ねた。
「アル、アルサリオン。見て。私を、ちゃんと見て」
その声を聞いて、私はようやく顔を上げられた。瞳に映ったエヴェリーナは、私を真っ直ぐに見つめていた。
「間違ったなら、やり直せばいいと思うわ。誰も貴方にそれを教えてくれなかったのね」
目の前の彼女は、怒ってなんかいなかった。呆れた顔もしていない。ただ、春の穏やかな木漏れ日のように温かい眼差しを向けてくれていた。
「貴方は、ずっと寂しいのを誰にも言えずに、一人で我慢してたのね」
エヴェリーナの言葉に呼応するように、涙は熱を帯びて溢れ出した。いい年をした男が、情けないにもほどがある。辛うじて頷くのが精一杯だった。
泣くのは初めてだから、止め方が分からないんだ。
「ごめんね。私、貴方にもっとちゃんと伝えればよかった。貴方のことが大切だって」
心にずっと開いていた穴が、修復されていくのが分かる。
自分自身でさえも見て見ぬふりをして置き去りにしていた、セシルだったころの自分。
「セシルも、アルも、アルサリオンも、みんな私の大切な貴方よ。あなたは、あなたのままでいいの」
亀裂が、ゆっくりと塞がっていく。
【ずっと寂しかったな】
【――うん】
【もう、大丈夫か?】
【……うん】
【お前は、愛されていいんだよ】
【そっか……よかったんだ……】
だからもう、私は愛される自分を疑わなくていいんだ。
28年という長い月日をかけて、今ようやく分かった。
「――これからは、泣きたい時は一緒に泣けるわね」
そう言って涙を滲ませて笑う君は、あの春の日に見たアーモンドの花のように、私の世界に春をもたらした。
きっと一生涯忘れることの出来ない、美しい笑顔だった。
♢♢♢【side エヴェリーナ】
「サリ……ありがとう」
私は動かなくなったサリをそっと抱きしめた。サリは、きっとこのために私と一緒に来てくれたのかもしれない。
「……私に加護を返すためにここまで来たのでしょう。その約束で貴女の元に置いていましたから」
振り返ってアルを見ると、彼はまだ泣いていた。頬に流れる涙を指で拭ってやっても、また新しい雫が肌を濡らしていく。
「まだ泣いてるの?」
「止まらないんです……!」
私はアルサリオンの膝の上に正面を向いて座らされていた。泣き顔を見られたくないのか、私の後ろで彼はずっと泣いている。
「くしゅんっ」
くしゃみをして体を震わせると、アルは手をかざして魔法で体を乾かしてくれた。
「……ごめん」
「風邪引いちゃうわね。帰りましょうか」
すると、腰に回された手の力が強くなり、私の肩に彼の顔が乗った。
「まだ、二人でいたいです……」
「涙が止まるまでね」
「じゃあ一生止まらなくていい……」
「貴方って本当にお馬鹿さんね……」
苦笑して、アルの頭を撫でてあげる。きっとこれは、彼の28年分の涙なんだろう。
めそめそ泣いている彼がなんだか可愛くて、ついいつかの意趣返しをしてみたくなってしまった。
「それにしても、私の愛はちっとも信じてもらえなかったみたいね。傷付いたわ。今夜は眠れそうにないわね」
少し大げさにため息を吐くと、彼は真っ青な顔で硬直してしまった。
……少し意地悪が過ぎたわね。
「ごめんなさい……どうしたら許してもらえますか」
――さて、私は怒っているのだ。
二度と馬鹿なことを考えないように、しっかり釘を刺しておきましょう。
彼にはうんと重い罰を与えなくてはいけないわね。
「そうねぇ。これから一生、休みの朝には私に紅茶をいれるのよ。メイデイには花冠を贈ってね。誕生日にはケーキを焼いて、収穫祭にはコーンドールを作って。それからクリスマスにはカードが欲しいわ……そうしたら、許してあげる」
アルサリオンは目を細めて、涙を滲ませながら笑った。
「約束します。一生、エヴェリーナの側で」
それは私がずっと見たかった、彼の心からの笑顔。
今まで見た中で一番綺麗で、泣きたくなるくらいに愛おしい笑い方だった。
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