サメ軍団VS力士20人

武州人也

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荒川・ジョーズ

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 東京都足立区
 初夏のある日、この土地を流れる荒川で、サメの群れが川を遡上しているのが発見された。それは珍奇なニュースとして、茶の間の人々の目を丸くさせた。

 実は、サメは海でだけ泳いでいるものではない。一部のサメは河川や湖などの淡水域でも行動することができる。「人食いザメ」と呼ばれる大型のサメの一種であるオオメジロザメは大河川を三千キロメートル以上遡上した例もあるそうだ。案外、彼らの行動範囲は広いのである。

 群れとはいっても、最初に発見されたサメは、三匹だけであった。三匹でも人々の興味を引くには十分であり、好奇心に駆られた人々が河川敷に集まり始めた。多くの者が、その川面から突き出た背びれを見ては、指を差したりしながら騒いでいたのであった。
 サメは、毎日とはいかないまでも、頻繁に姿を現した。しかもその数はどんどん増えているようであった。最初は三つほどしか見られなかった背びれも、次第に四つ、五つ、六つと増えていき、梅雨の時期が終わるころにはその背びれの数は十を越えていた。
 見物人もそれに比例して増えていき、しまいには商魂たくましい者たちが彼らを相手に「サメ饅頭」やら「サメ煎餅」やらを売り出す始末である。加えて商工会議所や区の役人たちも「荒川のサメを観光資源にできないものか」という検討を、大真面目に始め出したのであった。荒川とサメという珍妙な組み合わせが人々の興味を引いたことで湧きあがった一連の「サメ狂騒曲」は、全く鎮火する気配を見せないままに盛り上がっていった。

 しかし、人々の呑気な浮かれ顔が恐怖に上塗りされる事件が、とうとう起こってしまった。

 ある夏の日。盛夏暑熱にも関わらず、その日も荒川の河川敷で人々はシャーク・ウオッチングに興じていた。彼らの期待に応えるように、幾つもの背びれが、川の下流から遡上してきた。この日は前にも増して、その数が多かった。二十はゆうに超えている。そのことが人々を大いに悦ばせたことは想像に難くない。この時、人々の顔が恐怖に歪むことになるなど、誰も予想していなかったであろう。
 サメは、続々と遡上してきた。背びれの数が三十を越えた時、とうとうサメたちは
「サ、サメがこっちに来るぞ!」
 見物人の中にいた一人の男が叫んだ。川面からサメが飛び出し、放物線を描きながら、それがのだ。サメは見物人の密集する場所に飛来し、その着地点に立っていた者に頭からかぶりつき呑み込んだ。そのようなことが、一斉に起こったのである。
 サメたちは飛び跳ねながら、次々と見物人を捕食していった。口の端から血を垂れながら人を咀嚼し飲み込むと、次の獲物を探して陸上を跳ねまわる。人々はサメの禍から逃れるために我先にと逃げ出したが、そこにサメは目をつけた。逃げる人々の背を、彼らが追い始めたのである。さながらその様子は、兎を追う虎が如しであった。もう、阿鼻叫喚の地獄というより他はない。

 そのような中、とあるビルの屋上で下界を見下ろす一人の老人がいた。
「海より禍来たる時、神に技を捧げる士ども現れん」
 老人の呟きは、この土地に伝わる伝承の内容であった。尤も、その伝承を知る者は、この土地においてそう多くは残っていなかった。

 さて、この時、狂乱に巻き込まれた者の中に、一人の少年がいた。安達晶あだちあきら、十四歳。隣の北区の中学に通う中学二年生である。
 晶がこの場所に来たのには理由がある。彼の親友が密かにサメ映画を愛好しており、それを知っている晶はその友を誘って区境をまたぎ、この場所に来たのである。最初の内は、親友のはしゃぎぶりに、ここに来てよかった、と思った者であった。その最中さなかに、惨劇が起こったのである。
 サメが人を襲い始めた頃、二人は共に逃げようとした。だが人の波に押されてしまい、二人は離れ離れになってしまった。今、彼はどうしているのだろうか……自分の身と同じくらいに、彼の身を案じていた。自分が連れ出したせいでこのような目に遭わせてしまった、という自責の念が、この少年の心中を苛んだのである。

友樹ゆうき……頼む無事でいてくれ……」
 逃げながら、彼は必死に願っていた。友樹というのは、その連れてきた親友の名である。
 実は、晶は彼に想いを寄せていた。それを自覚したのは、彼が同学年の女子からの告白を受けていたのを知った時のことであった。この時、晶は強烈な嫉妬の念に駆られるとともに、自らの恋慕の情をはっきりと認識したのである。眉目秀麗の美少年である彼に懸想する者は少なくない。
 結局、友樹が件の女子と相思相愛になることはなかったが、晶の心中は片時も休まらなかった。嫉妬深い醜い心の持ち主である自分を何度責めたかは分からない。それこそ彼とは小学校入学前からの付き合いがある旧友であるが、よもやその相手に恋情を抱こうとは、自分自身でも想像だにし得なかった。
 そのようなことを考えていた時、地が震えた。見ると、目の前の男が、上空から飛来したサメに、頭から齧りつかれて血を流していた。
「ひっ……」
 恐怖のあまり、晶は尻餅をついてしまった。サメは頭を上に向けると、そのまま喉を鳴らして男を呑み込んでしまった。汚らしいげっぷをしたサメが、晶の方を向いた。
 ――ああ、何ということだ。
 晶は己の死を悟った。逃れられぬ死。それが目の前に迫っているのだ。自分はもう助からない。けれどもせめて、想い人である友樹だけは助かってほしい……晶は天を仰いでそう願った。
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