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2章 異国[羈旅( きりょ)]編

2-29 怖がりの恋 (後) ※怖がり回

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 こちらを見上げる娘の瞳にじわりと涙が浮かんだ。

 何かを言いかけて口を開きかけるのを見ると、もっと恐ろしくなって、気がつくとまたも手をあげてしまった。

―――イタイ。
 
 誰かの声がしたような気がした。だが娘は叩かれた後、草地の上でうつ伏せになって丸くなっている。

 顔を伏して震える娘を見ると胸が痛んだ。それほど力を入れたつもりはなかったが、この娘には強すぎたのだろうか。

 もっと手加減してやらなければ――これはなのだから。

 獣人は家族を何よりも大切にする。娘は兄を、家族を悪く言った。だからこれは当然、正さなくてはいけない。

 仕置きをして当然なのだ。悪い子には仕置きをする、それがでの決まりだ。

「わ・悪い子…っ」
――痛い。止めて。
「我が儘、言っちゃ、ダメ…っつ」
――痛いよう。

 一つ叩くたびに、幼い子供の悲痛な声が、頭に直接響いてくる。目の前を見下ろすと、小さな男の子が丸くなってうずくまるのが見えた。

 黒い髪に、日によく灼けた小麦色の肌。幼い体が小さな手足を精一杯縮めて丸くなっている。

 まるで先ほどの娘のように。顔を上げると黒い瞳が涙を流して懇願する。

――止めて。止めて。

(言うことを聞かねえからそうなるんだ!――覚えとけっ!)
(まあ所詮、畜生だからなぁ。死にたくなかったら早く慣れろよ?)
(いつになったら人間様の言葉を覚えるんだ?!)
(その喋り方、鬱陶しいから黙ってろ)

 ことあるごとに罵倒されて、殴られた。わざと首輪を締めつけられて気を失ったことも数回ではない。

 激しく目をまたたかせる。この子供は誰だ…? そしてののしあざけるこの声は誰のものだ? 聞き覚えがある――これは。

「に…にい、さん、か?」

 違うと首を振る。兄は家族だ。種族は違えど、大食らいの自分のために、兄たちはいつもたくさんお金を稼いできてくれる。

 ”暴食グラ”という名前もそんな自分にぴったりだと言ってつけてくれた。

 自分に出来ることは兄に言われた通りに動くことだけ。だから――この娘を連れ帰らなければ。娘に手を伸ばしかけた、その時。

 娘が鼻水と涙にまみれた顔を上げた。しゃくりあげながら言った。

「い・痛いよぉ。もう止めて。怖がりイシトマァ…」
「―――」

 泣き顔が哀れで、思わず手を伸ばそうとした。途端に、びくりと小さな体が恐怖で震える。こちらを見上げる目は、すっかり怯え切っていた。

(こんな顔をさせたかったわけじゃない)

 後悔が押し寄せる。どこから間違えたのだろう? 黙り込んで動かなくなった自分を見上げて、「怖がりイシトマ?」と娘が呼びかける。

『…ずっと昔は別の名前で呼ばれていた…』

 気がつくと、昔の言葉が口から滑り出た。もうずっと話していなかったから、すっかり喋れなくなったものと思っていたのに。

『”グラ”でもない…もう…どんな名前だったのか覚えていないけれど』

 山中の木の根っこの下に掘った巣穴。土の匂い、そこに混じる母熊の匂い、そして小さな兄弟の乳臭い匂いまで。そんなものが頭の中で一瞬弾けて、消えた。

 親からはぐれた自分を拾ってくれたのだと兄は言っていた。これは、それよりも前の記憶だろうか。こんな風に思い出すのは初めてだった。

 首輪から受け続けた仕置きのせいか、昔の記憶はずいぶんと曖昧だ。最近では思考することもままならないほど、頭がぼんやりとする。

 おかげで痛みにも鈍くなったから、それでも構わないけれど。ただ命令されないと、指示がよく聞こえなくて、そのせいで最近、兄をひどく苛々させているように思う。

(――もうそろそろこいつも、処分かな)

 しっかりしなければ。自分がいなくなったら、兄の仕置きから誰がこの娘を守ってやれる。
 
 何があったか分からないが、この娘がこれ以上仕置きを受けずに済むよう、自分が何とかとりなしてやらなければ。それにはまず娘を連れ帰り、兄の機嫌を取ることが先決だ。

 娘のすぐそばに膝をつくと、怖がりイシトマはそっと腕を差し出した。娘が目に見えて狼狽える。尻で地面をいざりながらなんとか逃れようとするのをすくい上げるように抱き上げた。

怖がりイシトマ…! 下ろしてぇ!」
『傷が痛むだろう。じっとしててくれ』

 くんと怖がりイシトマは鼻を鳴らした。背後から何かが近づいてくる。娘を腕に抱え、立ち上がって振り返ると、草地の向こうから兄二人が髪を振り乱しながら走ってくるのが見えた。

 さらにその奥の方から、先ほどまでなかった大きな翼の気配が感じられた。翼の気配は、激しい怒りの匂いを纏っていて、その匂いはここまで漂ってくる。

「グラ! に・逃げるぞ! 俺たちを運んで逃げるんだ!」

 一番上の兄がぜっぜっと荒い呼吸の合間にそう言いながら駆けてくる。腕の中の娘を見ると「そいつも連れて行くんだ」とつけ加えた。

 腕の中の娘が身を竦めるのが分かった。じっとその顔を見下ろした。赤い瞳が怯えるようにこちらを見上げる。

 小さな唇が震えながらも”助けて”と言ったのが唇の動きで分かった。

「”グラ”! 熊になれ! このままじゃあ、奴に追いつかれちまう。その前にそいつを連れてここから逃げ出すぞ――命令だっ!」

 首輪を身につけている以上、この身に下される命令に抗うすべはない。命令に反応して、強制的に人型から熊へと体が作り変えられていく。

 獣化を見るのは初めてなのだろう。娘があまりにもあからさまに驚くのが可笑しくて、ふっと笑いがこみ上げる。と同時に、胸に何とも言えない愛おしさが広がった。

 出来ることなら――― 一緒に生きてみたかった。
 
 体がひときわ大きく膨らみ始め、全身を黒い毛皮が覆い始める。見た目が熊と人との中間になったあたりで、怖がりイシトマは顔を怒りんぼイルㇱカへと向けた。

「に・にいさん。聞きたい、ことが…あ・ある」
「ああ? つうか、そう呼ぶなと何度――まあいい。言ってみろ」
「この子、売りとばす?」
「―――」

 怒りんぼイルㇱカは言葉を詰まらせると、口の端に引きつった笑みを浮かべる。怖がりイシトマは無言でその顔をながめた。

「……。わか・わかった…じ獣化、終わった、よ。もう、行こう」

 そう言うと、完全に熊へと変化へんげした怖がりイシトマがふっふっと息を吐きながら、黒い鼻面はなづらをちょこんとフェイバリットの鼻に押し当てた。

 やがて――獣は腕の中に抱えるその体を、まるで壊れ物でも扱うように、優しく草地の上に下ろす。離れたところから見ていた怒りんぼイルㇱカ半笑いアㇻケミナが呆気に取られた後、短い怒声をあげた。

 だがその前に、大きな獣が二人に向かって近づくのが早かった。熊は二人を咥えて背中に放り上げると、ちらりと草地で動けない小さな娘に振り返った。

『叩いて、すまなかった――元気でな』

「お、おい! グラ。命令に背くんじゃねえっ!」

 背中の毛皮を掴みながら、怒りんぼイルㇱカが耳もとで怒鳴りつける。その声が耳障りだったのだろう。熊は耳をぴくぴく振った後、不快そうに低い唸り声を上げた。

 首輪の制約がある以上、持ち主の命を奪ったりすることは出来ない。だが首輪が与える罰に耐えられれば、相手に傷の一つくらい負わせることはおそらく可能だ。

 不機嫌そうな熊の威嚇に、怒りんぼイルㇱカが悔し気に唇を噛むと、その耳もとにそっと吹き込んだ。

「もう我慢できねえ。街に戻ったらお前は処分だ。”肉”にしてやるからな――グラ」

 熊はじっと怒り狂う男の顔を見つめると、ひと言告げた。

「…オレの名は、もう、グラじゃ、ない。”怖がりイシトマ”だ」
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