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2章 異国[羈旅( きりょ)]編
2-30 奪われた心の欠片
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遠くの空で、激しい威嚇音と羽ばたきが聞こえる。
男たちを、いやフェイバリットを探しているのだろうか。
「や、やべえ…っ! 早く行けっ」
空にとどろく声から隠れるように、男が身を竦ませる。
男の号令で熊の巨体がのそりと動きだした。男を二人、背中に張りつかせたまま、ゆっくりと走り出す。
去り際に、男二人からは苦々しい一瞥を投げかけられた。その眼差しにはありありと、お宝をみすみす逃すことへの悔しさが浮かんでいた。
すでに立ち上がる力のないフェイバリットは、草地の上からそれを見送る。
ずっとしかめっ面だった”怒りんぼ”、
常にニヤニヤ笑いを浮かべる”半笑い”
――そしてフェイバリットを助けてくれた心優しい熊の獣人、”怖がり”。
男たちとの出会いは、あまりにも強烈で恐ろしいものだった。
遠ざかる姿を眺めながら、ふとフェイバリットはあることを思い出した。
――自分は大切なものをあの中の一人に奪われたままではなかったか。
「まっ…待って!――返して!!」
立ち上がろうとして、膝から崩れ落ちた。例え立ち上がれたとして、全力で走り去る熊に追いつけるはずもない。すでに男たちとの距離は絶望的なまでの距離だった。
(それでも)
(今、追わなければ…っ)
失くしてしまう。
その考えが恐ろしくて、ぐっと唇を噛んだ。体中から血の気が引き、ともすれば体が震える。
身の内に這い上がるどす黒い感情を、頭を振って追い出した。今は考えている場合じゃない。
立ち上がろうとしては転ぶを繰り返し、立ち上がることを諦めると、今度は躄りながら、なんとか前に進もうとする。
目を上げると、すでに男たちの姿は視界の中で黒い点となっていた。
ただ見つめることしかできない。そんなフェイバリットを置き去りにして、やがて、その一点も野の彼方へと溶けるようにふっと見えなくなった。
悪夢は唐突に始まったかと思うと、終わりも嵐のように慌ただしく過ぎ去る。
頭の中に次々とよみがえる。
激しく揺れる荷車の音。震えるほどに恐ろしかった男の怒鳴り声。かと思うと、悪寒の走る下卑た男の笑い声。
倒れたランドから聞こえるくぐもった呻き声。禍々しい黒い首輪。もう駄目だと何度思ったことか。
物がぶつかる激しい音。走る荷車から飛び降りた、あの短くも長い一瞬と真っ白な衝撃。
すぐ真横で聞いた回る車輪の音がひときわ大きく響いては遠ざかる。獣の生温かい息遣い。元気でと言った寂しげな男の声。
そしてそして――。
――ま、弱いもんは奪い尽くされるってのがオチだ。大事な首飾りも、自由も――でもってその体もな
あざ笑いながら言った声が、残った。
あれほど、さまざまな音が、常に自分の身の回りを埋め尽くしていたのが嘘のように、今は静けさを取り戻している。
あちこちが痛い。全身が痛くて、どこがどう痛いのかも分からない。左? 右? どちらかの腕が燃えるように痛い――動かない腕を見るのは痛みよりも恐怖が先に立つ。見たくない。
何度目だろうか。転んで地面に突っ伏した状態から、瞬きもせず、遠くを見つめる。片肘を地面について、なんとか顔を上げた。
体を起こしたいのだが片腕だとなかなか上手くいかない。身動きすると、バラバラと白い糸くずが地面に落ちた。糸くずだと思ったのは自分の髪だった。
だが。そんなことよりも……。
連中が立ち去った後の目の前の風景に呆然と目を凝らす。そこには逃亡者の姿はおろか砂埃すらない。
唇を震わせながら、フェイバリットの腕が恐る恐る、自身の胸元にゆっくり触れた。
時々、そこにあるか確認して触れていた丸い石の感覚。それがない。
何度触れてもそこに、珠飾りの感触はなかった。だってあの男が持って行ってしまったから。
分かっていても見るのが恐ろしい。
これに比べると、動かない腕を見ることなど、いかほどでもないと思える。白い肌がいっそう白くなるほどに、きつく上衣の胸元を握り込む。その手が大きく震えだす。
「―――あ」
喉から声が出た。だが「あ」としか出てこない。ひゅうひゅうとかすれた息がこぼれ出る。
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。嘘だ――――――。
「あ―――ああああああああ――――――あああああああ」
気がつくと、喉が千切れるような絶叫が大きく開いた口から出ていた。止めることができない。
見開いた瞳からあふれ出す涙が熱い。
「フェイバリット!!!」
ランドの悲鳴のような声が背後から近づいてくる。だが、振り返ることができない。
男たちが消えた先を見つめたまま、馬鹿の一つ覚えのように「あ」を繰り返すことしか出来なかった。
大切な。
あの人を。
失ってしまった。
男たちを、いやフェイバリットを探しているのだろうか。
「や、やべえ…っ! 早く行けっ」
空にとどろく声から隠れるように、男が身を竦ませる。
男の号令で熊の巨体がのそりと動きだした。男を二人、背中に張りつかせたまま、ゆっくりと走り出す。
去り際に、男二人からは苦々しい一瞥を投げかけられた。その眼差しにはありありと、お宝をみすみす逃すことへの悔しさが浮かんでいた。
すでに立ち上がる力のないフェイバリットは、草地の上からそれを見送る。
ずっとしかめっ面だった”怒りんぼ”、
常にニヤニヤ笑いを浮かべる”半笑い”
――そしてフェイバリットを助けてくれた心優しい熊の獣人、”怖がり”。
男たちとの出会いは、あまりにも強烈で恐ろしいものだった。
遠ざかる姿を眺めながら、ふとフェイバリットはあることを思い出した。
――自分は大切なものをあの中の一人に奪われたままではなかったか。
「まっ…待って!――返して!!」
立ち上がろうとして、膝から崩れ落ちた。例え立ち上がれたとして、全力で走り去る熊に追いつけるはずもない。すでに男たちとの距離は絶望的なまでの距離だった。
(それでも)
(今、追わなければ…っ)
失くしてしまう。
その考えが恐ろしくて、ぐっと唇を噛んだ。体中から血の気が引き、ともすれば体が震える。
身の内に這い上がるどす黒い感情を、頭を振って追い出した。今は考えている場合じゃない。
立ち上がろうとしては転ぶを繰り返し、立ち上がることを諦めると、今度は躄りながら、なんとか前に進もうとする。
目を上げると、すでに男たちの姿は視界の中で黒い点となっていた。
ただ見つめることしかできない。そんなフェイバリットを置き去りにして、やがて、その一点も野の彼方へと溶けるようにふっと見えなくなった。
悪夢は唐突に始まったかと思うと、終わりも嵐のように慌ただしく過ぎ去る。
頭の中に次々とよみがえる。
激しく揺れる荷車の音。震えるほどに恐ろしかった男の怒鳴り声。かと思うと、悪寒の走る下卑た男の笑い声。
倒れたランドから聞こえるくぐもった呻き声。禍々しい黒い首輪。もう駄目だと何度思ったことか。
物がぶつかる激しい音。走る荷車から飛び降りた、あの短くも長い一瞬と真っ白な衝撃。
すぐ真横で聞いた回る車輪の音がひときわ大きく響いては遠ざかる。獣の生温かい息遣い。元気でと言った寂しげな男の声。
そしてそして――。
――ま、弱いもんは奪い尽くされるってのがオチだ。大事な首飾りも、自由も――でもってその体もな
あざ笑いながら言った声が、残った。
あれほど、さまざまな音が、常に自分の身の回りを埋め尽くしていたのが嘘のように、今は静けさを取り戻している。
あちこちが痛い。全身が痛くて、どこがどう痛いのかも分からない。左? 右? どちらかの腕が燃えるように痛い――動かない腕を見るのは痛みよりも恐怖が先に立つ。見たくない。
何度目だろうか。転んで地面に突っ伏した状態から、瞬きもせず、遠くを見つめる。片肘を地面について、なんとか顔を上げた。
体を起こしたいのだが片腕だとなかなか上手くいかない。身動きすると、バラバラと白い糸くずが地面に落ちた。糸くずだと思ったのは自分の髪だった。
だが。そんなことよりも……。
連中が立ち去った後の目の前の風景に呆然と目を凝らす。そこには逃亡者の姿はおろか砂埃すらない。
唇を震わせながら、フェイバリットの腕が恐る恐る、自身の胸元にゆっくり触れた。
時々、そこにあるか確認して触れていた丸い石の感覚。それがない。
何度触れてもそこに、珠飾りの感触はなかった。だってあの男が持って行ってしまったから。
分かっていても見るのが恐ろしい。
これに比べると、動かない腕を見ることなど、いかほどでもないと思える。白い肌がいっそう白くなるほどに、きつく上衣の胸元を握り込む。その手が大きく震えだす。
「―――あ」
喉から声が出た。だが「あ」としか出てこない。ひゅうひゅうとかすれた息がこぼれ出る。
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。嘘だ――――――。
「あ―――ああああああああ――――――あああああああ」
気がつくと、喉が千切れるような絶叫が大きく開いた口から出ていた。止めることができない。
見開いた瞳からあふれ出す涙が熱い。
「フェイバリット!!!」
ランドの悲鳴のような声が背後から近づいてくる。だが、振り返ることができない。
男たちが消えた先を見つめたまま、馬鹿の一つ覚えのように「あ」を繰り返すことしか出来なかった。
大切な。
あの人を。
失ってしまった。
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