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第5話 新しい生活と、置いてきた祖国の現状
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帝国での生活が始まってから、一週間が経過した。 結論から言おう。 ここは天国だ。間違いなく、地上の楽園である。
まず、朝起きるのが苦痛ではない。 王国時代は、夜明け前の薄暗い時間帯に、凍えるような寒さの中でベッドから這い出していた。睡眠時間は平均三時間。慢性的な頭痛と胃痛が友達だった。 しかし今は違う。 最高級のスライム・ウレタン・マットレスの上で、目覚まし時計が鳴るまで泥のように眠り、カーテンを開ければ二重ガラスの窓越しに柔らかな朝日が差し込む。 部屋は空調魔導具によって常に適温に保たれており、寒さに震えることもない。
「リーゼロッテ様、本日の朝食はパンケーキになさいますか? それともエッグベネディクトになさいますか?」
専属メイドのリズが、満面の笑みでワゴンを押してくる。 そこには、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、淹れたてのコーヒーのアロマが漂っていた。
「エッグベネディクトでお願いするわ。……あ、でもサラダも多めにお願いできる?」 「かしこまりました! 帝都近郊の温室で採れたばかりの新鮮な野菜をお持ちしますね」
食事を終えると、私は身支度を整えて執務室へと向かう。 以前のような、足取りの重さは微塵もない。 むしろ、早く仕事がしたくてウズウズしている自分がいた。
皇城の東棟にある私の執務室は、広々としていて明るい。 壁一面には最新鋭の魔導スクリーンが設置され、デスクの上には高性能な演算用魔石が山積みになっている。 王国では「紙とペン」で何日もかけて行っていた計算が、ここでは魔導具を使えば数秒で終わる。 その余った時間を、私は純粋な「思考」と「創造」に費やすことができた。
「おはようございます、チーフ!」 「リーゼロッテ様、昨日の回路図の件ですが、素晴らしい効率改善でした!」
廊下ですれ違う魔導師たちが、敬意を込めて挨拶をしてくる。 彼らは最初こそ私を疑っていたが、今では私の「信者」のようになっている。 私が提案する「魔力循環のバイパス手術」や「冷却システムの並列化」といったアイデアが、次々と目に見える成果を上げているからだ。
帝都の魔力消費量は、この一週間で実に一五%も削減された。 その浮いたエネルギーは、工場の稼働率アップや、市民への暖房供給に回されている。 街に出れば、「最近、魔導ヒーターの効きが良くなったな」「ガス灯が明るくなった」と喜ぶ人々の声が聞こえてくる。
自分の仕事が、誰かの役に立っている。 その実感が、私にとっては何よりの報酬だった。
コンコン、と執務室のドアがノックされた。 返事をする前に、ドアがガチャリと開く。 入ってきたのは、漆黒の軍服をラフに着崩した皇帝、ジークハルトだった。
「よう。根を詰めているようだな」
彼は片手に書類、もう片方の手には小さなバスケットを持っていた。
「ジーク様! ノックの返事を待ってくださいと何度言ったら……」 「私の城だぞ。どこに入ろうと勝手だろう」
彼は悪びれる様子もなく、私のデスクの前のソファにドカリと腰掛けた。 その態度は尊大だが、瞳には私を気遣うような色が浮かんでいる。
「休憩しろ。フランツから聞いたぞ、昼食も摂らずに没頭していたそうだな」 「あ……もうそんな時間でしたか。すみません、つい楽しくて」 「仕事が楽しい、か。……奇特な奴だ」
ジークハルトは呆れたように笑うと、持っていたバスケットをテーブルに置いた。
「差し入れだ。厨房のシェフが新作のサンドイッチを作ったとかで、味見を押し付けられた。私一人では食えんから、手伝え」
そんな嘘がバレバレの言い訳をして、彼はバスケットの蓋を開けた。 中には、色とりどりの具材が挟まれた美味しそうなサンドイッチが、二人分きっちりと入っていた。 しかも、私の好きなアボカドとサーモンのサンドイッチがある。
「……ふふ、ありがとうございます。いただきます」 「……ん」
二人でソファに向かい合って、遅めのランチをとる。 窓の外には、活気に満ちた帝都の風景が広がっている。
「どうだ、こっちの生活には慣れたか?」
ジークハルトが、紅茶を飲みながら尋ねてきた。
「はい。皆さん親切ですし、設備も素晴らしいですし……毎日が夢のようです」 「そうか。それは良かった」
彼は満足げに頷いた後、少し真面目な顔つきになった。
「リーゼロッテ。……貴様の『最適化』の効果は絶大だ。議会でも称賛の声が上がっている。正直、ここまでやるとは思っていなかった」 「恐縮です。でも、帝国の魔導基盤がしっかりしていたからこそです。私はただ、配線の絡まりを解いただけですから」 「謙遜するな。……だが、無理はするなよ。貴様が倒れたら、私が困る」 「はい。……あ、そうだ。ジーク様の魔力調整の時間ですね」
私はサンドイッチを食べ終えると、手を拭いて彼の隣に座り直した。 彼も慣れた様子で軍服のボタンを外し、シャツの胸元を寛げる。 最初は顔を真っ赤にしていた彼も、毎日のことなので少しは慣れてきたようだ。
彼の手を取り、胸に手を当てる。 ドクン、ドクン、と力強い鼓動が伝わってくる。 魔力の流れを読む。 うん、今日も安定している。昨日の調整がしっかりと馴染んでいる証拠だ。
「……温かいな」
彼がぽつりと呟いた。
「え?」 「貴様の魔力だ。……冷たい水のような私の魔力とは違う。陽だまりのような、心地よい熱がある」
彼は私の手を見つめ、そっと自分の手を重ねた。 大きくて、武骨な手。 けれど、その触れ方は壊れ物を扱うように優しい。
「ずっと、こうしていたくなる」
その言葉に、私の心臓がトクンと跳ねた。 顔が熱くなるのを感じる。 これって、どういう意味? 単に魔力的な意味? それとも……?
私が動揺していると、彼はハッとしたように手を離し、勢いよく立ち上がった。
「そ、そろそろ執務に戻らねば! 午後は軍事演習の視察があるからな!」 「あ、はい。いってらっしゃいませ」 「……サンドイッチ、全部食っておけよ」
彼はそれだけ言い残すと、逃げるように部屋を出て行った。 バタン、と閉まったドアを見つめながら、私は自分の胸を押さえた。 まだ、ドキドキしている。
「……もう。心臓に悪いです、ジーク様」
私は残りのサンドイッチを口に運んだ。 サーモンの塩気と、アボカドのまろやかさが口いっぱいに広がる。 その味は、なんだかとても甘く感じられた。
一方その頃。 リーゼロッテが去ってから一週間後の、王国『ルミナス』の王城。
かつて栄華を極めた白亜の城は、今や薄暗い影に覆われていた。 廊下の魔導ランプは、本来の光量の半分も出ておらず、チカチカと不快な点滅を繰り返している。 暖房システムも不調で、石造りの廊下には冷たい隙間風が吹き抜けていた。
「ええい、寒い! どうなっているんだ!」
アルフォンス王子は、毛皮のマントをきつく巻きつけながら怒鳴り散らしていた。 彼は執務室の暖炉の前で、暖を取ろうと必死だったが、その暖炉の火もなぜか勢いが弱い。
「申し訳ありません、殿下。薪への着火を補助する魔導具の出力が安定せず……」 「言い訳はいい! さっさと直せと言っているんだ! 魔導師たちは何をしている!」 「は、はい! 現在、総出で原因究明に当たっておりますが、システムが複雑すぎて……」
侍従長が脂汗を流しながら頭を下げる。 王子は苛立ち紛れに、手元のワイングラスを壁に投げつけた。 ガシャッという音が響くが、誰もそれを片付けようとはしない。人手が足りないのだ。
リーゼロッテがいなくなってから、城内のあらゆるシステムに不具合が生じ始めていた。 最初は些細なことだった。 お湯が出るのが遅い、自動ドアの反応が悪い、魔導通信にノイズが入る。 だが、日を追うごとに事態は深刻化していた。
昨晩など、王妃主催の夜会の最中に、大広間の照明が一斉に消えるという前代未聞の失態があった。 暗闇の中で貴婦人たちが悲鳴を上げ、パニックになった客たちが出口に殺到し、怪我人まで出たのだ。 王子の面目は丸つぶれだった。
「くそっ、どいつもこいつも無能ばかりだ!」
王子は爪を噛んだ。 なぜだ。なぜこんなことになった。 一週間前までは、全てが順調に回っていたはずだ。 リーゼロッテという「横領犯」を排除し、愛するマリアとの幸せな生活が始まるはずだったのに。
「アルフォンス様ぁ~」
甘ったるい声と共に、執務室のドアが開いた。 入ってきたのは、ピンク色のドレスを着たマリアだった。 彼女は頬を膨らませ、不満げに王子に近づいてくる。
「ねえ、聞いてくださいよぉ。私のお部屋のお風呂、またお湯が出ないんですぅ。これじゃあ肌が荒れちゃう」 「マリア、今ちょっと忙しいんだ。……湯浴みなら、王妃宮の大浴場を使えばいいだろう」 「やだぁ! あそこは広すぎて怖いもん。……ねえ、なんとかしてくださいよぉ。王子様なんでしょ?」
マリアは王子の腕に絡みつき、上目遣いでねだる。 いつもなら「可愛いな」と思えるその仕草も、今の王子には煩わしく感じられた。 彼は無意識に、リーゼロッテのことを思い出していた。 彼女なら、こんな時どうしただろうか。
『殿下、お湯が出ない原因は地下ボイラーの魔力供給路の詰まりです。すぐに技師を手配し、予備の魔石を使って三十分以内に復旧させます』
そうだ。彼女はいつだって、問題が起きる前に解決していた。 あるいは、問題が起きても即座に対処法を提示し、涼しい顔で実行していた。 私に不満を漏らすことなど、一度もなかった。
(……いや、違う。あいつは私の金を横領していたんだ。だから、金を使って業者を動かしていただけに過ぎない)
王子は首を振って、その考えを打ち消した。 自分は間違っていない。あんな地味で可愛げのない女がいなくなったところで、困るはずがないのだ。 これは一時的な不具合だ。システムが古くなっただけだ。
「……マリア、少し我慢してくれ。すぐに新しい魔導具を買い換えるから」 「ほんとぉ? じゃあ、ついでに新しいドレスも買ってぇ。今度のお茶会に着ていく服がないの」 「ドレス? 先週買ったばかりだろう」 「だってぇ、あれはもう流行遅れだもん。……ね、いいでしょ? アルフォンス様、大好きぃ」
マリアが頬にキスをする。 王子はため息をつきながらも、「わかったよ」と頷いた。 その時、部屋の隅で控えていた財務大臣が、恐る恐る口を開いた。
「あの……殿下。申し上げにくいのですが……」 「なんだ」 「その、予算が……ございません」 「は?」 「新しい魔導具の購入費も、マリア様のドレス代も……今の国庫には、一金貨たりとも余裕がないのです」
王子の目が点になった。
「何を言っている? リーゼロッテから没収した横領金があるだろう! 金貨一万枚はどうした!」 「そ、それが……」
財務大臣は青ざめた顔で、帳簿を差し出した。
「調査の結果……リーゼロッテ様の口座には、一万枚どころか、一銭も入っていませんでした。あるのは借用書と、私財を売却した記録だけで……」 「な、なに……?」 「つまり、彼女は横領などしていなかったのです。それどころか、彼女個人の資産を切り崩して、王家の赤字を補填していたようで……」
王子の脳天に、雷が落ちたような衝撃が走った。 横領していなかった? 私財を投げ打っていた?
「そ、そんな馬鹿な! じゃあ、今まで湯水のように使えていたあの金は、どこから湧いていたんだ!?」 「ですから、彼女が……リーゼロッテ様が、その人脈と錬金術的な資金繰りで、魔法のように捻出していたのです。彼女がいなくなった今、その蛇口は完全に閉まりました」
財務大臣は絶望的な声で告げた。
「さらに悪いことに、リーゼロッテ様の実家であるエーデル公爵家が取り潰されたことで、彼らが支援していた地方の領主たちが一斉に反発し、納税を拒否しています。……殿下、我が国は今、完全な破産状態です」
王子は力なく椅子にへたり込んだ。 破産。 その二文字が、頭の中でぐるぐると回る。
「うそ……嘘だ……」 「じゃあ、ドレスは買えないの?」
マリアが空気を読まずに尋ねる。 王子の中で、何かがプツンと切れた。
「うるさいッ!! ドレスどころじゃないんだよッ!!」
彼は怒鳴りつけ、机の上の書類をぶちまけた。 マリアが「ひっ」と悲鳴を上げて後ずさる。
「……リーゼロッテ……。あいつ、一体何をしていたんだ……?」
王子は震える手で顔を覆った。 ここに来て初めて、彼は気づき始めていた。 自分が切り捨てたものが、「不要な石ころ」ではなく、この国を支えていた「土台そのもの」だったということに。 しかし、もう遅い。 土台を失った城は、音を立てて崩れ始めていた。
再び、帝国の夜。 私は皇城のテラスに出て、夜風に当たっていた。 眼下には、宝石箱をひっくり返したような帝都の夜景が広がっている。 無数の光の一つ一つに、人々の暮らしがあり、温かい食卓がある。 以前より明るくなった街の灯りを見ていると、胸が誇らしさで満たされた。
「……綺麗」
風が、私の髪を優しく揺らす。 ふと、南の空を見上げた。 あの暗い空の向こうに、私の生まれた国がある。
今頃、どうしているだろうか。 城のシステムがダウンしていることは、計算上予想できていた。 私が毎日徹夜で行っていた微調整がなければ、あの老朽化したシステムは三日ともたない。 きっと今頃、王子たちは寒さに震え、暗闇の中で責任の押し付け合いをしていることだろう。
「……自業自得、ね」
私は冷たく呟いた。 同情心は湧かなかった。 彼らは私から全てを奪おうとした。命さえも。 だから、彼らが失う苦しみを知るのは当然の報いだ。
でも、不思議と「ざまぁみろ」と嘲笑う気持ちにもなれなかった。 彼らのことなど、もうどうでもよかった。 私には今、やるべき仕事がある。 守るべき新しい居場所がある。 そして――。
「こんなところで何をしている」
背後から、低い声がかかった。 振り返ると、ジークハルトが立っていた。 彼は自分の着ていた厚手のマントを脱ぐと、無言で私の肩にかけてくれた。
「風邪を引くぞ。……帝国の夜は冷える」 「ありがとうございます、ジーク様」
マントからは、彼の匂いと、ほのかな温もりがした。 「南の空を見ていたな」
彼は私の視線の先を見やり、静かに言った。
「未練か?」 「いいえ。……ただ、昔の自分にお別れを言っていただけです」
私はきっぱりと答えた。
「私はもう、帝国の魔導技師です。私の知識も、技術も、そしてこの心も……すべて、この国のために使います」
ジークハルトは目を細め、満足そうに頷いた。
「そうか。……なら、いい」
彼は私の隣に並び、手すりに肘をついた。
「明日からは、さらに忙しくなるぞ。軍部の魔導兵器の調整も頼みたい。……ついて来れるか?」 「もちろんです。望むところですよ」
私たちは顔を見合わせ、笑い合った。 夜空に輝く二つの月が、私たちの新しい門出を祝福しているように見えた。
私の新しい人生は、まだ始まったばかり。 そして、祖国の崩壊もまた、始まったばかりだった。
まず、朝起きるのが苦痛ではない。 王国時代は、夜明け前の薄暗い時間帯に、凍えるような寒さの中でベッドから這い出していた。睡眠時間は平均三時間。慢性的な頭痛と胃痛が友達だった。 しかし今は違う。 最高級のスライム・ウレタン・マットレスの上で、目覚まし時計が鳴るまで泥のように眠り、カーテンを開ければ二重ガラスの窓越しに柔らかな朝日が差し込む。 部屋は空調魔導具によって常に適温に保たれており、寒さに震えることもない。
「リーゼロッテ様、本日の朝食はパンケーキになさいますか? それともエッグベネディクトになさいますか?」
専属メイドのリズが、満面の笑みでワゴンを押してくる。 そこには、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、淹れたてのコーヒーのアロマが漂っていた。
「エッグベネディクトでお願いするわ。……あ、でもサラダも多めにお願いできる?」 「かしこまりました! 帝都近郊の温室で採れたばかりの新鮮な野菜をお持ちしますね」
食事を終えると、私は身支度を整えて執務室へと向かう。 以前のような、足取りの重さは微塵もない。 むしろ、早く仕事がしたくてウズウズしている自分がいた。
皇城の東棟にある私の執務室は、広々としていて明るい。 壁一面には最新鋭の魔導スクリーンが設置され、デスクの上には高性能な演算用魔石が山積みになっている。 王国では「紙とペン」で何日もかけて行っていた計算が、ここでは魔導具を使えば数秒で終わる。 その余った時間を、私は純粋な「思考」と「創造」に費やすことができた。
「おはようございます、チーフ!」 「リーゼロッテ様、昨日の回路図の件ですが、素晴らしい効率改善でした!」
廊下ですれ違う魔導師たちが、敬意を込めて挨拶をしてくる。 彼らは最初こそ私を疑っていたが、今では私の「信者」のようになっている。 私が提案する「魔力循環のバイパス手術」や「冷却システムの並列化」といったアイデアが、次々と目に見える成果を上げているからだ。
帝都の魔力消費量は、この一週間で実に一五%も削減された。 その浮いたエネルギーは、工場の稼働率アップや、市民への暖房供給に回されている。 街に出れば、「最近、魔導ヒーターの効きが良くなったな」「ガス灯が明るくなった」と喜ぶ人々の声が聞こえてくる。
自分の仕事が、誰かの役に立っている。 その実感が、私にとっては何よりの報酬だった。
コンコン、と執務室のドアがノックされた。 返事をする前に、ドアがガチャリと開く。 入ってきたのは、漆黒の軍服をラフに着崩した皇帝、ジークハルトだった。
「よう。根を詰めているようだな」
彼は片手に書類、もう片方の手には小さなバスケットを持っていた。
「ジーク様! ノックの返事を待ってくださいと何度言ったら……」 「私の城だぞ。どこに入ろうと勝手だろう」
彼は悪びれる様子もなく、私のデスクの前のソファにドカリと腰掛けた。 その態度は尊大だが、瞳には私を気遣うような色が浮かんでいる。
「休憩しろ。フランツから聞いたぞ、昼食も摂らずに没頭していたそうだな」 「あ……もうそんな時間でしたか。すみません、つい楽しくて」 「仕事が楽しい、か。……奇特な奴だ」
ジークハルトは呆れたように笑うと、持っていたバスケットをテーブルに置いた。
「差し入れだ。厨房のシェフが新作のサンドイッチを作ったとかで、味見を押し付けられた。私一人では食えんから、手伝え」
そんな嘘がバレバレの言い訳をして、彼はバスケットの蓋を開けた。 中には、色とりどりの具材が挟まれた美味しそうなサンドイッチが、二人分きっちりと入っていた。 しかも、私の好きなアボカドとサーモンのサンドイッチがある。
「……ふふ、ありがとうございます。いただきます」 「……ん」
二人でソファに向かい合って、遅めのランチをとる。 窓の外には、活気に満ちた帝都の風景が広がっている。
「どうだ、こっちの生活には慣れたか?」
ジークハルトが、紅茶を飲みながら尋ねてきた。
「はい。皆さん親切ですし、設備も素晴らしいですし……毎日が夢のようです」 「そうか。それは良かった」
彼は満足げに頷いた後、少し真面目な顔つきになった。
「リーゼロッテ。……貴様の『最適化』の効果は絶大だ。議会でも称賛の声が上がっている。正直、ここまでやるとは思っていなかった」 「恐縮です。でも、帝国の魔導基盤がしっかりしていたからこそです。私はただ、配線の絡まりを解いただけですから」 「謙遜するな。……だが、無理はするなよ。貴様が倒れたら、私が困る」 「はい。……あ、そうだ。ジーク様の魔力調整の時間ですね」
私はサンドイッチを食べ終えると、手を拭いて彼の隣に座り直した。 彼も慣れた様子で軍服のボタンを外し、シャツの胸元を寛げる。 最初は顔を真っ赤にしていた彼も、毎日のことなので少しは慣れてきたようだ。
彼の手を取り、胸に手を当てる。 ドクン、ドクン、と力強い鼓動が伝わってくる。 魔力の流れを読む。 うん、今日も安定している。昨日の調整がしっかりと馴染んでいる証拠だ。
「……温かいな」
彼がぽつりと呟いた。
「え?」 「貴様の魔力だ。……冷たい水のような私の魔力とは違う。陽だまりのような、心地よい熱がある」
彼は私の手を見つめ、そっと自分の手を重ねた。 大きくて、武骨な手。 けれど、その触れ方は壊れ物を扱うように優しい。
「ずっと、こうしていたくなる」
その言葉に、私の心臓がトクンと跳ねた。 顔が熱くなるのを感じる。 これって、どういう意味? 単に魔力的な意味? それとも……?
私が動揺していると、彼はハッとしたように手を離し、勢いよく立ち上がった。
「そ、そろそろ執務に戻らねば! 午後は軍事演習の視察があるからな!」 「あ、はい。いってらっしゃいませ」 「……サンドイッチ、全部食っておけよ」
彼はそれだけ言い残すと、逃げるように部屋を出て行った。 バタン、と閉まったドアを見つめながら、私は自分の胸を押さえた。 まだ、ドキドキしている。
「……もう。心臓に悪いです、ジーク様」
私は残りのサンドイッチを口に運んだ。 サーモンの塩気と、アボカドのまろやかさが口いっぱいに広がる。 その味は、なんだかとても甘く感じられた。
一方その頃。 リーゼロッテが去ってから一週間後の、王国『ルミナス』の王城。
かつて栄華を極めた白亜の城は、今や薄暗い影に覆われていた。 廊下の魔導ランプは、本来の光量の半分も出ておらず、チカチカと不快な点滅を繰り返している。 暖房システムも不調で、石造りの廊下には冷たい隙間風が吹き抜けていた。
「ええい、寒い! どうなっているんだ!」
アルフォンス王子は、毛皮のマントをきつく巻きつけながら怒鳴り散らしていた。 彼は執務室の暖炉の前で、暖を取ろうと必死だったが、その暖炉の火もなぜか勢いが弱い。
「申し訳ありません、殿下。薪への着火を補助する魔導具の出力が安定せず……」 「言い訳はいい! さっさと直せと言っているんだ! 魔導師たちは何をしている!」 「は、はい! 現在、総出で原因究明に当たっておりますが、システムが複雑すぎて……」
侍従長が脂汗を流しながら頭を下げる。 王子は苛立ち紛れに、手元のワイングラスを壁に投げつけた。 ガシャッという音が響くが、誰もそれを片付けようとはしない。人手が足りないのだ。
リーゼロッテがいなくなってから、城内のあらゆるシステムに不具合が生じ始めていた。 最初は些細なことだった。 お湯が出るのが遅い、自動ドアの反応が悪い、魔導通信にノイズが入る。 だが、日を追うごとに事態は深刻化していた。
昨晩など、王妃主催の夜会の最中に、大広間の照明が一斉に消えるという前代未聞の失態があった。 暗闇の中で貴婦人たちが悲鳴を上げ、パニックになった客たちが出口に殺到し、怪我人まで出たのだ。 王子の面目は丸つぶれだった。
「くそっ、どいつもこいつも無能ばかりだ!」
王子は爪を噛んだ。 なぜだ。なぜこんなことになった。 一週間前までは、全てが順調に回っていたはずだ。 リーゼロッテという「横領犯」を排除し、愛するマリアとの幸せな生活が始まるはずだったのに。
「アルフォンス様ぁ~」
甘ったるい声と共に、執務室のドアが開いた。 入ってきたのは、ピンク色のドレスを着たマリアだった。 彼女は頬を膨らませ、不満げに王子に近づいてくる。
「ねえ、聞いてくださいよぉ。私のお部屋のお風呂、またお湯が出ないんですぅ。これじゃあ肌が荒れちゃう」 「マリア、今ちょっと忙しいんだ。……湯浴みなら、王妃宮の大浴場を使えばいいだろう」 「やだぁ! あそこは広すぎて怖いもん。……ねえ、なんとかしてくださいよぉ。王子様なんでしょ?」
マリアは王子の腕に絡みつき、上目遣いでねだる。 いつもなら「可愛いな」と思えるその仕草も、今の王子には煩わしく感じられた。 彼は無意識に、リーゼロッテのことを思い出していた。 彼女なら、こんな時どうしただろうか。
『殿下、お湯が出ない原因は地下ボイラーの魔力供給路の詰まりです。すぐに技師を手配し、予備の魔石を使って三十分以内に復旧させます』
そうだ。彼女はいつだって、問題が起きる前に解決していた。 あるいは、問題が起きても即座に対処法を提示し、涼しい顔で実行していた。 私に不満を漏らすことなど、一度もなかった。
(……いや、違う。あいつは私の金を横領していたんだ。だから、金を使って業者を動かしていただけに過ぎない)
王子は首を振って、その考えを打ち消した。 自分は間違っていない。あんな地味で可愛げのない女がいなくなったところで、困るはずがないのだ。 これは一時的な不具合だ。システムが古くなっただけだ。
「……マリア、少し我慢してくれ。すぐに新しい魔導具を買い換えるから」 「ほんとぉ? じゃあ、ついでに新しいドレスも買ってぇ。今度のお茶会に着ていく服がないの」 「ドレス? 先週買ったばかりだろう」 「だってぇ、あれはもう流行遅れだもん。……ね、いいでしょ? アルフォンス様、大好きぃ」
マリアが頬にキスをする。 王子はため息をつきながらも、「わかったよ」と頷いた。 その時、部屋の隅で控えていた財務大臣が、恐る恐る口を開いた。
「あの……殿下。申し上げにくいのですが……」 「なんだ」 「その、予算が……ございません」 「は?」 「新しい魔導具の購入費も、マリア様のドレス代も……今の国庫には、一金貨たりとも余裕がないのです」
王子の目が点になった。
「何を言っている? リーゼロッテから没収した横領金があるだろう! 金貨一万枚はどうした!」 「そ、それが……」
財務大臣は青ざめた顔で、帳簿を差し出した。
「調査の結果……リーゼロッテ様の口座には、一万枚どころか、一銭も入っていませんでした。あるのは借用書と、私財を売却した記録だけで……」 「な、なに……?」 「つまり、彼女は横領などしていなかったのです。それどころか、彼女個人の資産を切り崩して、王家の赤字を補填していたようで……」
王子の脳天に、雷が落ちたような衝撃が走った。 横領していなかった? 私財を投げ打っていた?
「そ、そんな馬鹿な! じゃあ、今まで湯水のように使えていたあの金は、どこから湧いていたんだ!?」 「ですから、彼女が……リーゼロッテ様が、その人脈と錬金術的な資金繰りで、魔法のように捻出していたのです。彼女がいなくなった今、その蛇口は完全に閉まりました」
財務大臣は絶望的な声で告げた。
「さらに悪いことに、リーゼロッテ様の実家であるエーデル公爵家が取り潰されたことで、彼らが支援していた地方の領主たちが一斉に反発し、納税を拒否しています。……殿下、我が国は今、完全な破産状態です」
王子は力なく椅子にへたり込んだ。 破産。 その二文字が、頭の中でぐるぐると回る。
「うそ……嘘だ……」 「じゃあ、ドレスは買えないの?」
マリアが空気を読まずに尋ねる。 王子の中で、何かがプツンと切れた。
「うるさいッ!! ドレスどころじゃないんだよッ!!」
彼は怒鳴りつけ、机の上の書類をぶちまけた。 マリアが「ひっ」と悲鳴を上げて後ずさる。
「……リーゼロッテ……。あいつ、一体何をしていたんだ……?」
王子は震える手で顔を覆った。 ここに来て初めて、彼は気づき始めていた。 自分が切り捨てたものが、「不要な石ころ」ではなく、この国を支えていた「土台そのもの」だったということに。 しかし、もう遅い。 土台を失った城は、音を立てて崩れ始めていた。
再び、帝国の夜。 私は皇城のテラスに出て、夜風に当たっていた。 眼下には、宝石箱をひっくり返したような帝都の夜景が広がっている。 無数の光の一つ一つに、人々の暮らしがあり、温かい食卓がある。 以前より明るくなった街の灯りを見ていると、胸が誇らしさで満たされた。
「……綺麗」
風が、私の髪を優しく揺らす。 ふと、南の空を見上げた。 あの暗い空の向こうに、私の生まれた国がある。
今頃、どうしているだろうか。 城のシステムがダウンしていることは、計算上予想できていた。 私が毎日徹夜で行っていた微調整がなければ、あの老朽化したシステムは三日ともたない。 きっと今頃、王子たちは寒さに震え、暗闇の中で責任の押し付け合いをしていることだろう。
「……自業自得、ね」
私は冷たく呟いた。 同情心は湧かなかった。 彼らは私から全てを奪おうとした。命さえも。 だから、彼らが失う苦しみを知るのは当然の報いだ。
でも、不思議と「ざまぁみろ」と嘲笑う気持ちにもなれなかった。 彼らのことなど、もうどうでもよかった。 私には今、やるべき仕事がある。 守るべき新しい居場所がある。 そして――。
「こんなところで何をしている」
背後から、低い声がかかった。 振り返ると、ジークハルトが立っていた。 彼は自分の着ていた厚手のマントを脱ぐと、無言で私の肩にかけてくれた。
「風邪を引くぞ。……帝国の夜は冷える」 「ありがとうございます、ジーク様」
マントからは、彼の匂いと、ほのかな温もりがした。 「南の空を見ていたな」
彼は私の視線の先を見やり、静かに言った。
「未練か?」 「いいえ。……ただ、昔の自分にお別れを言っていただけです」
私はきっぱりと答えた。
「私はもう、帝国の魔導技師です。私の知識も、技術も、そしてこの心も……すべて、この国のために使います」
ジークハルトは目を細め、満足そうに頷いた。
「そうか。……なら、いい」
彼は私の隣に並び、手すりに肘をついた。
「明日からは、さらに忙しくなるぞ。軍部の魔導兵器の調整も頼みたい。……ついて来れるか?」 「もちろんです。望むところですよ」
私たちは顔を見合わせ、笑い合った。 夜空に輝く二つの月が、私たちの新しい門出を祝福しているように見えた。
私の新しい人生は、まだ始まったばかり。 そして、祖国の崩壊もまた、始まったばかりだった。
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側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!
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【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
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