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第11話 祖国、借金まみれになる
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帝国の朝は、今日も爽やかな青空と共に始まった。 皇城のテラスで、私はジークハルトと共に朝食をとっていた。 テーブルには、焼きたてのクロワッサン、新鮮な野菜のサラダ、そして香り高いコーヒーが並んでいる。 眼下に広がる帝都からは、始業の鐘の音と共に、活気ある喧騒が微かに聞こえてくる。
「……ん。今日のコーヒーは少し酸味が強いな」 「あら、豆の種類を変えてみたんです。モカ・マタリの特級品ですよ」 「ふむ。……貴様が選んだものなら、泥水でも美味いがな」
ジークハルトはそんな歯の浮くような台詞を真顔で言い放ち、カップを傾けた。 最近の彼は、私への愛の言葉を呼吸するように口にする。 最初は顔から火が出るほど恥ずかしかったけれど、今はその不器用な愛情表現が愛おしくてたまらない。
「そういえば、ジーク。今日の午後、財務省の方々と予算会議がありますよね?」 「ああ。……貴様が提案した『魔導インフラ輸出計画』の件だな。周辺諸国への技術供与と、その対価としての資源輸入。……実に合理的なプランだ」
彼は満足げに頷いた。
「我が国の余剰エネルギーを輸出し、外貨を獲得する。その利益でさらに研究開発を進める。……貴様のおかげで、帝国の経済はかつてないほど潤っているぞ」 「それは良かったです。……お金は大事ですからね。使い道を間違えると、国なんてあっという間に傾きますから」
私が何気なく言った言葉に、ジークハルトはふと動きを止め、遠く南の空を見やった。
「……傾く、か。言い得て妙だな」
彼の視線の先には、鉛色の雲が垂れ込める方角――私の祖国、ルミナス王国がある。 そこから届く報告書の内容は、日に日に悲惨さを増していた。
「……あちらの国では、そろそろ『ツケ』を払う時間のようだな」
ジークハルトの冷ややかな予言通り、その頃、ルミナス王国では国家存亡の危機とも言える事態が進行していた。
◇
王国ルミナス、王城『白亜宮』。 かつて栄華を極めたその場所は、今や見る影もなく荒廃していた。 廊下の絨毯は埃を被り、壁の装飾品はいつの間にか姿を消している(給金未払いに腹を立てたメイドたちが持ち逃げしたのだ)。 窓ガラスが割れたまま放置され、寒風が吹き荒れる大会議室に、国の重鎮たちが集められていた。
ドンッ!!
アルフォンス王子が、拳を机に叩きつけた。
「どういうことだ! 説明しろ! なぜ金がない!」
彼の絶叫が、広い会議室に虚しく響く。 目の前に座る財務大臣は、げっそりと頬がこけ、目の下にはどす黒い隈を作っていた。 彼は震える手で、一枚の書類を王子に差し出した。
「……ご覧ください、殿下。これが今月の収支報告です」 「数字など見たくない! 結論だけ言え!」 「……破産です」
財務大臣は、死刑宣告をするように告げた。
「国家財政は完全に破綻しました。……国庫の金貨はゼロ。それどころか、各国の銀行や商会からの借入金が、天文学的な数字に膨れ上がっています」 「な、なぜだ! 税収があるだろう! 国民からもっと搾り取れ!」
王子が唾を飛ばして叫ぶ。 財務大臣は力なく首を振った。
「無理です。……地方の領主たちは、エーデル公爵家への不当な処分に抗議して、納税を拒否しています。さらに、今年の大干ばつに対する魔導支援を行わなかったせいで、農作物は全滅。……農民たちには、今日食べるパンすらありません」
魔導支援。 それは本来、リーゼロッテが中心となって行っていた、天候制御システムによる雨乞いの儀式や、土壌改良の魔術のことだ。 彼女がいなくなった今、誰もその複雑なシステムを起動できず、豊かな穀倉地帯は荒野と化していた。
「ええい、言い訳ばかりしおって! ……そうだ、リーゼロッテの隠し財産はどうなった! あいつは横領していたんだろう? その金を没収すれば……」 「ですから! 何度申し上げれば分かるのですか!」
普段は温厚な財務大臣が、初めて声を荒らげた。
「彼女は横領などしていなかったのです! ……これを見てください!」
大臣が机の上に広げたのは、過去数年分の出納帳だった。 そこには、赤いインクで修正された跡がびっしりと残っている。
「ここです。『王子、隣国への贈答品購入費、金貨二千枚。不足分は私財より充当』……ここもです。『王城外壁改修費、金貨五百枚。公爵家の積立金より借入』……」 「な……?」 「全てのページに、彼女の涙ぐましい努力の跡が残っています。……彼女は、殿下の浪費をカバーするために、自分のドレスを売り、宝石を質に入れ、実家の資産まで切り崩して、この国の経済を回していたのです!」
突きつけられた真実。 アルフォンス王子は、書類を見つめたまま固まった。 文字が、数字が、彼の脳内でぐるぐると回る。
『殿下、今回は少し予算が厳しいので、工夫させていただきました』 『殿下、お気になさらず。なんとかしましたから』
かつての彼女の言葉が蘇る。 あれは、「魔法」でなんとかしていたのではなかった。 彼女が身を削り、泥水をすするような思いで「なんとかしてくれていた」のだ。
「う、嘘だ……。そんなはずは……」 「事実です。……そして今、その『無限の財布』は失われました。残ったのは、殿下が積み上げた借金の山だけです」
財務大臣は冷徹に言い放った。
「さらに悪い知らせがあります。……国際魔導銀行の頭取が、直々に取り立てに来ております」 「なっ、国際銀行だと!?」
王子の顔から血の気が引いた。 国際魔導銀行。 大陸全土の経済を支配する、超巨大組織だ。彼らに逆らえば、国家間の信用取引は即座に停止され、その国は経済的に孤立死する。 その頭取が来るということは、事態は最終局面にあるということだ。
ガチャリ。 重厚な扉が開き、一人の男が入ってきた。 仕立ての良いスーツを着た、恰幅の良い男だ。 その背後には、強面の護衛たちがずらりと並んでいる。
「お初にお目にかかります、アルフォンス殿下。……いや、もう『殿下』と呼ぶのもおこがましいですかな?」
男は慇懃無礼に一礼した。 その目は笑っていない。冷徹な商人の目だ。
「単刀直入に申し上げます。……貸付金の返済期限は、昨日で切れました。利息を含めて、金貨五十万枚。……今すぐお支払いいただけますか?」 「ご、五十万枚だと!? そんな大金、あるわけが……!」 「左様でしょうな。……貴国の信用格付けは、今や『ジャンク(紙くず)』以下ですから」
男は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「契約に基づき、担保権を行使させていただきます。……王家の所有する全領土、鉱山、そしてこの王城を含む全ての資産を、当行が差し押さえます」 「さ、差し押さえ!? 馬鹿な、ここは王城だぞ! 一国の主の住まいだぞ!」 「金のない王になど、住む資格はありませんよ」
男は冷たく言い捨てた。
「猶予は三日差し上げます。……それまでに金を払うか、あるいは城を明け渡すか。……賢明なご判断を期待しております」
男たちは踵を返し、嵐のように去っていった。 残されたのは、絶望的な静寂だけ。 王子は椅子にへたり込み、天井を仰いだ。
「……終わりだ」
誰かがポツリと呟いた。 その言葉を否定できる者は、誰もいなかった。
◇
その日の夜。 王子の私室に、マリアが飛び込んできた。
「ねえ、アルフォンス様! どういうこと!?」
彼女は手にした宝石箱を、床に投げつけた。 ガシャンと音がして、中から安っぽいガラス玉が散らばる。
「宝石商を呼んだら、『お代を頂いておりませんので』って、私の宝石を全部持っていっちゃったのよ! 残ったのはイミテーションだけ! ひどいじゃない!」 「……うるさい」 「うるさくないわよ! それに、今日の夕食、パンとスープだけだったのよ? お肉がないなんて信じられない! 私、栄養失調になっちゃう!」
マリアは王子の腕を掴み、ゆさゆさと揺さぶった。
「なんとかしてよ! 王子様でしょ? 魔法を使ってお金を出してよ!」
その無邪気な残酷さが、王子の神経を逆撫でした。 こいつは何もわかっていない。 国の危機も、私の苦悩も、何一つ理解しようとせず、ただ自分の欲望だけを喚き散らす。
「……黙れと言っているんだッ!!」
バチンッ!! 乾いた音が響いた。 王子が、マリアの頬を張ったのだ。 マリアは目を丸くして、頬を押さえて後ずさった。
「あ……殴った……? 私を……?」 「お前のせいだ! お前がドレスだ宝石だとうるさいから、こんなことになったんだ!」
王子は責任を転嫁した。 自分が悪いのではない。この女が、私を狂わせたのだと。
「リーゼロッテは……あいつは、こんなことは言わなかった! 文句一つ言わず、黙って全てを解決してくれた! それに比べてお前はなんだ! 金食い虫の寄生虫め!」 「ひ、ひどい……! 愛してるって言ったじゃない! リーゼロッテなんかより、私の方が可愛いって!」 「顔だけだ! 中身は空っぽだ!」
罵り合い。 かつて「真実の愛」と称え合った二人の関係は、金というメッキが剥がれた瞬間、醜い泥仕合へと変貌していた。
「もういい! 実家に帰らせてもらうわ!」 「帰れ! 二度と来るな!」
マリアは泣き叫びながら部屋を飛び出していった。 王子は荒い息を吐きながら、自分の手を見つめた。 震えている。 愛も、金も、名誉も。 全てが指の間から零れ落ちていく。
「……リーゼロッテ……」
彼は無意識に、その名を呼んでいた。 今ならわかる。 自分の隣にいるべきだったのは、誰だったのか。 誰が、本当に自分を支えてくれていたのか。 しかし、後悔はいつも、全てを失った後にやってくる。
◇
翌日。 王都の広場は、かつてない熱気に包まれていた。 それは祝祭の熱気ではない。 殺気立った、怒りの熱気だ。
「国王を出せ!」 「我々にパンをよこせ!」 「無能な王子を引きずり下ろせ!」
数万の民衆が、王城の正門前に押し寄せていた。 手には農具やたいまつが握られている。 彼らは飢えていた。凍えていた。そして、限界に達していた。
インフラの停止により、王都の生活は崩壊していた。 水が出ないため伝染病が流行り始め、暖房がないため凍死者が出ている。 食料価格は十倍に跳ね上がり、子供たちは空腹で泣き叫んでいる。 その全ての原因が、王家の失政にあることは明白だった。
「リーゼロッテ様を追放したからだ!」 「あの方がいれば、こんなことにはならなかった!」 「そうだ! 女神様を返せ!」
群衆の中から、リーゼロッテの名を叫ぶ声が上がる。 皮肉なことに、彼女がいなくなって初めて、国民たちは彼女の偉大さを理解したのだ。 常に街を照らしていた明かりも、清潔な水も、安定した物価も。 全ては、一人の少女の献身によって守られていたのだと。
「押せーッ! 門を破れーッ!」
ドォン! ドォン! 丸太を使った破城槌(本来は攻城兵器だが、怒れる大工たちが一晩で作った)が、城門に打ち付けられる。 警備兵たちは槍を構えているが、その腰は引けていた。 彼らもまた、給金をもらえていない被害者なのだ。民衆に槍を向ける気力など残っていない。
「ひ、ひぃぃぃッ! 入ってくるぞ!」
城壁の上からその様子を見ていたアルフォンス王子は、恐怖で腰を抜かした。 眼下に広がるのは、人の波というよりは、自分を喰らい尽くそうとする津波に見えた。
「衛兵! 何をしている! 魔法で撃退しろ! 焼き払え!」 「で、殿下、無理です! 魔導兵器のエネルギーが切れています!」 「くそっ、くそっ、くそぉぉぉッ!」
王子は頭を抱えて逃げ出した。 玉座の間へ。そこなら安全だと信じて。 しかし、彼を待っていたのは、玉座に座る老いた国王――彼の父の、冷たい視線だった。
「……アルフォンスよ」 「ち、父上! 暴徒が! 暴徒が攻めてきます! どうにかしてください!」 「……黙れ、愚か者」
国王は静かに言った。その声には、深い失望と諦めが込められていた。
「全ては、お前の撒いた種だ。……リーゼロッテ嬢という至宝を捨て、石ころを拾った報いだ」 「ち、父上まで……! 私のせいだと言うのですか!?」 「他に誰がいる。……お前が横領を捏造した書類、全て見たぞ」
国王の手元には、先日財務大臣が見せた出納帳があった。
「私は病床に伏していたとはいえ、お前に全権を委ねたことを悔やんでも悔やみきれん。……王家は終わりだ。この国は、今日で終わる」
ズズズンッ……! 遠くで、城門が破られる音がした。 鬨(とき)の声が、怒涛のように城内へとなだれ込んでくる。
革命だ。 かつてリーゼロッテが命を削って守ろうとした国は、彼女を裏切った者たちの手によって、その歴史に幕を下ろそうとしていた。
◇
一方、帝国ガルガディア。 皇城の私の執務室に、一通の緊急報告書が届いた。 それを持ってきたのは、情報局の局員だった。
「……リーゼロッテ様。王国ルミナスにて、大規模な民衆蜂起が発生しました」 「……そうですか」
私はペンを止め、顔を上げた。 予想していたこととはいえ、現実にそれが起きたと聞くと、胸に微かな痛みが走った。 生まれ育った国。 かつては愛した場所。 それが、炎に包まれている光景が脳裏に浮かぶ。
「王城は制圧され、王族は拘束されたとの情報です。……アルフォンス王子も、逃亡を図ったところを市民に捕縛されたと」 「……」
ざまあみろ、とは思わなかった。 ただ、「ああ、やっぱり」という納得だけがあった。 彼は自分の力で何かを成し遂げたことなど一度もなかった。 最後もまた、自分の足で立つことさえできずに終わったのだ。
「……リーゼロッテ」
背後から、温かい手が私の肩に置かれた。 ジークハルトだ。 彼は私の心情を察してか、何も言わずにただ寄り添ってくれた。
「大丈夫か?」 「はい。……覚悟はしていましたから」
私は彼の手に自分の手を重ねた。
「悲しくはありません。ただ……少しだけ、虚しいですね。私が必死で守ってきたものは、こんなにも脆かったんだなって」 「貴様が守っていたからこそ、持っていたのだ。……その柱がなくなれば、崩れるのは道理だ」
ジークハルトは私の椅子を回転させ、正面から向き合った。
「貴様はもう、自由だ。……過去の亡霊は消えた。これからは、前だけを見て生きろ」 「はい……ジーク」
彼の力強い言葉が、私の心の霧を晴らしていく。 そうだ。終わったのだ。 私の長く苦しい「王太子婚約者」としての人生は、王国の崩壊と共に完全に幕を閉じた。 これからは、「帝国の魔導技師」として、そして「ジークハルトの愛する人」として生きていくのだ。
「さて、仕事に戻りましょうか。……今日は、隣国からの避難民受け入れについての対策会議でしたね」
私は涙を見せず、気丈に微笑んだ。 王国の崩壊により、多くの難民が国境を越えてくるだろう。 罪のない人々を救うため、帝国のインフラをフル活用しなければならない。 感傷に浸っている暇はないのだ。
「……強いな、貴様は」
ジークハルトは愛おしそうに私の髪を撫でた。
「その強さが、私を惹きつけてやまない。……よし、私も手伝おう。帝国の総力を挙げて、貴様の『新しい仕事』をサポートする」
私たちは視線を交わし、力強く頷き合った。 窓の外では、帝国旗が風にはためいている。 その双頭の狼は、まるで新しい時代の到来を告げるように、堂々と空を睨んでいた。
「……ん。今日のコーヒーは少し酸味が強いな」 「あら、豆の種類を変えてみたんです。モカ・マタリの特級品ですよ」 「ふむ。……貴様が選んだものなら、泥水でも美味いがな」
ジークハルトはそんな歯の浮くような台詞を真顔で言い放ち、カップを傾けた。 最近の彼は、私への愛の言葉を呼吸するように口にする。 最初は顔から火が出るほど恥ずかしかったけれど、今はその不器用な愛情表現が愛おしくてたまらない。
「そういえば、ジーク。今日の午後、財務省の方々と予算会議がありますよね?」 「ああ。……貴様が提案した『魔導インフラ輸出計画』の件だな。周辺諸国への技術供与と、その対価としての資源輸入。……実に合理的なプランだ」
彼は満足げに頷いた。
「我が国の余剰エネルギーを輸出し、外貨を獲得する。その利益でさらに研究開発を進める。……貴様のおかげで、帝国の経済はかつてないほど潤っているぞ」 「それは良かったです。……お金は大事ですからね。使い道を間違えると、国なんてあっという間に傾きますから」
私が何気なく言った言葉に、ジークハルトはふと動きを止め、遠く南の空を見やった。
「……傾く、か。言い得て妙だな」
彼の視線の先には、鉛色の雲が垂れ込める方角――私の祖国、ルミナス王国がある。 そこから届く報告書の内容は、日に日に悲惨さを増していた。
「……あちらの国では、そろそろ『ツケ』を払う時間のようだな」
ジークハルトの冷ややかな予言通り、その頃、ルミナス王国では国家存亡の危機とも言える事態が進行していた。
◇
王国ルミナス、王城『白亜宮』。 かつて栄華を極めたその場所は、今や見る影もなく荒廃していた。 廊下の絨毯は埃を被り、壁の装飾品はいつの間にか姿を消している(給金未払いに腹を立てたメイドたちが持ち逃げしたのだ)。 窓ガラスが割れたまま放置され、寒風が吹き荒れる大会議室に、国の重鎮たちが集められていた。
ドンッ!!
アルフォンス王子が、拳を机に叩きつけた。
「どういうことだ! 説明しろ! なぜ金がない!」
彼の絶叫が、広い会議室に虚しく響く。 目の前に座る財務大臣は、げっそりと頬がこけ、目の下にはどす黒い隈を作っていた。 彼は震える手で、一枚の書類を王子に差し出した。
「……ご覧ください、殿下。これが今月の収支報告です」 「数字など見たくない! 結論だけ言え!」 「……破産です」
財務大臣は、死刑宣告をするように告げた。
「国家財政は完全に破綻しました。……国庫の金貨はゼロ。それどころか、各国の銀行や商会からの借入金が、天文学的な数字に膨れ上がっています」 「な、なぜだ! 税収があるだろう! 国民からもっと搾り取れ!」
王子が唾を飛ばして叫ぶ。 財務大臣は力なく首を振った。
「無理です。……地方の領主たちは、エーデル公爵家への不当な処分に抗議して、納税を拒否しています。さらに、今年の大干ばつに対する魔導支援を行わなかったせいで、農作物は全滅。……農民たちには、今日食べるパンすらありません」
魔導支援。 それは本来、リーゼロッテが中心となって行っていた、天候制御システムによる雨乞いの儀式や、土壌改良の魔術のことだ。 彼女がいなくなった今、誰もその複雑なシステムを起動できず、豊かな穀倉地帯は荒野と化していた。
「ええい、言い訳ばかりしおって! ……そうだ、リーゼロッテの隠し財産はどうなった! あいつは横領していたんだろう? その金を没収すれば……」 「ですから! 何度申し上げれば分かるのですか!」
普段は温厚な財務大臣が、初めて声を荒らげた。
「彼女は横領などしていなかったのです! ……これを見てください!」
大臣が机の上に広げたのは、過去数年分の出納帳だった。 そこには、赤いインクで修正された跡がびっしりと残っている。
「ここです。『王子、隣国への贈答品購入費、金貨二千枚。不足分は私財より充当』……ここもです。『王城外壁改修費、金貨五百枚。公爵家の積立金より借入』……」 「な……?」 「全てのページに、彼女の涙ぐましい努力の跡が残っています。……彼女は、殿下の浪費をカバーするために、自分のドレスを売り、宝石を質に入れ、実家の資産まで切り崩して、この国の経済を回していたのです!」
突きつけられた真実。 アルフォンス王子は、書類を見つめたまま固まった。 文字が、数字が、彼の脳内でぐるぐると回る。
『殿下、今回は少し予算が厳しいので、工夫させていただきました』 『殿下、お気になさらず。なんとかしましたから』
かつての彼女の言葉が蘇る。 あれは、「魔法」でなんとかしていたのではなかった。 彼女が身を削り、泥水をすするような思いで「なんとかしてくれていた」のだ。
「う、嘘だ……。そんなはずは……」 「事実です。……そして今、その『無限の財布』は失われました。残ったのは、殿下が積み上げた借金の山だけです」
財務大臣は冷徹に言い放った。
「さらに悪い知らせがあります。……国際魔導銀行の頭取が、直々に取り立てに来ております」 「なっ、国際銀行だと!?」
王子の顔から血の気が引いた。 国際魔導銀行。 大陸全土の経済を支配する、超巨大組織だ。彼らに逆らえば、国家間の信用取引は即座に停止され、その国は経済的に孤立死する。 その頭取が来るということは、事態は最終局面にあるということだ。
ガチャリ。 重厚な扉が開き、一人の男が入ってきた。 仕立ての良いスーツを着た、恰幅の良い男だ。 その背後には、強面の護衛たちがずらりと並んでいる。
「お初にお目にかかります、アルフォンス殿下。……いや、もう『殿下』と呼ぶのもおこがましいですかな?」
男は慇懃無礼に一礼した。 その目は笑っていない。冷徹な商人の目だ。
「単刀直入に申し上げます。……貸付金の返済期限は、昨日で切れました。利息を含めて、金貨五十万枚。……今すぐお支払いいただけますか?」 「ご、五十万枚だと!? そんな大金、あるわけが……!」 「左様でしょうな。……貴国の信用格付けは、今や『ジャンク(紙くず)』以下ですから」
男は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「契約に基づき、担保権を行使させていただきます。……王家の所有する全領土、鉱山、そしてこの王城を含む全ての資産を、当行が差し押さえます」 「さ、差し押さえ!? 馬鹿な、ここは王城だぞ! 一国の主の住まいだぞ!」 「金のない王になど、住む資格はありませんよ」
男は冷たく言い捨てた。
「猶予は三日差し上げます。……それまでに金を払うか、あるいは城を明け渡すか。……賢明なご判断を期待しております」
男たちは踵を返し、嵐のように去っていった。 残されたのは、絶望的な静寂だけ。 王子は椅子にへたり込み、天井を仰いだ。
「……終わりだ」
誰かがポツリと呟いた。 その言葉を否定できる者は、誰もいなかった。
◇
その日の夜。 王子の私室に、マリアが飛び込んできた。
「ねえ、アルフォンス様! どういうこと!?」
彼女は手にした宝石箱を、床に投げつけた。 ガシャンと音がして、中から安っぽいガラス玉が散らばる。
「宝石商を呼んだら、『お代を頂いておりませんので』って、私の宝石を全部持っていっちゃったのよ! 残ったのはイミテーションだけ! ひどいじゃない!」 「……うるさい」 「うるさくないわよ! それに、今日の夕食、パンとスープだけだったのよ? お肉がないなんて信じられない! 私、栄養失調になっちゃう!」
マリアは王子の腕を掴み、ゆさゆさと揺さぶった。
「なんとかしてよ! 王子様でしょ? 魔法を使ってお金を出してよ!」
その無邪気な残酷さが、王子の神経を逆撫でした。 こいつは何もわかっていない。 国の危機も、私の苦悩も、何一つ理解しようとせず、ただ自分の欲望だけを喚き散らす。
「……黙れと言っているんだッ!!」
バチンッ!! 乾いた音が響いた。 王子が、マリアの頬を張ったのだ。 マリアは目を丸くして、頬を押さえて後ずさった。
「あ……殴った……? 私を……?」 「お前のせいだ! お前がドレスだ宝石だとうるさいから、こんなことになったんだ!」
王子は責任を転嫁した。 自分が悪いのではない。この女が、私を狂わせたのだと。
「リーゼロッテは……あいつは、こんなことは言わなかった! 文句一つ言わず、黙って全てを解決してくれた! それに比べてお前はなんだ! 金食い虫の寄生虫め!」 「ひ、ひどい……! 愛してるって言ったじゃない! リーゼロッテなんかより、私の方が可愛いって!」 「顔だけだ! 中身は空っぽだ!」
罵り合い。 かつて「真実の愛」と称え合った二人の関係は、金というメッキが剥がれた瞬間、醜い泥仕合へと変貌していた。
「もういい! 実家に帰らせてもらうわ!」 「帰れ! 二度と来るな!」
マリアは泣き叫びながら部屋を飛び出していった。 王子は荒い息を吐きながら、自分の手を見つめた。 震えている。 愛も、金も、名誉も。 全てが指の間から零れ落ちていく。
「……リーゼロッテ……」
彼は無意識に、その名を呼んでいた。 今ならわかる。 自分の隣にいるべきだったのは、誰だったのか。 誰が、本当に自分を支えてくれていたのか。 しかし、後悔はいつも、全てを失った後にやってくる。
◇
翌日。 王都の広場は、かつてない熱気に包まれていた。 それは祝祭の熱気ではない。 殺気立った、怒りの熱気だ。
「国王を出せ!」 「我々にパンをよこせ!」 「無能な王子を引きずり下ろせ!」
数万の民衆が、王城の正門前に押し寄せていた。 手には農具やたいまつが握られている。 彼らは飢えていた。凍えていた。そして、限界に達していた。
インフラの停止により、王都の生活は崩壊していた。 水が出ないため伝染病が流行り始め、暖房がないため凍死者が出ている。 食料価格は十倍に跳ね上がり、子供たちは空腹で泣き叫んでいる。 その全ての原因が、王家の失政にあることは明白だった。
「リーゼロッテ様を追放したからだ!」 「あの方がいれば、こんなことにはならなかった!」 「そうだ! 女神様を返せ!」
群衆の中から、リーゼロッテの名を叫ぶ声が上がる。 皮肉なことに、彼女がいなくなって初めて、国民たちは彼女の偉大さを理解したのだ。 常に街を照らしていた明かりも、清潔な水も、安定した物価も。 全ては、一人の少女の献身によって守られていたのだと。
「押せーッ! 門を破れーッ!」
ドォン! ドォン! 丸太を使った破城槌(本来は攻城兵器だが、怒れる大工たちが一晩で作った)が、城門に打ち付けられる。 警備兵たちは槍を構えているが、その腰は引けていた。 彼らもまた、給金をもらえていない被害者なのだ。民衆に槍を向ける気力など残っていない。
「ひ、ひぃぃぃッ! 入ってくるぞ!」
城壁の上からその様子を見ていたアルフォンス王子は、恐怖で腰を抜かした。 眼下に広がるのは、人の波というよりは、自分を喰らい尽くそうとする津波に見えた。
「衛兵! 何をしている! 魔法で撃退しろ! 焼き払え!」 「で、殿下、無理です! 魔導兵器のエネルギーが切れています!」 「くそっ、くそっ、くそぉぉぉッ!」
王子は頭を抱えて逃げ出した。 玉座の間へ。そこなら安全だと信じて。 しかし、彼を待っていたのは、玉座に座る老いた国王――彼の父の、冷たい視線だった。
「……アルフォンスよ」 「ち、父上! 暴徒が! 暴徒が攻めてきます! どうにかしてください!」 「……黙れ、愚か者」
国王は静かに言った。その声には、深い失望と諦めが込められていた。
「全ては、お前の撒いた種だ。……リーゼロッテ嬢という至宝を捨て、石ころを拾った報いだ」 「ち、父上まで……! 私のせいだと言うのですか!?」 「他に誰がいる。……お前が横領を捏造した書類、全て見たぞ」
国王の手元には、先日財務大臣が見せた出納帳があった。
「私は病床に伏していたとはいえ、お前に全権を委ねたことを悔やんでも悔やみきれん。……王家は終わりだ。この国は、今日で終わる」
ズズズンッ……! 遠くで、城門が破られる音がした。 鬨(とき)の声が、怒涛のように城内へとなだれ込んでくる。
革命だ。 かつてリーゼロッテが命を削って守ろうとした国は、彼女を裏切った者たちの手によって、その歴史に幕を下ろそうとしていた。
◇
一方、帝国ガルガディア。 皇城の私の執務室に、一通の緊急報告書が届いた。 それを持ってきたのは、情報局の局員だった。
「……リーゼロッテ様。王国ルミナスにて、大規模な民衆蜂起が発生しました」 「……そうですか」
私はペンを止め、顔を上げた。 予想していたこととはいえ、現実にそれが起きたと聞くと、胸に微かな痛みが走った。 生まれ育った国。 かつては愛した場所。 それが、炎に包まれている光景が脳裏に浮かぶ。
「王城は制圧され、王族は拘束されたとの情報です。……アルフォンス王子も、逃亡を図ったところを市民に捕縛されたと」 「……」
ざまあみろ、とは思わなかった。 ただ、「ああ、やっぱり」という納得だけがあった。 彼は自分の力で何かを成し遂げたことなど一度もなかった。 最後もまた、自分の足で立つことさえできずに終わったのだ。
「……リーゼロッテ」
背後から、温かい手が私の肩に置かれた。 ジークハルトだ。 彼は私の心情を察してか、何も言わずにただ寄り添ってくれた。
「大丈夫か?」 「はい。……覚悟はしていましたから」
私は彼の手に自分の手を重ねた。
「悲しくはありません。ただ……少しだけ、虚しいですね。私が必死で守ってきたものは、こんなにも脆かったんだなって」 「貴様が守っていたからこそ、持っていたのだ。……その柱がなくなれば、崩れるのは道理だ」
ジークハルトは私の椅子を回転させ、正面から向き合った。
「貴様はもう、自由だ。……過去の亡霊は消えた。これからは、前だけを見て生きろ」 「はい……ジーク」
彼の力強い言葉が、私の心の霧を晴らしていく。 そうだ。終わったのだ。 私の長く苦しい「王太子婚約者」としての人生は、王国の崩壊と共に完全に幕を閉じた。 これからは、「帝国の魔導技師」として、そして「ジークハルトの愛する人」として生きていくのだ。
「さて、仕事に戻りましょうか。……今日は、隣国からの避難民受け入れについての対策会議でしたね」
私は涙を見せず、気丈に微笑んだ。 王国の崩壊により、多くの難民が国境を越えてくるだろう。 罪のない人々を救うため、帝国のインフラをフル活用しなければならない。 感傷に浸っている暇はないのだ。
「……強いな、貴様は」
ジークハルトは愛おしそうに私の髪を撫でた。
「その強さが、私を惹きつけてやまない。……よし、私も手伝おう。帝国の総力を挙げて、貴様の『新しい仕事』をサポートする」
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その結末をが分かっているならもう二度と同じ過ちは繰り返さない!
そして死なない!!
そう思って殿下と関わらないようにしていたのに、
何故か前の記憶とは違って、まさかのご執心で溺愛ルートまっしぐらで?!
「殿下!私、死にたくありません!」
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※他サイトより転載した作品です。
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