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第3話 授業開始「人間は猛獣より危険です」
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魔王城での生活が始まってから、一週間が経過した。
ここでの暮らしは、思いのほか快適だった。 食事は美味しいし、お風呂は広いし、何よりあの堅苦しいドレスコードや、腹の探り合いばかりの貴族社会がない。 使用人たちは皆、魔族だが、彼らは人間よりもよほど正直で、働き者だった。
最初は私を警戒していた彼らも、中庭の一件以来、態度が軟化した。 というか、軟化しすぎている気がする。
「アリア様! 本日のハーブティーは魔界産の『月光草』を使用してみました! 美肌効果抜群です!」 「アリア様、廊下の掃除が終わりました! いかがでしょう、この輝き!」 「アリア様、先ほど捕まえたコカトリスの卵です! 新鮮なうちにどうぞ!」
廊下を歩くだけで、メイドや兵士たちがわらわらと寄ってくる。 どうやら、あの手のつけられない双子皇子を、たった一日で従わせたという噂が尾ひれをつけて広まっているらしい。 『人間界から来た伝説の調教師』だの、『魔王様も一目置く冷徹な女帝』だの。
……否定したいけれど、否定すると彼らが不安そうな顔をするので、私は曖昧に微笑んでおくことにしている。 これもまた、円滑な職場環境を作るための処世術だ。
さて。 今日の予定は、双子たちへの座学だ。
これまでの一週間、私は彼らに「基礎体力作り」と称して、城内の掃除や修繕を手伝わせてきた。 最初はブーブー文句を言っていた二人も、私が魔法で効率的な作業手順を示すと、ゲーム感覚で楽しむようになった。 ギルは瓦礫撤去で筋力を、ルウは修復魔法で精密な魔力操作を。 実技の下地はできてきた。
だからこそ、今日は次のステップに進む。 この魔王城で生きる彼らにとって、最も重要であり、私が一番教えたいこと。
それは、『人間への警戒心』だ。
◇
教室としてあてがわれた部屋には、黒板と二つの机が並んでいる。 窓からは、少しずつ元の美しさを取り戻しつつある中庭が見える。
「起立、礼」
私の号令に合わせて、ギルとルウが立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。 うん、挨拶は基本だ。最初に出会った時の野生児ぶりと比べれば、見違えるほどの進歩である。
「着席」
二人が席に着くのを待って、私は黒板に向き直った。 チョーク(魔界の岩塩を加工したものらしい)を手に取り、カツカツと文字を書く。
『人間界のリスクマネジメント』
振り返ると、二人は不思議そうな顔をしていた。
「リスク……マネジメント?」 「危機管理、という意味よ、ギル君」
私は教鞭(指示棒として加工した細い木の枝)で黒板を叩いた。
「あなたたちは強いわ。それは認めます。魔力も身体能力も、人間とは比べ物にならない。でもね、だからこそ危ういの」
「どういうこと? 人間なんて、デコピンで吹っ飛ぶような弱い生き物じゃん」
ギルが退屈そうに頬杖をつく。 ルウも、手元の魔導書をパラパラとめくりながら口を開いた。
「兄さんの言う通りだよ。僕たちが本気を出せば、人間の軍隊なんて一瞬で消し炭だ。警戒する必要なんてない」
……これだ。 この驕りこそが、魔族の最大の弱点。 かつての歴史書を紐解いても、魔王軍が人間に敗北する時は、決まって「油断」や「内部崩壊」、あるいは「勇者という特異点」によるものだ。
「いいえ、間違っています」
私はピシャリと言い放った。
「人間は、魔獣よりも遥かに危険な生き物です。なぜなら、彼らは『言葉』という武器を使うから」
「言葉?」
「そう。嘘、欺瞞、裏切り、甘言。人間は笑顔で近づき、握手を求めたその手で、背中からナイフを突き立てることができる生き物なのよ」
教室の空気が、少しだけ張り詰めた。 私は眼鏡の位置を直すフリをして(やっぱり眼鏡はないけれど)、二人の目を見据えた。
「今日は、ある一つの『童話』をお話ししましょう。これは、人間界で実際にあった……とても悲しいお話です」
私は語り始めた。 それは童話という体裁をとった、私自身の壮絶な過去の暴露だった。
◇
「昔々、ある国に、とても働き者で、魔力が強い女の子がいました。ここでは彼女を『ミツバチ姫』と呼びましょう」
私は黒板に、下手くそなハチの絵を描いた。
「ミツバチ姫は、国の王子様と結婚することを約束されていました。王子様は『蝶々王子』。見た目は華やかですが、自分では蜜を集めることも、巣を守ることもできません」
ギルが「なんだそいつ、ダセェ」と呟く。 その通り、ダサいのだ。
「ミツバチ姫は、蝶々王子のために必死で働きました。王子の代わりに国を守る結界を張り、王子の代わりに書類仕事を片付け、王子の評判が良くなるように裏方として奔走しました」
私の声は、無意識のうちに熱を帯びていく。
「彼女は自分の時間を全て犠牲にしました。お洒落もせず、遊びにも行かず、ただひたすらに尽くしました。それが『愛』だと信じていたからです。王子がいつか、『ありがとう』と言ってくれると信じて」
ルウが本を閉じ、真剣な表情で私を見ている。
「でも、ある日。お城に一匹の『カマキリ女』が現れました」
私はハチの絵の横に、可愛らしいリボンをつけたカマキリの絵を描いた。 少し悪意を込めて、鎌を強調して。
「カマキリ女は、か弱くて何もできないフリをして、蝶々王子に近づきました。『きゃあ、怖い』『王子様、すごーい』。ただそれだけの言葉で、王子の心を絡め取っていったのです」
「はあ? 意味わかんねぇ。何もしない奴の方がいいのかよ?」
ギルが不満そうに声を上げる。 純粋な実力主義の魔族には、理解できない論理だろう。 ええ、私にも理解できなかったわ。
「蝶々王子は馬鹿だったので、自分より優秀なミツバチ姫と一緒にいると、自分が惨めに思えたのね。だから、自分を無条件に崇めてくれるカマキリ女の方が心地よかったのです」
私はチョークを握りしめた。 ミシミシと音がする。
「そして、運命の夜会の日。蝶々王子はミツバチ姫に言いました。『お前は可愛げがない! カマキリ女をいじめた悪い奴だ! 国から出て行け!』と」
パキッ。 手の中でチョークが折れた。 粉が舞う。
「ミツバチ姫は、何もしていませんでした。カマキリ女がいじめたと言ったのは全部嘘。自分のドレスを自分で切り裂き、階段からわざと転げ落ちて、それをミツバチ姫のせいにしたのです」
「……え?」
ルウの声が微かに震えた。
「そんな……非合理的な。自分の身体を傷つけてまで、相手を陥れるなんて……」
「そうよ、ルウ君。それが人間の『悪意』というものです。損得勘定すら超えた、純粋な嫉妬と排除の論理。ミツバチ姫は、どれだけ論理的に説明しようとしても、誰も耳を貸してくれませんでした。周囲の人間もみんな、カマキリ女の涙と、王子の権力に靡いたのです」
私は深呼吸をした。 胸の奥が焼けるように熱い。 でも、これは教育だ。感情的になってはいけない。 あくまで冷静に、事実を伝えなければ。
「結果、ミツバチ姫は全てを奪われました。家も、名誉も、婚約者も。そして着の身着のまま、魔獣の住む森へと捨てられたのです。……死ね、と言われて」
私は黒板に向き直り、ハチの絵に大きな×印をつけた。
「これが、人間の本質です。恩を仇で返し、真実よりも感情を優先し、異質なものを排除する。……どう? 魔獣よりもずっと、恐ろしいでしょう?」
私は振り返り、二人を見た。 二人は押し黙っていた。 ギルは拳を震わせ、ルウは俯いている。
よし、伝わったようだ。 この震えは、未知の悪意に対する恐怖だろう。 これで彼らも、「人間界に行きたい」なんて興味本位なことは言わなくなるはずだ。
「だからね、あなたたちは人間に関わってはいけません。もし人間に出会っても、言葉を交わしてはダメ。彼らの言葉は毒です。……わかりましたか?」
私は優しく問いかけた。
だが。 二人の反応は、私の予想を少しだけ――いや、大きく超えていた。
「……先生」
ギルが顔を上げた。 その瞳は、燃えるように赤く、そして鋭く光っていた。 恐怖? いいえ、違う。 これは――激怒だ。
「その『ミツバチ姫』ってのは……先生のことだろ?」
ドキリとした。 さすがは野生の勘。
「……例えばの話よ。童話だと言ったでしょう?」
「嘘だ」
ルウが静かに言った。 彼が顔を上げると、周囲の空間がビリビリと振動していた。 普段の冷静な彼からは想像もつかないほど、膨大な魔力が漏れ出している。
「先生の服。最初に来た時、ボロボロだった。靴も壊れてた。それに……今、話している時の先生の魔力の波長が、悲鳴を上げてた」
ルウの分析眼。 隠し通せるものではなかったか。
「……そうね。私の昔話よ」
私は観念して認めた。
「でも、同情はいらないわ。私はもう立ち直ったし、ここでこうしてあなたたちの先生になれて幸せなのだから」
私は笑顔を作った。 無理をしているつもりはない。 本当に、今の生活の方がずっと人間らしいと思っているから。
しかし、その笑顔が、双子の導火線に完全に火をつけてしまったようだった。
「ふざけんな……ッ!」
ダンッ! ギルが机を叩き割り、立ち上がった。
「働き者で、強くて、俺たちに色々教えてくれる先生を……捨てた? 殺そうとした? どこのどいつだ、そいつらは!!」
「兄さん、落ち着いて。……怒りで魔力を乱すのは非効率だ」
ルウが兄を諌める。 ああ、さすがルウ君。冷静ね。
「まずは情報の整理だ。先生を追放した国、王子の名前、その聖女の特徴。それらを特定して、社会的に、物理的に、精神的に、最も苦痛を与える報復プランを立てないと」
――撤回。 全然冷静じゃなかった。 むしろ兄よりタチが悪い方向に冷静だった。
「ちょっと待ちなさい二人とも! 私は復讐なんて望んでいないわ!」
私は慌てて二人の前に立ちはだかった。
「私が言いたいのは、『人間は怖いから近づくな』ということ! あなたたちが傷つくようなことになってほしくないの!」
「先生」
ギルが私の手を取り、ギュッと握りしめた。 その手は熱く、子供とは思えないほど力強かった。
「俺たちが傷つく? 逆だろ。人間ごときに俺たちが負けるわけねぇ」
「でも、彼らは卑怯なのよ? 嘘をつくのよ?」
「関係ないね」
ギルがニカっと笑った。 その笑顔は、頼もしいを通り越して、凶悪なまでの捕食者の笑みだった。
「嘘をつく前に、喉を潰せばいい。背中を刺される前に、灰にすればいい。……先生が教えてくれたんだろ? 『圧倒的な力の前には、小細工は通用しない』って」
……そんなこと教えたかしら? 教えたような気もする。
「先生は優しすぎるんだよ」
ルウも私のもう片方の手を取り、そっと頬を寄せた。
「先生は、怖がりで、泣き虫で、か弱い『ミツバチ姫』だ。……だから、僕たちが守ってあげなきゃいけない」
ルウの瞳が、暗く昏く輝く。
「先生を泣かせるような悪い人間は、僕が全部『処理』してあげる。……この世から一匹残らずね」
ゾクリ、とした。 背筋に冷たいものが走る。 彼らの言っていることは、私の教育方針と真逆だ。 「人間を避けろ」と言ったのに、「人間を殲滅する」という結論に至っている。
でも。 同時に、胸の奥が温かくなるのも感じていた。 誰かにこんなに必死に守られようとされたことなんて、今まで一度もなかったから。
「……はぁ。困った生徒たちね」
私は二人の頭を撫でた。 今は何を言っても無駄だろう。 彼らの怒りは、私への愛情の裏返しなのだから。
「授業はここまでです。……でも、一つだけ約束して。勝手な行動はしないこと。何かする時は、必ず私に相談しなさい。いいわね?」
「ちぇっ、わーってるよ」 「善処する」
二人は不満そうだったが、渋々頷いた。 とりあえず、今日明日中に王国へ攻め込むようなことはないだろう。……たぶん。
◇
その日の夕食後。 私は魔王ゼスト様の執務室に呼ばれていた。
重厚な扉をノックし、中に入ると、ゼスト様は書類の山に埋もれていた。 しかし、私を見るなりパッと顔を上げ、椅子を勧めてくれた。
「アリア、授業はどうだ? あいつら、真面目にやっているか?」
「ええ、とても優秀です。……優秀すぎて、少し方向性が心配ですが」
私は今日の授業での出来事を、かいつまんで報告した。 私の過去の話をしてしまったこと。 それに対する二人の過激な反応のこと。
ゼスト様は黙って聞いていたが、私が話し終えると、深々とため息をついた。
「……そうか。お前の過去については、調査させていたから知ってはいたが……やはり、直接聞くと腹が立つな」
ゼスト様の周囲で、書類がパラパラと宙に舞う。 彼もまた、怒っているのだ。
「すまない、アリア。俺がもっと早くお前を見つけていれば、そんな思いはさせずに済んだのだが」
「……魔王様?」
「だが、あいつらの反応は正しい。魔族にとって、恩義ある者を守るのは本能だ。ましてや、あいつらはまだ子供だ。純粋な分、好意も敵意も一直線になる」
ゼスト様は立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。 窓の外には、二つの月が輝いている。
「アリア。俺からも礼を言う。あいつらに『守りたいもの』を与えてくれてありがとう」
「守りたいもの……ですか?」
「ああ。これまでのあいつらは、ただ破壊するだけだった。だが今は、お前という存在を中心に、世界を見ようとしている。……それがたとえ、『人間への殺意』という形であっても、無関心よりはずっといい」
ゼスト様が振り返り、優しく微笑む。
「好きにやらせてやってくれ。責任は俺が取る。……それに、俺もあいつらと同意見だ」
「はい?」
「お前を泣かせた王国とやら。……一度、挨拶に行く必要があるかもしれんな」
魔王様の目が笑っていない。 挨拶って、あれですか。戦略級魔法をぶっ放すことですか。
「と、とりあえず! まだ早いです! 彼らの教育が先です!」
私は慌てて話題を変えた。 この親子、放っておくとすぐに武力行使に走る。 やはり私が手綱を握っておかなければ、世界が滅んでしまうわ。
◇
その夜。 双子の部屋では、アリアの知らないところで秘密の作戦会議が開かれていた。
「兄さん、聞いたか? 先生のあの話」 「おう。胸糞悪くて吐き気がしたぜ」
ベッドの上で、ギルとルウが向かい合っている。
「先生は『人間には近づくな』って言ってたけど、あれは逆だね」 「ああ。『私のために復讐してくれ』って言えねぇから、遠回しにSOS出してんだよ。先生はプライド高いからな」
とんでもない誤解である。 しかし、二人にとってはそれが真実だった。
「今の俺たちじゃ、まだ先生を守りきれねぇかもしれん。……カマキリ女? だっけか。そいつの洗脳魔法、相当強力みたいだしな」 「うん。それに、人間の狡猾さは侮れない。僕たちも、もっとレベルを上げないと」
ギルがニヤリと笑った。
「やるか? 『あれ』」 「うん。森の魔獣、全部従える。……先生の親衛隊(ペット)として」
「へっ、楽しくなってきたな。先生に近づく虫共は、俺らが全部駆除してやるよ」
窓の外、闇に包まれた森に向かって、二人の少年は固く誓った。 彼らの瞳には、もう迷いはない。 敬愛する先生のために。 世界を敵に回してでも、彼女を守り抜く。 その純粋すぎる殺意が、やがて伝説となる『アリア親衛隊』の産声だった。
――私の教育は、確実に実を結んでいた。 ただし、とてつもなく歪んだ形で。
ここでの暮らしは、思いのほか快適だった。 食事は美味しいし、お風呂は広いし、何よりあの堅苦しいドレスコードや、腹の探り合いばかりの貴族社会がない。 使用人たちは皆、魔族だが、彼らは人間よりもよほど正直で、働き者だった。
最初は私を警戒していた彼らも、中庭の一件以来、態度が軟化した。 というか、軟化しすぎている気がする。
「アリア様! 本日のハーブティーは魔界産の『月光草』を使用してみました! 美肌効果抜群です!」 「アリア様、廊下の掃除が終わりました! いかがでしょう、この輝き!」 「アリア様、先ほど捕まえたコカトリスの卵です! 新鮮なうちにどうぞ!」
廊下を歩くだけで、メイドや兵士たちがわらわらと寄ってくる。 どうやら、あの手のつけられない双子皇子を、たった一日で従わせたという噂が尾ひれをつけて広まっているらしい。 『人間界から来た伝説の調教師』だの、『魔王様も一目置く冷徹な女帝』だの。
……否定したいけれど、否定すると彼らが不安そうな顔をするので、私は曖昧に微笑んでおくことにしている。 これもまた、円滑な職場環境を作るための処世術だ。
さて。 今日の予定は、双子たちへの座学だ。
これまでの一週間、私は彼らに「基礎体力作り」と称して、城内の掃除や修繕を手伝わせてきた。 最初はブーブー文句を言っていた二人も、私が魔法で効率的な作業手順を示すと、ゲーム感覚で楽しむようになった。 ギルは瓦礫撤去で筋力を、ルウは修復魔法で精密な魔力操作を。 実技の下地はできてきた。
だからこそ、今日は次のステップに進む。 この魔王城で生きる彼らにとって、最も重要であり、私が一番教えたいこと。
それは、『人間への警戒心』だ。
◇
教室としてあてがわれた部屋には、黒板と二つの机が並んでいる。 窓からは、少しずつ元の美しさを取り戻しつつある中庭が見える。
「起立、礼」
私の号令に合わせて、ギルとルウが立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。 うん、挨拶は基本だ。最初に出会った時の野生児ぶりと比べれば、見違えるほどの進歩である。
「着席」
二人が席に着くのを待って、私は黒板に向き直った。 チョーク(魔界の岩塩を加工したものらしい)を手に取り、カツカツと文字を書く。
『人間界のリスクマネジメント』
振り返ると、二人は不思議そうな顔をしていた。
「リスク……マネジメント?」 「危機管理、という意味よ、ギル君」
私は教鞭(指示棒として加工した細い木の枝)で黒板を叩いた。
「あなたたちは強いわ。それは認めます。魔力も身体能力も、人間とは比べ物にならない。でもね、だからこそ危ういの」
「どういうこと? 人間なんて、デコピンで吹っ飛ぶような弱い生き物じゃん」
ギルが退屈そうに頬杖をつく。 ルウも、手元の魔導書をパラパラとめくりながら口を開いた。
「兄さんの言う通りだよ。僕たちが本気を出せば、人間の軍隊なんて一瞬で消し炭だ。警戒する必要なんてない」
……これだ。 この驕りこそが、魔族の最大の弱点。 かつての歴史書を紐解いても、魔王軍が人間に敗北する時は、決まって「油断」や「内部崩壊」、あるいは「勇者という特異点」によるものだ。
「いいえ、間違っています」
私はピシャリと言い放った。
「人間は、魔獣よりも遥かに危険な生き物です。なぜなら、彼らは『言葉』という武器を使うから」
「言葉?」
「そう。嘘、欺瞞、裏切り、甘言。人間は笑顔で近づき、握手を求めたその手で、背中からナイフを突き立てることができる生き物なのよ」
教室の空気が、少しだけ張り詰めた。 私は眼鏡の位置を直すフリをして(やっぱり眼鏡はないけれど)、二人の目を見据えた。
「今日は、ある一つの『童話』をお話ししましょう。これは、人間界で実際にあった……とても悲しいお話です」
私は語り始めた。 それは童話という体裁をとった、私自身の壮絶な過去の暴露だった。
◇
「昔々、ある国に、とても働き者で、魔力が強い女の子がいました。ここでは彼女を『ミツバチ姫』と呼びましょう」
私は黒板に、下手くそなハチの絵を描いた。
「ミツバチ姫は、国の王子様と結婚することを約束されていました。王子様は『蝶々王子』。見た目は華やかですが、自分では蜜を集めることも、巣を守ることもできません」
ギルが「なんだそいつ、ダセェ」と呟く。 その通り、ダサいのだ。
「ミツバチ姫は、蝶々王子のために必死で働きました。王子の代わりに国を守る結界を張り、王子の代わりに書類仕事を片付け、王子の評判が良くなるように裏方として奔走しました」
私の声は、無意識のうちに熱を帯びていく。
「彼女は自分の時間を全て犠牲にしました。お洒落もせず、遊びにも行かず、ただひたすらに尽くしました。それが『愛』だと信じていたからです。王子がいつか、『ありがとう』と言ってくれると信じて」
ルウが本を閉じ、真剣な表情で私を見ている。
「でも、ある日。お城に一匹の『カマキリ女』が現れました」
私はハチの絵の横に、可愛らしいリボンをつけたカマキリの絵を描いた。 少し悪意を込めて、鎌を強調して。
「カマキリ女は、か弱くて何もできないフリをして、蝶々王子に近づきました。『きゃあ、怖い』『王子様、すごーい』。ただそれだけの言葉で、王子の心を絡め取っていったのです」
「はあ? 意味わかんねぇ。何もしない奴の方がいいのかよ?」
ギルが不満そうに声を上げる。 純粋な実力主義の魔族には、理解できない論理だろう。 ええ、私にも理解できなかったわ。
「蝶々王子は馬鹿だったので、自分より優秀なミツバチ姫と一緒にいると、自分が惨めに思えたのね。だから、自分を無条件に崇めてくれるカマキリ女の方が心地よかったのです」
私はチョークを握りしめた。 ミシミシと音がする。
「そして、運命の夜会の日。蝶々王子はミツバチ姫に言いました。『お前は可愛げがない! カマキリ女をいじめた悪い奴だ! 国から出て行け!』と」
パキッ。 手の中でチョークが折れた。 粉が舞う。
「ミツバチ姫は、何もしていませんでした。カマキリ女がいじめたと言ったのは全部嘘。自分のドレスを自分で切り裂き、階段からわざと転げ落ちて、それをミツバチ姫のせいにしたのです」
「……え?」
ルウの声が微かに震えた。
「そんな……非合理的な。自分の身体を傷つけてまで、相手を陥れるなんて……」
「そうよ、ルウ君。それが人間の『悪意』というものです。損得勘定すら超えた、純粋な嫉妬と排除の論理。ミツバチ姫は、どれだけ論理的に説明しようとしても、誰も耳を貸してくれませんでした。周囲の人間もみんな、カマキリ女の涙と、王子の権力に靡いたのです」
私は深呼吸をした。 胸の奥が焼けるように熱い。 でも、これは教育だ。感情的になってはいけない。 あくまで冷静に、事実を伝えなければ。
「結果、ミツバチ姫は全てを奪われました。家も、名誉も、婚約者も。そして着の身着のまま、魔獣の住む森へと捨てられたのです。……死ね、と言われて」
私は黒板に向き直り、ハチの絵に大きな×印をつけた。
「これが、人間の本質です。恩を仇で返し、真実よりも感情を優先し、異質なものを排除する。……どう? 魔獣よりもずっと、恐ろしいでしょう?」
私は振り返り、二人を見た。 二人は押し黙っていた。 ギルは拳を震わせ、ルウは俯いている。
よし、伝わったようだ。 この震えは、未知の悪意に対する恐怖だろう。 これで彼らも、「人間界に行きたい」なんて興味本位なことは言わなくなるはずだ。
「だからね、あなたたちは人間に関わってはいけません。もし人間に出会っても、言葉を交わしてはダメ。彼らの言葉は毒です。……わかりましたか?」
私は優しく問いかけた。
だが。 二人の反応は、私の予想を少しだけ――いや、大きく超えていた。
「……先生」
ギルが顔を上げた。 その瞳は、燃えるように赤く、そして鋭く光っていた。 恐怖? いいえ、違う。 これは――激怒だ。
「その『ミツバチ姫』ってのは……先生のことだろ?」
ドキリとした。 さすがは野生の勘。
「……例えばの話よ。童話だと言ったでしょう?」
「嘘だ」
ルウが静かに言った。 彼が顔を上げると、周囲の空間がビリビリと振動していた。 普段の冷静な彼からは想像もつかないほど、膨大な魔力が漏れ出している。
「先生の服。最初に来た時、ボロボロだった。靴も壊れてた。それに……今、話している時の先生の魔力の波長が、悲鳴を上げてた」
ルウの分析眼。 隠し通せるものではなかったか。
「……そうね。私の昔話よ」
私は観念して認めた。
「でも、同情はいらないわ。私はもう立ち直ったし、ここでこうしてあなたたちの先生になれて幸せなのだから」
私は笑顔を作った。 無理をしているつもりはない。 本当に、今の生活の方がずっと人間らしいと思っているから。
しかし、その笑顔が、双子の導火線に完全に火をつけてしまったようだった。
「ふざけんな……ッ!」
ダンッ! ギルが机を叩き割り、立ち上がった。
「働き者で、強くて、俺たちに色々教えてくれる先生を……捨てた? 殺そうとした? どこのどいつだ、そいつらは!!」
「兄さん、落ち着いて。……怒りで魔力を乱すのは非効率だ」
ルウが兄を諌める。 ああ、さすがルウ君。冷静ね。
「まずは情報の整理だ。先生を追放した国、王子の名前、その聖女の特徴。それらを特定して、社会的に、物理的に、精神的に、最も苦痛を与える報復プランを立てないと」
――撤回。 全然冷静じゃなかった。 むしろ兄よりタチが悪い方向に冷静だった。
「ちょっと待ちなさい二人とも! 私は復讐なんて望んでいないわ!」
私は慌てて二人の前に立ちはだかった。
「私が言いたいのは、『人間は怖いから近づくな』ということ! あなたたちが傷つくようなことになってほしくないの!」
「先生」
ギルが私の手を取り、ギュッと握りしめた。 その手は熱く、子供とは思えないほど力強かった。
「俺たちが傷つく? 逆だろ。人間ごときに俺たちが負けるわけねぇ」
「でも、彼らは卑怯なのよ? 嘘をつくのよ?」
「関係ないね」
ギルがニカっと笑った。 その笑顔は、頼もしいを通り越して、凶悪なまでの捕食者の笑みだった。
「嘘をつく前に、喉を潰せばいい。背中を刺される前に、灰にすればいい。……先生が教えてくれたんだろ? 『圧倒的な力の前には、小細工は通用しない』って」
……そんなこと教えたかしら? 教えたような気もする。
「先生は優しすぎるんだよ」
ルウも私のもう片方の手を取り、そっと頬を寄せた。
「先生は、怖がりで、泣き虫で、か弱い『ミツバチ姫』だ。……だから、僕たちが守ってあげなきゃいけない」
ルウの瞳が、暗く昏く輝く。
「先生を泣かせるような悪い人間は、僕が全部『処理』してあげる。……この世から一匹残らずね」
ゾクリ、とした。 背筋に冷たいものが走る。 彼らの言っていることは、私の教育方針と真逆だ。 「人間を避けろ」と言ったのに、「人間を殲滅する」という結論に至っている。
でも。 同時に、胸の奥が温かくなるのも感じていた。 誰かにこんなに必死に守られようとされたことなんて、今まで一度もなかったから。
「……はぁ。困った生徒たちね」
私は二人の頭を撫でた。 今は何を言っても無駄だろう。 彼らの怒りは、私への愛情の裏返しなのだから。
「授業はここまでです。……でも、一つだけ約束して。勝手な行動はしないこと。何かする時は、必ず私に相談しなさい。いいわね?」
「ちぇっ、わーってるよ」 「善処する」
二人は不満そうだったが、渋々頷いた。 とりあえず、今日明日中に王国へ攻め込むようなことはないだろう。……たぶん。
◇
その日の夕食後。 私は魔王ゼスト様の執務室に呼ばれていた。
重厚な扉をノックし、中に入ると、ゼスト様は書類の山に埋もれていた。 しかし、私を見るなりパッと顔を上げ、椅子を勧めてくれた。
「アリア、授業はどうだ? あいつら、真面目にやっているか?」
「ええ、とても優秀です。……優秀すぎて、少し方向性が心配ですが」
私は今日の授業での出来事を、かいつまんで報告した。 私の過去の話をしてしまったこと。 それに対する二人の過激な反応のこと。
ゼスト様は黙って聞いていたが、私が話し終えると、深々とため息をついた。
「……そうか。お前の過去については、調査させていたから知ってはいたが……やはり、直接聞くと腹が立つな」
ゼスト様の周囲で、書類がパラパラと宙に舞う。 彼もまた、怒っているのだ。
「すまない、アリア。俺がもっと早くお前を見つけていれば、そんな思いはさせずに済んだのだが」
「……魔王様?」
「だが、あいつらの反応は正しい。魔族にとって、恩義ある者を守るのは本能だ。ましてや、あいつらはまだ子供だ。純粋な分、好意も敵意も一直線になる」
ゼスト様は立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。 窓の外には、二つの月が輝いている。
「アリア。俺からも礼を言う。あいつらに『守りたいもの』を与えてくれてありがとう」
「守りたいもの……ですか?」
「ああ。これまでのあいつらは、ただ破壊するだけだった。だが今は、お前という存在を中心に、世界を見ようとしている。……それがたとえ、『人間への殺意』という形であっても、無関心よりはずっといい」
ゼスト様が振り返り、優しく微笑む。
「好きにやらせてやってくれ。責任は俺が取る。……それに、俺もあいつらと同意見だ」
「はい?」
「お前を泣かせた王国とやら。……一度、挨拶に行く必要があるかもしれんな」
魔王様の目が笑っていない。 挨拶って、あれですか。戦略級魔法をぶっ放すことですか。
「と、とりあえず! まだ早いです! 彼らの教育が先です!」
私は慌てて話題を変えた。 この親子、放っておくとすぐに武力行使に走る。 やはり私が手綱を握っておかなければ、世界が滅んでしまうわ。
◇
その夜。 双子の部屋では、アリアの知らないところで秘密の作戦会議が開かれていた。
「兄さん、聞いたか? 先生のあの話」 「おう。胸糞悪くて吐き気がしたぜ」
ベッドの上で、ギルとルウが向かい合っている。
「先生は『人間には近づくな』って言ってたけど、あれは逆だね」 「ああ。『私のために復讐してくれ』って言えねぇから、遠回しにSOS出してんだよ。先生はプライド高いからな」
とんでもない誤解である。 しかし、二人にとってはそれが真実だった。
「今の俺たちじゃ、まだ先生を守りきれねぇかもしれん。……カマキリ女? だっけか。そいつの洗脳魔法、相当強力みたいだしな」 「うん。それに、人間の狡猾さは侮れない。僕たちも、もっとレベルを上げないと」
ギルがニヤリと笑った。
「やるか? 『あれ』」 「うん。森の魔獣、全部従える。……先生の親衛隊(ペット)として」
「へっ、楽しくなってきたな。先生に近づく虫共は、俺らが全部駆除してやるよ」
窓の外、闇に包まれた森に向かって、二人の少年は固く誓った。 彼らの瞳には、もう迷いはない。 敬愛する先生のために。 世界を敵に回してでも、彼女を守り抜く。 その純粋すぎる殺意が、やがて伝説となる『アリア親衛隊』の産声だった。
――私の教育は、確実に実を結んでいた。 ただし、とてつもなく歪んだ形で。
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