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第5話「王妃の慈善と、姉の慈善」
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王都の北区に位置するルミナ大聖堂は、リュナレイア王国の信仰の中心であり、同時に「絶対不可侵」の聖域としても知られている。 空を突くようにそびえ立つ尖塔。 純白の大理石で築かれた外壁は、太陽の光を受けて神々しく輝き、ステンドグラスからは七色の光が降り注ぐ。 その威容は、見る者を圧倒し、自然と頭を垂れさせるような荘厳さに満ちていた。
だが、今日の私は祈りを捧げに来たのではない。 神の庭で行われている、冒涜的な「ビジネス」の実態を暴きに来たのだ。
「……すごい人出ね」
私は広場の片隅、荷馬車の影に身を潜め、眼前の光景を見つめた。 広場を埋め尽くしているのは、ボロを纏った貧民たちだ。 痩せこけた老人、虚ろな目をした母親、泥だらけの子供たち。 彼らは皆、一様に飢えた獣のような目で、広場の中央を見つめている。
そこには、巨大な炊き出し用の鍋が並び、白い湯気が立ち上っていた。 そして、その中心で指揮を執っているのが、私の姉セシリアだ。 今日の彼女は、質素な――といっても、最高級の麻布で仕立てられた――修道女風のドレスに身を包み、かいがいしくスープを配っている。
「さあ、並んでください。神の恵みは皆様に等しく降り注ぎます」 「ああ、セシリア様……!」 「聖女様、ありがとうございます!」
スープを受け取った人々が、涙を流して感謝し、彼女のドレスの裾に口づけようとする。 姉はそれを優しく制し、まるで女神のように微笑む。 完璧な構図だ。 慈悲深い聖女と、救われる民衆。 この美しい絵画の中に、私が入り込む余地などないように見える。
「……中身を確認しないと」
私はフードを深く被り、群衆に紛れて行列に並んだ。 監査官の制服は着ていない。目立たない平民の服に変装している。 私の役目は、この炊き出しが「適正」に行われているかの確認だ。 昨日の調査で判明した『聖ルミナス孤児院』への架空送金。 その金がどこへ消え、逆にこの炊き出しの費用がどこから出ているのか。 そして何より、この場の責任者である司祭ルドルフが、いつ印章を使うか。
列が進み、私の番が回ってきた。 配給係の男が、木椀に無造作にスープを注ぐ。 受け取った瞬間、鼻をつく匂いに眉をひそめそうになった。
薄い。 野菜のクズが浮いているだけの、ほとんどお湯のようなスープ。 パンに至っては、石のように硬く、カビの臭いがする。 これが「金貨数千枚」を投じた慈善事業の実態か。 国庫から出た莫大な予算は、どこかで濾過され、搾り取られ、民衆の口に入る頃にはただの汚水に変わっている。
「……ひどいものね」
私は人混みを抜け、建物の陰でスープの中身を小瓶に採取した。 成分分析にかければ、材料費がいくらか正確に弾き出せるだろう。 おそらく、帳簿上の請求額の十分の一にも満たないはずだ。
その時、広場の奥がざわめいた。 教会の扉が開き、恰幅の良い聖職者が数人の修道士を従えて現れたのだ。 金糸で刺繍された法衣。 指にはめられた巨大な宝石の指輪。 脂ぎった顔に、傲慢な笑みを張り付けた男。
司祭ルドルフ。 三年前、私の「罪」を証言した一人であり、姉の共犯者と目される人物。
「おお、セシリア様。本日もご苦労様です」 「ルドルフ司祭様。……いいえ、わたくしはただ、皆様の笑顔が見たくて」
姉とルドルフが言葉を交わす。 その距離感、視線のやり取り。 親密さを超えた、共犯者特有の空気がある。
「さて、商会からの追加物資が届いたようですな。受領の手続きを」
ルドルフが手を挙げると、広場の脇に止まっていた馬車から、男たちが木箱を運び出し始めた。 箱には『ガレオン商会』の焼き印。 ここでもまた、あの商会だ。
私は目を凝らした。 ルドルフが懐から、真鍮製の印章ケースを取り出す。 あれだ。 彼が公的な契約に使う『教会印』。 もしあれの魔力波形が、昨夜私が検印灯で見た「鋭角的な波形」と一致すれば、彼が姉の印章を偽装した実行犯だと確定する。
ルドルフが伝票に印章を押し付けようとした、その瞬間。
「お待ちください」
私は群衆の中から飛び出し、声を上げた。 フードを脱ぎ捨てると同時に、周囲の空気が凍りつく。
「……リリア?」
姉の声が裏返った。 ルドルフの手が止まり、不快そうに私を睨みつける。
「何だ、この娘は。神聖な儀式の最中に」 「お久しぶりです、ルドルフ司祭。……そして、セシリアお姉様」
私は毅然と二人の前に歩み出た。 周囲の衛兵が動こうとするが、私は懐から王家の紋章が入った監査官証を高く掲げた。
「王妃陛下直属、臨時監査官リリア・アルヴェインです。現在、国庫支出に関する特別監査を行っております。その物資の受領確認に立ち会わせていただきます」
監査官。 その言葉が出た途端、ルドルフの顔色がさっと変わった。 彼は慌てて印章を懐にしまおうとした。
「監査だと? ここは教会だぞ! 王家の管轄外だ!」 「慈善事業助成金を受け取っている以上、会計監査の対象となります。……司祭様、なぜ印章を隠されるのですか? 正規の手続きであれば、堂々と押されればよろしいのでは?」
私は一歩踏み込んだ。
「それとも、その印章……『別の場所』でも使われてはいませんか? たとえば、存在しない孤児院の領収書や、誰かさんの代理承認印として」
ルドルフの脂汗が噴き出すのが見えた。 図星だ。 彼は動揺している。 今ここで彼の手を掴み、印章を押収できれば――。
「……やめてっ!」
悲鳴のような声が響いた。 セシリアだ。 彼女は私の前に立ち塞がり、両手を広げた。 その目には涙が溢れ、体は小刻みに震えている。 まるで、暴漢から教会を守る聖女のように。
「リリア、どうしてこんなことをするの!? ここは、貧しい方々がようやく食事にありつける場所なのよ? あなたの身勝手な復讐心で、この安らぎを壊さないで!」
姉の叫びが、広場に響き渡る。 群衆がざわめき始めた。 「復讐?」「あの女、まさか……」「妹が姉を妬んで邪魔をしているのか?」 空気が変わる。 私の正論が、姉の感情論によって「悪意」へと変換されていく。
「復讐ではありません。これは正当な公務です。このスープを見てください。これが本当に、金貨数千枚の価値があると思いますか?」
私は採取したスープの小瓶を見せた。 だが、姉は首を振った。
「お金の問題ではありません! 心の問題です! 私たちは、限られた予算の中で、精一杯のことをしているの。それを数字だけで判断して……あなたは、血も涙もないの!?」
「そうだ! 聖女様をいじめるな!」 「帰れ! 帰れ!」
石が飛んできた。 貧民の一人が投げた石が、私の肩に当たる。 痛みはない。だが、心が冷えていく。 彼らは騙されている。 自分たちの分前を横取りしているのが誰かも知らず、その泥棒を庇い、真実を告げる私を攻撃している。 これが「洗脳」だ。 姉が長年かけて作り上げた、強固な防壁。
「衛兵! この乱暴者を排除しなさい!」
ルドルフが勝ち誇ったように叫んだ。 教会の衛兵たちが槍を構え、私を取り囲む。 多勢に無勢。 公務執行妨害だが、今のこの興奮状態の群衆の前では、法など無力だ。 ここで力ずくで抵抗すれば、私は本当に「聖女を襲った悪人」として処断される。
(……詰んだ?)
いや、違う。 私は視線を逸らさず、まっすぐに姉を見つめた。 私の目にあるのは、敗北の絶望ではない。 次の一手への合図だ。
「……排除するのは、どちらかしら?」
静かな、しかし凛とした声が、頭上から響いた。
群衆の視線が一斉に上へ向く。 大聖堂のバルコニー。 そこに、一人の女性が立っていた。 豪奢な深紅のドレス。 頭上には、王妃のみが許される宝冠。 そして、その隣には、氷の宰相補佐レオンハルトと、鉄の騎士団長カミュが控えている。
「お、王妃陛下……!?」
ルドルフがカエルのように潰れた声を上げ、その場に崩れ落ちた。 セシリアの顔から血の気が失せ、能面のように固まる。 王妃エレオノーラ。 この国の母であり、姉の「慈善」の最大の後ろ盾であるはずの人物が、なぜここに。
「リリア・アルヴェインは、わたくしの目であり、耳です。彼女への無礼は、わたくしへの反逆とみなします」
王妃の声は、魔術的な拡声を用いずとも、広場の隅々まで届いた。 絶対的な威厳。 投げられかけた石が、手からこぼれ落ちる。
「ルドルフ司祭。慈善事業への疑義が生じています。わたくしは『真実』を知りたい。……その印章、今ここでわたくしの目の前で押しなさい。拒否するならば、教会の全口座を凍結します」
王手だ。 王妃自らが現場に乗り込み、権力を傘に理不尽を押し通す。 これは私が昨夜、レオンハルト様を通じて王妃に懇願した「切り札」だった。 『教会の壁を破るには、王家の剣が必要です』と。
ルドルフは震える手で印章を取り出し、伝票に押し付けた。 私はすぐに駆け寄り、携帯していた検印灯を照射する。
青白い光の中に浮かび上がる、鋭角的な三角形の波形。 昨夜、セシリアの印章の「下」に見えたものと、完全に一致する。
「……確認しました」
私は静かに告げた。
「波形一致。セシリアお姉様の印章を偽造し、架空請求を行っていた『痕跡』の持ち主は……ルドルフ司祭、あなたです」
「ち、違う! これは誤解だ! 私は頼まれただけで……!」
ルドルフが叫ぶ。 その視線が、救いを求めるようにセシリアへ向く。 だが、姉は動かなかった。 彼女は俯き、震えながら、小さな声で呟いた。
「……信じていたのに」
え?
姉は顔を上げ、涙に濡れた瞳でルドルフを睨みつけた。
「信じていたのに! ルドルフ様、あなたがそんな不正をしていたなんて! わたくしは……わたくしは、あなたを神の代理人として尊敬しておりましたのに!」
切り捨てた。 即座に、迷いなく。 共犯者であるはずのルドルフを、「自分を騙していた悪人」として告発したのだ。 その変わり身の早さに、私は戦慄した。 この人は、化け物だ。
「な、何を……セシリア様、あなたが……!」 「黙りなさい、汚らわしい!」
セシリアが叫ぶと同時に、カミュ団長が動いた。 一瞬で距離を詰め、ルドルフを取り押さえる。 「連れて行け。……吐くまで絞るぞ」
ルドルフは引きずられていった。 広場に残されたのは、呆然とする群衆と、悲劇のヒロインを演じ切る姉、そして私。
王妃陛下はバルコニーから静かにその様子を見下ろしていたが、やがてくるりと背を向け、去っていった。 『あとは任せる』という無言のメッセージ。
私は姉に近づいた。 彼女はハンカチで顔を覆い、泣き崩れている。 だが、私が耳元に顔を寄せると、泣き声に混じって、氷のような囁きが聞こえた。
『……よくもやってくれたわね、リリア。でも、これで終わりじゃないわよ』 『ええ、知っています。まだトカゲの尻尾を切っただけですから』
私は冷徹に返した。
『次は胴体……あなたの嘘を、すべて剥がします』
姉が顔を上げた時、その瞳には明確な殺意が宿っていた。 もはや姉妹ではない。 互いに喉笛を食いちぎろうとする、敵同士だ。
◇
大聖堂からの帰り道。 私はレオンハルト様の馬車に同乗していた。 向かいの席に座る彼は、いつものように書類に目を通しているが、その表情は心なしか緩んでいるように見えた。
「……見事だったな」
彼がポツリと言った。
「王妃陛下を動かし、教会という聖域に穴を開けた。……ルドルフは終わりだ。奴の証言から、芋づる式に不正が暴かれるだろう」 「はい。ですが……姉は逃げました」
私は悔しさを滲ませた。 セシリアは無傷だ。 むしろ、「信頼していた司祭に裏切られた可哀想な聖女」として、さらに同情を集めるかもしれない。
「想定内だろう。あの女は、そう簡単に崩れない」
レオンハルトは書類を置き、私を真っ直ぐに見た。
「だが、『足場』は崩れた。金脈の一つを断ち、協力者を一人消した。……焦った狐は、必ずボロを出す」
彼は懐から一枚の書類を取り出し、私に差し出した。 それは、先ほど押収したガレオン商会の納品書だった。 だが、私が注目したのは、そこに記された品目ではない。 請求書の隅に書かれた、手書きのメモだ。
『次回分は、いつもの口座へ。――C.A』
C.A。 Cecilia Alvain。セシリア・アルヴェインのイニシャル。 そして、その筆跡。 流麗で、特徴的な跳ね方をする文字。
「……これ」 「ああ。筆跡鑑定に回すまでもない。お前の姉の字だ」
レオンハルトが頷く。
「ルドルフとの関係を切ったとしても、商会との『直通ルート』は残っているということだ。……そして、このメモが示唆する『いつもの口座』。これが次の標的だ」
私は書類を握りしめた。 商会。 金と物が循環する、不正の大動脈。 そこを断てば、姉の慈善事業は干上がる。
「ありがとうございます、グランツ様。……次は、商会を洗います」 「いいだろう。……だが、気をつけろ」
レオンハルトの声が低くなった。
「教会は表の権力だが、商会は『裏』とも通じている。金のためなら何でもする連中だ。……これからは、護衛を増やす」 「護衛?」 「ああ。……私の部下をつける。それと」
彼は少し言い淀み、窓の外へと視線を逸らした。
「……私が、送る。可能な限りな」
不器用な優しさ。 その言葉に、張り詰めていた緊張の糸が、ふっと緩むのを感じた。 私は胸の奥が温かくなるのを覚えながら、深く頭を下げた。
「……よろしくお願いします、レオンハルト様」
◇
翌日。 王都には、新たな噂が流れていた。 「臨時監査官リリアは、冷酷な魔女だ」 「聖女様の慈悲を踏みにじり、神聖な教会を暴力で汚した」 「王妃様をたぶらかし、無実の司祭を陥れた」
事実は捻じ曲げられ、悪意ある物語として拡散されている。 セシリアの世論工作だ。 彼女は被害者として振る舞いながら、裏で噂を流し、私を孤立させようとしている。
執務室でその報告書を読みながら、私は静かにコーヒーを啜った。 苦い。 だが、この苦みが今は心地よい。
「……いいわ。魔女でも悪役でも、なってあげる」
私はペンを取り、手帳の『嘘のリスト』に新たな項目を書き加えた。 『ガレオン商会』。 そして、『循環する金』。
私の戦いは、これからが本番だ。 感情論という霧を払い、数字という剣で、姉の心臓部へと突き進む。 誰に嫌われようとも、私はもう止まらない。 奪われた私の人生と、姉に搾取された人々の未来を取り戻すまで。
窓の外では、冷たい雨が降り始めていた。 それはまるで、これから訪れる波乱を予感させるように、静かに、しかし激しく地面を叩いていた。
だが、今日の私は祈りを捧げに来たのではない。 神の庭で行われている、冒涜的な「ビジネス」の実態を暴きに来たのだ。
「……すごい人出ね」
私は広場の片隅、荷馬車の影に身を潜め、眼前の光景を見つめた。 広場を埋め尽くしているのは、ボロを纏った貧民たちだ。 痩せこけた老人、虚ろな目をした母親、泥だらけの子供たち。 彼らは皆、一様に飢えた獣のような目で、広場の中央を見つめている。
そこには、巨大な炊き出し用の鍋が並び、白い湯気が立ち上っていた。 そして、その中心で指揮を執っているのが、私の姉セシリアだ。 今日の彼女は、質素な――といっても、最高級の麻布で仕立てられた――修道女風のドレスに身を包み、かいがいしくスープを配っている。
「さあ、並んでください。神の恵みは皆様に等しく降り注ぎます」 「ああ、セシリア様……!」 「聖女様、ありがとうございます!」
スープを受け取った人々が、涙を流して感謝し、彼女のドレスの裾に口づけようとする。 姉はそれを優しく制し、まるで女神のように微笑む。 完璧な構図だ。 慈悲深い聖女と、救われる民衆。 この美しい絵画の中に、私が入り込む余地などないように見える。
「……中身を確認しないと」
私はフードを深く被り、群衆に紛れて行列に並んだ。 監査官の制服は着ていない。目立たない平民の服に変装している。 私の役目は、この炊き出しが「適正」に行われているかの確認だ。 昨日の調査で判明した『聖ルミナス孤児院』への架空送金。 その金がどこへ消え、逆にこの炊き出しの費用がどこから出ているのか。 そして何より、この場の責任者である司祭ルドルフが、いつ印章を使うか。
列が進み、私の番が回ってきた。 配給係の男が、木椀に無造作にスープを注ぐ。 受け取った瞬間、鼻をつく匂いに眉をひそめそうになった。
薄い。 野菜のクズが浮いているだけの、ほとんどお湯のようなスープ。 パンに至っては、石のように硬く、カビの臭いがする。 これが「金貨数千枚」を投じた慈善事業の実態か。 国庫から出た莫大な予算は、どこかで濾過され、搾り取られ、民衆の口に入る頃にはただの汚水に変わっている。
「……ひどいものね」
私は人混みを抜け、建物の陰でスープの中身を小瓶に採取した。 成分分析にかければ、材料費がいくらか正確に弾き出せるだろう。 おそらく、帳簿上の請求額の十分の一にも満たないはずだ。
その時、広場の奥がざわめいた。 教会の扉が開き、恰幅の良い聖職者が数人の修道士を従えて現れたのだ。 金糸で刺繍された法衣。 指にはめられた巨大な宝石の指輪。 脂ぎった顔に、傲慢な笑みを張り付けた男。
司祭ルドルフ。 三年前、私の「罪」を証言した一人であり、姉の共犯者と目される人物。
「おお、セシリア様。本日もご苦労様です」 「ルドルフ司祭様。……いいえ、わたくしはただ、皆様の笑顔が見たくて」
姉とルドルフが言葉を交わす。 その距離感、視線のやり取り。 親密さを超えた、共犯者特有の空気がある。
「さて、商会からの追加物資が届いたようですな。受領の手続きを」
ルドルフが手を挙げると、広場の脇に止まっていた馬車から、男たちが木箱を運び出し始めた。 箱には『ガレオン商会』の焼き印。 ここでもまた、あの商会だ。
私は目を凝らした。 ルドルフが懐から、真鍮製の印章ケースを取り出す。 あれだ。 彼が公的な契約に使う『教会印』。 もしあれの魔力波形が、昨夜私が検印灯で見た「鋭角的な波形」と一致すれば、彼が姉の印章を偽装した実行犯だと確定する。
ルドルフが伝票に印章を押し付けようとした、その瞬間。
「お待ちください」
私は群衆の中から飛び出し、声を上げた。 フードを脱ぎ捨てると同時に、周囲の空気が凍りつく。
「……リリア?」
姉の声が裏返った。 ルドルフの手が止まり、不快そうに私を睨みつける。
「何だ、この娘は。神聖な儀式の最中に」 「お久しぶりです、ルドルフ司祭。……そして、セシリアお姉様」
私は毅然と二人の前に歩み出た。 周囲の衛兵が動こうとするが、私は懐から王家の紋章が入った監査官証を高く掲げた。
「王妃陛下直属、臨時監査官リリア・アルヴェインです。現在、国庫支出に関する特別監査を行っております。その物資の受領確認に立ち会わせていただきます」
監査官。 その言葉が出た途端、ルドルフの顔色がさっと変わった。 彼は慌てて印章を懐にしまおうとした。
「監査だと? ここは教会だぞ! 王家の管轄外だ!」 「慈善事業助成金を受け取っている以上、会計監査の対象となります。……司祭様、なぜ印章を隠されるのですか? 正規の手続きであれば、堂々と押されればよろしいのでは?」
私は一歩踏み込んだ。
「それとも、その印章……『別の場所』でも使われてはいませんか? たとえば、存在しない孤児院の領収書や、誰かさんの代理承認印として」
ルドルフの脂汗が噴き出すのが見えた。 図星だ。 彼は動揺している。 今ここで彼の手を掴み、印章を押収できれば――。
「……やめてっ!」
悲鳴のような声が響いた。 セシリアだ。 彼女は私の前に立ち塞がり、両手を広げた。 その目には涙が溢れ、体は小刻みに震えている。 まるで、暴漢から教会を守る聖女のように。
「リリア、どうしてこんなことをするの!? ここは、貧しい方々がようやく食事にありつける場所なのよ? あなたの身勝手な復讐心で、この安らぎを壊さないで!」
姉の叫びが、広場に響き渡る。 群衆がざわめき始めた。 「復讐?」「あの女、まさか……」「妹が姉を妬んで邪魔をしているのか?」 空気が変わる。 私の正論が、姉の感情論によって「悪意」へと変換されていく。
「復讐ではありません。これは正当な公務です。このスープを見てください。これが本当に、金貨数千枚の価値があると思いますか?」
私は採取したスープの小瓶を見せた。 だが、姉は首を振った。
「お金の問題ではありません! 心の問題です! 私たちは、限られた予算の中で、精一杯のことをしているの。それを数字だけで判断して……あなたは、血も涙もないの!?」
「そうだ! 聖女様をいじめるな!」 「帰れ! 帰れ!」
石が飛んできた。 貧民の一人が投げた石が、私の肩に当たる。 痛みはない。だが、心が冷えていく。 彼らは騙されている。 自分たちの分前を横取りしているのが誰かも知らず、その泥棒を庇い、真実を告げる私を攻撃している。 これが「洗脳」だ。 姉が長年かけて作り上げた、強固な防壁。
「衛兵! この乱暴者を排除しなさい!」
ルドルフが勝ち誇ったように叫んだ。 教会の衛兵たちが槍を構え、私を取り囲む。 多勢に無勢。 公務執行妨害だが、今のこの興奮状態の群衆の前では、法など無力だ。 ここで力ずくで抵抗すれば、私は本当に「聖女を襲った悪人」として処断される。
(……詰んだ?)
いや、違う。 私は視線を逸らさず、まっすぐに姉を見つめた。 私の目にあるのは、敗北の絶望ではない。 次の一手への合図だ。
「……排除するのは、どちらかしら?」
静かな、しかし凛とした声が、頭上から響いた。
群衆の視線が一斉に上へ向く。 大聖堂のバルコニー。 そこに、一人の女性が立っていた。 豪奢な深紅のドレス。 頭上には、王妃のみが許される宝冠。 そして、その隣には、氷の宰相補佐レオンハルトと、鉄の騎士団長カミュが控えている。
「お、王妃陛下……!?」
ルドルフがカエルのように潰れた声を上げ、その場に崩れ落ちた。 セシリアの顔から血の気が失せ、能面のように固まる。 王妃エレオノーラ。 この国の母であり、姉の「慈善」の最大の後ろ盾であるはずの人物が、なぜここに。
「リリア・アルヴェインは、わたくしの目であり、耳です。彼女への無礼は、わたくしへの反逆とみなします」
王妃の声は、魔術的な拡声を用いずとも、広場の隅々まで届いた。 絶対的な威厳。 投げられかけた石が、手からこぼれ落ちる。
「ルドルフ司祭。慈善事業への疑義が生じています。わたくしは『真実』を知りたい。……その印章、今ここでわたくしの目の前で押しなさい。拒否するならば、教会の全口座を凍結します」
王手だ。 王妃自らが現場に乗り込み、権力を傘に理不尽を押し通す。 これは私が昨夜、レオンハルト様を通じて王妃に懇願した「切り札」だった。 『教会の壁を破るには、王家の剣が必要です』と。
ルドルフは震える手で印章を取り出し、伝票に押し付けた。 私はすぐに駆け寄り、携帯していた検印灯を照射する。
青白い光の中に浮かび上がる、鋭角的な三角形の波形。 昨夜、セシリアの印章の「下」に見えたものと、完全に一致する。
「……確認しました」
私は静かに告げた。
「波形一致。セシリアお姉様の印章を偽造し、架空請求を行っていた『痕跡』の持ち主は……ルドルフ司祭、あなたです」
「ち、違う! これは誤解だ! 私は頼まれただけで……!」
ルドルフが叫ぶ。 その視線が、救いを求めるようにセシリアへ向く。 だが、姉は動かなかった。 彼女は俯き、震えながら、小さな声で呟いた。
「……信じていたのに」
え?
姉は顔を上げ、涙に濡れた瞳でルドルフを睨みつけた。
「信じていたのに! ルドルフ様、あなたがそんな不正をしていたなんて! わたくしは……わたくしは、あなたを神の代理人として尊敬しておりましたのに!」
切り捨てた。 即座に、迷いなく。 共犯者であるはずのルドルフを、「自分を騙していた悪人」として告発したのだ。 その変わり身の早さに、私は戦慄した。 この人は、化け物だ。
「な、何を……セシリア様、あなたが……!」 「黙りなさい、汚らわしい!」
セシリアが叫ぶと同時に、カミュ団長が動いた。 一瞬で距離を詰め、ルドルフを取り押さえる。 「連れて行け。……吐くまで絞るぞ」
ルドルフは引きずられていった。 広場に残されたのは、呆然とする群衆と、悲劇のヒロインを演じ切る姉、そして私。
王妃陛下はバルコニーから静かにその様子を見下ろしていたが、やがてくるりと背を向け、去っていった。 『あとは任せる』という無言のメッセージ。
私は姉に近づいた。 彼女はハンカチで顔を覆い、泣き崩れている。 だが、私が耳元に顔を寄せると、泣き声に混じって、氷のような囁きが聞こえた。
『……よくもやってくれたわね、リリア。でも、これで終わりじゃないわよ』 『ええ、知っています。まだトカゲの尻尾を切っただけですから』
私は冷徹に返した。
『次は胴体……あなたの嘘を、すべて剥がします』
姉が顔を上げた時、その瞳には明確な殺意が宿っていた。 もはや姉妹ではない。 互いに喉笛を食いちぎろうとする、敵同士だ。
◇
大聖堂からの帰り道。 私はレオンハルト様の馬車に同乗していた。 向かいの席に座る彼は、いつものように書類に目を通しているが、その表情は心なしか緩んでいるように見えた。
「……見事だったな」
彼がポツリと言った。
「王妃陛下を動かし、教会という聖域に穴を開けた。……ルドルフは終わりだ。奴の証言から、芋づる式に不正が暴かれるだろう」 「はい。ですが……姉は逃げました」
私は悔しさを滲ませた。 セシリアは無傷だ。 むしろ、「信頼していた司祭に裏切られた可哀想な聖女」として、さらに同情を集めるかもしれない。
「想定内だろう。あの女は、そう簡単に崩れない」
レオンハルトは書類を置き、私を真っ直ぐに見た。
「だが、『足場』は崩れた。金脈の一つを断ち、協力者を一人消した。……焦った狐は、必ずボロを出す」
彼は懐から一枚の書類を取り出し、私に差し出した。 それは、先ほど押収したガレオン商会の納品書だった。 だが、私が注目したのは、そこに記された品目ではない。 請求書の隅に書かれた、手書きのメモだ。
『次回分は、いつもの口座へ。――C.A』
C.A。 Cecilia Alvain。セシリア・アルヴェインのイニシャル。 そして、その筆跡。 流麗で、特徴的な跳ね方をする文字。
「……これ」 「ああ。筆跡鑑定に回すまでもない。お前の姉の字だ」
レオンハルトが頷く。
「ルドルフとの関係を切ったとしても、商会との『直通ルート』は残っているということだ。……そして、このメモが示唆する『いつもの口座』。これが次の標的だ」
私は書類を握りしめた。 商会。 金と物が循環する、不正の大動脈。 そこを断てば、姉の慈善事業は干上がる。
「ありがとうございます、グランツ様。……次は、商会を洗います」 「いいだろう。……だが、気をつけろ」
レオンハルトの声が低くなった。
「教会は表の権力だが、商会は『裏』とも通じている。金のためなら何でもする連中だ。……これからは、護衛を増やす」 「護衛?」 「ああ。……私の部下をつける。それと」
彼は少し言い淀み、窓の外へと視線を逸らした。
「……私が、送る。可能な限りな」
不器用な優しさ。 その言葉に、張り詰めていた緊張の糸が、ふっと緩むのを感じた。 私は胸の奥が温かくなるのを覚えながら、深く頭を下げた。
「……よろしくお願いします、レオンハルト様」
◇
翌日。 王都には、新たな噂が流れていた。 「臨時監査官リリアは、冷酷な魔女だ」 「聖女様の慈悲を踏みにじり、神聖な教会を暴力で汚した」 「王妃様をたぶらかし、無実の司祭を陥れた」
事実は捻じ曲げられ、悪意ある物語として拡散されている。 セシリアの世論工作だ。 彼女は被害者として振る舞いながら、裏で噂を流し、私を孤立させようとしている。
執務室でその報告書を読みながら、私は静かにコーヒーを啜った。 苦い。 だが、この苦みが今は心地よい。
「……いいわ。魔女でも悪役でも、なってあげる」
私はペンを取り、手帳の『嘘のリスト』に新たな項目を書き加えた。 『ガレオン商会』。 そして、『循環する金』。
私の戦いは、これからが本番だ。 感情論という霧を払い、数字という剣で、姉の心臓部へと突き進む。 誰に嫌われようとも、私はもう止まらない。 奪われた私の人生と、姉に搾取された人々の未来を取り戻すまで。
窓の外では、冷たい雨が降り始めていた。 それはまるで、これから訪れる波乱を予感させるように、静かに、しかし激しく地面を叩いていた。
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一方で私は、領地を守り、帳簿を整え、静かに家を支え続ける。
欲しがったのは肩書。
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これは、婚約を奪われた公爵令嬢が
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