『姉に全部奪われた私、今度は自分の幸せを選びます ~姉の栄光を支える嘘を、私は一枚ずつ剥がす~』

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第6話「聖女の涙、監査官の沈黙」

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王都に降り続く雨は、三日経っても止む気配を見せなかった。 分厚い鉛色の雲が空を覆い、石造りの王宮を冷たく濡らしている。 窓ガラスを叩く雨音は、まるで絶え間ないノイズのように、私の思考を鈍らせようとしていた。

「……おはようございます」

会計院の廊下を歩く私の声は、誰にも届かないかのように無視された。 すれ違う職員たちは、私と目が合うのを避けるように俯くか、あるいは露骨に顔をしかめて距離を取る。 背後でヒソヒソと交わされる囁き声だけが、湿った空気の中にはっきりと残る。

「あれが、噂の……」 「聖女様を泣かせた非道な妹」 「よく平気な顔で歩けるものだわ」 「王妃様に取り入って、神聖な教会を荒らしたらしいぞ」

悪意を含んだ言葉の礫(つぶて)。 予想はしていたけれど、実際に浴びせられると、肌が粟立つような寒気を感じる。 先日の大聖堂での一件以来、宮廷の空気は一変した。 司祭ルドルフの逮捕は「正義の執行」ではなく、「聖女への迫害」として捻じ曲げられて伝わっている。 姉セシリアが流した涙は、真実をも洗い流し、私を「冷酷な魔女」へと仕立て上げてしまったのだ。

私は背筋を伸ばし、一歩も引かずに歩き続けた。 俯いてはいけない。 ここで目を伏せれば、彼らの物語を肯定することになる。 私は監査官だ。 感情ではなく、法と証拠に基づいて行動した。その事実に一点の曇りもない。

執務室に入ると、机の上に置かれていた花瓶が倒され、中の水が書類を濡らしていた。 花は踏みつけられ、無惨な姿を晒している。 まただ。 昨日も、一昨日も、似たような嫌がらせが続いている。 犯人を探すつもりはない。 どうせ、「正義感」に駆られた誰かの仕業だろう。 彼らにとって、私は倒すべき悪なのだから。

「……乾かせば読めるわ」

私はハンカチで机を拭き、濡れた書類を丁寧に広げた。 幸い、重要な証拠書類は鍵のかかる鞄に入れて持ち歩いている。 濡れているのは、どうでもいい回覧板や事務連絡だけだ。 インクが滲んで読めなくなった文字を見つめながら、私は小さく息を吐いた。

孤独。 かつての実家で感じていたそれとは違う、より鋭利で、冷たい孤独。 だが不思議と、心は折れていなかった。 むしろ、この逆風が私の「芯」を強くしている気がする。 私はもう、誰かの顔色を窺って生きる無力な令嬢ではない。 私には、果たすべき使命がある。

「……さあ、仕事よ」

私は濡れた書類を端に寄せ、鞄から『ガレオン商会』に関する膨大な帳簿の写しを取り出した。 感情論で攻撃してくる相手に対して、私が取るべき手段は一つ。 沈黙を守り、反論の代わりに「動かぬ数字」を突きつけることだ。

          ◇

その頃、王宮のサロン「翡翠の間」では、今日も優雅な茶会が開かれていた。 雨の日の憂鬱を吹き飛ばすように、暖炉には火が焚かれ、最高級の茶葉の香りが漂っている。 その中心にいるのは、もちろん姉のセシリアだ。

「……ごめんなさい、皆様。わたくしの不徳の致すところで……こんな騒ぎになってしまって」

セシリアは深々と頭を下げ、濡れた瞳で周囲を見渡した。 今日の彼女は、喪に服すような暗い色のドレスを身に纏っている。 化粧も薄く、やつれたように見せる技法は見事という他ない。

「セシリア様、謝らないでください!」 「悪いのは全て、あの恩知らずな妹君です!」 「あんなにも優しかった司祭様を陥れるなんて……悪魔の所業ですわ」

取り巻きの令嬢たちが、口々に慰めの言葉をかける。 その中には、先日の茶会で私がやり込めたミランダ侯爵令嬢の姿もあった。 彼女は私への恨みを晴らす絶好の機会とばかりに、あることないことを吹聴している。

「あの子は昔からそうでしたの。セシリア様のものを何でも欲しがって……。きっと、皆様からの人望が羨ましくて仕方がないのですわ」 「なんて浅ましい……」 「王妃陛下も、あんな娘に騙されてお気の毒に」

セシリアはハンカチで目元を拭いながら、か細い声で言った。

「リリアは……心が弱い子なのです。きっと、追放された辛さで、何かが歪んでしまったのでしょう。わたくしは、あの子を恨むことなんてできません。ただ、哀れで……」

「おお、なんて慈悲深い!」 「聖女様、あなたの優しさは尊いですが、悪には毅然とした態度が必要ですぞ」

その場にいた若い騎士が、拳を握りしめて熱弁を振るう。 セシリアは彼に向かって、儚げに微笑んだ。

「ありがとう、ジェイク様。……でも、どうかリリアを責めないであげてください。あの子がこれ以上、罪を重ねないように……わたくしが祈りますから」

完璧な演技。 「妹を庇う姉」を演じることで、逆説的に「妹の罪」を確定させている。 彼女の言葉は、その場にいる全員の心に「リリア=矯正すべき悪」という図式を深く刻み込んだ。 このサロンの空気は、やがて宮廷全体へと広がり、私の手足を縛る鎖となるだろう。

だが、セシリアの瞳の奥が一瞬だけ、冷たく光ったのを、誰も気づかなかった。 彼女は計算している。 この「同情」という盾が、いつまで有効か。 そして、妹がどこまで迫っているか。 祈るようなポーズを取りながら、彼女の指先は焦燥で微かに震えていた。

          ◇

午後、私は王宮の公文書館にいた。 ガレオン商会の過去の取引記録を洗うためだ。 広大な書庫には、埃の匂いと古紙の匂いが充満している。 静寂。 ここだけは、外の喧騒や悪意から切り離された、私の聖域だ。

脚立に登り、棚の上段にある「調達課」の古いファイルを引き抜こうとした時だった。 足元の床板が軋む音がした。

「……手伝おうか」

聞き慣れた、低い声。 私は驚いて振り返り、バランスを崩しかけた。 落ちる――と覚悟した瞬間、強い力が私の腰を支えた。

「っと……危ないな」

すぐ近くに、レオンハルト様の顔があった。 彼は片手で軽々と私を支え、そのまま床へと下ろしてくれた。 触れられた場所から、じんわりとした熱が伝わってくる。 心臓が不格好に跳ねた。

「あ、ありがとうございます……グランツ様」 「礼には及ばない。……だが、一人で無理をするなと言ったはずだ」

彼は私から手を離すと、いつもの冷徹な表情で私を見下ろした。 だが、その目には隠しきれない疲労の色が滲んでいる。 彼もまた、戦っているのだ。 私が起こした波紋の処理と、宰相府内での派閥抗争の間で。

「無理はしていません。これは私の仕事ですので」 「世論の風当たりが強い。私の耳にも、君を罷免しろという嘆願書が届いている」 「……そうですか」

私は視線を落とした。 やはり、彼にも迷惑をかけている。 王妃陛下と宰相補佐という後ろ盾があるからこそ、私はここで息ができている。 だが、その盾にも限界がある。

「申し訳ありません。私がもっと上手く立ち回れば……」 「謝るな」

レオンハルト様が強い口調で遮った。

「私は嘆願書など、全てシュレッダーにかけた。……君が間違ったことをしていないのは、私が一番よく知っている」

その言葉が、胸に突き刺さった。 不器用で、ぶっきらぼうな信頼。 それがどれほど私の支えになっているか、彼は知らないだろう。

「それに、君が『悪役』を引き受けてくれているおかげで、敵が油断している。……セシリア派の貴族たちが、今夜の夜会で『勝利宣言』をするつもりらしい」 「勝利宣言……?」 「ああ。『監査官の暴走を嘆き、結束を固める会』だそうだ。そこで多額の寄付金が動くという情報がある」

寄付金。 また金が動く。 姉の涙は、金貨に換わる魔法の触媒だ。

「……止めさせますか?」 「いや、泳がせる。金が動く時こそ、尻尾が出る」

レオンハルト様は周囲を警戒するように視線を巡らせてから、一冊の薄いファイルを私に渡した。 表紙には何も書かれていない。

「これは?」 「ガレオン商会の『裏帳簿』の一部だ。……カミュが部下に命じて、商会のゴミ捨て場から拾わせた断片だがな」

ゴミ捨て場。 あの近衛騎士団長が、そんな泥臭いことまでしてくれたのか。 私はファイルを胸に抱きしめた。 濡れた書類、冷たい視線、倒された花瓶。 そんなものは、この一冊の重みに比べれば羽毛のように軽い。

「ありがとうございます。……必ず、結果でお返しします」 「期待している。……それと」

レオンハルト様は去り際に、私の髪に付いていた埃を指先で払った。 あまりにも自然な動作に、私は息を止める。

「……クマができている。少しは眠れ」

それだけ言い残し、彼は書庫の闇へと消えていった。 触れられた髪が熱い。 私はその場所を手で押さえ、深く深呼吸をした。 泣いている暇はない。 眠っている暇もない。 彼らが繋いでくれた道を、私は走らなければならない。

          ◇

執務室に戻った私は、レオンハルト様から渡された『裏帳簿』の断片と、正規の請求書を突き合わせる作業に没頭した。 窓の外は完全に日が落ち、雨音だけがリズムを刻んでいる。 魔導ランプの明かりの下、私の目は数字と文字の海を泳ぎ続けた。

ガレオン商会は、王宮への納入を一手に引き受ける老舗の大商会だ。 食料品、日用品、そして姉の「慈善事業」に必要な物資。 その取引量は膨大で、年間数万件に及ぶ。 普通に見ていては、不正など見つからない。 砂浜で一粒のダイヤモンドを探すような作業だ。

だが、私には「仮説」がある。 姉は、自分の手を汚さない。 しかし、同時に「支配欲」が強い。 重要な決定や、金の流れの最終確認には、必ず「自分」を介在させたがるはずだ。 たとえ名前を隠していても、そこには彼女の「癖」が残る。

「……あった」

深夜。 静寂に包まれた部屋で、私の声が響いた。 見つけたのは、一枚の請求書だ。 『王宮庭園用肥料代 金貨50枚』。 一見、何の変哲もない請求書。 だが、その日付と金額が、裏帳簿の切れ端に書かれた『C様へ還付 金貨20枚』というメモと一致する。 50枚請求して、30枚を正規に支払い、差額の20枚をキックバックとして戻す。 典型的な水増し請求の手口だ。

しかし、私が注目したのはそこではない。 請求書を書いた「筆跡」だ。 ガレオン商会の事務員が書いたと思われる丸っこい文字。 だが、その文字の「ハネ」や「ハライ」の角度に、既視感があった。

私は過去の請求書を次々と引っ張り出した。 『孤児院用毛布代』 『炊き出し用食材費』 『夜会用装飾費』

品目も日付もバラバラだ。 しかし、それらの請求書の文字には、共通する「癖」がある。 特に数字の「7」の書き方。 横棒を引いた後、縦棒を下ろす際に、わずかに左へカーブし、最後に小さく跳ねる。

「……これ、全部同じ人が書いている」

商会には数十人の事務員がいるはずだ。 なのに、王妃関連や慈善事業関連の、特に高額な請求書だけが、すべて「同一人物」によって書かれている。 これは偶然ではない。 「専用の担当者」がいるのだ。 不正な処理を任せられる、商会の中でもごく限られた、口の堅い人間。 あるいは――。

私は震える手で、もう一枚の書類を取り出した。 それは、私がまだ実家にいた頃、姉セシリアが書いた『家計簿』の写しだ。 父に頼まれて私が整理していた時、姉が気まぐれに数ページだけ書いたことがある。 私はそのページを開き、請求書の「7」と並べた。

息が止まる。 違う。姉の字ではない。 姉の字はもっと優雅で、鋭い。 だが、この請求書の字は、姉の字に「似せようとして」失敗したような、奇妙な歪みを持っている。 あるいは、誰かの字を真似るのが癖になっている者の字か。

「……誰?」

私は記憶の糸を手繰り寄せた。 姉の周りにいて、実務能力が高く、商会とも繋がりがあり、そして姉の筆跡を真似る必要があった人物。 侍女長マーサ? いいえ、彼女は字が下手だった。 司祭ルドルフ? 彼はもっと角張った字を書く。

その時、ふと一枚の古い記憶が脳裏をよぎる。 三年前。 私が追放される直前。 姉の部屋で、一人の男が書類を整理していた。 商会の制服を着た、若く、目立たない男。 彼は姉に何かを囁かれ、頬を赤らめて何度も頷いていた。

『……でも、リリアには内緒よ?』

姉の甘い声。 あの男は誰だった? ガレオン商会の手代……名前は確か……。

『トーマス』。

商会長の息子でありながら、日陰の存在として扱われていた青年。 姉は彼に優しく接していた。 「あなたの才能は素晴らしいわ」と褒めそやし、「父君に認められるよう手伝ってあげる」と唆していた。

「……まさか」

私は請求書を光に透かした。 この丸っこい文字。 どこか自信なさげで、でも丁寧に書こうとしている文字。 これは、あの時の彼が書いていたメモの字と似ている。

「架空請求の実務担当者は、商会長の息子……トーマス」

姉は彼を「たらし込んで」いたのだ。 愛や承認を餌に、商会の次期当主を操り人形にし、自らの財布として使っている。 商会長自身もグルかもしれないが、実務を行っているのが息子ならば、彼を崩せば証拠が出る。

「……見つけたわ、循環の心臓(ポンプ)」

私はペンを取り、手帳に『トーマス・ガレオン』の名前を書き込んだ。 彼はまだ、姉を信じているのだろうか。 「二人の未来のため」とか、「善行のため」とか言われて、犯罪に手を染めているのだろうか。 もしそうなら、彼は一番脆い。 姉にとって彼は「使い捨ての道具」でしかないからだ。

ゾクリ、と背筋が震えた。 姉の残酷さにではない。 自分が、その残酷さを利用して敵を追い詰めようとしていることにだ。 私もまた、冷酷になっているのだろうか。 レオンハルト様の顔が浮かぶ。 『君が間違ったことをしていないのは、私が一番よく知っている』

「……進むしかない」

私は請求書の束を鞄に詰め込んだ。 明日は、ガレオン商会へ直接乗り込む。 アポイントメントなど取らない。 奇襲だ。 トーマスという「人間」の弱さを突く。 数字の矛盾と、姉の嘘(あかし)を突きつけて。

          ◇

翌朝。 雨は小降りになっていたが、まだ止んではいなかった。 私は監査官の制服を着て、馬車に乗り込んだ。 行き先は、王都の商業区、ガレオン商会本店。

「リリア様、顔色が優れませんが」

護衛についた近衛騎士――カミュ団長の部下である若い騎士が、心配そうに声をかけてきた。 私は鏡を見て、苦笑した。 目の下には、コンシーラーでも隠しきれない隈がある。 昨夜は一睡もしていない。

「大丈夫です。……むしろ、この顔の方が『本気』が伝わるでしょう」 「はあ……」 「参りましょう。今日は、長い一日になります」

馬車が動き出す。 石畳を弾く車輪の音が、私の鼓動と重なる。

商会に着くと、予想通り門前払いを食らいそうになった。 だが、今回は「王妃陛下直筆の捜索令状」という最強のカードがあるわけではない。 あるのは、私の分析結果と、ハッタリに近い交渉術だけだ。

「商会長は不在です」 受付の男が、慇懃無礼に告げる。 「では、トーマス様に。……『セシリア様からの伝言があります』とお伝えください」

私がそう告げると、受付の男の眉がピクリと動いた。 やはり、トーマスは「特別」なのだ。 数分後、奥の応接室に通された。

現れたのは、ひょろりとした痩せ型の青年だった。 目の下に深い隈を作り、爪を噛む癖がある。 トーマス・ガレオン。 三年前の記憶よりも、ずっと神経質そうで、そして追い詰められた目をしている。

「……セシリア様からの伝言とは?」 彼が開口一番、そう尋ねた。 挨拶もなし。 彼の頭の中は、姉のことでいっぱいのようだ。

私はゆっくりと鞄を開き、昨夜分析した請求書の束をテーブルに広げた。

「伝言の前に、確認させていただきたいことがあります。……トーマス様、この数字の『7』。とても特徴的ですね」

トーマスの顔が凍りついた。 視線が泳ぐ。 指先が震え始める。

「……何の、話ですか」 「貴方が書いた請求書です。……いえ、貴方が『愛する人のために』偽造した、架空請求書です」

私は単刀直入に切り込んだ。 時間をかければ、彼を取り巻く商会の古狸たちが邪魔に入ってくる。 勝負は、この数分で決める。

「セシリア様は仰っていました。『トーマスは優秀な右腕だわ』と」 「……!」 トーマスの顔に、微かな喜びの色が差した。 やはり、彼は姉を崇拝している。

「ですが、こうも仰っていました。『でも、少し詰めが甘いのよね。筆跡を変えるのを忘れるなんて』……と」

「え……?」

嘘だ。 姉はそんなことは言っていない。 だが、今の彼にとって、それは「ありそうな言葉」として響くはずだ。 姉に見捨てられる恐怖。 自分のミスで姉に迷惑をかけたという罪悪感。

「私は監査官として参りましたが、同時に、セシリアお姉様の妹でもあります。……トーマス様、このままでは、貴方一人が全ての罪を被ることになりますよ?」

私は声を落とし、彼の目を見つめた。 悪魔の囁き。 私は今、姉と同じ手口を使っている。 相手の不安を煽り、コントロールしようとしている。 胸が痛む。 だが、止まらない。

「……そ、そんなはずはない。セシリア様は、僕を……僕たちを、導いてくださると……」 「導く? どこへですか? 断頭台へですか?」

私は冷たく言い放った。

「司祭ルドルフは逮捕されました。彼もまた、姉を信じていた一人です。でも、姉は彼を切り捨てました。『信じていたのに裏切られた』と言って」

トーマスの顔面から血の気が引いていく。 あの日の大聖堂での出来事は、彼も知っているはずだ。 自分の未来を、ルドルフの末路に重ね合わせている。

「貴方も、同じになります。……いえ、商会全体が潰れるでしょう。不正の証拠は、すでに揃いつつあります」

私は請求書の束をトントンと指で叩いた。

「救われる道は一つだけです。……『真実』を話すこと。貴方が誰の指示で、どこへ金を流したか。それを証言すれば、情状酌量の余地はあります」

「……」

トーマスは沈黙した。 葛藤。 愛と恐怖。忠誠と保身。 彼の心の中で、激しい嵐が吹き荒れているのが手に取るようにわかる。

その時、応接室のドアが乱暴に開かれた。 入ってきたのは、恰幅の良い中年男。 ガレオン商会長だ。 後ろには、強面の私兵たちを連れている。

「おい! 何をしているトーマス! 部外者を勝手に入れるな!」

怒鳴り声。 トーマスがビクリと縮こまる。 親父への恐怖。 これが、彼のもう一つの鎖だ。

商会長は私を睨みつけた。

「リリア様とお見受けするが、アポなしで困りますな。お引き取り願おうか」 「不正の疑いがある書類について、確認をしていました」 「不正? 言いがかりも甚だしい! ……おい、つまみ出せ!」

私兵たちが動く。 私の護衛の騎士が剣の柄に手をかける。 一触即発。 暴力で解決しようとする、彼らの常套手段だ。

私は立ち上がった。 怯えたりはしない。 私の目には、もうトーマスしか映っていない。

「トーマス様。……選んでください」

私は彼に最後の言葉を投げかけた。

「父の言いなりになって、姉の捨て駒として死ぬか。……それとも、ここで勇気を出して、自分の人生を取り戻すか」

「トーマス! 黙ってろ!」 商会長が叫ぶ。

トーマスは震えながら、父親を見、私を見、そしてテーブルの上の請求書を見た。 その目に、微かな光が宿る。 絶望の淵で見つけた、蜘蛛の糸のような光。

「……僕は」

彼が口を開いた。

「僕は……もう、嘘を書くのは嫌だ」

小さな、しかし確かな拒絶。 商会長が「何だと!?」と激昂して手を振り上げる。 だが、その手は振り下ろされることはなかった。 私の護衛騎士が、素早く割って入り、その腕を受け止めたからだ。

「暴力はいけませんね、商会長」 騎士が涼しい顔で言う。

私はトーマスに微笑みかけた。 聖女の嘘の笑顔ではない。 共犯者としての、覚悟の笑みを。

「……よく言いました。その言葉、公式な証言として記録させていただきます」

私は手帳を開いた。 外の雨音が、少しだけ優しく聞こえた気がした。 これで、金の流れ(マネーフロー)の蛇口を掴んだ。 あとは、この蛇口を捻り、誰がその水を飲んでいたのかを白状させるだけだ。

「さあ、始めましょう。……長い監査(とりしらべ)を」

私はペンを走らせた。 その音は、姉セシリアへの、静かなるレクイエムの序曲だった。
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