『姉に全部奪われた私、今度は自分の幸せを選びます ~姉の栄光を支える嘘を、私は一枚ずつ剥がす~』

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第10話「姉の笑顔は、刃になる」

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激しい雨が、馬車の屋根を叩き続けていた。 王都を出てから数時間、空は鉛色の雲に覆われ、時折光る稲妻が荒野を一瞬だけ青白く照らし出す。 轟く雷鳴は、まるで天空を引き裂く巨獣の咆哮のようだった。

揺れる車内で、私は窓枠に手をかけ、暗闇の先を見つめていた。 ガラスに映る自分の顔は、疲労の色が濃いが、その瞳だけは冴え渡っている。 対面の席には、宰相補佐レオンハルト・グランツが座っていた。 彼は揺れる馬車の中でも姿勢を崩さず、膝の上で腕を組み、閉じた目で何かを思索しているようだった。

「……眠れないか」

不意に、彼が口を開いた。 低い声が、雨音に混じって鼓膜を震わせる。

「はい。……気が張っていて」 「無理もない。相手は実の姉だ。しかも、腹心を囮に使って我々を誘い出すような女だ」

レオンハルト様はゆっくりと目を開けた。 その瞳は、嵐の夜よりも深く、静かだった。

「リリア。君は姉をどう見ている? ……ただの強欲な悪女か?」 「……いいえ」

私は首を横に振った。 悪女という言葉は、まだ人間味がある。 欲望があり、感情があり、それゆえに破滅する。 だが、姉は違う。

「彼女は……『演劇』の中でしか生きられない人です。自分が主役で、世界は舞台。他人は観客か小道具。……だから、平気で人を使い潰せる。小道具に感情移入する役者はいませんから」

「舞台、か」 レオンハルト様は鼻を鳴らした。

「ならば、今回の逃亡劇も演出の一つということか。……侍女長マーサは、幕引きのための生贄か」 「おそらく。マーサは姉の乳母代わりでした。誰よりも姉を愛し、姉の秘密を知りすぎている。……だからこそ、姉にとっては『最も処分しにくいゴミ』になったのでしょう」

私は拳を握りしめた。 マーサにも罪はある。私の追放に加担し、多くの不正に手を染めた。 だが、彼女もまた、姉というブラックホールに飲み込まれた被害者の一人だ。 彼女が消される前に、確保しなければならない。 生きた証人として。

「……到着するぞ」

御者台からの合図とともに、馬車の速度が落ちた。 窓の外に、薄ぼんやりとした街の灯りが見えてくる。 北方の港町、ルナ・ポート。 国境に近く、密輸と賭博が横行する、法の目が届きにくい灰色の街。

          ◇

ルナ・ポートは、潮と腐敗の臭いに包まれていた。 港には大小様々な船が停泊し、雨の中を怪しげな荷物が積み下ろしされている。 私たちの馬車が波止場の近くに止まると、どこからともなく視線を感じた。 物陰から覗く、値踏みするような目。

「やれやれ、歓迎されてるな」

先に到着していた近衛騎士団長カミュが、馬車の扉を開けてくれた。 彼は雨合羽も着ずにずぶ濡れだったが、その顔には猛獣のような獰猛な笑みが張り付いている。 周囲の気配を威圧だけでねじ伏せているようだ。

「状況は?」 レオンハルト様が問う。

「『荷物』の場所は特定した。……港の東外れ、第三倉庫だ。一時間ほど前、フードを被った女が入っていくのを地元のゴロツキが見ている」 「姉の手先は?」 「今のところ、目立った動きはねえ。……だが、静かすぎる。嵐の前の静けさってやつだ」

カミュが顎をしゃくる。 その先には、雨に煙る巨大なレンガ造りの倉庫があった。 入り口の扉は僅かに開いており、中の闇が口を開けて獲物を待っているように見える。

「……行こう」

レオンハルト様が歩き出す。 私はその背中を追った。 護衛の騎士たちが周囲を固め、私たちは一塊となって倉庫へと向かった。

倉庫の中は、カビと錆びた鉄の臭いが充満していた。 天井が高く、積み上げられた木箱が迷路のように通路を作っている。 雨音が遠く響き、自分たちの足音さえ吸い込まれるような静寂。

「マーサ……?」

私は声を潜めて呼んだ。 返事はない。 ただ、奥の方から、何かが擦れるような微かな音が聞こえた。

私たちは慎重に進んだ。 木箱の影、柱の裏。 あらゆる場所に敵が潜んでいる可能性がある。 カミュ団長が手信号を出し、騎士たちが左右に展開する。

倉庫の最奥部。 そこに、一つの明かりが見えた。 古びたランタンが床に置かれ、その傍らに、一人の女性が座り込んでいた。 質素な旅装束。 手には大きな旅行鞄を抱えている。

「……マーサ!」

私が駆け寄ると、彼女はビクリと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。 その顔は、幽霊のように青白かった。 かつて王宮で見せていた、厳格で意地悪な侍女長の面影はない。 ただの、怯えきった老女だ。

「リリア……様?」

掠れた声。 彼女の目は焦点が合わず、虚空を彷徨っている。

「どうして……ここに? セシリア様は……セシリア様は、船を用意してくださると……」 「船なんて来ません。貴方は捨てられたのよ」

私は彼女の前に膝をつき、肩を掴んだ。

「目を覚まして。姉は貴方を逃がすつもりなんてない。……ここに誘い込んで、始末するつもりよ」 「そ、そんな……まさか……。あの子は、私の娘のような……」

マーサは首を振り、鞄を強く抱きしめた。

「『これを待っていて』と……手紙に……。これを飲んで眠れば、目が覚めた時には自由の国だと……」

彼女の手から、小瓶が転がり落ちた。 琥珀色の液体が入った、小さな薬瓶。 私はそれを拾い上げ、栓を開けて臭いを嗅いだ。 甘いアーモンドの香り。 猛毒の『安楽死薬』だ。

「……これが自由への切符?」

私は怒りで手が震えた。 姉は、乳母に自害を命じたのだ。 「自由」という甘い言葉で包んで、自らの手で毒を煽るように仕向けた。 どこまでも残酷で、どこまでも効率的だ。

「飲んではいけません! これは毒です!」 「毒……? セシリア様が、私に……?」

マーサの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。 信じたくない。けれど、心のどこかでは理解していたのだろう。 自分がもう用済みであることを。

その時。 頭上から、乾いた拍手の音が響いた。

「あらあら、邪魔が入ってしまったわね。……せっかく、苦しまずに逝かせてあげようという慈悲だったのに」

全員が上を見上げた。 倉庫の二階、鉄製のキャットウォークに、数人の黒装束の男たちが立っていた。 そして、その中央に、一人の男がいた。 仮面をつけた、細身の男。 声色を変えているが、その所作には見覚えがある。

「……誰だ」 レオンハルト様が低い声で問う。

「名乗るほどのものではありません。ただの『掃除屋』ですよ」

男はクスクスと笑い、手を挙げた。 黒装束たちが一斉にボウガンを構える。 狙いは私ではない。 マーサだ。

「おしゃべりな老人は、長生きすると不幸になる。……さようなら、マーサさん」

「伏せろッ!!」

カミュ団長の叫びと同時に、無数の矢が放たれた。 私はマーサに覆いかぶさり、床に伏せた。 ヒュン、ヒュン、と風を切る音が頭上を通過し、背後の木箱に突き刺さる。

「カミュ! やれ!」 レオンハルト様の命令が飛ぶ。

「おうよッ!!」

カミュ団長が近くにあった木箱を軽々と持ち上げ、二階に向かって放り投げた。 ドガァァン! 木箱がキャットウォークに激突し、手すりがひしゃげる。 黒装束たちが体勢を崩した隙に、カミュは柱を蹴って跳躍した。 人間業とは思えない跳躍力で二階に飛び乗り、大剣を一閃させる。

「雑魚が! 俺の目の前で飛び道具とはいい度胸だ!」

一撃でキャットウォークが崩落し、数人の敵が床に叩きつけられた。 残った敵も、展開していた近衛騎士たちによって次々と制圧されていく。 圧倒的な武力差。 近衛騎士団を舐めてはいけない。

だが、あの仮面の男だけは違った。 彼は混乱に乗じて煙玉を投げ、姿を消そうとした。

「逃がすか!」

レオンハルト様が動き、懐から短剣を投擲した。 銀の閃光が闇を切り裂き、男の足を掠める。 男は「ぐっ」と呻いたが、そのまま窓を突き破って外へ飛び出した。 逃げ足の速さは、ただの暗殺者ではない。

「……追うな」 レオンハルト様が制した。 「深追いは危険だ。……目的は達成した」

彼の視線の先には、腰を抜かして震えているマーサがいた。 生きている。 口封じは失敗したのだ。

          ◇

私たちはマーサを保護し、すぐに王都への帰路についた。 彼女はショック状態で錯乱していたが、レオンハルト様が用意した鎮静剤で眠りについている。 馬車の中は重苦しい空気に包まれていたが、それでも一つの安堵があった。 姉の「右腕」を切り落としたのだ。

翌朝、王宮の地下牢でマーサの尋問が行われた。 私は彼女と対面した。 鉄格子越しに見る彼女は、一晩で十年老け込んだように見えた。

「……おはよう、マーサ」 私が声をかけると、彼女は力なく顔を上げた。

「……リリア様。……私は、なんて愚かなことを」

彼女は涙ながらに語り始めた。 姉セシリアの命令で、どれだけの嘘をつき、どれだけの証拠を隠滅してきたか。 そして、三年前の「あの日」のことも。

「あの日……セシリア様は、私に宝飾保管庫の鍵を渡しました。『ちょっと借りたいものがあるの』と。私は……それが窃盗だとは知らず、ただ従いました」

マーサの証言によれば、姉は保管庫から「青い箱」を持ち出した。 中に入っていたのは、王家に伝わる『契約の魔石』。 そして、姉はその箱をマーサに持たせ、自分の部屋ではなく『白薔薇の離宮』へ運ばせたという。

「離宮には……誰がいたの?」 「……男がいました。フードを被っていて、顔は見えませんでしたが……セシリア様は彼を『先生』と呼んでいました」

先生。 やはり、協力者がいる。技術者だ。

「その男が、魔石を受け取ったのね?」 「はい。……そしてセシリア様は、空になった箱を保管庫に戻し、大騒ぎをして……『リリアがやった』と」

すべてが繋がった。 姉は魔石を手に入れるために、自作自演の盗難騒ぎを起こし、私をスケープゴートにして追放した。 目的は二つ。 邪魔な妹の排除と、魔石の入手。 一石二鳥の冷酷なシナリオ。

「……マーサ。もう一つ聞きたいことがあるわ」 私は懐から、あの『安楽死薬』の小瓶を取り出した。

「姉は、この毒をどこで手に入れたの? これは市販されているようなものじゃない。高度な調合が必要な、暗殺用の毒よ」

マーサは小瓶を見て、怯えたように身を縮めた。

「……それは、セシリア様が『先生』から受け取ったものです。『裏切り者には、安らかな眠りを』と言って……」

技術者は、魔道具だけでなく、毒も作れる。 錬金術師か、あるいは闇の薬剤師か。 『クレイグ』という名の元宮廷魔導師長。 彼への疑いが、確信へと変わっていく。

          ◇

尋問を終えた私は、レオンハルト様の執務室へと向かった。 窓の外は、昨夜の嵐が嘘のような快晴だった。 だが、私の心は晴れていない。 マーサの証言で、姉の罪はほぼ確定した。 しかし、まだ何かが足りない。 姉はなぜ、そこまでして魔石を欲したのか。 ただの金欲や名誉欲だけで、これほどのリスクを冒すだろうか? 『誓約器の偽造』。 それを使って、彼女は何をしようとしているのか。 最終的な目的が見えない。

執務室に入ると、レオンハルト様が深刻な顔で一枚の羊皮紙を見ていた。 机の上には、カミュ団長からの報告書も置かれている。

「……何かありましたか?」 「ああ。マーサの確保は成功したが、敵も黙ってはいないようだ」

彼は羊皮紙を私に差し出した。 それは、今朝届いたばかりの『王宮夜会』の招待状だった。 差出人は、セシリア・アルヴェイン。

『親愛なる皆様へ。  この度、わたくしの身に降りかかった卑劣な陰謀と、妹リリアによる不当な弾圧について、公の場で説明させていただきます。  また、わたくしの潔白を証明するため、神聖なる『誓約の儀』を執り行います。  真実は、神の御前で明らかになるでしょう』

「……誓約の儀?」 私は息を呑んだ。 公開の場で、誓約器を使って身の潔白を証明する。 それは、最も強力なパフォーマンスだ。 もし彼女が「私は無実だ」と宣言し、誓約器が「青(真実)」と判定すれば、これまでの私の告発はすべて「妹の狂言」として覆される。

「偽造した誓約器を使うつもりね」 「十中八九な。……だが、それを証明するのは難しい。公開の場で誓約器を分解して調べるわけにはいかないからな」

レオンハルト様は眉間を揉んだ。 姉は、自分の土俵に持ち込んだのだ。 多くの貴族が見守る中で、劇的な逆転劇を演じる。 それが成功すれば、彼女は「迫害に耐えた聖女」として神格化され、私は処刑台に送られるだろう。

「……逃げません」 私は招待状を握りしめた。

「彼女が『誓約』を武器にするなら、私はその武器を破壊します。……偽造のトリックを暴いて」 「勝算はあるのか?」 「あります。……いえ、作ります」

私は顔を上げた。 マーサの証言で、姉が使う魔道具には「技術者」が関わっていることがわかった。 その技術者の居場所さえ突き止めれば、偽造のメカニズムを解明できる。

その時、執務室のドアがノックされた。 入ってきたのは、下級騎士の一人だった。 彼は緊張した面持ちで、一通の手紙を差し出した。

「リリア監査官宛に……至急の書状です」 「私に?」

差出人の名前はない。 また姉からの挑発か? 私は警戒しながら封を開けた。 中に入っていたのは、古びた紙片だった。 そこには、震えるような文字で、短いメッセージと、地図の座標のような数字が記されていた。

『あなたはまだ、本当の罪を知らない。  姉が何を犠牲にして、あの笑顔を作っているのかを。  ……もし真実を知る覚悟があるなら、ここへ来い。  私は、お前の父の古い友人だ』

「……父の、友人?」 私は呆然とした。 私の実家、アルヴェイン子爵家。 父は事なかれ主義で、姉の言いなりだった。 そんな父に、こんな警告を送ってくる友人がいたのか?

「……罠かもしれん」 レオンハルト様が覗き込む。

「でも、これは姉の筆跡ではありません。それに、このインクの匂い……」 私は紙片に鼻を近づけた。 微かに、薬草と古紙の匂いがする。 「……研究所の匂いです」

「クレイグか?」 レオンハルト様が鋭く反応する。

「わかりません。でも、この座標……王都の北、古びた風車小屋のあたりです。……行ってみる価値はあります」

私は手紙を胸にしまった。 『本当の罪』。 その言葉が、胸に重く響く。 姉の罪は、横領や偽造だけではないというのか。 もっと根深い、血塗られた何かが。

「カミュに護衛をつけさせる。……私も同行したいが、夜会の対応で宰相府を離れられない」 レオンハルト様が悔しげに言う。

「大丈夫です。カミュ団長の部下がいれば、百人力ですから」 私は微笑んだ。 彼は私を守ろうとしてくれている。それだけで十分だ。

「リリア」 帰り際、レオンハルト様が私を呼び止めた。

「……夜会までは、あと三日だ。それがタイムリミットだ。……死ぬなよ」 「はい。……必ず、戻ってきます。真実を持って」

私は執務室を出た。 廊下の窓から、王都の北の空を見る。 雲の切れ間から、薄日が差していた。 だが、その光は頼りなく、すぐにまた厚い雲に覆われていく。

姉の笑顔は、刃になる。 その刃が私の首を刎ねるのが先か、私がその仮面を砕くのが先か。 最終決戦の幕が、ゆっくりと上がり始めていた。
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