17 / 20
第17話「印章庫の夜」
しおりを挟む
王宮の北外れ、深い森の中にひっそりと佇む『白薔薇の離宮』。 かつては王族の別荘として使われていたその場所は、長い年月を経て蔦に覆われ、廃墟同然の姿を晒していた。 だが、その地下には、王妃エレオノーラ陛下だけが知る秘密の隠れ家が存在した。 有事の際に備え、食料や武器、そして外部への通信手段が確保された、最後の砦。
冷たい石造りの地下室で、私は地図を広げていた。 魔導ランプの薄暗い明かりが、私の顔と、向かいに座るレオンハルト様の深刻な表情を照らし出している。 壁際では、カミュ団長が愛剣の手入れをしながら、時折苛立たしげに舌打ちをしていた。
「……状況は最悪だな」
レオンハルト様が、地図の上に置かれた駒を弾いた。 その駒は、王宮を示している。
「王宮からの魔力波形を観測したが、異常な数値だ。……セシリアの『誓約』による暗示は、王都全域にまで広がっている可能性がある」 「洗脳された人々は、セシリアを絶対的な正義だと信じ込み、私たちを国家反逆者として追っています。……このままでは、食料の調達すらままなりません」
私は唇を噛んだ。 たった一日で、世界は裏返った。 昨日まで私を称えていた人々が、今は私の首に賞金をかけ、血眼になって捜している。 セシリアの蒔いた「種」――七つの魔石による共鳴現象は、人々の思考をハッキングし、正常な判断力を奪ってしまったのだ。
「……で? どうするんだ、軍師殿」
カミュ団長が剣を鞘に納め、ギラリと光る目で私たちを見た。
「このままここで、カビの生えたパンをかじりながら震えて待つか? それとも、あの魔女の元へ殴り込みをかけるか?」 「殴り込みをかけても、返り討ちに遭うだけです。……今のセシリアには、国中の人間という『盾』がありますから」
私は冷静に返した。 感情論で動けば負ける。それはこれまでの戦いで学んだことだ。 必要なのは、相手の力の源泉を断つこと。
「セシリアの力は、七つの魔石の共鳴に依存しています。……逆に言えば、その魔石を回収、あるいは破壊すれば、洗脳は解けるはずです」 「だが、魔石の場所がわからん」 レオンハルト様が指摘する。 「法廷にいた貴族たちが持っていたのは間違いないが、それが誰で、今どこにいるのか……。数百人の中から特定するのは、雲を掴むような話だ」
「……いいえ、特定する方法はあります」
私は地図の一点を指差した。 王宮の中枢。 私たちが最もよく知る場所。
「印章庫です」
二人の視線が集まる。
「三年前、姉が盗み出した『王権の守護石』……あれは元々、王家の契約を管理するためのマスターデバイスでした。当然、印章庫の最深部には、その石を制御するための『台座』が残されているはずです」 「台座?」 「はい。守護石は、分割されても本体(ホスト)である台座とのリンクを失いません。……もし台座の制御盤を起動できれば、分割された欠片――つまり七つの魔石の現在位置を、魔力反応として地図上に表示させることができるはずです」
私の言葉に、レオンハルト様の目が鋭く光った。 「……なるほど。GPSのようなものか」 「はい。敵の位置さえわかれば、各個撃破して回収できます」
しかし、問題は場所だ。 印章庫は、今や敵の本丸である王宮のど真ん中にある。 指名手配中の私たちが近づくには、あまりにも危険すぎる場所。
「……面白い」 カミュ団長がニヤリと笑い、立ち上がった。 「灯台下暗し、ってやつか。……警備は厳重だろうが、洗脳されてボケっとしてる連中なら、俺一人で十分だ」 「私も行きます」 レオンハルト様も立ち上がる。 「印章庫のセキュリティ解除には、宰相府の権限コードが必要だ。……それに、お前一人に行かせるわけにはいかない」
彼の視線が私に向けられる。 その瞳には、あの法廷での逃走劇の時と同じ、強い意志が宿っていた。
「……わかりました。行きましょう」
私は地図を畳み、監査官の制服――今は泥と埃にまみれているが――の襟を正した。 今夜、私たちは奪還する。 奪われた正義を取り戻すための、「地図」を。
◇
深夜。 王都は不気味なほどの静寂に包まれていた。 空には分厚い雲がかかり、月明かりすら届かない漆黒の闇。 私たちは離宮の隠し通路を抜け、王宮の裏手にある排水路へと向かった。
かつて私が監査のために調査したことのある、忘れられたルートだ。 悪臭と汚水の中を進むのは骨が折れたが、誰にも見つからずに城壁の内側へと侵入するには、ここしかなかった。
「……うぷっ。……リリア嬢、お前よくこんな道を知ってたな」 カミュ団長が鼻をつまみながらぼやく。 「予算監査の一環です。……施設の維持管理費が適正に使われているか、自分の足で確認しましたから」 「へっ、とんだお姫様だぜ」
排水路の鉄格子をカミュ団長が怪力でこじ開け、私たちは城内の中庭へと出た。 ここからは、地上の戦いだ。 見回りの衛兵たちが、松明を持って巡回している。 彼らの目は虚ろで、機械のような動きをしていた。 洗脳の影響だ。
「……殺すなよ」 レオンハルト様が短く命じる。 「彼らも被害者だ。……気絶させるだけに留めろ」 「わーってるよ。峰打ちだろ?」
カミュ団長が闇に溶け込むように走り出した。 音もなく衛兵の背後に忍び寄り、剣の柄で首筋を一撃。 ドサッ、という鈍い音と共に、衛兵が崩れ落ちる。 鮮やかな手並みだ。 私たちはその隙に、回廊の影を縫って進んだ。
目指すは中央塔の地下、印章庫。 そこへ至る回廊には、何重もの魔法結界と、自動迎撃用のゴーレムが配置されているはずだ。 だが、今の王宮は混乱の最中にある。 セシリアが支配権を握ったとはいえ、実務レベルでの運用には綻びがあるはずだ。
「……やはりな」 印章庫の入り口が見える角で、レオンハルト様が足を止めた。 扉の前には、二体の巨大な石像――ガーディアン・ゴーレムが立っていたが、その動力炉の光は消えていた。 「魔力供給が止まっている。……セシリアが『誓約』の維持に魔力を使いすぎて、防衛システムへの供給がおろそかになっているようだ」
「好都合です。……でも、油断はできません」
私が扉に近づき、検印用のパネルに手をかざそうとした時だった。
「……誰だ」
闇の中から、低い声が響いた。 心臓が跳ねる。 見つかった。 通路の奥から現れたのは、数人の近衛騎士たちだった。 その先頭に立っているのは、見知った顔。 カミュ団長の副官、ジェイクだ。
「……ジェイク?」 カミュ団長が驚きの声を上げる。 ジェイクは虚ろな目で私たちを見据え、ゆっくりと剣を抜いた。
「侵入者を発見。……聖女様の敵。……排除する」
「おい、ジェイク! 俺だ、カミュだぞ! わからねえのか!」 カミュ団長が呼びかけるが、ジェイクは無反応だ。 彼の背後には、同じように洗脳された精鋭たちが控えている。 かつての仲間同士での殺し合い。 セシリアは、最も残酷な手駒を配置していた。
「……団長。……裏切り者。……死ね」
ジェイクが踏み込む。速い。 カミュ団長は咄嗟に大剣で受け止めたが、その衝撃で後ろへ飛ばされた。 「くっ……! マジかよ、腕を上げてやがる!」
「リリア、行け!」 レオンハルト様が叫んだ。 「ここは我々が食い止める! 君は印章庫へ!」
「でも……!」 「急げ! 彼らを救うためにも、元凶を断つんだ!」
レオンハルト様が氷の障壁を展開し、騎士たちの進路を塞ぐ。 カミュ団長が吠えながら突撃する。 私は唇を噛み締め、扉のパネルに手を押し当てた。 監査官のIDと、レオンハルト様から預かったパスコードを入力する。
『認証……承認』
重苦しい音と共に、鋼鉄の扉が開いた。 私は背後の激闘を振り返らず、印章庫の中へと飛び込んだ。
◇
印章庫の内部は、静寂に包まれていた。 無数の棚に収められた公文書の山。 インクと羊皮紙の匂い。 かつて私が、姉の不正の証拠を見つけた場所。 だが、今回の目的地はここではない。 さらに奥、関係者以外立ち入り禁止の『最深部』だ。
私は迷路のような書架を走り抜けた。 突き当たりにある、王家の紋章が刻まれた扉。 ここには物理的な鍵はなく、魔力によるパズル認証が施されている。 だが、私には解ける。 幼い頃、父の書斎で古い文献を読み漁り、王家の歴史と紋章学を叩き込んだ知識がある。
「……月は満ち、欠け、また満ちる。……剣は折れず、盾は砕けず……」
古代語の詠唱と共に、紋章のレリーフを正しい順序で押していく。 カチリ、カチリと音がして、最後のピースがはまった瞬間。 ゴゴゴ……と地響きを立てて、隠し扉が開いた。
中は狭い円形の部屋だった。 中央に、青白く光る石柱が立っている。 その上に設置された、古びた金属製の台座。 『王権の守護石』が安置されていた場所だ。
「あった……!」
私は駆け寄り、台座を確認した。 石はなくなっているが、台座の制御盤は生きている。 複雑なルーン文字が明滅し、微かな魔力を放っている。 私は手袋を外し、震える指で制御盤に触れた。
「……起動。ターゲット検索……『分割された因子』」
魔力を流し込むと、台座が唸りを上げた。 空中にホログラムのような光の地図が投影される。 王都の地図だ。 そこに、七つの赤い光点が浮かび上がることを期待して。
だが。
「……え?」
表示された地図には、光点は一つもなかった。 真っ暗だ。 エラー? 故障? いや、制御盤のメッセージにはこう表示されていた。
『対象ハ、結界ニヨリ遮断サレテイマス』
結界。 誰かが、魔石の位置情報を隠蔽するために、強力な妨害結界(ジャミング)を展開している。 セシリアか? いや、彼女にそこまでの技術はない。 だとしたら、帝国の技術者? それともギルバートの残した遺産?
「……そんな」
膝から力が抜ける。 ここまで来て、手ぶらで帰るのか。 絶望がよぎったその時、私は台座の隅に、一枚の紙片が挟まっているのを見つけた。 古びたメモ用紙。 そこに書かれていたのは、見覚えのある筆跡だった。
『リリアへ。 ここに来ることは予期していた。 ……お前がこれを見ているということは、私はもう逃げられなかったということだろう』
父、ジェラルド・アルヴェインの字だ。 震える文字で書かれた、遺書のようなメッセージ。
『セシリアは怪物になってしまった。私の責任だ。 あの子は「帝国の影」と繋がっている。 奴らは魔石を使って、この国を乗っ取るつもりだ。 ……だが、私にも意地はある。 アルヴェイン家の当主として、最後の保険を残す』
メモの下には、複雑な数式と、ある座標が記されていた。
『魔石のジャミングを無効化する「裏コード」だ。 これは、私がかつて王家の書庫から盗み見た禁忌の術式。 ……これを使えば、たとえ帝国の結界だろうと貫ける。 使え。そして、あの子を……姉を止めてくれ』
涙が溢れた。 父は、完全に姉に魂を売ったわけではなかった。 最後の最後で、迷い、苦しみ、そして娘である私に希望を託したのだ。 法廷であの酷い証言をしたのも、姉を油断させ、このメモを残す時間稼ぎをするためだったのかもしれない。
「……馬鹿なお父様」
私は涙を拭い、メモに書かれた裏コードを制御盤に入力した。 複雑な魔力操作。 指先が焼けるように熱い。 だが、止まらない。
『コード認証……ジャミング解除』
パァァッ! 光の地図が再構成される。 そして、闇の中に、七つの赤い光点が鮮やかに浮かび上がった。
一つは、貴族街のバークレイ侯爵邸。ミランダだ。 一つは、商業区のガレオン商会跡地。 一つは、スラム街の教会跡。 一つは、王宮内の近衛騎士詰め所。 ……。
そして最後の一つ。 最も強く、大きく輝く光点は。 王宮の最上階、『玉座の間』にあった。
「……セシリア」
彼女自身もまた、魔石の一つを持っている。 それも、おそらく最大のかけらを。 彼女こそが共鳴の中心(ホスト)。
「確保しました……!」
私は地図のデータを、持参した記録用の魔道具に転写した。 これで敵の居場所は丸裸だ。 任務完了。 あとは脱出するだけだ。
私は台座を離れ、出口へと走った。 扉を開けると、そこには激闘の跡があった。 洗脳された騎士たちが床に転がり、呻き声を上げている。 カミュ団長は肩で息をし、レオンハルト様は片膝をついて氷の壁を維持していた。
「……リリア! 済んだか!」 「はい! 地図を手に入れました!」 「よし、撤収だ!」
カミュ団長がジェイクを気絶させて担ぎ上げる。 「こいつも連れて行く。……あとで正気に戻して説教してやらねえとな」 乱暴だが、部下想いの彼らしい。
私たちは再び排水路を通って脱出した。 泥まみれになりながら、離宮へと戻る。 空が白み始めていた。 長い、長い夜が明ける。
◇
離宮の地下室に戻った私たちは、泥のように眠る……暇はなかった。 すぐに地図を広げ、作戦会議を開始する。
「……ターゲットは七箇所。分散しているな」 レオンハルト様が地図を睨む。 「これらを同時に叩くのは不可能だ。順番に回収していくしかないが、一つでも回収されればセシリアに気づかれる。……警戒レベルが上がれば、残りの回収は困難になる」
「スピード勝負ですね」 私が言うと、カミュ団長がニヤリと笑った。 「面白え。……俺の部下で、洗脳を免れた連中が数人いる。そいつらと手分けして、電撃作戦といこうぜ」
「私も行きます。……まずは、一番近い場所から」 私は地図上の一点を指差した。 貴族街。 バークレイ侯爵邸。
「ミランダ様。……貴女から始めさせていただきます」
彼女は法廷で私を罵倒し、魔石の力に酔いしれていた。 彼女が持っている魔石は、おそらく「虚栄心」に共鳴している。 彼女を攻略すれば、貴族社会への洗脳の一角を崩せるはずだ。
「……リリア。少し休め」 レオンハルト様が、コーヒーを差し出してくれた。 「顔色が悪い。……父上のメモ、だったな」 「……はい」 「そうか。……彼もまた、父親だったということだ」
レオンハルト様の不器用な慰めに、私は少しだけ微笑んだ。 父の罪は消えない。 でも、その最期の足掻きが、今の私を救ってくれた。 それだけで十分だ。
「ありがとうございます。……でも、休んでいる時間はありません。反撃の狼煙を上げましょう」
私はコーヒーを一気に飲み干した。 苦い味が、覚悟の味に変わる。
夜明けの光が、地下室の小さな窓から差し込んでいた。 それは希望の光か、それとも戦火の予兆か。 どちらにせよ、私はもう止まらない。 地図に示された七つの光。 それらを一つずつ消し去り、最後に待つ姉の元へ辿り着くために。
「作戦開始です。……第一目標、バークレイ侯爵邸」
冷たい石造りの地下室で、私は地図を広げていた。 魔導ランプの薄暗い明かりが、私の顔と、向かいに座るレオンハルト様の深刻な表情を照らし出している。 壁際では、カミュ団長が愛剣の手入れをしながら、時折苛立たしげに舌打ちをしていた。
「……状況は最悪だな」
レオンハルト様が、地図の上に置かれた駒を弾いた。 その駒は、王宮を示している。
「王宮からの魔力波形を観測したが、異常な数値だ。……セシリアの『誓約』による暗示は、王都全域にまで広がっている可能性がある」 「洗脳された人々は、セシリアを絶対的な正義だと信じ込み、私たちを国家反逆者として追っています。……このままでは、食料の調達すらままなりません」
私は唇を噛んだ。 たった一日で、世界は裏返った。 昨日まで私を称えていた人々が、今は私の首に賞金をかけ、血眼になって捜している。 セシリアの蒔いた「種」――七つの魔石による共鳴現象は、人々の思考をハッキングし、正常な判断力を奪ってしまったのだ。
「……で? どうするんだ、軍師殿」
カミュ団長が剣を鞘に納め、ギラリと光る目で私たちを見た。
「このままここで、カビの生えたパンをかじりながら震えて待つか? それとも、あの魔女の元へ殴り込みをかけるか?」 「殴り込みをかけても、返り討ちに遭うだけです。……今のセシリアには、国中の人間という『盾』がありますから」
私は冷静に返した。 感情論で動けば負ける。それはこれまでの戦いで学んだことだ。 必要なのは、相手の力の源泉を断つこと。
「セシリアの力は、七つの魔石の共鳴に依存しています。……逆に言えば、その魔石を回収、あるいは破壊すれば、洗脳は解けるはずです」 「だが、魔石の場所がわからん」 レオンハルト様が指摘する。 「法廷にいた貴族たちが持っていたのは間違いないが、それが誰で、今どこにいるのか……。数百人の中から特定するのは、雲を掴むような話だ」
「……いいえ、特定する方法はあります」
私は地図の一点を指差した。 王宮の中枢。 私たちが最もよく知る場所。
「印章庫です」
二人の視線が集まる。
「三年前、姉が盗み出した『王権の守護石』……あれは元々、王家の契約を管理するためのマスターデバイスでした。当然、印章庫の最深部には、その石を制御するための『台座』が残されているはずです」 「台座?」 「はい。守護石は、分割されても本体(ホスト)である台座とのリンクを失いません。……もし台座の制御盤を起動できれば、分割された欠片――つまり七つの魔石の現在位置を、魔力反応として地図上に表示させることができるはずです」
私の言葉に、レオンハルト様の目が鋭く光った。 「……なるほど。GPSのようなものか」 「はい。敵の位置さえわかれば、各個撃破して回収できます」
しかし、問題は場所だ。 印章庫は、今や敵の本丸である王宮のど真ん中にある。 指名手配中の私たちが近づくには、あまりにも危険すぎる場所。
「……面白い」 カミュ団長がニヤリと笑い、立ち上がった。 「灯台下暗し、ってやつか。……警備は厳重だろうが、洗脳されてボケっとしてる連中なら、俺一人で十分だ」 「私も行きます」 レオンハルト様も立ち上がる。 「印章庫のセキュリティ解除には、宰相府の権限コードが必要だ。……それに、お前一人に行かせるわけにはいかない」
彼の視線が私に向けられる。 その瞳には、あの法廷での逃走劇の時と同じ、強い意志が宿っていた。
「……わかりました。行きましょう」
私は地図を畳み、監査官の制服――今は泥と埃にまみれているが――の襟を正した。 今夜、私たちは奪還する。 奪われた正義を取り戻すための、「地図」を。
◇
深夜。 王都は不気味なほどの静寂に包まれていた。 空には分厚い雲がかかり、月明かりすら届かない漆黒の闇。 私たちは離宮の隠し通路を抜け、王宮の裏手にある排水路へと向かった。
かつて私が監査のために調査したことのある、忘れられたルートだ。 悪臭と汚水の中を進むのは骨が折れたが、誰にも見つからずに城壁の内側へと侵入するには、ここしかなかった。
「……うぷっ。……リリア嬢、お前よくこんな道を知ってたな」 カミュ団長が鼻をつまみながらぼやく。 「予算監査の一環です。……施設の維持管理費が適正に使われているか、自分の足で確認しましたから」 「へっ、とんだお姫様だぜ」
排水路の鉄格子をカミュ団長が怪力でこじ開け、私たちは城内の中庭へと出た。 ここからは、地上の戦いだ。 見回りの衛兵たちが、松明を持って巡回している。 彼らの目は虚ろで、機械のような動きをしていた。 洗脳の影響だ。
「……殺すなよ」 レオンハルト様が短く命じる。 「彼らも被害者だ。……気絶させるだけに留めろ」 「わーってるよ。峰打ちだろ?」
カミュ団長が闇に溶け込むように走り出した。 音もなく衛兵の背後に忍び寄り、剣の柄で首筋を一撃。 ドサッ、という鈍い音と共に、衛兵が崩れ落ちる。 鮮やかな手並みだ。 私たちはその隙に、回廊の影を縫って進んだ。
目指すは中央塔の地下、印章庫。 そこへ至る回廊には、何重もの魔法結界と、自動迎撃用のゴーレムが配置されているはずだ。 だが、今の王宮は混乱の最中にある。 セシリアが支配権を握ったとはいえ、実務レベルでの運用には綻びがあるはずだ。
「……やはりな」 印章庫の入り口が見える角で、レオンハルト様が足を止めた。 扉の前には、二体の巨大な石像――ガーディアン・ゴーレムが立っていたが、その動力炉の光は消えていた。 「魔力供給が止まっている。……セシリアが『誓約』の維持に魔力を使いすぎて、防衛システムへの供給がおろそかになっているようだ」
「好都合です。……でも、油断はできません」
私が扉に近づき、検印用のパネルに手をかざそうとした時だった。
「……誰だ」
闇の中から、低い声が響いた。 心臓が跳ねる。 見つかった。 通路の奥から現れたのは、数人の近衛騎士たちだった。 その先頭に立っているのは、見知った顔。 カミュ団長の副官、ジェイクだ。
「……ジェイク?」 カミュ団長が驚きの声を上げる。 ジェイクは虚ろな目で私たちを見据え、ゆっくりと剣を抜いた。
「侵入者を発見。……聖女様の敵。……排除する」
「おい、ジェイク! 俺だ、カミュだぞ! わからねえのか!」 カミュ団長が呼びかけるが、ジェイクは無反応だ。 彼の背後には、同じように洗脳された精鋭たちが控えている。 かつての仲間同士での殺し合い。 セシリアは、最も残酷な手駒を配置していた。
「……団長。……裏切り者。……死ね」
ジェイクが踏み込む。速い。 カミュ団長は咄嗟に大剣で受け止めたが、その衝撃で後ろへ飛ばされた。 「くっ……! マジかよ、腕を上げてやがる!」
「リリア、行け!」 レオンハルト様が叫んだ。 「ここは我々が食い止める! 君は印章庫へ!」
「でも……!」 「急げ! 彼らを救うためにも、元凶を断つんだ!」
レオンハルト様が氷の障壁を展開し、騎士たちの進路を塞ぐ。 カミュ団長が吠えながら突撃する。 私は唇を噛み締め、扉のパネルに手を押し当てた。 監査官のIDと、レオンハルト様から預かったパスコードを入力する。
『認証……承認』
重苦しい音と共に、鋼鉄の扉が開いた。 私は背後の激闘を振り返らず、印章庫の中へと飛び込んだ。
◇
印章庫の内部は、静寂に包まれていた。 無数の棚に収められた公文書の山。 インクと羊皮紙の匂い。 かつて私が、姉の不正の証拠を見つけた場所。 だが、今回の目的地はここではない。 さらに奥、関係者以外立ち入り禁止の『最深部』だ。
私は迷路のような書架を走り抜けた。 突き当たりにある、王家の紋章が刻まれた扉。 ここには物理的な鍵はなく、魔力によるパズル認証が施されている。 だが、私には解ける。 幼い頃、父の書斎で古い文献を読み漁り、王家の歴史と紋章学を叩き込んだ知識がある。
「……月は満ち、欠け、また満ちる。……剣は折れず、盾は砕けず……」
古代語の詠唱と共に、紋章のレリーフを正しい順序で押していく。 カチリ、カチリと音がして、最後のピースがはまった瞬間。 ゴゴゴ……と地響きを立てて、隠し扉が開いた。
中は狭い円形の部屋だった。 中央に、青白く光る石柱が立っている。 その上に設置された、古びた金属製の台座。 『王権の守護石』が安置されていた場所だ。
「あった……!」
私は駆け寄り、台座を確認した。 石はなくなっているが、台座の制御盤は生きている。 複雑なルーン文字が明滅し、微かな魔力を放っている。 私は手袋を外し、震える指で制御盤に触れた。
「……起動。ターゲット検索……『分割された因子』」
魔力を流し込むと、台座が唸りを上げた。 空中にホログラムのような光の地図が投影される。 王都の地図だ。 そこに、七つの赤い光点が浮かび上がることを期待して。
だが。
「……え?」
表示された地図には、光点は一つもなかった。 真っ暗だ。 エラー? 故障? いや、制御盤のメッセージにはこう表示されていた。
『対象ハ、結界ニヨリ遮断サレテイマス』
結界。 誰かが、魔石の位置情報を隠蔽するために、強力な妨害結界(ジャミング)を展開している。 セシリアか? いや、彼女にそこまでの技術はない。 だとしたら、帝国の技術者? それともギルバートの残した遺産?
「……そんな」
膝から力が抜ける。 ここまで来て、手ぶらで帰るのか。 絶望がよぎったその時、私は台座の隅に、一枚の紙片が挟まっているのを見つけた。 古びたメモ用紙。 そこに書かれていたのは、見覚えのある筆跡だった。
『リリアへ。 ここに来ることは予期していた。 ……お前がこれを見ているということは、私はもう逃げられなかったということだろう』
父、ジェラルド・アルヴェインの字だ。 震える文字で書かれた、遺書のようなメッセージ。
『セシリアは怪物になってしまった。私の責任だ。 あの子は「帝国の影」と繋がっている。 奴らは魔石を使って、この国を乗っ取るつもりだ。 ……だが、私にも意地はある。 アルヴェイン家の当主として、最後の保険を残す』
メモの下には、複雑な数式と、ある座標が記されていた。
『魔石のジャミングを無効化する「裏コード」だ。 これは、私がかつて王家の書庫から盗み見た禁忌の術式。 ……これを使えば、たとえ帝国の結界だろうと貫ける。 使え。そして、あの子を……姉を止めてくれ』
涙が溢れた。 父は、完全に姉に魂を売ったわけではなかった。 最後の最後で、迷い、苦しみ、そして娘である私に希望を託したのだ。 法廷であの酷い証言をしたのも、姉を油断させ、このメモを残す時間稼ぎをするためだったのかもしれない。
「……馬鹿なお父様」
私は涙を拭い、メモに書かれた裏コードを制御盤に入力した。 複雑な魔力操作。 指先が焼けるように熱い。 だが、止まらない。
『コード認証……ジャミング解除』
パァァッ! 光の地図が再構成される。 そして、闇の中に、七つの赤い光点が鮮やかに浮かび上がった。
一つは、貴族街のバークレイ侯爵邸。ミランダだ。 一つは、商業区のガレオン商会跡地。 一つは、スラム街の教会跡。 一つは、王宮内の近衛騎士詰め所。 ……。
そして最後の一つ。 最も強く、大きく輝く光点は。 王宮の最上階、『玉座の間』にあった。
「……セシリア」
彼女自身もまた、魔石の一つを持っている。 それも、おそらく最大のかけらを。 彼女こそが共鳴の中心(ホスト)。
「確保しました……!」
私は地図のデータを、持参した記録用の魔道具に転写した。 これで敵の居場所は丸裸だ。 任務完了。 あとは脱出するだけだ。
私は台座を離れ、出口へと走った。 扉を開けると、そこには激闘の跡があった。 洗脳された騎士たちが床に転がり、呻き声を上げている。 カミュ団長は肩で息をし、レオンハルト様は片膝をついて氷の壁を維持していた。
「……リリア! 済んだか!」 「はい! 地図を手に入れました!」 「よし、撤収だ!」
カミュ団長がジェイクを気絶させて担ぎ上げる。 「こいつも連れて行く。……あとで正気に戻して説教してやらねえとな」 乱暴だが、部下想いの彼らしい。
私たちは再び排水路を通って脱出した。 泥まみれになりながら、離宮へと戻る。 空が白み始めていた。 長い、長い夜が明ける。
◇
離宮の地下室に戻った私たちは、泥のように眠る……暇はなかった。 すぐに地図を広げ、作戦会議を開始する。
「……ターゲットは七箇所。分散しているな」 レオンハルト様が地図を睨む。 「これらを同時に叩くのは不可能だ。順番に回収していくしかないが、一つでも回収されればセシリアに気づかれる。……警戒レベルが上がれば、残りの回収は困難になる」
「スピード勝負ですね」 私が言うと、カミュ団長がニヤリと笑った。 「面白え。……俺の部下で、洗脳を免れた連中が数人いる。そいつらと手分けして、電撃作戦といこうぜ」
「私も行きます。……まずは、一番近い場所から」 私は地図上の一点を指差した。 貴族街。 バークレイ侯爵邸。
「ミランダ様。……貴女から始めさせていただきます」
彼女は法廷で私を罵倒し、魔石の力に酔いしれていた。 彼女が持っている魔石は、おそらく「虚栄心」に共鳴している。 彼女を攻略すれば、貴族社会への洗脳の一角を崩せるはずだ。
「……リリア。少し休め」 レオンハルト様が、コーヒーを差し出してくれた。 「顔色が悪い。……父上のメモ、だったな」 「……はい」 「そうか。……彼もまた、父親だったということだ」
レオンハルト様の不器用な慰めに、私は少しだけ微笑んだ。 父の罪は消えない。 でも、その最期の足掻きが、今の私を救ってくれた。 それだけで十分だ。
「ありがとうございます。……でも、休んでいる時間はありません。反撃の狼煙を上げましょう」
私はコーヒーを一気に飲み干した。 苦い味が、覚悟の味に変わる。
夜明けの光が、地下室の小さな窓から差し込んでいた。 それは希望の光か、それとも戦火の予兆か。 どちらにせよ、私はもう止まらない。 地図に示された七つの光。 それらを一つずつ消し去り、最後に待つ姉の元へ辿り着くために。
「作戦開始です。……第一目標、バークレイ侯爵邸」
87
あなたにおすすめの小説
【完結】幼い頃からの婚約を破棄されて退学の危機に瀕している。
桧山 紗綺
恋愛
子爵家の長男として生まれた主人公は幼い頃から家を出て、いずれ婿入りする男爵家で育てられた。婚約者とも穏やかで良好な関係を築いている。
それが綻んだのは学園へ入学して二年目のこと。
「婚約を破棄するわ」
ある日突然婚約者から婚約の解消を告げられる。婚約者の隣には別の男子生徒。
しかもすでに双方の親の間で話は済み婚約は解消されていると。
理解が追いつく前に婚約者は立ち去っていった。
一つ年下の婚約者とは学園に入学してから手紙のやり取りのみで、それでも休暇には帰って一緒に過ごした。
婚約者も入学してきた今年は去年の反省から友人付き合いを抑え自分を優先してほしいと言った婚約者と二人で過ごす時間を多く取るようにしていたのに。
それが段々減ってきたかと思えばそういうことかと乾いた笑いが落ちる。
恋のような熱烈な想いはなくとも、将来共に歩む相手、長い時間共に暮らした家族として大切に思っていたのに……。
そう思っていたのは自分だけで、『いらない』の一言で切り捨てられる存在だったのだ。
いずれ男爵家を継ぐからと男爵が学費を出して通わせてもらっていた学園。
来期からはそうでないと気づき青褪める。
婚約解消に伴う慰謝料で残り一年通えないか、両親に援助を得られないかと相談するが幼い頃から離れて育った主人公に家族は冷淡で――。
絶望する主人公を救ったのは学園で得た友人だった。
◇◇
幼い頃からの婚約者やその家から捨てられ、さらに実家の家族からも疎まれていたことを知り絶望する主人公が、友人やその家族に助けられて前に進んだり、贋金事件を追ったり可愛らしいヒロインとの切ない恋に身を焦がしたりするお話です。
基本は男性主人公の視点でお話が進みます。
◇◇
第16回恋愛小説大賞にエントリーしてました。
呼んでくださる方、応援してくださる方、感想なども皆様ありがとうございます。とても励まされます!
本編完結しました!
皆様のおかげです、ありがとうございます!
ようやく番外編の更新をはじめました。お待たせしました!
◆番外編も更新終わりました、見てくださった皆様ありがとうございます!!
婚約者チェンジ? 義理の妹は公爵令嬢の地位もチェンジされました』 ~三日で破談、家ごと褫奪の末路です~
ふわふわ
恋愛
「お姉様の婚約者、私がいただきますわ。だって“公爵令嬢”ですもの」
義理の妹コンキュはそう言って、王太子との婚約を奪いました。
父はそれを容認し、私は静かに受け入れます。
けれど――
公爵令嬢とは“地位”ではなく、“責任”の継承者。
王宮で礼儀も実務も拒み、「未来の王太子妃」を名乗った義妹は、わずか三日で婚約破棄。
さらに王家への不敬と統治能力の欠如が問題視され、父の監督責任が問われます。
そして下されたのは――家ごとの褫奪。
一方で私は、領地を守り、帳簿を整え、静かに家を支え続ける。
欲しがったのは肩書。
継いだのは責任。
正統は叫びません。
ただ、残るだけ。
これは、婚約を奪われた公爵令嬢が
“本当に継がれるべきもの”を証明する物語。
辺境の侯爵令嬢、婚約破棄された夜に最強薬師スキルでざまぁします。
コテット
恋愛
侯爵令嬢リーナは、王子からの婚約破棄と義妹の策略により、社交界での地位も誇りも奪われた。
だが、彼女には誰も知らない“前世の記憶”がある。現代薬剤師として培った知識と、辺境で拾った“魔草”の力。
それらを駆使して、貴族社会の裏を暴き、裏切った者たちに“真実の薬”を処方する。
ざまぁの宴の先に待つのは、異国の王子との出会い、平穏な薬草庵の日々、そして新たな愛。
これは、捨てられた令嬢が世界を変える、痛快で甘くてスカッとする逆転恋愛譚。
たいした苦悩じゃないのよね?
ぽんぽこ狸
恋愛
シェリルは、朝の日課である魔力の奉納をおこなった。
潤沢に満ちていた魔力はあっという間に吸い出され、すっからかんになって体が酷く重たくなり、足元はふらつき気分も悪い。
それでもこれはとても重要な役目であり、体にどれだけ負担がかかろうとも唯一無二の人々を守ることができる仕事だった。
けれども婚約者であるアルバートは、体が自由に動かない苦痛もシェリルの気持ちも理解せずに、幼いころからやっているという事実を盾にして「たいしたことない癖に、大袈裟だ」と罵る。
彼の友人は、シェリルの仕事に理解を示してアルバートを窘めようとするが怒鳴り散らして聞く耳を持たない。その様子を見てやっとシェリルは彼の真意に気がついたのだった。
見るに堪えない顔の存在しない王女として、家族に疎まれ続けていたのに私の幸せを願ってくれる人のおかげで、私は安心して笑顔になれます
珠宮さくら
恋愛
ローザンネ国の島国で生まれたアンネリース・ランメルス。彼女には、双子の片割れがいた。何もかも与えてもらえている片割れと何も与えられることのないアンネリース。
そんなアンネリースを育ててくれた乳母とその娘のおかげでローザンネ国で生きることができた。そうでなければ、彼女はとっくに死んでいた。
そんな時に別の国の王太子の婚約者として留学することになったのだが、その条件は仮面を付けた者だった。
ローザンネ国で仮面を付けた者は、見るに堪えない顔をしている証だが、他所の国では真逆に捉えられていた。
【完結】メルティは諦めない~立派なレディになったなら
すみ 小桜(sumitan)
恋愛
レドゼンツ伯爵家の次女メルティは、水面に映る未来を見る(予言)事ができた。ある日、父親が事故に遭う事を知りそれを止めた事によって、聖女となり第二王子と婚約する事になるが、なぜか姉であるクラリサがそれらを手にする事に――。51話で完結です。
妹なんだから助けて? お断りします
たくわん
恋愛
美しく聡明な令嬢エリーゼ。だが、母の死後に迎えられた継母マルグリットによって、彼女の人生は一変する。実母が残した財産は継母に奪われ、華やかなドレスは義姉たちに着られ、エリーゼ自身は使用人同然の扱いを受ける。そんなある日――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる