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第1話:首の繋がった死体
ドガッ、という鈍い音。
それが、私の人生の最後聞いた音だった。
視界がぐるりと回転する。 天地が逆転し、石畳が迫ってくる。 痛みは一瞬だった。熱い鉄のような衝撃が首筋を走り、その直後には感覚がなくなった。
ただ、視界の端に映った光景だけが、網膜に焼き付いている。
断頭台の下に広がる、民衆の興奮した顔、顔、顔。 「悪女が死んだ!」「万歳!」「王太子殿下万歳!」 唾を吐きかける者、石を投げる者、抱き合って喜ぶ者。
そして、高い壇上から私を見下ろしていた、かつての婚約者。 王太子アレクサンダー殿下。
彼は、私の首が胴体から離れたその瞬間、安堵したように息を吐き、隣に寄り添う聖女リリアの肩を抱いた。 その瞳には、かつて私に向けられていた――いいえ、私がそうだと信じたかった慈愛の色など微塵もなく。 あるのはただ、汚いものを処理し終えた清々しさだけだった。
(ああ……やっと、終わるのね)
無実の罪。 聖女リリアをいじめ、毒を盛り、国を売ろうとした売国奴。 身に覚えのない罪状を並べ立てられ、弁明の機会すら与えられず。
私は、国一番の悪女として、その生涯を閉じた。
はずだった。
「……ヴィオレッタ? おい、ヴィオレッタ。起きないか」
体を揺すられる感覚。 遠くから聞こえる、聞き覚えのある声。
(うるさい……。私はもう、眠ったのよ。永遠に)
「今日は素晴らしい天気だぞ。いつまで寝ているんだ、私の愛しい婚約者」
愛しい、婚約者?
背筋が凍った。 その単語の組み合わせは、私の辞書にはもう存在しないはずだ。 あれは処刑台の上で、彼自身の手によって破り捨てられた契約だ。
私は弾かれたように目を開けた。
「ひっ……!」
喉の奥から、短い悲鳴が漏れる。
目の前にあったのは、真っ白な天蓋。 柔らかい羽毛布団の感触。 そして、窓から差し込む、目に痛いほどの朝の光。
そこは、牢獄の冷たい石の床ではなかった。 カビと排泄物の臭いが充満する地下牢でもなかった。 私が幼い頃から過ごしてきた、公爵邸の私の部屋だ。
「お、やっと起きたか。おはよう、ヴィオレッタ」
視線を横に向ける。 そこに、彼がいた。
黄金の髪。夏の空のような青い瞳。 王国の太陽と称される美貌の青年。 王太子アレクサンダー。
彼が、私のベッドの縁に腰掛け、覗き込んでいた。
「あ……あ、あ……」
声が出ない。 言葉よりも先に、体が記憶していた恐怖が爆発する。
首が熱い。 ギロチンの刃が食い込んだ感触が蘇る。 血が噴き出す感覚。空気が漏れる音。
私は慌てて自分の首を両手で覆った。 ある。繋がっている。 温かい皮膚の感触がある。
「どうした? 悪い夢でも見たのか?」
アレクサンダー殿下が、心配そうに眉を寄せて手を伸ばしてくる。 その手が私の頬に触れようとした瞬間。
バチンッ!!
乾いた音が部屋に響いた。 私は無意識のうちに、彼の手を払いのけていた。
「……っ、触らないで!!」
叫び声とともに、私はベッドの反対側へ転がり落ちるようにして距離を取った。 全身が震える。歯の根が合わない。 心臓が早鐘を打っている。
(殺される。また、殺される)
この男は、私を殺した男だ。 どんなに美しい顔をしていても、私にとっては死刑執行人と同じだ。
「ヴィオレッタ……?」
殿下は、払われた自分の手を見つめ、呆然としていた。 しかし、怒る様子はない。 それどころか、その青い瞳が、見る見るうちに涙で潤んでいくではないか。
「……すまなかった」
は?
「怖かっただろう。辛かっただろう。俺の手が、恐ろしいのも無理はない」
彼は立ち上がり、両手を広げて私の方へ歩み寄ってくる。 まるで、迷子の子猫を見つけた飼い主のような顔で。
「俺は、思い出したんだ。全てを」
「……え?」
「あの断頭台の光景を。君の首が落ちた、あの瞬間の絶望を!」
殿下の口から語られた言葉に、私は思考が停止した。 断頭台? 首が落ちた? なぜ、彼がそれを知っているの?
「俺は馬鹿だった。君が処刑された後、聖女リリアの嘘が発覚したんだ。君は無実だった。俺のために、国のために、厳しく振る舞っていただけだったのに……俺は真実を見ようともせず、君を断罪してしまった!」
彼は芝居がかった仕草で天を仰ぎ、慟哭した。
「俺は神に祈った。私の命と引き換えでもいい、どうか時間を戻してくれと! そして目が覚めたら、ここに戻っていたんだ。処刑される一年前の、この朝に!」
なんということでしょう。 神様は、どこまで私に残酷なのでしょうか。
私だけでなく、この男まで記憶を持ったまま時間を巻き戻したというのですか。
「ヴィオレッタ!」
ドガァッ!
考える隙も与えられず、私は力任せに抱きすくめられた。 男性特有の筋肉質な体躯。高い体温。 鼻をつく香水の匂い。
それら全てが、私には「生々しい死の予感」としてしか感じられない。
「や、やめ……離して……ッ!」
「ああ、震えているのか。可哀想に。もう大丈夫だ。俺が守る。二度とあんなことはさせない。俺はこの二度目の人生、全てを捧げて君を愛すると誓う!」
耳元で大声で愛を叫ばれる。 鼓膜が破れそうだ。 彼の吐息が首筋にかかるたびに、ギロチンの刃が擦れるような幻痛が走る。
気持ち悪い。 怖い。 痛い。
「お、えぇっ……!」
私は限界を超えたストレスに、彼の胸の中でえずいてしまった。
「ヴィオレッタ!? 大丈夫か! 医者は、すぐに医者を!」
「ち、が……離、して……」
「そうか、感動しすぎて気分が悪くなったんだな。無理もない。死んだはずの自分が生きていて、愛する婚約者がこうして抱きしめているんだ。嬉しさのあまり心が追いつかないのだろう!」
違う。 全く違う。
この人は、前世(ループ前)と何も変わっていない。 自分の見たいものしか見ない。聞きたい言葉しか聞かない。 私の拒絶反応を「感動の震え」と解釈するそのポジティブさが、今は凶器のように恐ろしい。
「殿下、お願いです……離れてください……息が……」
必死の思いで声を絞り出すと、殿下はようやく腕の力を緩めた。 私は床に崩れ落ち、荒い呼吸を繰り返す。
「ああ、すまない。君があまりに愛おしくて、つい力がこもってしまった」
殿下は悪びれる様子もなく、しゃがみ込んで私の背中をさすろうとする。 私はそれを蛇のように避けた。
「……殿下。現状を整理させてください」
私は震える声で告げた。 まずは、この状況を理解しなければ。そして、彼をここから追い出さなければ。
「うむ。君は混乱しているのだろう。無理もない」
「殿下は……記憶をお持ちなのですね。私が処刑された、あの日までの」
「そうだ! 俺はあの日、君を失って初めて、君がどれほど大切な存在だったか気づいたんだ。君のいない世界など、色のない灰色の世界だった!」
熱っぽく語る殿下。 その瞳は、恋する少年のように輝いている。
しかし、私の心は冷めきっていた。 氷点下の冷たさで、目の前の男を観察していた。
貴方は「色がなかった」と言うけれど。 私の世界は、貴方のせいで真っ赤に染まって終わったのですよ。
「それで? 時間を戻して、どうなさるおつもりですか?」
「決まっているだろう! 君と結婚し、幸せな家庭を築くんだ! 前回の過ちは全て正す。聖女リリアには近づかない。君の悪評も俺が消す。君はただ、俺の隣で笑っていてくれればいい!」
自信満々の笑顔。 まるで、最高のプレゼントを用意した子供のような誇らしげな表情。
彼は本気で思っているのだ。 「やり直せる」と。 「謝れば許される」と。 「ハッピーエンドが待っている」と。
(……馬鹿なの?)
恐怖を通り越して、呆れがこみ上げてきた。
一度殺しておいて? 冤罪で、民衆の目の前で、私の尊厳も命も全て奪っておいて? 時間が戻ったから、はい元通り?
ふざけないで。
私の首には、目には見えないけれど、決して消えない傷跡がある。 私の心は、あの断頭台の上で死んだままだ。
「……殿下」
私は顔を上げ、彼を直視した。 精一杯の虚勢を張って、貴族令嬢としての仮面を被る。
「お帰りください」
「え?」
殿下の笑顔が凍りつく。
「今は……混乱しております。とても、殿下のお相手をする余裕などございません」
「し、しかし……俺たちは、奇跡の再会を果たしたんだぞ? もっとこう、喜びを分かち合うべきでは……」
「お帰りください!!」
私は悲鳴に近い声で叫んだ。 喉が引きつる。
殿下は驚いたように目を見開き、それから困ったように眉を下げた。
「……そうか。すまない。少し急ぎすぎたようだな。君の心の傷は、俺が思っているより深いのかもしれない」
(当たり前でしょう。首を落とされたのよ?)
「わかった。今日は帰ろう。だが、安心してくれ。俺は諦めない。君が俺を許してくれるまで、何度でも愛を伝える。君の傷ついた心は、俺の愛で必ず治してみせるから!」
殿下はそう宣言すると、私の手を取り――私が抵抗する隙もなく――その甲に熱烈な口づけを落とした。
「愛しているよ、ヴィオレッタ。世界で一番」
満足げに微笑むと、彼はマントを翻して部屋を出て行った。 嵐のような男だった。
扉が閉まる音がした瞬間、張り詰めていた糸が切れ、私はその場に突っ伏した。
「……おぇっ」
胃液が逆流する。 手の甲が熱い。彼に口づけられた場所が、焼け焦げたように熱くて、汚らわしい。
「ゴシゴシ、ゴシゴシッ……!」
私は近くにあったタオルで、手の甲が赤くなるまで擦り続けた。 皮膚が擦りむけても、あの男の唾液の感覚が消えない。
「……治す? 許す? 愛している?」
乾いた笑いが漏れる。
「何を言っているの……」
鏡台の前まで這って行き、鏡の中の自分を見る。 顔色は青白く、目の下には隈がある。 美しい公爵令嬢の姿をしているけれど、その瞳には何の光も宿っていない。
まるで、死体のようだ。
「私はもう、壊れているのよ」
彼の愛で治る? 冗談じゃない。 彼の愛こそが、私を壊した凶器なのに。
鏡の中の私は、首筋に手を当てる。 そこには赤い線などない。 けれど、私にははっきりと見える。 首を一周する、断罪の証が。
「……死にたかった」
本音が漏れた。
なぜ、生き返ってしまったのだろう。 あのまま、無(ゼロ)になりたかった。 痛みも、苦しみも、屈辱もない、静寂の世界に行きたかった。
なのに、なぜ。 よりにもよって、私を殺した男からの求愛という、地獄のような責め苦を受けなければならないの?
(逃げなきゃ……)
本能が警鐘を鳴らす。 あの男の近くにいては駄目だ。 あの熱苦しい「太陽」の光は、私のような死に損ないには毒だ。 焼き尽くされて、灰すら残らない。
でも、どこへ? 王太子はこの国の次期最高権力者だ。 彼がその気になれば、地の果てまで追いかけてくるだろう。 「愛」という名の鎖を持って。
「……誰か」
私は膝を抱えて、ガタガタと震えた。
「誰か、私に……静かな死を……」
窓の外では、小鳥がさえずり、陽光が燦々と降り注いでいる。 世界はこんなにも明るくて、騒がしい。
その輝きが、私には残酷なほどの絶望だった。
冤罪で処刑された悪女ですが、死に戻ったらループ前の記憶を持つ王太子殿下が必死に機嫌を取ってきます。
――もう遅いですが?
私の心は、あの日、あの断頭台の上で、完全に死んでしまったのだから。
その時、ふと窓の外、王宮のさらに奥に広がる森の方角に目が止まった。 鬱蒼と茂る木々。その先にあるのは、王族専用の墓地。 誰も近づかない、静寂の聖域。
そして、そこを管理する一族の噂を思い出す。
「葬儀卿(アンダーテイカー)……」
死を司る公爵家。 生きている人間よりも、死体と過ごすことを好むという変わり者たち。 社交界では「死神」と忌み嫌われている存在。
なぜだろう。 今までの私なら、不気味だと眉をひそめていただろうに。
今の私には、その「死神」という響きが、どんな甘い愛の言葉よりも、魅力的な救いに聞こえた。
それが、私の人生の最後聞いた音だった。
視界がぐるりと回転する。 天地が逆転し、石畳が迫ってくる。 痛みは一瞬だった。熱い鉄のような衝撃が首筋を走り、その直後には感覚がなくなった。
ただ、視界の端に映った光景だけが、網膜に焼き付いている。
断頭台の下に広がる、民衆の興奮した顔、顔、顔。 「悪女が死んだ!」「万歳!」「王太子殿下万歳!」 唾を吐きかける者、石を投げる者、抱き合って喜ぶ者。
そして、高い壇上から私を見下ろしていた、かつての婚約者。 王太子アレクサンダー殿下。
彼は、私の首が胴体から離れたその瞬間、安堵したように息を吐き、隣に寄り添う聖女リリアの肩を抱いた。 その瞳には、かつて私に向けられていた――いいえ、私がそうだと信じたかった慈愛の色など微塵もなく。 あるのはただ、汚いものを処理し終えた清々しさだけだった。
(ああ……やっと、終わるのね)
無実の罪。 聖女リリアをいじめ、毒を盛り、国を売ろうとした売国奴。 身に覚えのない罪状を並べ立てられ、弁明の機会すら与えられず。
私は、国一番の悪女として、その生涯を閉じた。
はずだった。
「……ヴィオレッタ? おい、ヴィオレッタ。起きないか」
体を揺すられる感覚。 遠くから聞こえる、聞き覚えのある声。
(うるさい……。私はもう、眠ったのよ。永遠に)
「今日は素晴らしい天気だぞ。いつまで寝ているんだ、私の愛しい婚約者」
愛しい、婚約者?
背筋が凍った。 その単語の組み合わせは、私の辞書にはもう存在しないはずだ。 あれは処刑台の上で、彼自身の手によって破り捨てられた契約だ。
私は弾かれたように目を開けた。
「ひっ……!」
喉の奥から、短い悲鳴が漏れる。
目の前にあったのは、真っ白な天蓋。 柔らかい羽毛布団の感触。 そして、窓から差し込む、目に痛いほどの朝の光。
そこは、牢獄の冷たい石の床ではなかった。 カビと排泄物の臭いが充満する地下牢でもなかった。 私が幼い頃から過ごしてきた、公爵邸の私の部屋だ。
「お、やっと起きたか。おはよう、ヴィオレッタ」
視線を横に向ける。 そこに、彼がいた。
黄金の髪。夏の空のような青い瞳。 王国の太陽と称される美貌の青年。 王太子アレクサンダー。
彼が、私のベッドの縁に腰掛け、覗き込んでいた。
「あ……あ、あ……」
声が出ない。 言葉よりも先に、体が記憶していた恐怖が爆発する。
首が熱い。 ギロチンの刃が食い込んだ感触が蘇る。 血が噴き出す感覚。空気が漏れる音。
私は慌てて自分の首を両手で覆った。 ある。繋がっている。 温かい皮膚の感触がある。
「どうした? 悪い夢でも見たのか?」
アレクサンダー殿下が、心配そうに眉を寄せて手を伸ばしてくる。 その手が私の頬に触れようとした瞬間。
バチンッ!!
乾いた音が部屋に響いた。 私は無意識のうちに、彼の手を払いのけていた。
「……っ、触らないで!!」
叫び声とともに、私はベッドの反対側へ転がり落ちるようにして距離を取った。 全身が震える。歯の根が合わない。 心臓が早鐘を打っている。
(殺される。また、殺される)
この男は、私を殺した男だ。 どんなに美しい顔をしていても、私にとっては死刑執行人と同じだ。
「ヴィオレッタ……?」
殿下は、払われた自分の手を見つめ、呆然としていた。 しかし、怒る様子はない。 それどころか、その青い瞳が、見る見るうちに涙で潤んでいくではないか。
「……すまなかった」
は?
「怖かっただろう。辛かっただろう。俺の手が、恐ろしいのも無理はない」
彼は立ち上がり、両手を広げて私の方へ歩み寄ってくる。 まるで、迷子の子猫を見つけた飼い主のような顔で。
「俺は、思い出したんだ。全てを」
「……え?」
「あの断頭台の光景を。君の首が落ちた、あの瞬間の絶望を!」
殿下の口から語られた言葉に、私は思考が停止した。 断頭台? 首が落ちた? なぜ、彼がそれを知っているの?
「俺は馬鹿だった。君が処刑された後、聖女リリアの嘘が発覚したんだ。君は無実だった。俺のために、国のために、厳しく振る舞っていただけだったのに……俺は真実を見ようともせず、君を断罪してしまった!」
彼は芝居がかった仕草で天を仰ぎ、慟哭した。
「俺は神に祈った。私の命と引き換えでもいい、どうか時間を戻してくれと! そして目が覚めたら、ここに戻っていたんだ。処刑される一年前の、この朝に!」
なんということでしょう。 神様は、どこまで私に残酷なのでしょうか。
私だけでなく、この男まで記憶を持ったまま時間を巻き戻したというのですか。
「ヴィオレッタ!」
ドガァッ!
考える隙も与えられず、私は力任せに抱きすくめられた。 男性特有の筋肉質な体躯。高い体温。 鼻をつく香水の匂い。
それら全てが、私には「生々しい死の予感」としてしか感じられない。
「や、やめ……離して……ッ!」
「ああ、震えているのか。可哀想に。もう大丈夫だ。俺が守る。二度とあんなことはさせない。俺はこの二度目の人生、全てを捧げて君を愛すると誓う!」
耳元で大声で愛を叫ばれる。 鼓膜が破れそうだ。 彼の吐息が首筋にかかるたびに、ギロチンの刃が擦れるような幻痛が走る。
気持ち悪い。 怖い。 痛い。
「お、えぇっ……!」
私は限界を超えたストレスに、彼の胸の中でえずいてしまった。
「ヴィオレッタ!? 大丈夫か! 医者は、すぐに医者を!」
「ち、が……離、して……」
「そうか、感動しすぎて気分が悪くなったんだな。無理もない。死んだはずの自分が生きていて、愛する婚約者がこうして抱きしめているんだ。嬉しさのあまり心が追いつかないのだろう!」
違う。 全く違う。
この人は、前世(ループ前)と何も変わっていない。 自分の見たいものしか見ない。聞きたい言葉しか聞かない。 私の拒絶反応を「感動の震え」と解釈するそのポジティブさが、今は凶器のように恐ろしい。
「殿下、お願いです……離れてください……息が……」
必死の思いで声を絞り出すと、殿下はようやく腕の力を緩めた。 私は床に崩れ落ち、荒い呼吸を繰り返す。
「ああ、すまない。君があまりに愛おしくて、つい力がこもってしまった」
殿下は悪びれる様子もなく、しゃがみ込んで私の背中をさすろうとする。 私はそれを蛇のように避けた。
「……殿下。現状を整理させてください」
私は震える声で告げた。 まずは、この状況を理解しなければ。そして、彼をここから追い出さなければ。
「うむ。君は混乱しているのだろう。無理もない」
「殿下は……記憶をお持ちなのですね。私が処刑された、あの日までの」
「そうだ! 俺はあの日、君を失って初めて、君がどれほど大切な存在だったか気づいたんだ。君のいない世界など、色のない灰色の世界だった!」
熱っぽく語る殿下。 その瞳は、恋する少年のように輝いている。
しかし、私の心は冷めきっていた。 氷点下の冷たさで、目の前の男を観察していた。
貴方は「色がなかった」と言うけれど。 私の世界は、貴方のせいで真っ赤に染まって終わったのですよ。
「それで? 時間を戻して、どうなさるおつもりですか?」
「決まっているだろう! 君と結婚し、幸せな家庭を築くんだ! 前回の過ちは全て正す。聖女リリアには近づかない。君の悪評も俺が消す。君はただ、俺の隣で笑っていてくれればいい!」
自信満々の笑顔。 まるで、最高のプレゼントを用意した子供のような誇らしげな表情。
彼は本気で思っているのだ。 「やり直せる」と。 「謝れば許される」と。 「ハッピーエンドが待っている」と。
(……馬鹿なの?)
恐怖を通り越して、呆れがこみ上げてきた。
一度殺しておいて? 冤罪で、民衆の目の前で、私の尊厳も命も全て奪っておいて? 時間が戻ったから、はい元通り?
ふざけないで。
私の首には、目には見えないけれど、決して消えない傷跡がある。 私の心は、あの断頭台の上で死んだままだ。
「……殿下」
私は顔を上げ、彼を直視した。 精一杯の虚勢を張って、貴族令嬢としての仮面を被る。
「お帰りください」
「え?」
殿下の笑顔が凍りつく。
「今は……混乱しております。とても、殿下のお相手をする余裕などございません」
「し、しかし……俺たちは、奇跡の再会を果たしたんだぞ? もっとこう、喜びを分かち合うべきでは……」
「お帰りください!!」
私は悲鳴に近い声で叫んだ。 喉が引きつる。
殿下は驚いたように目を見開き、それから困ったように眉を下げた。
「……そうか。すまない。少し急ぎすぎたようだな。君の心の傷は、俺が思っているより深いのかもしれない」
(当たり前でしょう。首を落とされたのよ?)
「わかった。今日は帰ろう。だが、安心してくれ。俺は諦めない。君が俺を許してくれるまで、何度でも愛を伝える。君の傷ついた心は、俺の愛で必ず治してみせるから!」
殿下はそう宣言すると、私の手を取り――私が抵抗する隙もなく――その甲に熱烈な口づけを落とした。
「愛しているよ、ヴィオレッタ。世界で一番」
満足げに微笑むと、彼はマントを翻して部屋を出て行った。 嵐のような男だった。
扉が閉まる音がした瞬間、張り詰めていた糸が切れ、私はその場に突っ伏した。
「……おぇっ」
胃液が逆流する。 手の甲が熱い。彼に口づけられた場所が、焼け焦げたように熱くて、汚らわしい。
「ゴシゴシ、ゴシゴシッ……!」
私は近くにあったタオルで、手の甲が赤くなるまで擦り続けた。 皮膚が擦りむけても、あの男の唾液の感覚が消えない。
「……治す? 許す? 愛している?」
乾いた笑いが漏れる。
「何を言っているの……」
鏡台の前まで這って行き、鏡の中の自分を見る。 顔色は青白く、目の下には隈がある。 美しい公爵令嬢の姿をしているけれど、その瞳には何の光も宿っていない。
まるで、死体のようだ。
「私はもう、壊れているのよ」
彼の愛で治る? 冗談じゃない。 彼の愛こそが、私を壊した凶器なのに。
鏡の中の私は、首筋に手を当てる。 そこには赤い線などない。 けれど、私にははっきりと見える。 首を一周する、断罪の証が。
「……死にたかった」
本音が漏れた。
なぜ、生き返ってしまったのだろう。 あのまま、無(ゼロ)になりたかった。 痛みも、苦しみも、屈辱もない、静寂の世界に行きたかった。
なのに、なぜ。 よりにもよって、私を殺した男からの求愛という、地獄のような責め苦を受けなければならないの?
(逃げなきゃ……)
本能が警鐘を鳴らす。 あの男の近くにいては駄目だ。 あの熱苦しい「太陽」の光は、私のような死に損ないには毒だ。 焼き尽くされて、灰すら残らない。
でも、どこへ? 王太子はこの国の次期最高権力者だ。 彼がその気になれば、地の果てまで追いかけてくるだろう。 「愛」という名の鎖を持って。
「……誰か」
私は膝を抱えて、ガタガタと震えた。
「誰か、私に……静かな死を……」
窓の外では、小鳥がさえずり、陽光が燦々と降り注いでいる。 世界はこんなにも明るくて、騒がしい。
その輝きが、私には残酷なほどの絶望だった。
冤罪で処刑された悪女ですが、死に戻ったらループ前の記憶を持つ王太子殿下が必死に機嫌を取ってきます。
――もう遅いですが?
私の心は、あの日、あの断頭台の上で、完全に死んでしまったのだから。
その時、ふと窓の外、王宮のさらに奥に広がる森の方角に目が止まった。 鬱蒼と茂る木々。その先にあるのは、王族専用の墓地。 誰も近づかない、静寂の聖域。
そして、そこを管理する一族の噂を思い出す。
「葬儀卿(アンダーテイカー)……」
死を司る公爵家。 生きている人間よりも、死体と過ごすことを好むという変わり者たち。 社交界では「死神」と忌み嫌われている存在。
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十六歳のデビュタントの夜、ルーセント侯爵令嬢フェリシアを待っていたのは、残酷な罵倒だった。第一王子カシウスは、可憐な白いドレスを纏った彼女を「貧相な小娘」と呼び、己の番(つがい)であることを真っ向から否定する。
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魂を焦がすような熱い視線が重なり、静まり返る謁見の間。この出会いが、王室を揺るがす大事件の幕開けになるとは、まだ誰も知らない。自身の価値を否定された少女が、真実の愛によって世界で最も幸福な王妃へと駆け上がる、逆転溺愛ストーリー。
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