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第2話:赤い薔薇と白い百合
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翌朝。 私は、鼻をつく強烈な青臭さと、甘ったるい香りで目を覚ました。
まだ頭が重い。 昨日の出来事が悪い夢であってほしいと願いながら、重たい瞼を持ち上げる。 しかし、現実は夢よりも残酷で、そして何より奇天烈だった。
「……な、何?」
私の部屋が、埋め尽くされていた。 赤。赤。赤。 視界の全てが、暴力的なまでの真紅に染まっている。
薔薇だ。 数えきれないほどの赤い薔薇が、床も、テーブルも、ソファも、あらゆる空間を占拠している。 足の踏み場もないとは、まさにこのことだ。
部屋に入ってきた侍女が、困惑と興奮の入り混じった顔で告げた。
「お目覚めですか、お嬢様! これ、全て王太子殿下からの贈り物ですわ! 朝一番に、王宮の庭師たちが荷車何台分もの薔薇を運び込んできまして……邸中の花瓶を総動員しても足りず、バケツや桶まで使って、お嬢様のお部屋を飾らせていただいたのです」
侍女は頬を染めてうっとりとしている。 愛されていますね、なんて見当違いな言葉が聞こえてきそうだ。
けれど、私にはその光景が、地獄絵図にしか見えなかった。
「……ぁ」
喉がヒクリと鳴る。 赤い色が、目に焼き付く。
昨日の記憶がフラッシュバックする。 断頭台。 私の首が落ちた瞬間、石畳に広がったあの赤色。 飛び散った私の命の色。
この部屋を埋め尽くす赤い花弁の一枚一枚が、あの時の血飛沫に見える。 濃厚な花の香りが、鉄錆のような血の臭いに変換されて脳を刺激する。
「ひっ……!」
私は布団を頭から被り、ガタガタと震えだした。 怖い。気持ち悪い。 部屋中が血まみれだ。 私が流した血で、部屋が溺れている。
「お嬢様? いかがなさいました?」
「捨てて……今すぐ、全部捨てて……!」
「ええっ!? し、しかしこれは殿下からの……」
「いいから!! 視界に入れないで! 赤は嫌! 見たくない!」
錯乱する私をよそに、廊下の方からカツカツと足音が近づいてくる。 この軽快で、自信に満ちた足音。 聞くだけで胃が縮み上がる。
「ヴィオレッタ! 起きているかい?」
ノックもそこそこに、扉が勢いよく開かれた。 現れたのは、朝日に輝く金髪と、眩しい笑顔を浮かべた王太子アレクサンダー殿下だった。 彼は部屋の惨状――彼にとっては愛の芸術――を見渡し、満足げに頷いた。
「おお、壮観だな! どうだいヴィオレッタ、気に入ってくれたか? 国中の花屋と、王宮の温室にある赤い薔薇をすべて買い占めたんだ!」
彼は花に埋もれるようにして、私のベッドサイドまで歩み寄ってくる。 その手には、ひときわ大きな真紅の薔薇の花束が抱えられている。
「君への情熱を表すには、これでも足りないくらいだ。この燃えるような赤こそ、俺たちの復活した愛の色! さあ、受け取ってくれ!」
ズイッ、と目の前に突き出される赤い塊。 花弁の奥に潜む棘が、ギロチンの刃のように鋭く光る。
「や……やめて……」
私は反射的に身を引いた。 背中がヘッドボードにぶつかる。逃げ場がない。
「ん? どうした、顔色が悪いぞ。……ああ、そうか!」
殿下はポンと手を叩き、またしても勝手な解釈を開始した。
「あまりの美しさに、言葉を失っているんだな? わかるぞ、その気持ち。一面の深紅に囲まれて、君の純白の肌が一層引き立っている。まるで血の気が引くほどに感動してくれているなんて、贈った甲斐があるというものだ!」
「ち、違います……っ、これは、血の色です……!」
私は必死に訴えた。 これが愛の色? ふざけないで。 これは私が貴方に殺された時に流した、苦痛と絶望の色だ。
「そう! 血だ! 俺の体内を巡る熱い血潮だ! それが沸騰するほど君を求めているんだよヴィオレッタ! 俺の命そのものを君に捧げていると言っても過言ではない!」
話が通じない。 私が「死の赤」として拒絶しているものを、彼は「生の赤」として押し付けてくる。 この決定的な認識のズレが、私を狂わせる。
殿下は私の震えを「武者震い」か何かだと勘違いしているらしく、さらに一歩踏み込んできた。
「さあ、この薔薇のように情熱的に口づけをしよう。昨日は少し驚かせてしまったが、今日なら君も心の準備ができているだろう?」
美しい顔が迫ってくる。 整った目鼻立ち。甘いマスク。 かつては、この顔を見るだけで胸が高鳴ったこともあったかもしれない。 でも今は、死神の仮面にしか見えない。 笑っている口元が、処刑命令を下したあの時の冷酷な唇と重なる。
「こ、来ないで……ッ!」
私は枕をひっつかみ、殿下の顔面に投げつけた。
ボフッ。
情けない音を立てて、枕が王太子の顔にヒットする。 周囲の空気が凍りついた。 侍女たちが「ひっ」と息を飲む音が聞こえる。 王族の顔に物を投げつけるなど、不敬罪で即刻処刑されても文句は言えない。
しまった、と思った時にはもう遅い。 また殺される。 私は恐怖で目を瞑った。
しかし。
「……ハハッ」
聞こえてきたのは、怒声ではなく、明るい笑い声だった。
「愛の鞭、というやつか! いいぞヴィオレッタ、その強気なところもまた魅力的だ! かつては猫を被っていた君が、こうして俺に感情をぶつけてくれる。それこそが、心を許してくれている証拠だね!」
殿下は枕をキャッチし、愛おしそうに頬ずりをした。
「この枕には君の香りが染み込んでいる……ああ、たまらない。これを抱いて眠れば、夢の中で君に会えるだろうか」
「…………」
私は絶句した。 恐怖よりも先に、生理的な嫌悪感が津波のように押し寄せてくる。 気持ち悪い。 心底、気持ち悪い。 この人は、私の拒絶すらも自分の都合の良いように変換し、養分にしてしまう怪物だ。
「殿下……お願いですから、その薔薇を片付けてください……。香りが強すぎて、頭痛がします」
私は冷ややかな声で、極力感情を殺して告げた。 これ以上刺激しないでほしい。 私の精神は、ガラス細工よりも脆くなっているのだから。
「おっと、すまない。君は繊細だからな。よし、すぐに片付けさせよう。だがヴィオレッタ、覚えておいてくれ。この薔薇が枯れても、俺の愛は永遠に枯れないということを!」
殿下はウィンクを一つ残し、上機嫌で部屋を出て行った。 最後まで、自分が私を喜ばせたと思い込んだまま。
嵐が去った後の静寂の中で、私は深い深いため息をついた。 吐き出した息すらも、薔薇の甘ったるい匂いに汚染されている気がした。
「……オエッ」
こみ上げてくる吐き気を抑えきれず、私はベッドから這い出した。 ここにいてはいけない。 この屋敷も、王宮も、今の私には眩しすぎる。 音が、色が、匂いが、すべて過剰だ。
生者のエネルギーに満ち溢れすぎている。 死に損ないの私には、その「生」の圧力が苦痛で仕方がない。
私はガウンを羽織り、ふらつく足取りで部屋を飛び出した。 侍女たちの「お嬢様、どちらへ!」という声を振り切って。
どこか、静かな場所へ。 色がなくて、匂いがなくて、誰もいない場所へ。 王宮の煌びやかな回廊を抜け、手入れの行き届いた中庭を通り過ぎる。
どこへ行っても、色とりどりの花が咲き乱れている。 赤、黄、ピンク、オレンジ。 楽しそうな貴族たちの話し声。 笑い声。 鳥のさえずり。
(うるさい、うるさい、うるさい……)
世界中の幸福が、私をあざ笑っているようだ。 お前は一度死んだ女だぞ、と指差されている気がする。
無意識のうちに、私は人気のない方へ、薄暗い方へと足を向けていた。 王宮の裏手。 北側の、高い塀に囲まれた一角。 そこは日当たりが悪く、華やかな花々は育たないため、庭師たちもあまり近寄らない場所だ。
鬱蒼とした木々が、太陽の光を遮っている。 空気がひんやりとしていて、湿った土の匂いがする。
私は森のようなその場所へ足を踏み入れた。 途端に、喧騒が遠のく。 肌に触れる空気が冷たくて、火照った頬に心地よい。
「……はぁ」
ようやく、呼吸ができた気がした。 木の根元に座り込み、膝を抱える。
ここなら、誰も来ない。 あの暑苦しい太陽のような男も、ここまでは光を届かせられないだろう。
ふと、視界の端に白いものが映った。
顔を上げると、木陰にひっそりと咲く花があった。 百合だ。 真っ白な、一輪の白百合。
派手な薔薇のように主張することなく。 ただ静かに、俯くようにして咲いている。
「……綺麗」
自然と、そんな言葉が漏れた。 あの部屋を埋め尽くしていた何千本の薔薇よりも、この一輪の百合の方が、今の私には遥かに美しく見えた。
白は、鎮魂の色。 死者に手向ける花。 色素を持たないその姿は、まるで死に装束のようだ。
私はふらふらと立ち上がり、その百合に近づいた。 指先で、そっと花弁に触れる。 ひんやりとしていて、滑らかで、まるで死人の肌のよう。
「貴方も、一人なの?」
花に話しかけるなんて、以前の私なら狂人の戯言だと嘲笑っただろう。 でも今は、この沈黙する花こそが、唯一の理解者であるように思えた。
貴方は何も言わない。 愛しているとか、やり直そうとか、そんな暴力的な言葉を投げつけない。 ただそこに在るだけで、私の孤独を肯定してくれる。
心が、凪いでいくのを感じた。 波立っていた感情が、静かな水面のように落ち着いていく。 死ぬことは叶わなかったけれど、こうして「死」に近い場所に身を置くことで、仮初めの安らぎを得られる。
その時だった。
ザッ、と微かな音がした。 風の音ではない。 落ち葉を踏む、人の足音だ。
私はビクリと体を強張らせ、音のした方を振り向いた。
木々の向こう、王宮の敷地と、その隣にある広大な霊園を隔てる鉄柵の向こう側。 そこに、一人の男が立っていた。
距離があったため、表情まではよく見えない。 けれど、その異様な出立ちは、嫌でも目に焼き付いた。
頭のてっぺんから爪先まで、完全な漆黒。 黒い喪服のようなロングコート。黒い手袋。 夜の闇を切り取って人の形にしたような、不吉なシルエット。
王太子殿下が「太陽」ならば、彼は「影」。 あるいは、世界に空いた「穴」。
男は、こちらを見ていたわけではなかった。 ただ、霊園の墓石の前に佇み、じっと何かを見つめていたようだ。 その背中からは、孤独と、人を寄せ付けない冷徹な拒絶のオーラが漂っている。
普通なら、悲鳴を上げて逃げ出す場面かもしれない。 王宮の裏手に現れた、不審な黒尽くめの男。 どう見ても怪しい。
だというのに。 私の目は、彼から離れなかった。
怖い、とは思わなかった。 むしろ、懐かしさすら覚えた。
あの男の周りだけ、空気が止まっている。 時間が凍りついている。 そこには、私が求めてやまない「永遠の静寂」があるように見えた。
彼はふと、何かの気配を感じたのか、ゆっくりとこちらへ顔を向けようとした。
私は咄嗟に、木の陰に身を隠した。 なぜ隠れたのか、自分でもわからない。 ただ、今のボロボロな姿を見られたくないという羞恥心と、あの静謐な世界を私が壊してはいけないという遠慮があったのかもしれない。
木陰からそっと覗き込むと、男は一度だけこちらの方を見て、興味なさげに視線を戻した。 そして、幻のように音もなく、霧の向こうへと消えていった。
「……誰?」
心臓が、先ほどとは違うリズムで鼓動していた。 恐怖による動悸ではない。 深く、冷たい井戸の底に石を投げ込んだ時のような、静かな波紋。
彼の去った後には、しんとした静寂だけが残されていた。 私はもう一度、足元の白百合に視線を落とす。
「……あの方も、貴方と同じ匂いがしたわ」
死の匂い。 夜の匂い。 土と、静けさの匂い。
王太子殿下の放つ、むせ返るような薔薇の香りとは対極にあるもの。
私はその日、夕暮れになるまでその場所に留まり続けた。 ここが、王族専用の墓所のすぐ側であり、あの黒衣の男が管理する領域だとは知らずに。
館に戻れば、またあの赤色の地獄が待っている。 殿下の「愛」という名の精神的拷問が待っている。
けれど、ほんの少しだけ。 この場所を見つけたことで、私は息継ぎができるようになった気がした。
この白百合の咲く場所が、私の避難所(サンクチュアリ)になる。 そして予感があった。 あの黒い背中の持ち主と、いずれまた会うことになるだろうという、奇妙な確信めいた予感が。
それが私の運命を大きく変える「死神」との出会いであることを、私はまだ知らない。
まだ頭が重い。 昨日の出来事が悪い夢であってほしいと願いながら、重たい瞼を持ち上げる。 しかし、現実は夢よりも残酷で、そして何より奇天烈だった。
「……な、何?」
私の部屋が、埋め尽くされていた。 赤。赤。赤。 視界の全てが、暴力的なまでの真紅に染まっている。
薔薇だ。 数えきれないほどの赤い薔薇が、床も、テーブルも、ソファも、あらゆる空間を占拠している。 足の踏み場もないとは、まさにこのことだ。
部屋に入ってきた侍女が、困惑と興奮の入り混じった顔で告げた。
「お目覚めですか、お嬢様! これ、全て王太子殿下からの贈り物ですわ! 朝一番に、王宮の庭師たちが荷車何台分もの薔薇を運び込んできまして……邸中の花瓶を総動員しても足りず、バケツや桶まで使って、お嬢様のお部屋を飾らせていただいたのです」
侍女は頬を染めてうっとりとしている。 愛されていますね、なんて見当違いな言葉が聞こえてきそうだ。
けれど、私にはその光景が、地獄絵図にしか見えなかった。
「……ぁ」
喉がヒクリと鳴る。 赤い色が、目に焼き付く。
昨日の記憶がフラッシュバックする。 断頭台。 私の首が落ちた瞬間、石畳に広がったあの赤色。 飛び散った私の命の色。
この部屋を埋め尽くす赤い花弁の一枚一枚が、あの時の血飛沫に見える。 濃厚な花の香りが、鉄錆のような血の臭いに変換されて脳を刺激する。
「ひっ……!」
私は布団を頭から被り、ガタガタと震えだした。 怖い。気持ち悪い。 部屋中が血まみれだ。 私が流した血で、部屋が溺れている。
「お嬢様? いかがなさいました?」
「捨てて……今すぐ、全部捨てて……!」
「ええっ!? し、しかしこれは殿下からの……」
「いいから!! 視界に入れないで! 赤は嫌! 見たくない!」
錯乱する私をよそに、廊下の方からカツカツと足音が近づいてくる。 この軽快で、自信に満ちた足音。 聞くだけで胃が縮み上がる。
「ヴィオレッタ! 起きているかい?」
ノックもそこそこに、扉が勢いよく開かれた。 現れたのは、朝日に輝く金髪と、眩しい笑顔を浮かべた王太子アレクサンダー殿下だった。 彼は部屋の惨状――彼にとっては愛の芸術――を見渡し、満足げに頷いた。
「おお、壮観だな! どうだいヴィオレッタ、気に入ってくれたか? 国中の花屋と、王宮の温室にある赤い薔薇をすべて買い占めたんだ!」
彼は花に埋もれるようにして、私のベッドサイドまで歩み寄ってくる。 その手には、ひときわ大きな真紅の薔薇の花束が抱えられている。
「君への情熱を表すには、これでも足りないくらいだ。この燃えるような赤こそ、俺たちの復活した愛の色! さあ、受け取ってくれ!」
ズイッ、と目の前に突き出される赤い塊。 花弁の奥に潜む棘が、ギロチンの刃のように鋭く光る。
「や……やめて……」
私は反射的に身を引いた。 背中がヘッドボードにぶつかる。逃げ場がない。
「ん? どうした、顔色が悪いぞ。……ああ、そうか!」
殿下はポンと手を叩き、またしても勝手な解釈を開始した。
「あまりの美しさに、言葉を失っているんだな? わかるぞ、その気持ち。一面の深紅に囲まれて、君の純白の肌が一層引き立っている。まるで血の気が引くほどに感動してくれているなんて、贈った甲斐があるというものだ!」
「ち、違います……っ、これは、血の色です……!」
私は必死に訴えた。 これが愛の色? ふざけないで。 これは私が貴方に殺された時に流した、苦痛と絶望の色だ。
「そう! 血だ! 俺の体内を巡る熱い血潮だ! それが沸騰するほど君を求めているんだよヴィオレッタ! 俺の命そのものを君に捧げていると言っても過言ではない!」
話が通じない。 私が「死の赤」として拒絶しているものを、彼は「生の赤」として押し付けてくる。 この決定的な認識のズレが、私を狂わせる。
殿下は私の震えを「武者震い」か何かだと勘違いしているらしく、さらに一歩踏み込んできた。
「さあ、この薔薇のように情熱的に口づけをしよう。昨日は少し驚かせてしまったが、今日なら君も心の準備ができているだろう?」
美しい顔が迫ってくる。 整った目鼻立ち。甘いマスク。 かつては、この顔を見るだけで胸が高鳴ったこともあったかもしれない。 でも今は、死神の仮面にしか見えない。 笑っている口元が、処刑命令を下したあの時の冷酷な唇と重なる。
「こ、来ないで……ッ!」
私は枕をひっつかみ、殿下の顔面に投げつけた。
ボフッ。
情けない音を立てて、枕が王太子の顔にヒットする。 周囲の空気が凍りついた。 侍女たちが「ひっ」と息を飲む音が聞こえる。 王族の顔に物を投げつけるなど、不敬罪で即刻処刑されても文句は言えない。
しまった、と思った時にはもう遅い。 また殺される。 私は恐怖で目を瞑った。
しかし。
「……ハハッ」
聞こえてきたのは、怒声ではなく、明るい笑い声だった。
「愛の鞭、というやつか! いいぞヴィオレッタ、その強気なところもまた魅力的だ! かつては猫を被っていた君が、こうして俺に感情をぶつけてくれる。それこそが、心を許してくれている証拠だね!」
殿下は枕をキャッチし、愛おしそうに頬ずりをした。
「この枕には君の香りが染み込んでいる……ああ、たまらない。これを抱いて眠れば、夢の中で君に会えるだろうか」
「…………」
私は絶句した。 恐怖よりも先に、生理的な嫌悪感が津波のように押し寄せてくる。 気持ち悪い。 心底、気持ち悪い。 この人は、私の拒絶すらも自分の都合の良いように変換し、養分にしてしまう怪物だ。
「殿下……お願いですから、その薔薇を片付けてください……。香りが強すぎて、頭痛がします」
私は冷ややかな声で、極力感情を殺して告げた。 これ以上刺激しないでほしい。 私の精神は、ガラス細工よりも脆くなっているのだから。
「おっと、すまない。君は繊細だからな。よし、すぐに片付けさせよう。だがヴィオレッタ、覚えておいてくれ。この薔薇が枯れても、俺の愛は永遠に枯れないということを!」
殿下はウィンクを一つ残し、上機嫌で部屋を出て行った。 最後まで、自分が私を喜ばせたと思い込んだまま。
嵐が去った後の静寂の中で、私は深い深いため息をついた。 吐き出した息すらも、薔薇の甘ったるい匂いに汚染されている気がした。
「……オエッ」
こみ上げてくる吐き気を抑えきれず、私はベッドから這い出した。 ここにいてはいけない。 この屋敷も、王宮も、今の私には眩しすぎる。 音が、色が、匂いが、すべて過剰だ。
生者のエネルギーに満ち溢れすぎている。 死に損ないの私には、その「生」の圧力が苦痛で仕方がない。
私はガウンを羽織り、ふらつく足取りで部屋を飛び出した。 侍女たちの「お嬢様、どちらへ!」という声を振り切って。
どこか、静かな場所へ。 色がなくて、匂いがなくて、誰もいない場所へ。 王宮の煌びやかな回廊を抜け、手入れの行き届いた中庭を通り過ぎる。
どこへ行っても、色とりどりの花が咲き乱れている。 赤、黄、ピンク、オレンジ。 楽しそうな貴族たちの話し声。 笑い声。 鳥のさえずり。
(うるさい、うるさい、うるさい……)
世界中の幸福が、私をあざ笑っているようだ。 お前は一度死んだ女だぞ、と指差されている気がする。
無意識のうちに、私は人気のない方へ、薄暗い方へと足を向けていた。 王宮の裏手。 北側の、高い塀に囲まれた一角。 そこは日当たりが悪く、華やかな花々は育たないため、庭師たちもあまり近寄らない場所だ。
鬱蒼とした木々が、太陽の光を遮っている。 空気がひんやりとしていて、湿った土の匂いがする。
私は森のようなその場所へ足を踏み入れた。 途端に、喧騒が遠のく。 肌に触れる空気が冷たくて、火照った頬に心地よい。
「……はぁ」
ようやく、呼吸ができた気がした。 木の根元に座り込み、膝を抱える。
ここなら、誰も来ない。 あの暑苦しい太陽のような男も、ここまでは光を届かせられないだろう。
ふと、視界の端に白いものが映った。
顔を上げると、木陰にひっそりと咲く花があった。 百合だ。 真っ白な、一輪の白百合。
派手な薔薇のように主張することなく。 ただ静かに、俯くようにして咲いている。
「……綺麗」
自然と、そんな言葉が漏れた。 あの部屋を埋め尽くしていた何千本の薔薇よりも、この一輪の百合の方が、今の私には遥かに美しく見えた。
白は、鎮魂の色。 死者に手向ける花。 色素を持たないその姿は、まるで死に装束のようだ。
私はふらふらと立ち上がり、その百合に近づいた。 指先で、そっと花弁に触れる。 ひんやりとしていて、滑らかで、まるで死人の肌のよう。
「貴方も、一人なの?」
花に話しかけるなんて、以前の私なら狂人の戯言だと嘲笑っただろう。 でも今は、この沈黙する花こそが、唯一の理解者であるように思えた。
貴方は何も言わない。 愛しているとか、やり直そうとか、そんな暴力的な言葉を投げつけない。 ただそこに在るだけで、私の孤独を肯定してくれる。
心が、凪いでいくのを感じた。 波立っていた感情が、静かな水面のように落ち着いていく。 死ぬことは叶わなかったけれど、こうして「死」に近い場所に身を置くことで、仮初めの安らぎを得られる。
その時だった。
ザッ、と微かな音がした。 風の音ではない。 落ち葉を踏む、人の足音だ。
私はビクリと体を強張らせ、音のした方を振り向いた。
木々の向こう、王宮の敷地と、その隣にある広大な霊園を隔てる鉄柵の向こう側。 そこに、一人の男が立っていた。
距離があったため、表情まではよく見えない。 けれど、その異様な出立ちは、嫌でも目に焼き付いた。
頭のてっぺんから爪先まで、完全な漆黒。 黒い喪服のようなロングコート。黒い手袋。 夜の闇を切り取って人の形にしたような、不吉なシルエット。
王太子殿下が「太陽」ならば、彼は「影」。 あるいは、世界に空いた「穴」。
男は、こちらを見ていたわけではなかった。 ただ、霊園の墓石の前に佇み、じっと何かを見つめていたようだ。 その背中からは、孤独と、人を寄せ付けない冷徹な拒絶のオーラが漂っている。
普通なら、悲鳴を上げて逃げ出す場面かもしれない。 王宮の裏手に現れた、不審な黒尽くめの男。 どう見ても怪しい。
だというのに。 私の目は、彼から離れなかった。
怖い、とは思わなかった。 むしろ、懐かしさすら覚えた。
あの男の周りだけ、空気が止まっている。 時間が凍りついている。 そこには、私が求めてやまない「永遠の静寂」があるように見えた。
彼はふと、何かの気配を感じたのか、ゆっくりとこちらへ顔を向けようとした。
私は咄嗟に、木の陰に身を隠した。 なぜ隠れたのか、自分でもわからない。 ただ、今のボロボロな姿を見られたくないという羞恥心と、あの静謐な世界を私が壊してはいけないという遠慮があったのかもしれない。
木陰からそっと覗き込むと、男は一度だけこちらの方を見て、興味なさげに視線を戻した。 そして、幻のように音もなく、霧の向こうへと消えていった。
「……誰?」
心臓が、先ほどとは違うリズムで鼓動していた。 恐怖による動悸ではない。 深く、冷たい井戸の底に石を投げ込んだ時のような、静かな波紋。
彼の去った後には、しんとした静寂だけが残されていた。 私はもう一度、足元の白百合に視線を落とす。
「……あの方も、貴方と同じ匂いがしたわ」
死の匂い。 夜の匂い。 土と、静けさの匂い。
王太子殿下の放つ、むせ返るような薔薇の香りとは対極にあるもの。
私はその日、夕暮れになるまでその場所に留まり続けた。 ここが、王族専用の墓所のすぐ側であり、あの黒衣の男が管理する領域だとは知らずに。
館に戻れば、またあの赤色の地獄が待っている。 殿下の「愛」という名の精神的拷問が待っている。
けれど、ほんの少しだけ。 この場所を見つけたことで、私は息継ぎができるようになった気がした。
この白百合の咲く場所が、私の避難所(サンクチュアリ)になる。 そして予感があった。 あの黒い背中の持ち主と、いずれまた会うことになるだろうという、奇妙な確信めいた予感が。
それが私の運命を大きく変える「死神」との出会いであることを、私はまだ知らない。
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