冤罪で処刑された悪女ですが、死に戻ったらループ前の記憶を持つ王太子殿下が必死に機嫌を取ってきます。もう遅いですが?

六角

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第10話:婚約破棄の決意

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 聖女リリアが王宮から姿を消した翌日。  私の元へ、王太子アレクサンダー殿下が満面の笑みでやってきた。

 その手には、見るも恐ろしいものが握られていた。

「ヴィオレッタ! 吉報だ! 結婚式の日取りが決まったぞ!」

 殿下が広げたのは、金箔が施された豪華な式次第だった。  そこに書かれている日付を見て、私は血の気が引いた。

「……来週、ですか?」

「そうだ! 急だろう? だが、善は急げと言うじゃないか!」

 殿下は興奮して鼻息を荒くしている。

「邪魔な聖女はいなくなった。あの死神公爵も、今日明日には屋敷を追い出され、権限を失う。もはや僕たちの愛を阻む障害は何一つないんだ!」

 彼は私の手を取り、強く握りしめた。  痛い。骨がきしむほどの強さだ。

「昨夜、父上(国王)に直談判してね。僕たちの愛の深さを熱弁したら、父上も根負けして許可をくれたんだよ。国中が祝う盛大な式にしよう。ドレスはもちろん、君に一番似合う『赤』だ!」

 視界が暗くなった。  逃げ場がない。  外堀も内堀も、全て埋められてしまった。

「……殿下。私は、まだ心の準備が……」

「準備? そんなもの必要ないさ。君はただ、僕の隣で笑っていればいい。あとは全て僕がやる。君を一生、鳥籠の中の宝石のように大切に守り抜くから」

 鳥籠。  彼は悪気なく、その言葉を口にした。  それが私にとってどれほどの恐怖か、想像もしないのだろう。

「嫌……」

 拒絶の言葉が、喉まで出かかった。  しかし、今の殿下の目を見て、私はそれを飲み込んだ。

 瞳孔が開いている。  焦点が合っているようで、合っていない。  彼は「幸せな未来」しか見ていない。もしここで私が明確に「結婚したくありません」と言えば、彼はどう反応するだろうか?

 『どうして? 誰かに吹き込まれたのか? あの死神か? そうか、やはり君は病気なんだ。治療が必要だ』

 そう言って、式までの間、私を軟禁するに違いない。  この男は、障害があればあるほど燃え上がるタイプだ。真正面からの拒絶は逆効果になる。

「……そうです、ね。素晴らしい式になるでしょうね」

 私は引きつった笑顔で、同意するふりをした。  今は、従順なふりをして時間を稼ぐしかない。

「だろう!? ああ、待ちきれない! 今すぐ君を抱きしめて、口づけをしたい気分だ!」

 殿下が顔を近づけてくる。  私は必死に息を止め、吐き気を堪えた。

「で、殿下。式の準備でお忙しいのでしょう? 衣装合わせや、招待客のリストアップなど……」

「おっと、そうだった。君のために最高の演出を考えなくては。では、また夜に来るよ!」

 殿下は私の頬をつまむように触ると、嵐のように去っていった。

 部屋に一人残された私は、崩れ落ちるように床に膝をついた。

「……あと一週間」

 それが、私に残された猶予だ。  一週間後には、私はあの男の妻となり、一生「愛」という名の首輪をつけられて生きることになる。  毎日、赤い薔薇を見せられ、甘い言葉を聞かされ、死んだ心を無理やり叩き起こされる日々。

 死にたい。  いいえ、死ぬことすら許されないのなら。

「……捨てるしかないわ」

 私は決意した。  ヴィオレッタという名前を。  公爵令嬢という身分を。  この国での生活を。

 全て捨てて、消えるしかない。

 その夜。  私は部屋の窓を開け放ち、夜風を呼び込んだ。  王宮の警備は厳重だが、私の部屋は庭園に面しており、ここからなら外と繋がれる。

 私は髪から、あの「骨の髪飾り」を外した。  月明かりにかざす。  小鳥の頭蓋骨が、白く輝く。

「……来てください。シルヴィオ様」

 祈るように呟いた。  この髪飾りには、何かの魔術が込められているのだろうか。それとも、彼が私の声を監視しているのだろうか。  わからないけれど、彼なら気づいてくれると信じていた。

 カサリ。

 庭の木の枝が揺れた。  黒い鳥――カラスが、バルコニーの手すりに舞い降りた。  いや、鳥ではない。  その影がゆらりと伸びて、人の形になる。

 闇の中から染み出すように、彼が現れた。  シルヴィオ公爵。  王太子に屋敷を包囲され、身動きが取れないはずの彼が、今、私の目の前にいる。

「……呼んだか、囚われの姫君」

 彼は皮肉っぽく笑い、窓枠に腰掛けた。  その姿は、童話に出てくる王子様というよりは、魂を奪いに来た死神そのものだ。

「来てくださると信じていました」

「私の『骨』が呼んでいたからな。……顔色が悪いぞ。死相が出ている」

「ええ。あと一週間で、私は社会的に殺されます。王太子妃という名の、動く人形にされるのです」

 私は彼を見つめ、単刀直入に切り出した。

「シルヴィオ様。私を、連れ出してください」

 彼は眉を動かさなかった。

「連れ出すとは、どこへ?」

「どこへでも。貴方の棺桶の中でも、地下の納骨堂でも構いません。この『ヴィオレッタ』という存在を、この世界から消し去ってください」

 それは、貴族の娘としてはありえない願いだ。  家を捨て、家族を捨て、地位を捨てるということ。  路頭に迷うかもしれない。野垂れ死ぬかもしれない。

 それでも。  王太子の隣で呼吸をし続けるよりは、ずっとマシだ。

 シルヴィオ公爵は、しばらく私の目を見ていた。  私の覚悟を品定めするように。  やがて、彼は満足げに頷いた。

「いいだろう。その願い、引き受けた」

 彼は窓から部屋に入り、私の手を取った。

「だが、王宮からただ逃げ出すだけでは、王太子は地の果てまで追いかけてくるぞ。あの男の執着は異常だ。国中の騎士を動員して、草の根を分けてでも貴女を探し出すだろう」

「……では、どうすれば?」

「簡単だ」

 シルヴィオ公爵は、残酷なほど美しい笑みを浮かべた。

「探す気も起きないようにすればいい。……貴女が『死んだ』ことにしてしまえば」

「死んだことに……?」

「そうだ。ヴィオレッタ嬢は、不慮の事故か、あるいは病で急死したと偽装する。葬儀は私が執り行う。棺桶には空っぽの人形でも入れて、火葬してしまえば証拠は残らない」

 大胆不敵な計画だった。  王太子を欺き、国を欺く大芝居。  もしバレれば、私たちは国家反逆罪で今度こそ本当に処刑されるだろう。

 でも。  なんて魅力的な提案だろう。

「……素敵です」

 私は震える声で言った。

「私は一度、断頭台で死にました。だから、もう一度死ぬくらい、どうってことありません」

「そうこなくては」

 シルヴィオ公爵は、ポケットから一枚の紙を取り出した。  それは、王宮の地下の見取り図だった。

「決行は、明日だ」

「明日!?」

「ああ。明日、王太子の軍隊が私の屋敷へ強制捜査に入る。その混乱に乗じて、私は屋敷を放棄し、地下通路を使って逃走する。そのタイミングで、貴女も王宮から消えるんだ」

 明日。  あまりに急だ。  心の準備も、荷造りもできていない。

 けれど、迷っている暇はない。  これを逃せば、私は一週間後に結婚式という名の処刑台に上がることになる。

「わかりました。……私は、何をすれば?」

「明日の夜、ある騒ぎが起きる。その隙に、部屋を抜け出して地下への入り口へ向かえ。入り口の場所はここだ」

 彼が地図の一点を指差す。  それは、王宮の古い礼拝堂の近くだった。

「迎えは寄越す。貴女は身一つで来ればいい。ドレスも、宝石も、何もかも捨てて」

「はい。……この髪飾りだけは、持っていきます」

 私が言うと、彼はふっと表情を緩めた。

「ああ。それは通行手形代わりだ。忘れるな」

 彼は私の手を取り、その甲に口づけを落とした。  冷たい唇の感触。  それは、愛の誓いではなく、共犯の契約(コントラクト)。

「では、また明日。……地下の闇の中で会おう、私のヴィオレッタ」

 言うが早いか、彼は黒い霧のように姿を消した。  カラスの羽ばたく音がして、庭の闇へと溶けていく。

 部屋には再び静寂が戻った。  けれど、私の心臓は早鐘を打っていた。

 怖い。  失敗したらどうしようという恐怖。  家族を裏切る罪悪感。

 でも、それ以上に。  ワクワクしていた。

 生まれて初めて、自分で自分の運命を選んだ気がした。  王太子に敷かれたレールでもなく、悪役令嬢という役割でもなく。  ただの「私」として、あの人と共に堕ちていく未来。

 私はクローゼットを開けた。  並んでいるのは、殿下から贈られた真っ赤なドレスばかり。  その奥に、一着だけ、喪服用の黒いワンピースがあった。  以前、遠い親戚の葬儀の時に仕立てたものだ。

「明日は、これを着ましょう」

 私の葬儀に相応しい衣装だ。  そして、新しい人生の始まりの服でもある。

 私はベッドに入り、目を閉じた。  明日の今頃は、私はもうここにはいない。  そう思うと、久しぶりに深い眠りにつくことができた。

 翌日。  運命の歯車が、大きな音を立てて回り出した。

 王太子アレクサンダー殿下が、近衛騎士団を引き連れて、「悪の巣窟」と呼ぶベルンシュタイン公爵邸へ進軍を開始したのだ。  それが、自分自身を破滅させる引き金になるとも知らずに。
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