冤罪で処刑された悪女ですが、死に戻ったらループ前の記憶を持つ王太子殿下が必死に機嫌を取ってきます。もう遅いですが?

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第9話:聖女の排除

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 その日は、奇妙なほど静かな午後だった。

 嵐の発生源である王太子アレクサンダー殿下は、シルヴィオ公爵の「葬儀卿解任手続き」と、ベルンシュタイン領の差し押さえ準備のために、執務室に缶詰になっていた。  皮肉なことに、彼が私のサンクチュアリを破壊しようと躍起になっている間だけ、私は彼の過剰な愛から解放され、平穏を享受できるのだ。

 私は王宮の裏庭、あの白百合が咲く場所の近くにある東屋で、ぼんやりと風に当たっていた。  護衛の騎士たちは遠巻きに控えている。

「……平和ね」

 鳥の声が聞こえる。風が木の葉を揺らす音がする。  殿下の「ヴィオレッタ、愛しているぞ!」という大声がないだけで、世界はこんなにも美しい。

 しかし、その平和は長くは続かなかった。

「……みーつけた」

 背後から、粘りつくような甘い声が聞こえた。  背筋に冷たいものが走る。  振り返ると、植え込みの陰から、ピンク色の頭が見え隠れしていた。

 聖女リリアだ。

 先日の茶会で殿下に突き飛ばされ、ドレスを汚され、ゴミのように扱われたはずの彼女。  修道院で謹慎を言い渡されたという噂だったが、どうやって抜け出してきたのだろう。

 彼女の姿は、以前のキラキラした聖女様とは少し違っていた。  自慢のふわふわの髪は少し脂っぽく乱れ、目の下には濃いクマができている。  そして何より、瞳が笑っていなかった。

「……ごきげんよう、ヴィオレッタ様」

 リリアは芝生を踏みしめ、遠慮なく東屋に入ってきた。  その手には、銀のお盆とティーセットが乗っている。

「どうしてここに? 貴女は謹慎中のはずでは?」

 私が尋ねると、彼女はヒステリックに口角を吊り上げた。

「謹慎? 誰がですかぁ? 私は聖女ですよ? 神に選ばれた特別な存在なんです。誰にも縛られる筋合いはありません」

 彼女は私の向かいの席に、ドカッと腰を下ろした。  そして、持ってきたカップを乱暴に置く。

「殿下は少し疲れていらっしゃるだけなんです。悪いのは全部、貴女。……貴女さえいなくなれば、殿下は正気に戻って、また私を可愛がってくれるんです」

 ブツブツと独り言のように呟きながら、彼女はポットから紅茶を注いだ。  赤黒い液体が、カップに満たされる。  湯気と共に漂ってきたのは、紅茶の香りではなく――ツンとする、薬品のような異臭だった。

「さあ、どうぞ。ヴィオレッタ様」

 リリアは満面の笑み(ただし目は据わっている)で、私にカップを差し出した。

「仲直りの印ですぅ。これを飲んで、私たちが仲良くなったと殿下に報告しましょう? そうすれば、殿下の機嫌も直りますよ」

「……」

 あまりにも、稚拙だった。  子供の悪戯レベルだ。  「毒が入っています」とラベルが貼ってあるようなものだ。  騎士たちも異変に気づきかけているが、聖女という立場上、すぐには手出しできないでいる。

「いただきませんわ。お腹がいっぱいですもの」

 私が拒否すると、リリアの表情が一瞬で般若のように歪んだ。

「飲んでくださいよ」

「いりません」

「飲めって言ってんでしょうが!!」

 リリアが立ち上がり、テーブルを叩いた。  カップの中の液体が跳ねる。

「貴女なんかが生き返るからいけないのよ! せっかく処刑されて、私が殿下の隣に座れるはずだったのに! なんで戻ってきたのよ! 邪魔なのよ、この悪役令嬢!」

 彼女の本音が炸裂した。  やはり、彼女にはループ前の記憶はない。けれど、自分がヒロインで私が悪役だという確固たる脚本(シナリオ)を信じている。  その脚本が狂った原因を、すべて私に押し付けているのだ。

「さあ、飲んで。早く飲んで死になさいよ!」

 リリアはカップを掴み、私の口元に無理やり押し付けようとした。  彼女の指が震えている。  その目には殺意と、追い詰められた狂気が宿っていた。

 私は、ふと思った。

 (これを飲めば……終わるのかしら?)

 王太子に愛され、監禁され、自由を奪われる未来。  シルヴィオ公爵の屋敷も取り壊され、逃げ場を失う未来。  そんな地獄が待っているなら、いっそここで、この稚拙な毒を飲んで死んだ方がマシなのではないか?

 死ねば、楽になれる。  今度こそ、あの静寂の世界へ行ける。

 私の抵抗する力が緩んだ。  カップの縁が、私の唇に触れる。

 その時だった。

「……質が悪いな」

 冷ややかな声が、頭上から降ってきた。

 リリアの動きが止まる。  私も目を開ける。

 いつの間にか、東屋の入り口に、黒い影が立っていた。  音もなく。風もなく。  葬儀卿、シルヴィオ公爵。

 彼は私の口元にあるカップを、汚いものでも見るような目で見下ろしていた。

「だ、誰よアンタ!」

 リリアが金切り声を上げた。

「邪魔しないでよ! 今、大事なところなんだから!」

 シルヴィオ公爵は彼女の叫びを無視し、私に向かって淡々と言った。

「飲むのは勧めない。その毒は、配合のバランスが悪すぎる」

 彼は一歩近づき、カップの中身を覗き込んだ。

「トリカブトと、ベラドンナの抽出液か。量が多すぎるし、煮詰め方が雑だ。それを飲んでも、即死はできないぞ」

「……え?」

「喉が焼け付くような痛みと、内臓が溶ける激痛に七日七晩のたうち回り、全身の穴という穴から血を吹き出して、それでも死にきれずに苦しむことになる。……美しくない」

 シルヴィオ公爵は眉をひそめ、心底嫌そうに吐き捨てた。

「私の棺桶を汚す気か? そんな汚い死に方をした遺体など、私の美学に反する」

 リリアの手から、カランとカップが滑り落ちた。  液体が床に広がり、ジュワジュワと白い泡を立てて石を溶かし始める。    七日七晩のたうち回る。  想像しただけで寒気がした。  ありがとう、シルヴィオ様。危うく、とんでもない「死に損」をするところでした。

「な、なによ……なんなのよ!」

 リリアは後ずさりした。  目の前の男が、王太子とは違う種類の「怪物」であることに気づいたようだ。  圧倒的な死の気配。  生理的な恐怖が、彼女の本能を刺激する。

「あんた、まさかあの死神公爵!? ひっ、こないで! 私に触ると呪われるわよ!」

「触る? 私が?」

 シルヴィオ公爵は手袋をはめた手を軽く振った。

「お断りだ。貴女のような腐った魂に触れれば、私の手袋が汚れる」

 彼はパチン、と指を鳴らした。

 次の瞬間。  植え込みの陰から、木の上から、音もなく数人の男たちが現れた。  全員が喪服のような黒衣を纏い、顔をフードで隠している。  シルヴィオ公爵の手足となって働く「墓守」たちだ。

「え、いや……なになに!?」

 リリアが悲鳴を上げる間もなく、墓守たちは彼女を取り囲んだ。  無言の圧力。  彼らはリリアの腕を掴み、乱暴にではなく、しかし絶対に逃れられない力で拘束した。

「殿下に言いつけてやる! 私がこんなことされて、殿下が黙ってると思ってるの!?」

 リリアが喚く。  しかし、シルヴィオ公爵は冷たく言い放った。

「殿下には報告しない」

「は……?」

「あの男に言えば、また騒ぎが大きくなる。貴女を処刑だの拷問だのと騒ぎ立て、私のヴィオレッタの耳を汚すだろうからな」

 私のヴィオレッタ。  その言葉に、胸がトクンと跳ねた。  所有格。  王太子に言われると吐き気がするのに、彼に言われると、守られているという安心感に包まれる。

「我々で処理する。……教会本部へ連れて行け」

 シルヴィオ公爵が墓守たちに命じた。

「聖女の称号剥奪の手続きは済ませてある。その毒薬の残りと、貴女が裏で買い付けていた違法薬物の証拠と共に、大司教の元へ突き出す」

「う、嘘よ! そんな証拠あるわけない!」

「墓場を甘く見るなよ。この国で隠し事ができる場所などない。死体は全てを知っている」

 シルヴィオ公爵の目は笑っていなかった。  底知れない闇。  王宮の地下も、街の裏路地も、全て彼の庭なのだ。

「連れて行け。二度と、私の視界に入れるな」

「いやぁぁぁ! 離して! 私はヒロインなのよ! こんなのありえないぃぃぃ!」

 リリアの絶叫は、墓守の一人が無言で猿轡を噛ませたことで途切れた。  彼女はそのまま、荷物のように担ぎ上げられ、森の奥へと連れ去られていった。

 あまりにもあっけない幕切れだった。  私を陥れ、死に追いやった元凶が、王太子に知られることもなく、闇から闇へと葬り去られた。

 静寂が戻ってきた東屋に、私とシルヴィオ公爵だけが残された。  床には、毒の染みが黒々と残っている。

「……助けていただき、ありがとうございます」

 私が頭を下げると、シルヴィオ公爵はため息交じりに言った。

「礼には及ばない。質の悪い毒を見るのが不快だっただけだ」

 彼は懐からハンカチを取り出し、私が座っていた椅子の背もたれ――リリアが触れた部分――を念入りに拭いた。

「それに、貴女が死ぬなら、もっとふさわしい舞台がある。こんな安っぽい東屋で、たかが小娘の毒で死ぬなど、貴女の『死』の価値を下げる行為だ」

「……私の死に、価値などありますか?」

「ある」

 彼は即答した。

「貴女は、死を内包しながら美しく生きている。その最期は、芸術的でなければならない。私が保証する」

 なんて歪んだプロポーズだろう。  けれど、今の私には、どんな甘い言葉よりも深く刺さる。

「……シルヴィオ様」

 私は彼を見上げた。

「殿下が、貴方のお屋敷を……」

「ああ、解体の命令書が届いたよ。明日には執行官が来るらしい」

 彼は事もなげに言った。  まるで、明日の天気の話でもするように。

「どうなさるのですか? 逃げるのですか?」

「逃げる? まさか。私の庭を荒らそうとする無礼者には、それ相応の歓迎をしてやるつもりだ」

 彼の瞳に、危険な光が宿った。  それは、獲物を待ち構える狩人の目だった。

「だが、騒がしくなるのは避けられない。……ヴィオレッタ嬢」

 彼が手を差し出した。

「ここも、じきに安全ではなくなる。王太子は聖女がいなくなったことで、さらに貴女への執着を強めるだろう」

 想像できた。  「害虫はいなくなった! これで二人きりだ!」と叫ぶ王太子の姿が。  恐怖で身震いする。

「連れて行ってください」

 私は彼の手を両手で握りしめた。

「どこへでも。地獄の底でも、墓場の下でも。貴方のいる場所へ」

 シルヴィオ公爵は、わずかに目を細めた。  そして、私の手を強く握り返した。  その冷たさが、契約の印のように感じられた。

「いいだろう。……ただし、王宮から逃げ出すには、貴女が一度『死ぬ』必要があるかもしれない」

「死ぬ……?」

「比喩的な意味でもあり、社会的な意味でもある。王太子の愛という鎖を断ち切るには、生半可な手段では無理だ」

 彼は不敵に微笑んだ。

「共犯者になってもらうぞ、元悪役令嬢」

 ゾクゾクするような高揚感が体を駆け巡った。  王太子への復讐?  いいえ、これは私の「静かなる生」を勝ち取るための、最初で最後の戦いだ。

「喜んで。……私、悪巧みは得意なんです」

 私たちは視線を交わし、静かに笑い合った。  王宮の片隅で結ばれた、死神と悪女の密約。    聖女リリアの退場は、物語の終わりではない。  ここからが、私たちの本当の「逃走劇」の始まりだった。
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