9 / 22
第9話:聖女の排除
しおりを挟む
その日は、奇妙なほど静かな午後だった。
嵐の発生源である王太子アレクサンダー殿下は、シルヴィオ公爵の「葬儀卿解任手続き」と、ベルンシュタイン領の差し押さえ準備のために、執務室に缶詰になっていた。 皮肉なことに、彼が私のサンクチュアリを破壊しようと躍起になっている間だけ、私は彼の過剰な愛から解放され、平穏を享受できるのだ。
私は王宮の裏庭、あの白百合が咲く場所の近くにある東屋で、ぼんやりと風に当たっていた。 護衛の騎士たちは遠巻きに控えている。
「……平和ね」
鳥の声が聞こえる。風が木の葉を揺らす音がする。 殿下の「ヴィオレッタ、愛しているぞ!」という大声がないだけで、世界はこんなにも美しい。
しかし、その平和は長くは続かなかった。
「……みーつけた」
背後から、粘りつくような甘い声が聞こえた。 背筋に冷たいものが走る。 振り返ると、植え込みの陰から、ピンク色の頭が見え隠れしていた。
聖女リリアだ。
先日の茶会で殿下に突き飛ばされ、ドレスを汚され、ゴミのように扱われたはずの彼女。 修道院で謹慎を言い渡されたという噂だったが、どうやって抜け出してきたのだろう。
彼女の姿は、以前のキラキラした聖女様とは少し違っていた。 自慢のふわふわの髪は少し脂っぽく乱れ、目の下には濃いクマができている。 そして何より、瞳が笑っていなかった。
「……ごきげんよう、ヴィオレッタ様」
リリアは芝生を踏みしめ、遠慮なく東屋に入ってきた。 その手には、銀のお盆とティーセットが乗っている。
「どうしてここに? 貴女は謹慎中のはずでは?」
私が尋ねると、彼女はヒステリックに口角を吊り上げた。
「謹慎? 誰がですかぁ? 私は聖女ですよ? 神に選ばれた特別な存在なんです。誰にも縛られる筋合いはありません」
彼女は私の向かいの席に、ドカッと腰を下ろした。 そして、持ってきたカップを乱暴に置く。
「殿下は少し疲れていらっしゃるだけなんです。悪いのは全部、貴女。……貴女さえいなくなれば、殿下は正気に戻って、また私を可愛がってくれるんです」
ブツブツと独り言のように呟きながら、彼女はポットから紅茶を注いだ。 赤黒い液体が、カップに満たされる。 湯気と共に漂ってきたのは、紅茶の香りではなく――ツンとする、薬品のような異臭だった。
「さあ、どうぞ。ヴィオレッタ様」
リリアは満面の笑み(ただし目は据わっている)で、私にカップを差し出した。
「仲直りの印ですぅ。これを飲んで、私たちが仲良くなったと殿下に報告しましょう? そうすれば、殿下の機嫌も直りますよ」
「……」
あまりにも、稚拙だった。 子供の悪戯レベルだ。 「毒が入っています」とラベルが貼ってあるようなものだ。 騎士たちも異変に気づきかけているが、聖女という立場上、すぐには手出しできないでいる。
「いただきませんわ。お腹がいっぱいですもの」
私が拒否すると、リリアの表情が一瞬で般若のように歪んだ。
「飲んでくださいよ」
「いりません」
「飲めって言ってんでしょうが!!」
リリアが立ち上がり、テーブルを叩いた。 カップの中の液体が跳ねる。
「貴女なんかが生き返るからいけないのよ! せっかく処刑されて、私が殿下の隣に座れるはずだったのに! なんで戻ってきたのよ! 邪魔なのよ、この悪役令嬢!」
彼女の本音が炸裂した。 やはり、彼女にはループ前の記憶はない。けれど、自分がヒロインで私が悪役だという確固たる脚本(シナリオ)を信じている。 その脚本が狂った原因を、すべて私に押し付けているのだ。
「さあ、飲んで。早く飲んで死になさいよ!」
リリアはカップを掴み、私の口元に無理やり押し付けようとした。 彼女の指が震えている。 その目には殺意と、追い詰められた狂気が宿っていた。
私は、ふと思った。
(これを飲めば……終わるのかしら?)
王太子に愛され、監禁され、自由を奪われる未来。 シルヴィオ公爵の屋敷も取り壊され、逃げ場を失う未来。 そんな地獄が待っているなら、いっそここで、この稚拙な毒を飲んで死んだ方がマシなのではないか?
死ねば、楽になれる。 今度こそ、あの静寂の世界へ行ける。
私の抵抗する力が緩んだ。 カップの縁が、私の唇に触れる。
その時だった。
「……質が悪いな」
冷ややかな声が、頭上から降ってきた。
リリアの動きが止まる。 私も目を開ける。
いつの間にか、東屋の入り口に、黒い影が立っていた。 音もなく。風もなく。 葬儀卿、シルヴィオ公爵。
彼は私の口元にあるカップを、汚いものでも見るような目で見下ろしていた。
「だ、誰よアンタ!」
リリアが金切り声を上げた。
「邪魔しないでよ! 今、大事なところなんだから!」
シルヴィオ公爵は彼女の叫びを無視し、私に向かって淡々と言った。
「飲むのは勧めない。その毒は、配合のバランスが悪すぎる」
彼は一歩近づき、カップの中身を覗き込んだ。
「トリカブトと、ベラドンナの抽出液か。量が多すぎるし、煮詰め方が雑だ。それを飲んでも、即死はできないぞ」
「……え?」
「喉が焼け付くような痛みと、内臓が溶ける激痛に七日七晩のたうち回り、全身の穴という穴から血を吹き出して、それでも死にきれずに苦しむことになる。……美しくない」
シルヴィオ公爵は眉をひそめ、心底嫌そうに吐き捨てた。
「私の棺桶を汚す気か? そんな汚い死に方をした遺体など、私の美学に反する」
リリアの手から、カランとカップが滑り落ちた。 液体が床に広がり、ジュワジュワと白い泡を立てて石を溶かし始める。 七日七晩のたうち回る。 想像しただけで寒気がした。 ありがとう、シルヴィオ様。危うく、とんでもない「死に損」をするところでした。
「な、なによ……なんなのよ!」
リリアは後ずさりした。 目の前の男が、王太子とは違う種類の「怪物」であることに気づいたようだ。 圧倒的な死の気配。 生理的な恐怖が、彼女の本能を刺激する。
「あんた、まさかあの死神公爵!? ひっ、こないで! 私に触ると呪われるわよ!」
「触る? 私が?」
シルヴィオ公爵は手袋をはめた手を軽く振った。
「お断りだ。貴女のような腐った魂に触れれば、私の手袋が汚れる」
彼はパチン、と指を鳴らした。
次の瞬間。 植え込みの陰から、木の上から、音もなく数人の男たちが現れた。 全員が喪服のような黒衣を纏い、顔をフードで隠している。 シルヴィオ公爵の手足となって働く「墓守」たちだ。
「え、いや……なになに!?」
リリアが悲鳴を上げる間もなく、墓守たちは彼女を取り囲んだ。 無言の圧力。 彼らはリリアの腕を掴み、乱暴にではなく、しかし絶対に逃れられない力で拘束した。
「殿下に言いつけてやる! 私がこんなことされて、殿下が黙ってると思ってるの!?」
リリアが喚く。 しかし、シルヴィオ公爵は冷たく言い放った。
「殿下には報告しない」
「は……?」
「あの男に言えば、また騒ぎが大きくなる。貴女を処刑だの拷問だのと騒ぎ立て、私のヴィオレッタの耳を汚すだろうからな」
私のヴィオレッタ。 その言葉に、胸がトクンと跳ねた。 所有格。 王太子に言われると吐き気がするのに、彼に言われると、守られているという安心感に包まれる。
「我々で処理する。……教会本部へ連れて行け」
シルヴィオ公爵が墓守たちに命じた。
「聖女の称号剥奪の手続きは済ませてある。その毒薬の残りと、貴女が裏で買い付けていた違法薬物の証拠と共に、大司教の元へ突き出す」
「う、嘘よ! そんな証拠あるわけない!」
「墓場を甘く見るなよ。この国で隠し事ができる場所などない。死体は全てを知っている」
シルヴィオ公爵の目は笑っていなかった。 底知れない闇。 王宮の地下も、街の裏路地も、全て彼の庭なのだ。
「連れて行け。二度と、私の視界に入れるな」
「いやぁぁぁ! 離して! 私はヒロインなのよ! こんなのありえないぃぃぃ!」
リリアの絶叫は、墓守の一人が無言で猿轡を噛ませたことで途切れた。 彼女はそのまま、荷物のように担ぎ上げられ、森の奥へと連れ去られていった。
あまりにもあっけない幕切れだった。 私を陥れ、死に追いやった元凶が、王太子に知られることもなく、闇から闇へと葬り去られた。
静寂が戻ってきた東屋に、私とシルヴィオ公爵だけが残された。 床には、毒の染みが黒々と残っている。
「……助けていただき、ありがとうございます」
私が頭を下げると、シルヴィオ公爵はため息交じりに言った。
「礼には及ばない。質の悪い毒を見るのが不快だっただけだ」
彼は懐からハンカチを取り出し、私が座っていた椅子の背もたれ――リリアが触れた部分――を念入りに拭いた。
「それに、貴女が死ぬなら、もっとふさわしい舞台がある。こんな安っぽい東屋で、たかが小娘の毒で死ぬなど、貴女の『死』の価値を下げる行為だ」
「……私の死に、価値などありますか?」
「ある」
彼は即答した。
「貴女は、死を内包しながら美しく生きている。その最期は、芸術的でなければならない。私が保証する」
なんて歪んだプロポーズだろう。 けれど、今の私には、どんな甘い言葉よりも深く刺さる。
「……シルヴィオ様」
私は彼を見上げた。
「殿下が、貴方のお屋敷を……」
「ああ、解体の命令書が届いたよ。明日には執行官が来るらしい」
彼は事もなげに言った。 まるで、明日の天気の話でもするように。
「どうなさるのですか? 逃げるのですか?」
「逃げる? まさか。私の庭を荒らそうとする無礼者には、それ相応の歓迎をしてやるつもりだ」
彼の瞳に、危険な光が宿った。 それは、獲物を待ち構える狩人の目だった。
「だが、騒がしくなるのは避けられない。……ヴィオレッタ嬢」
彼が手を差し出した。
「ここも、じきに安全ではなくなる。王太子は聖女がいなくなったことで、さらに貴女への執着を強めるだろう」
想像できた。 「害虫はいなくなった! これで二人きりだ!」と叫ぶ王太子の姿が。 恐怖で身震いする。
「連れて行ってください」
私は彼の手を両手で握りしめた。
「どこへでも。地獄の底でも、墓場の下でも。貴方のいる場所へ」
シルヴィオ公爵は、わずかに目を細めた。 そして、私の手を強く握り返した。 その冷たさが、契約の印のように感じられた。
「いいだろう。……ただし、王宮から逃げ出すには、貴女が一度『死ぬ』必要があるかもしれない」
「死ぬ……?」
「比喩的な意味でもあり、社会的な意味でもある。王太子の愛という鎖を断ち切るには、生半可な手段では無理だ」
彼は不敵に微笑んだ。
「共犯者になってもらうぞ、元悪役令嬢」
ゾクゾクするような高揚感が体を駆け巡った。 王太子への復讐? いいえ、これは私の「静かなる生」を勝ち取るための、最初で最後の戦いだ。
「喜んで。……私、悪巧みは得意なんです」
私たちは視線を交わし、静かに笑い合った。 王宮の片隅で結ばれた、死神と悪女の密約。 聖女リリアの退場は、物語の終わりではない。 ここからが、私たちの本当の「逃走劇」の始まりだった。
嵐の発生源である王太子アレクサンダー殿下は、シルヴィオ公爵の「葬儀卿解任手続き」と、ベルンシュタイン領の差し押さえ準備のために、執務室に缶詰になっていた。 皮肉なことに、彼が私のサンクチュアリを破壊しようと躍起になっている間だけ、私は彼の過剰な愛から解放され、平穏を享受できるのだ。
私は王宮の裏庭、あの白百合が咲く場所の近くにある東屋で、ぼんやりと風に当たっていた。 護衛の騎士たちは遠巻きに控えている。
「……平和ね」
鳥の声が聞こえる。風が木の葉を揺らす音がする。 殿下の「ヴィオレッタ、愛しているぞ!」という大声がないだけで、世界はこんなにも美しい。
しかし、その平和は長くは続かなかった。
「……みーつけた」
背後から、粘りつくような甘い声が聞こえた。 背筋に冷たいものが走る。 振り返ると、植え込みの陰から、ピンク色の頭が見え隠れしていた。
聖女リリアだ。
先日の茶会で殿下に突き飛ばされ、ドレスを汚され、ゴミのように扱われたはずの彼女。 修道院で謹慎を言い渡されたという噂だったが、どうやって抜け出してきたのだろう。
彼女の姿は、以前のキラキラした聖女様とは少し違っていた。 自慢のふわふわの髪は少し脂っぽく乱れ、目の下には濃いクマができている。 そして何より、瞳が笑っていなかった。
「……ごきげんよう、ヴィオレッタ様」
リリアは芝生を踏みしめ、遠慮なく東屋に入ってきた。 その手には、銀のお盆とティーセットが乗っている。
「どうしてここに? 貴女は謹慎中のはずでは?」
私が尋ねると、彼女はヒステリックに口角を吊り上げた。
「謹慎? 誰がですかぁ? 私は聖女ですよ? 神に選ばれた特別な存在なんです。誰にも縛られる筋合いはありません」
彼女は私の向かいの席に、ドカッと腰を下ろした。 そして、持ってきたカップを乱暴に置く。
「殿下は少し疲れていらっしゃるだけなんです。悪いのは全部、貴女。……貴女さえいなくなれば、殿下は正気に戻って、また私を可愛がってくれるんです」
ブツブツと独り言のように呟きながら、彼女はポットから紅茶を注いだ。 赤黒い液体が、カップに満たされる。 湯気と共に漂ってきたのは、紅茶の香りではなく――ツンとする、薬品のような異臭だった。
「さあ、どうぞ。ヴィオレッタ様」
リリアは満面の笑み(ただし目は据わっている)で、私にカップを差し出した。
「仲直りの印ですぅ。これを飲んで、私たちが仲良くなったと殿下に報告しましょう? そうすれば、殿下の機嫌も直りますよ」
「……」
あまりにも、稚拙だった。 子供の悪戯レベルだ。 「毒が入っています」とラベルが貼ってあるようなものだ。 騎士たちも異変に気づきかけているが、聖女という立場上、すぐには手出しできないでいる。
「いただきませんわ。お腹がいっぱいですもの」
私が拒否すると、リリアの表情が一瞬で般若のように歪んだ。
「飲んでくださいよ」
「いりません」
「飲めって言ってんでしょうが!!」
リリアが立ち上がり、テーブルを叩いた。 カップの中の液体が跳ねる。
「貴女なんかが生き返るからいけないのよ! せっかく処刑されて、私が殿下の隣に座れるはずだったのに! なんで戻ってきたのよ! 邪魔なのよ、この悪役令嬢!」
彼女の本音が炸裂した。 やはり、彼女にはループ前の記憶はない。けれど、自分がヒロインで私が悪役だという確固たる脚本(シナリオ)を信じている。 その脚本が狂った原因を、すべて私に押し付けているのだ。
「さあ、飲んで。早く飲んで死になさいよ!」
リリアはカップを掴み、私の口元に無理やり押し付けようとした。 彼女の指が震えている。 その目には殺意と、追い詰められた狂気が宿っていた。
私は、ふと思った。
(これを飲めば……終わるのかしら?)
王太子に愛され、監禁され、自由を奪われる未来。 シルヴィオ公爵の屋敷も取り壊され、逃げ場を失う未来。 そんな地獄が待っているなら、いっそここで、この稚拙な毒を飲んで死んだ方がマシなのではないか?
死ねば、楽になれる。 今度こそ、あの静寂の世界へ行ける。
私の抵抗する力が緩んだ。 カップの縁が、私の唇に触れる。
その時だった。
「……質が悪いな」
冷ややかな声が、頭上から降ってきた。
リリアの動きが止まる。 私も目を開ける。
いつの間にか、東屋の入り口に、黒い影が立っていた。 音もなく。風もなく。 葬儀卿、シルヴィオ公爵。
彼は私の口元にあるカップを、汚いものでも見るような目で見下ろしていた。
「だ、誰よアンタ!」
リリアが金切り声を上げた。
「邪魔しないでよ! 今、大事なところなんだから!」
シルヴィオ公爵は彼女の叫びを無視し、私に向かって淡々と言った。
「飲むのは勧めない。その毒は、配合のバランスが悪すぎる」
彼は一歩近づき、カップの中身を覗き込んだ。
「トリカブトと、ベラドンナの抽出液か。量が多すぎるし、煮詰め方が雑だ。それを飲んでも、即死はできないぞ」
「……え?」
「喉が焼け付くような痛みと、内臓が溶ける激痛に七日七晩のたうち回り、全身の穴という穴から血を吹き出して、それでも死にきれずに苦しむことになる。……美しくない」
シルヴィオ公爵は眉をひそめ、心底嫌そうに吐き捨てた。
「私の棺桶を汚す気か? そんな汚い死に方をした遺体など、私の美学に反する」
リリアの手から、カランとカップが滑り落ちた。 液体が床に広がり、ジュワジュワと白い泡を立てて石を溶かし始める。 七日七晩のたうち回る。 想像しただけで寒気がした。 ありがとう、シルヴィオ様。危うく、とんでもない「死に損」をするところでした。
「な、なによ……なんなのよ!」
リリアは後ずさりした。 目の前の男が、王太子とは違う種類の「怪物」であることに気づいたようだ。 圧倒的な死の気配。 生理的な恐怖が、彼女の本能を刺激する。
「あんた、まさかあの死神公爵!? ひっ、こないで! 私に触ると呪われるわよ!」
「触る? 私が?」
シルヴィオ公爵は手袋をはめた手を軽く振った。
「お断りだ。貴女のような腐った魂に触れれば、私の手袋が汚れる」
彼はパチン、と指を鳴らした。
次の瞬間。 植え込みの陰から、木の上から、音もなく数人の男たちが現れた。 全員が喪服のような黒衣を纏い、顔をフードで隠している。 シルヴィオ公爵の手足となって働く「墓守」たちだ。
「え、いや……なになに!?」
リリアが悲鳴を上げる間もなく、墓守たちは彼女を取り囲んだ。 無言の圧力。 彼らはリリアの腕を掴み、乱暴にではなく、しかし絶対に逃れられない力で拘束した。
「殿下に言いつけてやる! 私がこんなことされて、殿下が黙ってると思ってるの!?」
リリアが喚く。 しかし、シルヴィオ公爵は冷たく言い放った。
「殿下には報告しない」
「は……?」
「あの男に言えば、また騒ぎが大きくなる。貴女を処刑だの拷問だのと騒ぎ立て、私のヴィオレッタの耳を汚すだろうからな」
私のヴィオレッタ。 その言葉に、胸がトクンと跳ねた。 所有格。 王太子に言われると吐き気がするのに、彼に言われると、守られているという安心感に包まれる。
「我々で処理する。……教会本部へ連れて行け」
シルヴィオ公爵が墓守たちに命じた。
「聖女の称号剥奪の手続きは済ませてある。その毒薬の残りと、貴女が裏で買い付けていた違法薬物の証拠と共に、大司教の元へ突き出す」
「う、嘘よ! そんな証拠あるわけない!」
「墓場を甘く見るなよ。この国で隠し事ができる場所などない。死体は全てを知っている」
シルヴィオ公爵の目は笑っていなかった。 底知れない闇。 王宮の地下も、街の裏路地も、全て彼の庭なのだ。
「連れて行け。二度と、私の視界に入れるな」
「いやぁぁぁ! 離して! 私はヒロインなのよ! こんなのありえないぃぃぃ!」
リリアの絶叫は、墓守の一人が無言で猿轡を噛ませたことで途切れた。 彼女はそのまま、荷物のように担ぎ上げられ、森の奥へと連れ去られていった。
あまりにもあっけない幕切れだった。 私を陥れ、死に追いやった元凶が、王太子に知られることもなく、闇から闇へと葬り去られた。
静寂が戻ってきた東屋に、私とシルヴィオ公爵だけが残された。 床には、毒の染みが黒々と残っている。
「……助けていただき、ありがとうございます」
私が頭を下げると、シルヴィオ公爵はため息交じりに言った。
「礼には及ばない。質の悪い毒を見るのが不快だっただけだ」
彼は懐からハンカチを取り出し、私が座っていた椅子の背もたれ――リリアが触れた部分――を念入りに拭いた。
「それに、貴女が死ぬなら、もっとふさわしい舞台がある。こんな安っぽい東屋で、たかが小娘の毒で死ぬなど、貴女の『死』の価値を下げる行為だ」
「……私の死に、価値などありますか?」
「ある」
彼は即答した。
「貴女は、死を内包しながら美しく生きている。その最期は、芸術的でなければならない。私が保証する」
なんて歪んだプロポーズだろう。 けれど、今の私には、どんな甘い言葉よりも深く刺さる。
「……シルヴィオ様」
私は彼を見上げた。
「殿下が、貴方のお屋敷を……」
「ああ、解体の命令書が届いたよ。明日には執行官が来るらしい」
彼は事もなげに言った。 まるで、明日の天気の話でもするように。
「どうなさるのですか? 逃げるのですか?」
「逃げる? まさか。私の庭を荒らそうとする無礼者には、それ相応の歓迎をしてやるつもりだ」
彼の瞳に、危険な光が宿った。 それは、獲物を待ち構える狩人の目だった。
「だが、騒がしくなるのは避けられない。……ヴィオレッタ嬢」
彼が手を差し出した。
「ここも、じきに安全ではなくなる。王太子は聖女がいなくなったことで、さらに貴女への執着を強めるだろう」
想像できた。 「害虫はいなくなった! これで二人きりだ!」と叫ぶ王太子の姿が。 恐怖で身震いする。
「連れて行ってください」
私は彼の手を両手で握りしめた。
「どこへでも。地獄の底でも、墓場の下でも。貴方のいる場所へ」
シルヴィオ公爵は、わずかに目を細めた。 そして、私の手を強く握り返した。 その冷たさが、契約の印のように感じられた。
「いいだろう。……ただし、王宮から逃げ出すには、貴女が一度『死ぬ』必要があるかもしれない」
「死ぬ……?」
「比喩的な意味でもあり、社会的な意味でもある。王太子の愛という鎖を断ち切るには、生半可な手段では無理だ」
彼は不敵に微笑んだ。
「共犯者になってもらうぞ、元悪役令嬢」
ゾクゾクするような高揚感が体を駆け巡った。 王太子への復讐? いいえ、これは私の「静かなる生」を勝ち取るための、最初で最後の戦いだ。
「喜んで。……私、悪巧みは得意なんです」
私たちは視線を交わし、静かに笑い合った。 王宮の片隅で結ばれた、死神と悪女の密約。 聖女リリアの退場は、物語の終わりではない。 ここからが、私たちの本当の「逃走劇」の始まりだった。
113
あなたにおすすめの小説
【完結】冤罪で殺された王太子の婚約者は100年後に生まれ変わりました。今世では愛し愛される相手を見つけたいと思っています。
金峯蓮華
恋愛
どうやら私は階段から突き落とされ落下する間に前世の記憶を思い出していたらしい。
前世は冤罪を着せられて殺害されたのだった。それにしても酷い。その後あの国はどうなったのだろう?
私の願い通り滅びたのだろうか?
前世で冤罪を着せられ殺害された王太子の婚約者だった令嬢が生まれ変わった今世で愛し愛される相手とめぐりあい幸せになるお話。
緩い世界観の緩いお話しです。
ご都合主義です。
*タイトル変更しました。すみません。
身代わりの恋だと思っていました〜記憶を失った私に、元婚約者が泣いて縋る理由〜
恋せよ恋
恋愛
「君を愛している。一目惚れだったんだ」
18歳の伯爵令嬢エリカは、9歳年上のリヒャルト伯爵から
情熱的な求婚を受け、幸せの絶頂にいた。
しかし、親族顔合わせの席で運命が狂い出す。
彼の視線の先にいたのは、エリカの伯母であり、
彼の学生時代の恋人で「初めての女性」だった……ミレイユ。
「あの子は私の身代わりでしょう」「私はあなただけなの」
伯母ミレイユの甘い誘惑と、裏切りの密会。
衝撃の事実を目撃したエリカは、階段から転落し、
彼と過ごした愛しくも残酷な二年間の記憶だけを失ってしまう。
「……あの、どちら様でしょうか?」
無垢な瞳で問いかけるエリカに、絶望し泣き崩れるリヒャルト。
裏切った男と、略奪を企てた伯母。
二人に待ち受けるのは、甘い報復と取り返しのつかない後悔だった。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
婚約破棄されたので昼まで寝ますわ~白い結婚で溺愛なんて聞いてません
鍛高譚
恋愛
「リュシエンヌ・ド・ベルナール、お前との婚約は破棄する!」
突然、王太子フィリップから婚約破棄を告げられた名門公爵家の令嬢リュシエンヌ。しかし、それは義妹マリアンヌと王太子が仕組んだ策略だった。
王太子はリュシエンヌが嘆き悲しむことを期待するが——
「婚約破棄ですね。かしこまりました。」
あっさり受け入れるリュシエンヌ。むしろ、長年の束縛から解放され、自由な生活を満喫することに!
「これでお昼まで寝られますわ! お菓子を食べて、読書三昧の生活ができますのよ!」
しかし、そんな彼女の前に現れたのは、王太子のライバルであり冷徹な公爵・ヴァレンティン・ド・ルーアン。
「俺と婚約しないか?」
政略的な思惑を持つヴァレンティンの申し出に、リュシエンヌは「白い結婚(愛のない形式的な結婚)」ならと了承。
ところが、自由を満喫するはずだった彼女の心は、次第に彼によって揺さぶられ始め——?
一方、王太子と義妹は社交界で次々と醜態をさらし、評判は地に落ちていく。
そしてついに、王太子は廃嫡宣告——!
「ええ? わたくし、何もしていませんわよ?」
婚約破棄された令嬢が、のんびり自由を謳歌するうちに、
いつの間にか勝手にざまぁ展開が訪れる、痛快ラブストーリー!
「婚約破棄……むしろ最高でしたわ!」
果たして、彼女の悠々自適な生活の行方は——?
【本編,番外編完結】私、殺されちゃったの? 婚約者に懸想した王女に殺された侯爵令嬢は巻き戻った世界で殺されないように策を練る
金峯蓮華
恋愛
侯爵令嬢のベルティーユは婚約者に懸想した王女に嫌がらせをされたあげく殺された。
ちょっと待ってよ。なんで私が殺されなきゃならないの?
お父様、ジェフリー様、私は死にたくないから婚約を解消してって言ったよね。
ジェフリー様、必ず守るから少し待ってほしいって言ったよね。
少し待っている間に殺されちゃったじゃないの。
どうしてくれるのよ。
ちょっと神様! やり直させなさいよ! 何で私が殺されなきゃならないのよ!
腹立つわ〜。
舞台は独自の世界です。
ご都合主義です。
緩いお話なので気楽にお読みいただけると嬉しいです。
悪役令嬢に転生したと気付いたら、咄嗟に婚約者の記憶を失くしたフリをしてしまった。
ねーさん
恋愛
あ、私、悪役令嬢だ。
クリスティナは婚約者であるアレクシス王子に近付くフローラを階段から落とそうとして、誤って自分が落ちてしまう。
気を失ったクリスティナの頭に前世で読んだ小説のストーリーが甦る。自分がその小説の悪役令嬢に転生したと気付いたクリスティナは、目が覚めた時「貴方は誰?」と咄嗟に記憶を失くしたフリをしてしまって──…
記憶を失くした悪役令嬢~私に婚約者なんておりましたでしょうか~
Blue
恋愛
マッツォレーラ侯爵の娘、エレオノーラ・マッツォレーラは、第一王子の婚約者。しかし、その婚約者を奪った男爵令嬢を助けようとして今正に、階段から二人まとめて落ちようとしていた。
走馬灯のように、第一王子との思い出を思い出す彼女は、強い衝撃と共に意識を失ったのだった。
【完結】愛人の子を育てろと言われた契約結婚の伯爵夫人、幼なじみに溺愛されて成り上がり、夫を追い出します
深山きらら
恋愛
政略結婚でレンフォード伯爵家に嫁いだセシリア。しかし初夜、夫のルパートから「君を愛するつもりはない」と告げられる。さらに義母から残酷な命令が。「愛人ロザリンドの子を、あなたの子として育てなさい」。屈辱に耐える日々の中、偶然再会した幼なじみの商人リオンが、セシリアの才能を信じて事業を支援してくれる。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる